2020/02/12 - 2020/02/12
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旅人のくまさんさん
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平手政秀所縁の地の『志賀公園』の紹介です。『志賀公園』は、『平手政秀屋敷跡』とされますが、江戸時代には堀もあったらしく、政秀の居城だったとする説もあるようです。古くは弥生遺跡だったことが、発掘調査で確認されました。
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志賀公園の西北の出入口と、『志賀公園』の文字が刻まれた石標の光景です。教育家で郷土史家だった沢井鈴一氏の『志賀公園遺跡」の解説です。『昭和5年(1930年)、西志賀土地区画整理組合が平手政秀を顕彰するための公園を造成した。地下を掘り進んでゆくと土師器、須恵器、山茶碗等が出てきた。小栗鉄次郎、吉田富夫氏らの調査によって、弥生時代前期の東限の貴重な遺跡であることが判明した』
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イチオシ
『ウメ(梅)』
分類:バラ科サクラ属の落葉高木
分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。
特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。
その他:公園の一角で咲き揃った紅梅と白梅の光景です。 -
『コウバイ(紅梅)』
分類:バラ科サクラ属の落葉高木
分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。
特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。
その他:公園の一角で咲き揃った紅梅の光景です。 -
『歴史の音』と題されたモニュメントの光景です。沢井鈴一氏の『志賀公園遺跡」の解説に戻ります。『その後も名古屋市教育委員会により、昭和51年(1976年)、平成5年(1993)に調査が行なわれた。昭和51年の調査では、13世紀代の山茶碗などが出土する遺物包含層と、5世紀前半の土師器が出土する遺物包含層が確認された』と、その発掘成果を紹介されていました。
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イチオシ
南側から眺めた、『平手政秀邸跡』の入口付近の光景です。沢井氏は続けて『平成5年の調査では、8世紀から16世紀代の遺物包含層と、弥生時代後期から6世紀代の遺物が出土する自然流路の堆積層が確認されている』と紹介され、名古屋市教育委員会発行の『志賀公園遺跡発掘調査の概要』(1994年刊)のまとめも紹介されていました。
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『平手政秀邸跡』の門柱の『平天』らしいレリーフの光景です。報告書のまとめは、『土層の堆積状況からみる限り、本遺跡の環境は二つに大きく分かれる。一つは、自然流路と考えられるところに砂シルト層、砂層が流れ込むように堆積し、そこでの人間の活動がみられない時期、もう一つは、砂シルト層が安定して堆積し、柱穴が掘られるように、そこで何らかの生活が営まれた時期である』
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『平手政秀邸跡』の門柱の片方には、紋章のレリーフがありました。報告書は、『前者の自然流路の上端からは弥生後期から6世紀代にかけての遺物が出土し、流路の堆積が古墳時代までと考えられる。それに対し、後者の安定した砂シルト層からは8世紀代から16世紀代にかけての遺物が出土しているので、ほぼ中世までにわたってこの地層が堆積したと考えられる』と締め括られていました。
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『平手政秀宅跡』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の立札の光景です。その大要は、志賀の地は、平手政秀の領地だった場所で、天文22年(1553年)正月13日、この地で自害して果てたことが記されていました。その理由は、政秀は信長の補佐役であり、信長の父の信秀死後も素行の悪さが続き、死を以って諫めるためだったと記されていました。信長は後に政秀寺を建立し、厚く政秀の菩提を弔ったことも紹介されていました。
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『志賀公園の由来』のタイトルがあった、名古屋市農政緑地局名の立札の光景です。少し拾い読みしますと、この場所にある平手政秀彰徳碑は、享和2年(1802年)に尾張藩有志によって建てられ、大正5年、愛知県が平手政秀邸址であることを証する碑を建てたことが紹介されていました。また、昭和5年に整備された志賀公園は、昭和9年に土地区画整理組合から名古屋市に寄付され、その後、名古屋市が拡張と整備を進めたことも紹介されていました。
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イチオシ
お供え物が並んだ、平手政秀を顕彰する碑の光景です。享和2年(1802年)に建立されました。漢文で刻まれた文を書き下し文に直せば、『人誰か死に至らざる。或は鴻毛より軽く、或は泰山より重し。其の重きや之に處するに有り、其の軽きや之を決するに有り。』という文で始まっています。(教育家で郷土史家だった沢井鈴一氏による解説を、この後も引用します。)
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平手政秀を顕彰する碑のズームアップ光景です。上部に『平手中輔(?)君碑』らしいタイトルがありました。沢井鈴一氏の書き下し文は、織田信長と平手政秀の関係を次のように述べています。『初め織田公立つや年少くして行をほしいままにす。中務君しばしばこれを諌むれ共聴かず。最後に書を以て切諌し退きて自殺す』その解説文は次の通りです。『若き日の織田信長は自由奔放で、うつけ者と呼ばれていた。信長の守役の平手政秀は何度も注意をするけれども、いっこうに聞き入れる様子はない。最後には諌書をしたためて自殺をしてしまった』
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『平手政秀邸址・愛知県」の文字が刻まれた石標の光景です。政秀の死に直面し、さすがの信長も後悔し、行動を改めたようです。沢井鈴一氏の書き下し文は、『公既に厚く君を葬る。又一寺を建て名づくるに其の諱を以て之をあらわすと云ふ』と続きます。その解説文は、『前非を悔いた信長は、政秀の本名をとって政秀寺と名づけた寺を建立し、厚く葬った』その寺は今も中区に静かなたたずまいで立っています。
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この後の沢井氏の説明は、『平手政秀の居城が現在の志賀公園の地にあり、現在の志賀町一帯がその領地であった。綿神社には政秀が奉納した鏡(太平洋戦争で焼失)のほか、政秀の死後に信長が追悼のために寄進した槍も納められている。政秀と志賀の地とのかかわりをしめすものだ』と締め括られていました。『志賀公園が政秀の居城』との説です。
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『平手政秀宅跡』の見学が済んで、次は隣接する場所にあった、『ラジオ塔』の紹介です。左手に見える四角いコンクリートの塔が、『ラジオ塔』です。右手に立ち並ぶあまり高く無いコンクリートポールも、同時代のもののようですが、使途などは分かりませんでした。
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名古屋市内に3基だけ残った、『ラジオ塔』の光景です。ラジオ普及のために、国レベルで行った事業のようです。平手政秀が諌死した後のことも沢井さんの解説で紹介しておきます。『平手政秀が諌死した後、その息子が信長の勘気をこうむった。家臣は何度も赦免を願ったが信長からの許しはなかった。今はこれまでと四十八人の家臣は腹を切って死んだ。そのことを知らせに、清洲にむけて平手の家臣は馬を走らせた。おりから清洲からも信長の使者が赦免状を持って馬を走らせてきた』沢井さんは、北区郷土史研究会の刊行した『田幡志』を参照されたようです。この後も続きます。
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『ラジオ塔』のタイトルがあった、名古屋市名の立札の光景です。名古屋市内には、10箇所ほど設置されたようです。沢井さんの解説に戻ります。
『今すこし四十八人の腹を切るのが遅かったら、今すこし使者が来るのが速かったら、四十八人は死ななくてもよかったのに」と言って平手の家臣は、その場で腹を切って死んだ』
『平手の家臣を埋めた塚を「なみだ塚」、清洲からの使者に出会って馬を止めた松を駒止めの松という。駒止町の町名は、清洲からの使者と馬を止めて出会った場所であることに由来する』
『四十八人を祀った社が、綿神社内にある四十八祖社である』
と、紹介されていました。 -
『スズメ(雀)』
分類:スズメ目スズメ科スズメ属
分布:西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布。
特徴:日本では、一番身近な小鳥さんです。
その他:人慣れしたスズメさんでした。 -
『スズメ(雀)』
分類:スズメ目スズメ科スズメ属
分布:西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布。
特徴:日本では、一番身近な小鳥さんです。
その他:近くで撮影しても、飛び立ちませんでした。 -
『スズメ(雀)』
分類:スズメ目スズメ科スズメ属
分布:西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布。
特徴:日本では、一番身近な小鳥さんです。
その他:どなたかが、餌付けしているのかも知れません。 -
『スズメ(雀)』
分類:スズメ目スズメ科スズメ属
分布:西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布。
特徴:日本では、一番身近な小鳥さんです。
その他:小さな木の実を探しては、食べているようでした。 -
『スズメ(雀)』
分類:スズメ目スズメ科スズメ属
分布:西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布。
特徴:日本では、一番身近な小鳥さんです。
その他:餌探しに夢中の雀さん達です。 -
『キジバト(雉鳩)』
分類:ハト目ハト科キジバト属
分布:ユーラシア大陸東部、日本に分布。
特徴:日本国内で繁殖する留鳥です。
その他:別名、『ヤマバト(山鳩)』です。 -
『カワラバト(河原鳩)』
分類:ハト目ハト科カワラバト属
分布:元々は、ヨーロッパ、中央アジア、北アフリカなどに生息。
特徴:普通、『ハト』と言えばこの種を指します。
その他:ドバト(土鳩)や、デンショバト(伝書鳩)の呼び名もあります。 -
横から眺めた『浮見亭』の建物光景です。名古屋北ライオンズクラブの30周年記念で寄贈された建物です。織田家の家老だった平手政秀の屋敷跡が、『志賀公園』として整備され、その庭園跡に再建された『浮見亭』の光景です。池の名前は定められていないようですが、便宜上『志賀公園池』と呼ぶことにします。
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『志賀公園池』への給水箇所の一つです。90度に曲げられたパイプの先から、静かに水を噴き出していました。他にも給水地点があり、『志賀公園池』の水量と水質を保っているようでした。
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『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:1首間前に見学した時に比べ、全体に随分と活発でした。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:動きが活発な理由は、親から子への飛行訓練もあるようでした。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:離れた場所から一斉に飛行して、着水を披露してくれました。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:着水披露のほか、飛び立つ直前の羽ばたきの披露もありました。 -
『カルガモ(軽鴨)』
分類:カモ目カモ科マガモ属
分布:中国、日本、アムール地方、朝鮮半島に分布。
特徴:日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)します。
その他:親子の引っ越し姿で人気になりました。
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