2020/02/19 - 2020/02/19
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旅人のくまさんさん
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名古屋市東部丘陵地域にある平和公園は、戦後の大規模な区画整理事業(戦災復興都市計画)により整備され、名古屋市内の多くの寺院の墓地が、平和公園内へ移転しました。その一つが、政秀寺墓所です。
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この後紹介する『平和公園案内図』では、『カーネーション通り』と命名されていました。車も通行できる広さの舗装道路です。前方に向かって登り道の『カーネーション通り』は、その先が『コスモス通り』に繋がっていました。
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振り返って眺めた、『カーネーション通り』の光景です。その左手前方に『猫ヶ洞池』が見えていました。『猫ヶ洞池』は、平和公園の一角に位置する池で、桜の名所の山崎川の源流の一つにもなっています。尾張徳川家二代目藩主の徳川光友の命により農業用溜め池として作られたものです。寛文4年(1664年)に上池が、寛文6年(1666年)に下池が完成しました。
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『平和公園案内図』のタイトルがあった看板の光景です。右側に、先ほど見学した政秀寺などのエリアの拡大図がありました。左側の広域図の北側は、上が北側になるオーソドックスな地図ですが、右側の拡大図は北が右下方面でした。
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少し拡大した、寺院の墓地のエリア図です。同じ宗派の墓地を出来るだけ隣接させるような区画割りでした。この一角で、一番広いのが曹洞宗のエリアでした。その広いエリアの中でも、政秀寺が最も広い範囲を占めていました。その次に広いのが総見寺です。総見寺は同じ禅宗の、信長公廟がある名古屋市中区の臨済宗妙心寺派の寺院です。大須観音に近い場所ですが、寺内に入場は出来ません。
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ユニークな造りのお墓の紹介です。二人のお子さんが支える黒い石造の球には、『南無阿弥陀仏・山本家の墓・ヤマモトファミリートンボ』の文字が三段書きになっていました。台座の上に並べられた、線香立や蝋燭立などもユニークなデザインです。
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『浄土真宗本願寺派・万福寺』の墓地表示の石塔です。一番高い場所に右手の施無畏、左手の与願印の阿弥陀如来立像らしい仏像が祀られていました。『浄土真宗本願寺派』の『万福寺』は、名古屋市中区の橘1丁目、古社の日置神社の北側に隣接した場所に位置しています。門前に『蓮如上人御由緒地』の石標が建てられている古寺です。
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『平和公園』から眺めた、南側方面の光景です。右側に見える尖塔は『東山タワー』になります。左手に見える高層ビルは、名前が特定できませんでしたが、高層マンション風の建物に見えました。
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『千種区史蹟散策路(文化人墓碑巡り)』のタイトルがあった観光案内看板の光景です。ネットで入手した地図とほぼ同じでしたが、この地図では10箇所がリストアップされていましたが、ネット情報での文化人墓地は、現在3箇所がプラスされていました。
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中央手前に建つ大きな石碑には、『貞祖院墓地』の表示がありました。浄土宗鎮西派のお寺です。尾張徳川家との所縁が深い『喜秀山・貞祖院』は、清州越しのお寺の一つですから、平成27年(2015年)に見学したことがあります。境内の『ハギ(萩)』の花が満開の時でした。
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イチオシ
『万松寺』の大きな文字が刻まれた、かつての門柱らしい石柱の光景です。『亀嶽林(きがくりん)・萬松寺(ばんしょうじ)』は、今も名古屋市大須にある曹洞宗系の単立寺院です。本尊は十一面観世音菩薩、織田信秀・信長親子や徳川家康をはじめとする戦国武将との縁が深く、名古屋の歴史的観光名所になっています。
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『萬松寺墓苑』の入口付近にあった観光案内の標識の光景です。上から、右向きの矢印で『牧墨遷墓碑』、『大原幽学墓碑』が記されていました。その下にあるのが、『史跡散策路・平和公園墓碑巡りコース」の案内図です。『牧墨遷(まき・ぼくせん):1775~1832年』は、今回紹介しませんでしたが、江戸時代後期の浮世絵師で銅版画家です。 喜多川歌麿と葛飾北斎に学んだ人です。
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三体の石像が並べられた光景です。一番右側は、蓮座の上に坐して座禅を組んだ、螺髪の頭の釈尊像に様に見えました。左側の二体とは、石材も異なる造りのようでした。左側の二体は、光背を持った造りが類似した、同じ作者の手になるようでした。謹厳な釈尊像に比べますと、癒し系のほのぼのとした姿とお顔でした。
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『萬松寺墓苑』に並ぶ、古い墓碑の数々です。右から二つ目が、この後紹介する『大原幽学墓碑』の墓碑です。その左の墓碑には、『桂樹院殿義天維寶居士』らしい文字がありましたが、俗名は特定できませんでした。
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穏やかな顔をされた、写実的と思える造りの胸像の光景です。台座に『寛心霊神』の文字が刻まれていました。木曽御嶽信仰には、『霊神信仰』があるようです。『霊神(れいじん)』とは、過去の行者を神格化した存在とされます。詳しいことは分かりませんが、木曽御嶽信仰に因む像かも知れません。
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イチオシ
『大原幽学墓碑』の光景です。『大原幽学:おおはら ゆうがく:寛政9年3月17日(1797年4月13日)~安政5年3月8日(1858年4月21日)』は、江戸時代後期の農政学者で農民指導者です。下総国香取郡長部(ながべ)村(現在の旭市長部)を拠点に、天保9年(1838年)に先祖株組合という、農業協同組合を世界で初めて創設しました。この碑は、門人たちが建てたものが移築されました。
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『萬松寺墓苑』の中の五輪塔の光景です。上良ら順に、『空、風、火、水、地』の五文字が刻まれていました。漢字ではなく、梵字で記された五輪塔もよく目にします。最後の『地』の文字の下に、『開基塔』の文字がありました。
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整然と並んだ、まだ新しい墓石群の光景です。まだ新しいお墓だけに、手向けの花の姿もたくさん目にしました。左端の手向けの花も、まだ精気を保った新しいものでした。
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よく似た高さの五輪塔と墓碑の光景です。墓碑には折れた痕のような横筋が入っていました。推測に過ぎませんが、名古屋空襲時に、倒壊で生じた傷痕かも知れません。墓碑の戒名は、『大姉』でしたから、二つとも女性のお墓のようです。
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曹洞宗の墓地エリアの一番東側の光景になるようです。年代を経た五輪塔と墓碑が並んでいました。その背後が石垣になっていました。この区域の曹洞宗の墓地エリアは、道路を挟んで平和公園会館がある公園エリアと接しています。
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一番手前に『澤井家の墓』の文字が刻まれた大きな墓標が置かれた一角の光景です。五輪塔や墓碑が交互に並んでいました。
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千手観音菩薩像の光景です。墓地の外れの入口近くに祀られていました。『千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ、梵: サハスラブジャ)』は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊です。『サハスラブジャ』は、『千の手』、あるいは『千の手を持つもの』の意味とされます。かつてのインドで、ヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)と考えられています。(ウィキペディア)
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壇下から眺めた、『赤穂義士片岡源五右衛門墓』がある方面の光景です。当時の住職で曹洞宗の県総務所代表であった高間宗道(1914年 - 1989年)は1946年(昭和21年)から16宗派よりなる「戦災復興墓地整理委員会」の初代委員長を務め、各宗派・寺院と名古屋市との調整役として尽力したとされる。
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右端に見える『赤穂義士片岡源五右衛門墓』と、その関連と思われる墓碑群の光景です。当時の乾徳寺住職で、曹洞宗の県総務所代表だった『高間宗道(1914~1989年)』師は、1946年(昭和21年)から16宗派よりなる『戦災復興墓地整理委員会』の初代委員長を務め、各宗派・寺院と名古屋市との調整役として尽力した人とされます。
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イチオシ
『赤穂義士片岡源五右衛門墓』の文字が刻まれたひと際高い墓標のズームアップ光景です。源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣でした。主君切腹の時、ただ一人面会した人と伝わる義士です。江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、主君の刃傷を知らされました。鉄砲州上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたりました。田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、史実かどうかはともかく、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだと伝わります。
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個性的なお墓の紹介です。五輪塔の墓標には、久保田家の文字がありました。入口の門柱を兼ねた自然石にも、『久保田家墓所』の文字がありました。墓地内は石畳が敷き詰められていましたが、コンパクトな樹木の生育スペースは残されていました。
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『笑顔と気配りの人生に乾杯」の文字と魚のような紋が刻まれた、まだ新しい慰霊施設のようです。名前は一切記されていませんでした。碑文の前には花のオブジェが置かれ、その周りの草花が花を咲かせていました。
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石段の右上にある高い石標には、『平田院(へいでんいん)墓所」の文字がありました。高岳院を始めとする浄土宗の8区画のエリアです。他には、貞祖院や遍照院がこのエリアにあります。
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両側に石灯篭がある高い石塔には、『沖縄戦英霊之塔』の文字がありました。その左には、『?會一處』の文字が記された、まだ新し慰霊碑と、その奥に年代を経た地蔵尊がありました。
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『平和公園案内図』のタイトルがあった看板の光景です。右側に、先ほど見学した万松寺などのエリアの拡大図がありました。左側の『広域図』と右側の『区域図』ともに、上が北側になるオーソドックスな地図でした。
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『平和公園案内図』の右側の『区分図』のズームアップ光景です。白色に表示された9区画が、曹洞宗のエリアでした。ここに、『万松寺』、『乾徳寺』の墓域がありました。赤く記された場所は、高岳院を始めとする浄土宗の8区画、緑の部分が公園域です。
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