2020/02/06 - 2020/02/06
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平手政秀所縁の地の志賀公園の紹介です。
これまでに紹介した、平手政秀所縁の資料です。
https://4travel.jp/travelogue/11087423
2015秋、信長所縁の瑞雲山・政秀寺(1)
祀られている平手政秀(1492~1553年)は、信長の父、あるいはその先代から織田家に仕えていた家老です。若い頃の信長の教育係でした。自刃したのは、信長の父の信秀が亡くなった翌年の天文22年(1553年)でした。この時、信長は号泣したと伝わります。
https://4travel.jp/travelogue/11087427
2015秋、信長所縁の瑞雲山・政秀寺(2:完)
政秀寺の公式HPからの引用です。『天文22年(1553年)、織田信長が、自分の素行不良をなげいて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦(たくげん)和尚を開山とした』と紹介されていました。
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平手政秀所縁の地の志賀公園の見学ですから、最初に平手政秀について、紹介しておきます。ウィキペディアを参照しました。平手政秀(ひらて・まさひで)は、戦国時代の武将で、織田信秀、信長の2代に仕えました。尾張国春日井郡にあった志賀城の城主でした。織田信秀の重臣として、主に外交面で活躍しました。茶道や和歌などに通じた文化人とされます。この辺りは既に志賀公園内です。
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天文2年(1533年)に尾張国を訪れた、公卿の山科言継(1507~1597年)から賞賛を受けるほどでした。天文12年(1543年)5月には、織田信秀(1511~1552年)の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していました。 天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めました。
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政秀は、天文16年(1547年)には、後見役として信長の初陣を滞りなく済ませました。翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めました。また安城合戦においては、織田信広への援軍を率いました。織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)まで、9年に亘って行われた戦さです。
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政秀は、信秀が死去して織田家中が不穏となる中、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃しました。享年62歳でした。『信長公記』の首巻によれば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされています。不和の原因を作ったのは、政秀の長男・五郎右衛門とも伝わります。しかし、いくつかの他説も伝わります。この後、その他の説も紹介します。
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その一つは、政秀が信長の『傅役(ふやく)』であったにも拘らず、信長の奇行が続き、自身の死で諌めるために自刃したとするものです。一番多く語られ、美談としても有名です。『傅(ふ)』は、『かしずき』とも読み、平たく言えば、『傅役(ふやく)』とは、『お守役』のことです。『傅役』の始まりは、律令制下の朝廷で、皇太子の指導を司どった『東宮傅(とうぐうふ)』の役職が始まりとされます。
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政秀の死後も信長の行状は改まりませんでしたが、信長は政秀の死後、沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に政秀寺を建立し、菩提を弔いました。信長の心情が伝わる出来事です。慶長15年(1612年)、尾張藩が置かれ、名古屋城築城と共に清洲越しで現在地の名古屋市中区に移転しました。第二次世界大戦で焼失し、後に再建されました。写真は、池の中の湧水箇所の光景です。
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政秀自死の理由は、ほかにも、◎信長と政秀の政争説:平手五郎右衛門の駿馬献上拒否、信長の万松寺における葬礼放棄などの出来事や、◎家督相続上の対立説:信長の弟の信行を家督継承者に推す林秀貞・通具兄弟や、信行の後見人である柴田勝家との対立があったとする説です。これから新しい事実は出てこないでしょうから、『自身の死で諌めるために自刃』とする説が一番落ち着きそうです。
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『志賀公園とその周辺』のタイトルがあった説明パネルの光景です。2枚の写真と説明文で紹介されていました。上の写真は、昭和7年(1932年)の絵ハガキ、下の写真は、昭和52年に撮影された航空写真です。この志賀公園の中にある、平手政秀との繋がりを示す資料の一つです。なお、『平手町』の名前でも今日に繋がっています。政秀は、我が子を庇って自刃したとする説も記憶にあります。
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『フイリアオキ(斑入りアオキ)』
分類;アオキ科アオキ属の常緑低木
分布:原産は日本(北海道南部~沖縄)です。
特徴:雌雄異株で、果実は雌株のみに実ります。
その他:ミズキ科で分類される場合もあるようです。 -
『サザンカ(山茶花)』
分類:ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹
分布:日本、台湾、中国、インドネシアなどに分布。
特徴:日本は自生地としては北限とされます。
その他:赤色の八重咲の花です。 -
『サザンカ(山茶花)』
分類:ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹
分布:日本、台湾、中国、インドネシアなどに分布。
特徴:日本は自生地としては北限とされます。
その他:赤色の八重咲の花のズームアップ光景です。 -
イチオシ
『サザンカ(山茶花)』
分類:ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹
分布:日本、台湾、中国、インドネシアなどに分布。
特徴:日本は自生地としては北限とされます。
その他:赤色の八重咲の花のズームアップ光景です。 -
『カワラバト(河原鳩)』
分類:ハト目ハト科カワラバト属
分布:元々は、ヨーロッパ、中央アジア、北アフリカなどに生息。
特徴:普通、『ハト』と言えばこの種を指します。
その他:ドバト(土鳩)や、デンショバト(伝書鳩)の呼び名もあります。 -
『志賀公園』の中にある、平手政秀の庭園にあったとされる池を想定して作られた池のようです。水量は十分で、水質も良好なようでした。この方面は、江戸時代から堀川の水源となった地域のようですから、水には恵まれているようです。
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『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:親子の引っ越し姿で人気になりました。 -
池の中に築かれた丸い島かと思いましたが、半円状に造られた陸続きの場所のようでした。昭和の初めころ、平手政秀の屋敷跡の庭園を想定して造られた池のようです。日本庭園にしては、庭石などの配置が少し単調なようでした。
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『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:雌雄のカルガモさんのようです。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:済んだ池の水で、足元まで見えていました。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:カルガモさんの群れの光景です。 -
『志賀公園』の中の芝生の広場の光景です。所々に、庭石が置かれているだけでした。手前に1羽だけのカワラバトさんの姿がありました。
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『ユッカ』
分類:リュウゼツラン科イトラン属(ユッカ属)の常緑多年生植物
分布:中米から北米にかけて広く自生しています。
特徴:砂漠、草原地帯、山岳地帯から海岸の砂丘地帯を好みます。
その他:あまり水を必要とせず、手入れも殆ど要りません。 -
イチオシ
『ユッカ』
分類:リュウゼツラン科イトラン属(ユッカ属)の常緑多年生植物
分布:中米から北米にかけて広く自生しています。
特徴:砂漠、草原地帯、山岳地帯から海岸の砂丘地帯を好みます。
その他:長く伸びてきたユッカの花の光景です。 -
『ユッカ』
分類:リュウゼツラン科イトラン属(ユッカ属)の常緑多年生植物
分布:中米から北米にかけて広く自生しています。
特徴:砂漠、草原地帯、山岳地帯から海岸の砂丘地帯を好みます。
その他:ユッカの花のズームアップ光景です。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:カルガモの番いのようです。 -
平手政秀の屋敷跡の庭園とされる、広大な池の光景です。発掘調査や、文献調査を基に整備された池ではないようですが、舟遊びが出来る規模の池でした。
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『浮見亭』の文字が記された石標の光景です。平成6年、名古屋北ライオンズクラブの30周年記念で寄贈したとの表示がありました。平手政秀の屋敷跡は、昭和5年に整備が始まったことが、先に紹介した説明パネルに記されていました。この『浮見亭』は、その後再建されたものです。
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イチオシ
名古屋北ライオンズクラブの30周年記念で寄贈された『浮見亭』の光景です。織田家の家老だった、平手政秀の屋敷跡が『志賀公園』として整備されました。その庭園跡に再建された『浮見亭』の光景です。
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近くからの撮影はしませんでしたが、中央奥に見える四角い二段重ねの建物は、『ラジオ塔』です。かつてラジオの普及を目的として建てられたもので、現在名古屋市内には、3箇所が残るのみとされます。正式には、『公衆用聴取施設』と呼ばれるようです。現在現役のものも、白山公園(新潟市中央区)をはじめ、全国に6箇所あります。
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外周道路の光景です。実は、平手政秀の顕彰碑があるらしい場所を探して周辺を一回りましたが、見つかりませんでした。その顕彰碑は、周辺部ではなく、木々に囲まれた中央部にあったようです。残念ながら、後の祭りです。
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右手に見えるのは、『志賀公園』内に置かれた野球グラウンドです。有料施設のようでした。あとで調べて分かったことですが、このグラウンドの西北付近に平手政秀の顕彰碑があるようでした。
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