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常緑樹の木々に囲まれた、『平手政秀墓所』の紹介です。現在の名古屋市中区にある『政秀寺』から移築された墓所です。『政秀寺』は、天文22年(1553年)、織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山としたのが始まりとされます。

2020新春、続々・平手政秀所縁の地(3/4):平和公園(3):政秀寺霊地碑、伊藤圭介顕彰碑

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2020/02/19 - 2020/02/19

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旅人のくまさん

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常緑樹の木々に囲まれた、『平手政秀墓所』の紹介です。現在の名古屋市中区にある『政秀寺』から移築された墓所です。『政秀寺』は、天文22年(1553年)、織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山としたのが始まりとされます。

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  • 政秀寺霊地に並ぶ無縫塔の光景です。平和公園の墓地のエリア図を参照しますと、この辺りは、広大な墓地を持つ『政秀寺』の一角になります。曹洞宗のお寺が集まった中でも、この『政秀寺』と、参道を挟んだ『総見寺』が広い敷地を有していました。後ほどそのエリア図を紹介します。

    政秀寺霊地に並ぶ無縫塔の光景です。平和公園の墓地のエリア図を参照しますと、この辺りは、広大な墓地を持つ『政秀寺』の一角になります。曹洞宗のお寺が集まった中でも、この『政秀寺』と、参道を挟んだ『総見寺』が広い敷地を有していました。後ほどそのエリア図を紹介します。

  • 政秀寺霊地の一角に立つ、『極楽地蔵尊』の立像光景です。背後に歴代住職の無縫塔が並んだ場所です。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩であるとされます。

    政秀寺霊地の一角に立つ、『極楽地蔵尊』の立像光景です。背後に歴代住職の無縫塔が並んだ場所です。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩であるとされます。

  • 政秀寺霊地の一角に立つ、『馬頭観世音』の立像光景です。背後に歴代住職の無縫塔が並んだ場所です。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つとされ、『六観音』の一尊にも数えられています。観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、柔和相と憤怒相の二つの相を持ちます。

    政秀寺霊地の一角に立つ、『馬頭観世音』の立像光景です。背後に歴代住職の無縫塔が並んだ場所です。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つとされ、『六観音』の一尊にも数えられています。観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、柔和相と憤怒相の二つの相を持ちます。

  • 常緑樹の木々に囲まれた、『平手政秀墓所』の光景です。現在の名古屋市中区にある『政秀寺』から移築された墓所です。『政秀寺』は、天文22年(1553年)、織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山としたのが始まりとされます。

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    常緑樹の木々に囲まれた、『平手政秀墓所』の光景です。現在の名古屋市中区にある『政秀寺』から移築された墓所です。『政秀寺』は、天文22年(1553年)、織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚を開山としたのが始まりとされます。

  • 更に近寄って眺めた、『平手政秀墓所』の光景です。瑞雲山・政秀寺は、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで焼失しました。その翌年清須に再興され、慶長15年(1610年)、清須越で現在の名古屋市中区に移設されました。本尊は木造十一面観世音菩薩坐像です。政秀の墓はかつてその寺にありましたが、今はこの平和公園内の政秀寺墓地に移されました。(政秀寺HP)

    更に近寄って眺めた、『平手政秀墓所』の光景です。瑞雲山・政秀寺は、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで焼失しました。その翌年清須に再興され、慶長15年(1610年)、清須越で現在の名古屋市中区に移設されました。本尊は木造十一面観世音菩薩坐像です。政秀の墓はかつてその寺にありましたが、今はこの平和公園内の政秀寺墓地に移されました。(政秀寺HP)

  • 『平手政秀』の戒名、『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字が刻まれた墓標の光景です。中間辺りで折れた痕跡が残っていました。『政秀』の別名が『五郎左衛門』、氏族は『平手氏』、幼名は『狛千代丸』、初名が『清秀』でした。戦国武将の『織田信秀(1510~1551年)』と、その子の信長の2代に仕えました。

    『平手政秀』の戒名、『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字が刻まれた墓標の光景です。中間辺りで折れた痕跡が残っていました。『政秀』の別名が『五郎左衛門』、氏族は『平手氏』、幼名は『狛千代丸』、初名が『清秀』でした。戦国武将の『織田信秀(1510~1551年)』と、その子の信長の2代に仕えました。

  • 少しズームアップした『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字が刻まれた墓標の光景です。『言継卿記』という公卿の記録の中に書かれている『清秀』への評価です。1533年、織田信秀が戦っていた織田達勝や織田藤佐衛門との講和を行うために公家の飛鳥井雅綱、ならびに山科言継を招いたときのことです。政秀はこの公家の二人組を朝食に招いたのですが、山科言継たちは接待の様子を『屋敷は立派で、平手政秀のもてなしも素晴らしい』と絶賛しています。プライドの高い公卿ですから、簡単に誉めることはありません。

    イチオシ

    少しズームアップした『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字が刻まれた墓標の光景です。『言継卿記』という公卿の記録の中に書かれている『清秀』への評価です。1533年、織田信秀が戦っていた織田達勝や織田藤佐衛門との講和を行うために公家の飛鳥井雅綱、ならびに山科言継を招いたときのことです。政秀はこの公家の二人組を朝食に招いたのですが、山科言継たちは接待の様子を『屋敷は立派で、平手政秀のもてなしも素晴らしい』と絶賛しています。プライドの高い公卿ですから、簡単に誉めることはありません。

  • 墓標の前の線香立などのズームアップ光景です。先ほど紹介した『山科言継(やましな・ときつぐ):1507~1579年』は、戦国時代の公卿です。権大納言の山科言綱の子で、官位は正二位・権大納言、贈従一位でした。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られる公卿です。 彼の持った最大の特技は『人脈作り』とされます。

    墓標の前の線香立などのズームアップ光景です。先ほど紹介した『山科言継(やましな・ときつぐ):1507~1579年』は、戦国時代の公卿です。権大納言の山科言綱の子で、官位は正二位・権大納言、贈従一位でした。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られる公卿です。 彼の持った最大の特技は『人脈作り』とされます。

  • 『平手政秀墓所』の入口付近のズームアップ光景です。左右の石の門柱には、扉が付いていた時代の金具が残っていました。言継は、朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として、後奈良・正親町両天皇下で逼迫した財政の建て直しを図りました。当時、朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金でした。言継はその献金獲得のために各地を奔走することになりました。

    『平手政秀墓所』の入口付近のズームアップ光景です。左右の石の門柱には、扉が付いていた時代の金具が残っていました。言継は、朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として、後奈良・正親町両天皇下で逼迫した財政の建て直しを図りました。当時、朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金でした。言継はその献金獲得のために各地を奔走することになりました。

  • 逆光での撮影になってしまいましたが、裏側から眺めた墓標の光景です。東側から眺めた光景になるようです。右下の方に『天文二十二年』の文字が読み取れました。政秀が自刃したのは、天文22年(1553年)閏1月13日のことでした。

    逆光での撮影になってしまいましたが、裏側から眺めた墓標の光景です。東側から眺めた光景になるようです。右下の方に『天文二十二年』の文字が読み取れました。政秀が自刃したのは、天文22年(1553年)閏1月13日のことでした。

  • もう少し文字が読み取れるかどうか、上下二つに分けて撮影した墓標の上部の光景です。右の列では『大師』、左の列では『十三日』らしい文字が読み取れました。こちらの文字は、自刃した『閏1月13日』に繋がる文字のようです。

    もう少し文字が読み取れるかどうか、上下二つに分けて撮影した墓標の上部の光景です。右の列では『大師』、左の列では『十三日』らしい文字が読み取れました。こちらの文字は、自刃した『閏1月13日』に繋がる文字のようです。

  • 上下二つに分けて撮影した墓標の下部のズーム阿アップ光景です。右側の列では、先に紹介した『天文二十二年』の文字は更にはっきり読めrましたが、その上の3~4文字は読み取れませんでした。左の列は、いずれも文字が不鮮明で、読み取れる部分がありませんでした。

    上下二つに分けて撮影した墓標の下部のズーム阿アップ光景です。右側の列では、先に紹介した『天文二十二年』の文字は更にはっきり読めrましたが、その上の3~4文字は読み取れませんでした。左の列は、いずれも文字が不鮮明で、読み取れる部分がありませんでした。

  • 墓標に向かって右側の光景です。南側から眺めた光景になるようです。上半分には、『鎮溪宗堅禅定門』らしい文字が読み取れました。下半分には、右上から『平手』で始まる文字がありましたが、大分薄れていました。

    墓標に向かって右側の光景です。南側から眺めた光景になるようです。上半分には、『鎮溪宗堅禅定門』らしい文字が読み取れました。下半分には、右上から『平手』で始まる文字がありましたが、大分薄れていました。

  • 墓標に向かって西北側から眺めた光景です。右の面は、先に紹介した『平手政秀』の戒名、『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字です。政秀には、『信長公記』によると3人の男子(五郎右衛門、監物、甚左衛門)があったとされます。また、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされています。『信長公記』に挙げられている3人が誰に当てはまるかは見解が分かれて、定説がないようです。

    墓標に向かって西北側から眺めた光景です。右の面は、先に紹介した『平手政秀』の戒名、『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字です。政秀には、『信長公記』によると3人の男子(五郎右衛門、監物、甚左衛門)があったとされます。また、系図類においては子は平手久秀、孫に平手汎秀がいたとされています。『信長公記』に挙げられている3人が誰に当てはまるかは見解が分かれて、定説がないようです。

  • 墓標に向かって西南側から眺めた光景です。左の面は、先に紹介した『平手政秀』の戒名、『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字です。また、右の面も、先に紹介した『鎮溪宗堅禅定門』の文字です。『禅定門』は、禅宗・浄土宗などで、男子の戒名に付ける語とされます。『鎮溪宗堅』の文字が政秀に贈られた戒名の一部かもしれません。

    墓標に向かって西南側から眺めた光景です。左の面は、先に紹介した『平手政秀』の戒名、『政秀寺殿功菴宗忠大居士』の文字です。また、右の面も、先に紹介した『鎮溪宗堅禅定門』の文字です。『禅定門』は、禅宗・浄土宗などで、男子の戒名に付ける語とされます。『鎮溪宗堅』の文字が政秀に贈られた戒名の一部かもしれません。

  • 『平手政秀墓碑』と背中合わせになった場所に建っていた『萬霊塔』の文字が刻まれた慰霊碑の光景です。このエリアは、同じ曹洞宗の『大法寺』のエリアでした。台座には、『大法寺合同供養塔』の表示がありました。孫引きになりますが、『政秀寺古記』の紹介です。『信長公は益々我儘になり、注意してもそれを煩く感じるようで、最近では聞く耳を持たなくなってしまった。腹を切って忠心からの言葉であると信じてもらう以外、手段が亡くなった』こうして政秀は腹を切り、家のものに急ぎ信長を呼びに走らせたそうです。駆けつけた信長は『なぜこんなことをした!』と取り乱し、脇差に縋りついたと書かれているようです。

    『平手政秀墓碑』と背中合わせになった場所に建っていた『萬霊塔』の文字が刻まれた慰霊碑の光景です。このエリアは、同じ曹洞宗の『大法寺』のエリアでした。台座には、『大法寺合同供養塔』の表示がありました。孫引きになりますが、『政秀寺古記』の紹介です。『信長公は益々我儘になり、注意してもそれを煩く感じるようで、最近では聞く耳を持たなくなってしまった。腹を切って忠心からの言葉であると信じてもらう以外、手段が亡くなった』こうして政秀は腹を切り、家のものに急ぎ信長を呼びに走らせたそうです。駆けつけた信長は『なぜこんなことをした!』と取り乱し、脇差に縋りついたと書かれているようです。

  • 方角は少しずれているようですが、概ね、南東側から眺めた『平手政秀墓碑』の光景になるようです。周りを石塀で囲われたお墓でした。天文22年(1553年)に建てられたと仮定すれば、470年近くが経ったことになります。

    方角は少しずれているようですが、概ね、南東側から眺めた『平手政秀墓碑』の光景になるようです。周りを石塀で囲われたお墓でした。天文22年(1553年)に建てられたと仮定すれば、470年近くが経ったことになります。

  • 歴代住職の無縫塔の列と、その先に見える墓標のピラミッドの光景です。説明は時代を前後しますが、平手政秀は1548年には斎藤道三との和睦を成立させ、信長と道三の娘の濃姫(帰蝶)との縁談話を道三に飲ませるなど、外交上の功績を数多く挙げています。織田家にとっては、外交の切り札のような存在の政秀でした。

    歴代住職の無縫塔の列と、その先に見える墓標のピラミッドの光景です。説明は時代を前後しますが、平手政秀は1548年には斎藤道三との和睦を成立させ、信長と道三の娘の濃姫(帰蝶)との縁談話を道三に飲ませるなど、外交上の功績を数多く挙げています。織田家にとっては、外交の切り札のような存在の政秀でした。

  • 坂を上り始める時にも目にしましたが、墓標のピラミッドの光景です。概ね東南側からの光景になるようです。左側が、墓標のピラミッドの正面になります。右手には、墓標を載せていない階段部分が見えていました。

    坂を上り始める時にも目にしましたが、墓標のピラミッドの光景です。概ね東南側からの光景になるようです。左側が、墓標のピラミッドの正面になります。右手には、墓標を載せていない階段部分が見えていました。

  • 墓標のピラミッドの光景が続きます。これは、概ね西南側からの光景になるようです。それにしても、多くの墓標や慰霊碑、石仏などが集まったものです。推測ですが、政秀寺だけで積み上げた墓標のピラミッドではないようです。

    墓標のピラミッドの光景が続きます。これは、概ね西南側からの光景になるようです。それにしても、多くの墓標や慰霊碑、石仏などが集まったものです。推測ですが、政秀寺だけで積み上げた墓標のピラミッドではないようです。

  • 墓標のピラミッドの正面からの光景です。中央に、お寺の卍印が付いた焼香台が置かれていました。一番高い位置の石標には、『関翁』の文字が見えました。『政秀寺』との関連で、『関翁』を調べてみましたが、手掛かりは掴めませんでした。

    墓標のピラミッドの正面からの光景です。中央に、お寺の卍印が付いた焼香台が置かれていました。一番高い位置の石標には、『関翁』の文字が見えました。『政秀寺』との関連で、『関翁』を調べてみましたが、手掛かりは掴めませんでした。

  • 『政秀寺墓苑』から眺めた平和公園の墓地の光景です。広大な墓地ですから、いび部だけの光景です。昭和22年(1947年)、戦災復興土地区画整理事業の一環として、市内に点在する279寺の墓地約18ヘクタール、189,030基を市内の東部丘陵約147ヘクタールの土地に移転し、昭和56年(1981年)9月には墓碑の移転が完了し、公園の整備が進められてきました。

    『政秀寺墓苑』から眺めた平和公園の墓地の光景です。広大な墓地ですから、いび部だけの光景です。昭和22年(1947年)、戦災復興土地区画整理事業の一環として、市内に点在する279寺の墓地約18ヘクタール、189,030基を市内の東部丘陵約147ヘクタールの土地に移転し、昭和56年(1981年)9月には墓碑の移転が完了し、公園の整備が進められてきました。

  • 古い墓標が寄せ集められた一角の光景です。平和公園は、昭和48年(1973年)には南部地区が都市計画墓園事業の事業認可を受け、既存の緑をいかして、市民が気軽に親しみ利用できるよう散策路等の整備がされています。平和公園は市内でも有数の桜の名所となっていて、東山公園に次ぐ規模(約2,300本)を誇っています。公園の中ほどにはその名も『桜の園』と名付けられた場所があります。

    古い墓標が寄せ集められた一角の光景です。平和公園は、昭和48年(1973年)には南部地区が都市計画墓園事業の事業認可を受け、既存の緑をいかして、市民が気軽に親しみ利用できるよう散策路等の整備がされています。平和公園は市内でも有数の桜の名所となっていて、東山公園に次ぐ規模(約2,300本)を誇っています。公園の中ほどにはその名も『桜の園』と名付けられた場所があります。

  • 『花本』の文字が記された石標の光景です。『丸にに剣片喰』らしい紋章と、梅らしい花も刻まれていました。『花本(はなもと)』は、姓にもあるようです。下部に線香立が仕舞われていました。

    『花本』の文字が記された石標の光景です。『丸にに剣片喰』らしい紋章と、梅らしい花も刻まれていました。『花本(はなもと)』は、姓にもあるようです。下部に線香立が仕舞われていました。

  • 『織田家骨塔』の文字が刻まれた墓標の光景です。『政秀寺』に隣接する場所には、『総見寺』などがあります。名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派の寺院の『景陽山総見寺』は、 織田信長所縁の寺院です。

    『織田家骨塔』の文字が刻まれた墓標の光景です。『政秀寺』に隣接する場所には、『総見寺』などがあります。名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派の寺院の『景陽山総見寺』は、 織田信長所縁の寺院です。

  • 『浅井家骨塔』の文字が刻まれた墓標の光景です。『浅井長政(あざい・ながまさ):1545~1573年』は、織田信長の妻の兄ですから、織田家と浅井家は繋がりが深いようです。ただし、後に信長と決裂し、織田軍との戦いに敗れて自害、浅井氏は滅亡しました。長政は、徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に従二位中納言を贈られています。今紹介した浅井家の系列の墓標かどうかは、不確かです。扇の紋章が刻まれていましたから、浅井長政の『三盛亀甲剣花菱(みつもり きっこう けんはなびし)紋』とは、別系統になるようです。

    『浅井家骨塔』の文字が刻まれた墓標の光景です。『浅井長政(あざい・ながまさ):1545~1573年』は、織田信長の妻の兄ですから、織田家と浅井家は繋がりが深いようです。ただし、後に信長と決裂し、織田軍との戦いに敗れて自害、浅井氏は滅亡しました。長政は、徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に従二位中納言を贈られています。今紹介した浅井家の系列の墓標かどうかは、不確かです。扇の紋章が刻まれていましたから、浅井長政の『三盛亀甲剣花菱(みつもり きっこう けんはなびし)紋』とは、別系統になるようです。

  • 『伊藤圭介碑』の光景です。『伊藤圭介(いとう・けいすけ:享和3年1月27日(1803年2月18日)~ 明治34年(1901年)1月20日)』は、幕末から明治期に活躍した理学博士で、男爵です。明治14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられ、明治21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けました。東山植物園を見学の折、何度も目にした名前と略歴です。文政10年(1827年)、長崎でシーボルトより本草学を学び、翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取りました。これを翻訳し、文政12年(1829年)、『泰西本草名疏』を刊行しました。

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    『伊藤圭介碑』の光景です。『伊藤圭介(いとう・けいすけ:享和3年1月27日(1803年2月18日)~ 明治34年(1901年)1月20日)』は、幕末から明治期に活躍した理学博士で、男爵です。明治14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられ、明治21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けました。東山植物園を見学の折、何度も目にした名前と略歴です。文政10年(1827年)、長崎でシーボルトより本草学を学び、翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取りました。これを翻訳し、文政12年(1829年)、『泰西本草名疏』を刊行しました。

  • 『伊藤圭介碑』のズームアップ光景です。右上に『伊藤圭介先生之碑』が読み取れました。享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、文政3年(1820年)、町医の資格を得て開業しました。文政4年(1821年)、京都に遊学し、藤林泰助より蘭学を学日、文政10年(1827年)、長崎でシーボルトから本草学を学んでいます。伊藤圭介に因む植物は、アシタバ(セリ科)、イワチドリ(ラン科)、スズラン(ユリ科)、イワナンテン(ツツジ科)、シモバシラ(シソ科)を始め多種です。

    『伊藤圭介碑』のズームアップ光景です。右上に『伊藤圭介先生之碑』が読み取れました。享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、文政3年(1820年)、町医の資格を得て開業しました。文政4年(1821年)、京都に遊学し、藤林泰助より蘭学を学日、文政10年(1827年)、長崎でシーボルトから本草学を学んでいます。伊藤圭介に因む植物は、アシタバ(セリ科)、イワチドリ(ラン科)、スズラン(ユリ科)、イワナンテン(ツツジ科)、シモバシラ(シソ科)を始め多種です。

  • 『伊藤圭介碑』の近くにあった、『小田切・伊藤先祖累代之墓』の文字が刻まれた墓標の光景です。伊藤圭介と、この墓碑の『伊藤家』との繋がりは不明です。これらの石碑、墓碑は、『光勝院墓域』になります。

    『伊藤圭介碑』の近くにあった、『小田切・伊藤先祖累代之墓』の文字が刻まれた墓標の光景です。伊藤圭介と、この墓碑の『伊藤家』との繋がりは不明です。これらの石碑、墓碑は、『光勝院墓域』になります。

  • 『北條家累代之墓』の文字が刻まれた墓標の光景です。戦国大名の『後北條家』の繋がりかと思って撮影した墓標の光景です。石碑に記された家紋も、『北條鱗(ほうじょううろこ)』でした。伊勢盛時(北条早雲)から始まる『後北條家』は、北条氏綱、北条氏康、北条綱成、北条氏政と続き、北条氏直の天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れました。北條氏の嫡流は断絶しましたが、譜代大名として立藩した河内狭山藩は、明治維新まで続きました。

    『北條家累代之墓』の文字が刻まれた墓標の光景です。戦国大名の『後北條家』の繋がりかと思って撮影した墓標の光景です。石碑に記された家紋も、『北條鱗(ほうじょううろこ)』でした。伊勢盛時(北条早雲)から始まる『後北條家』は、北条氏綱、北条氏康、北条綱成、北条氏政と続き、北条氏直の天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れました。北條氏の嫡流は断絶しましたが、譜代大名として立藩した河内狭山藩は、明治維新まで続きました。

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