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平手政秀所縁の地の紹介です。綿神社と霊源寺を見学したのは、平手政秀屋敷跡とされる志賀公園の近くある『神社とお寺』であることを携帯用の地図で確認したのがきっかけでした。古社や古寺が、歴史散策には有効であることを再認識させられました。

2020新春、続・平手政秀所縁の地(5/5):綿神社と霊源寺(2):霊源寺、本堂、墓所

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2020/02/12 - 2020/02/12

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

平手政秀所縁の地の紹介です。綿神社と霊源寺を見学したのは、平手政秀屋敷跡とされる志賀公園の近くある『神社とお寺』であることを携帯用の地図で確認したのがきっかけでした。古社や古寺が、歴史散策には有効であることを再認識させられました。

  • 曹洞宗の霊源寺の正面光景です。近代建築の建物ですが、正面は、唐屋根風のクラシックなデザインでした。曹洞宗は、禅宗と呼ばれる宗派に含まれる一つで、日本では鎌倉時代に始まりました。道元によって、中国から日本に伝えられました。曹渓山霊源寺は曹洞宗の古い歴史のある寺で、元は千種区古井の光正院の末寺で、始め万亀山大福寺と称し、宝暦10年(1760年)、今の寺号に改められました。

    イチオシ

    曹洞宗の霊源寺の正面光景です。近代建築の建物ですが、正面は、唐屋根風のクラシックなデザインでした。曹洞宗は、禅宗と呼ばれる宗派に含まれる一つで、日本では鎌倉時代に始まりました。道元によって、中国から日本に伝えられました。曹渓山霊源寺は曹洞宗の古い歴史のある寺で、元は千種区古井の光正院の末寺で、始め万亀山大福寺と称し、宝暦10年(1760年)、今の寺号に改められました。

  • 上から読んで『大圓鑑智山門茲厳修初伝法輪晋山結制法筵専所・正法興隆萬邦和楽・山門康寧檀信帰崇・諸縁吉祥者也』の文字でした。『角塔婆』と呼ばれる卒塔婆の1種のようです。曹洞宗は、基本の姿勢を『座禅』とし、ただ一心に座禅を組んで座りその信仰を捧げます。ひたすらに座禅を行うことを修業とし、日常生活もその座禅の姿勢や心のままに生きていくことを目的としています。

    上から読んで『大圓鑑智山門茲厳修初伝法輪晋山結制法筵専所・正法興隆萬邦和楽・山門康寧檀信帰崇・諸縁吉祥者也』の文字でした。『角塔婆』と呼ばれる卒塔婆の1種のようです。曹洞宗は、基本の姿勢を『座禅』とし、ただ一心に座禅を組んで座りその信仰を捧げます。ひたすらに座禅を行うことを修業とし、日常生活もその座禅の姿勢や心のままに生きていくことを目的としています。

  • 古くて、由緒ありそうな宝篋印塔の墓標の光景です。墓地の入口は施錠されていましたから、少し離れた場所からの、ズームアップでの撮影です。教育家で郷土史家だった沢井鈴一(1940~2015年)さんのブログから紐解くことが出来ました。『一基は、曹渓円成居士と刻まれた墓碑。曹渓円成居士は、この寺を開いた穀物問屋鵜飼屋の六代目服部重光のこと。宝暦13年(1763年)の歿。もう一基は、その妻の霊源妙誓法尼の墓。宝暦6年(1756年)の歿』と紹介されていました。

    イチオシ

    古くて、由緒ありそうな宝篋印塔の墓標の光景です。墓地の入口は施錠されていましたから、少し離れた場所からの、ズームアップでの撮影です。教育家で郷土史家だった沢井鈴一(1940~2015年)さんのブログから紐解くことが出来ました。『一基は、曹渓円成居士と刻まれた墓碑。曹渓円成居士は、この寺を開いた穀物問屋鵜飼屋の六代目服部重光のこと。宝暦13年(1763年)の歿。もう一基は、その妻の霊源妙誓法尼の墓。宝暦6年(1756年)の歿』と紹介されていました。

  • 古いものも、新しい墓標もあった、墓所の光景です。沢井鈴一さんは、『大福寺という名前から霊源寺という名前に寺号が変わったのは、鵜飼屋のなみなみならぬ帰依があったからであろう。荒廃した寺を鵜飼屋は独力で再建したかも知れない。山号曹渓と寺号霊源が用いられていることによって、鵜飼屋夫婦とこの寺との深いかかわりが感じられる』と紹介されていました。

    古いものも、新しい墓標もあった、墓所の光景です。沢井鈴一さんは、『大福寺という名前から霊源寺という名前に寺号が変わったのは、鵜飼屋のなみなみならぬ帰依があったからであろう。荒廃した寺を鵜飼屋は独力で再建したかも知れない。山号曹渓と寺号霊源が用いられていることによって、鵜飼屋夫婦とこの寺との深いかかわりが感じられる』と紹介されていました。

  • ステンレスの流しを使った手水舎の光景です。沢井さんは、『昭和20年(1945年)5月14日の戦火により、本堂も、山門もすべて烏有に帰してしまった。唯一、戦火をまぬがれたのが山門前に立っていた「不許葷酒入山門」の碑である』と紹介されていました。

    ステンレスの流しを使った手水舎の光景です。沢井さんは、『昭和20年(1945年)5月14日の戦火により、本堂も、山門もすべて烏有に帰してしまった。唯一、戦火をまぬがれたのが山門前に立っていた「不許葷酒入山門」の碑である』と紹介されていました。

  • 中央が螺髪のお釈迦さま、その周りが六地蔵を始めとする地蔵尊のようです。地蔵損には手造りの前掛けが着せられていました。ブッダの印相は、右手が『施無畏印(せむいいん)』、左手が『与願印(よがんいん)』でした。『施無畏印』は、漢字が示す通り『恐れなくてよい』と、相手を励ますサインです。『与願印』は、相手に何かを与える仕草を模したものです。

    中央が螺髪のお釈迦さま、その周りが六地蔵を始めとする地蔵尊のようです。地蔵損には手造りの前掛けが着せられていました。ブッダの印相は、右手が『施無畏印(せむいいん)』、左手が『与願印(よがんいん)』でした。『施無畏印』は、漢字が示す通り『恐れなくてよい』と、相手を励ますサインです。『与願印』は、相手に何かを与える仕草を模したものです。

  • 『ハクバイ(白梅)』<br />分類:バラ科サクラ属の落葉高木<br />分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。<br />特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。<br />その他:境内で咲き始めた白梅の光景です。

    『ハクバイ(白梅)』
    分類:バラ科サクラ属の落葉高木
    分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。
    特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。
    その他:境内で咲き始めた白梅の光景です。

  • 『ハクバイ(白梅)』<br />分類:バラ科サクラ属の落葉高木<br />分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。<br />特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。<br />その他:境内で咲き始めた白梅の光景です。

    『ハクバイ(白梅)』
    分類:バラ科サクラ属の落葉高木
    分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。
    特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。
    その他:境内で咲き始めた白梅の光景です。

  • 木々に囲まれた霊源寺本殿の光景です。『戦火にあったのは、本堂や山門ばかりではなく、胎内にも小さな仏体を蔵している御腹籠(みごもり)観音と称せられた本尊も焼失してしまった。また、伝説の大黒天も焼失をした』と沢井さんは紹介されていました。

    木々に囲まれた霊源寺本殿の光景です。『戦火にあったのは、本堂や山門ばかりではなく、胎内にも小さな仏体を蔵している御腹籠(みごもり)観音と称せられた本尊も焼失してしまった。また、伝説の大黒天も焼失をした』と沢井さんは紹介されていました。

  • 『霊源寺』のMRT叔父が記された、まだ新しい表札の光景です。大黒天の伝説を『金城の遺蹟・史話』(三谷政明著)は、次のように記していると、沢井さんは紹介されています。『明治中期、阿部小兵衛なる篤信家が大黒天の霊夢に感じ、霊源寺内に大黒天秘在せらるる旨告げ、よって寺内境内隈なく探し遂に山門棟木辺の一隅に密かに鎮座されていたのを発見した。即ち大黒殿を建立して祀り毎年節分会を行う様になった。大黒様の福にあやかろうと参会の善男善女は八百名程にのぼる盛況である』

    『霊源寺』のMRT叔父が記された、まだ新しい表札の光景です。大黒天の伝説を『金城の遺蹟・史話』(三谷政明著)は、次のように記していると、沢井さんは紹介されています。『明治中期、阿部小兵衛なる篤信家が大黒天の霊夢に感じ、霊源寺内に大黒天秘在せらるる旨告げ、よって寺内境内隈なく探し遂に山門棟木辺の一隅に密かに鎮座されていたのを発見した。即ち大黒殿を建立して祀り毎年節分会を行う様になった。大黒様の福にあやかろうと参会の善男善女は八百名程にのぼる盛況である』

  • 『曹洞宗・霊源寺』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。戦国時代には志賀の地に屋敷を構えた織田家の家老の平手政秀が、信長の奇行がおさまるようにと荒廃した『綿神社』の社殿を改築し,鏡と手彫りの狛犬を奉納したといいます。薗神社と一体だったらしい『霊源寺』です。この辺りも政秀の領地だったようです。政秀所縁の地と呼んでいいようです。予備知識無しでこのお寺と神社を訪れましたが、うまく勘が当たったようです。

    『曹洞宗・霊源寺』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。戦国時代には志賀の地に屋敷を構えた織田家の家老の平手政秀が、信長の奇行がおさまるようにと荒廃した『綿神社』の社殿を改築し,鏡と手彫りの狛犬を奉納したといいます。薗神社と一体だったらしい『霊源寺』です。この辺りも政秀の領地だったようです。政秀所縁の地と呼んでいいようです。予備知識無しでこのお寺と神社を訪れましたが、うまく勘が当たったようです。

  • 『曹洞宗・霊源寺』の入口付近にあった案内板の光景です。右のポスターが、今年の令和2年5月に北海道の真駒内で開かれる『梅花流全国奉詠大会』、左のポスターが令和6年4月の曹洞宗太祖の瑩山紹瑾の『700回大遠忌』の案内でした。開祖の道元を高祖大師、第4祖の瑩山を太祖大師と呼んでいます。

    『曹洞宗・霊源寺』の入口付近にあった案内板の光景です。右のポスターが、今年の令和2年5月に北海道の真駒内で開かれる『梅花流全国奉詠大会』、左のポスターが令和6年4月の曹洞宗太祖の瑩山紹瑾の『700回大遠忌』の案内でした。開祖の道元を高祖大師、第4祖の瑩山を太祖大師と呼んでいます。

  • お寺の卍印と『十一番』の文字が刻まれた古い石柱の光景です。かつてのお寺巡りの札所時代だった名残のようです。戦災にあいましたが,昭和45年(1970年)に再建されました。今回はお参りしませんでしたが、平手政秀が切腹した時、殉死した四十八名の武士を祀った神社が『四十八祖社』があるようです。

    お寺の卍印と『十一番』の文字が刻まれた古い石柱の光景です。かつてのお寺巡りの札所時代だった名残のようです。戦災にあいましたが,昭和45年(1970年)に再建されました。今回はお参りしませんでしたが、平手政秀が切腹した時、殉死した四十八名の武士を祀った神社が『四十八祖社』があるようです。

  • 『不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)』の文字が刻まれた石標の光景です。禅宗のお寺では普通に見られる、お酒や匂いの強い野菜などの持ち込み禁止の標識です。戒壇石、禁牌(きんぱい)石、結界(けっかい)石とも呼ばれます。沢井さんによれば、唯一、昭和の戦火を免れた石標です。

    『不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)』の文字が刻まれた石標の光景です。禅宗のお寺では普通に見られる、お酒や匂いの強い野菜などの持ち込み禁止の標識です。戒壇石、禁牌(きんぱい)石、結界(けっかい)石とも呼ばれます。沢井さんによれば、唯一、昭和の戦火を免れた石標です。

  • 振り返って眺めた、『霊源寺』の光景です。このお寺は、宝暦10年(1760年)までは千種区古井にある『光正院』の末寺でした。その『光正院』は、1513年、僧・来鳳の創建といわれています。弁慶が光正院に住んでいた時期があり、手掘りで井戸を掘り、その清水で主君義経の武運を祈願し、大般若経五十巻を書写したと伝えられています。

    振り返って眺めた、『霊源寺』の光景です。このお寺は、宝暦10年(1760年)までは千種区古井にある『光正院』の末寺でした。その『光正院』は、1513年、僧・来鳳の創建といわれています。弁慶が光正院に住んでいた時期があり、手掘りで井戸を掘り、その清水で主君義経の武運を祈願し、大般若経五十巻を書写したと伝えられています。

  • 途中から、隣接する『霊源寺』の紹介になりましたが、この後は『綿神社』の説明に戻ります。簡単な石の柵を挟んで、右手が『霊源寺』、左手が『綿神社』の光景です。平手氏の自刃で48名の殉死があったことなど、その死因を巡ってまだまだ解けない謎を感じます。

    途中から、隣接する『霊源寺』の紹介になりましたが、この後は『綿神社』の説明に戻ります。簡単な石の柵を挟んで、右手が『霊源寺』、左手が『綿神社』の光景です。平手氏の自刃で48名の殉死があったことなど、その死因を巡ってまだまだ解けない謎を感じます。

  • 『式内・綿神社』の文字が刻まれた石標の光景です。現在の『綿神社』が『延喜式』神名帳に記された『綿神社』であるかどうかもはっきりしない点が残っているようです。昭和の戦災で資料も焼失したようですから、文献上からは調べることが困難になってしまったようです。

    『式内・綿神社』の文字が刻まれた石標の光景です。現在の『綿神社』が『延喜式』神名帳に記された『綿神社』であるかどうかもはっきりしない点が残っているようです。昭和の戦災で資料も焼失したようですから、文献上からは調べることが困難になってしまったようです。

  • 『式内・綿神社』の鳥居と、その先に見える次の鳥居と拝殿光景です。社名の由来は、祀られている『玉依比売命』が海神の綿津見神の娘であることに由来しているようです。綿は海の当て字が用いらています。このことからこの付近の志賀の地が、かつては入り江であったと想定されています。

    『式内・綿神社』の鳥居と、その先に見える次の鳥居と拝殿光景です。社名の由来は、祀られている『玉依比売命』が海神の綿津見神の娘であることに由来しているようです。綿は海の当て字が用いらています。このことからこの付近の志賀の地が、かつては入り江であったと想定されています。

  • 『式内・綿神社由緒』のタイトルがあった説明看板の光景です。冒頭に主祭神の『玉依比売命(神武天皇の御母』と『応神天皇(八幡様)』が記されていました。弥生前期に九州の弥生人がこの地に定住して稲作などを広め、その中核が北九州の『志賀』の『安曇族』と記されていました。国宝の金印が見付かった『志賀(しか)の島』は、昨年見学しました。

    『式内・綿神社由緒』のタイトルがあった説明看板の光景です。冒頭に主祭神の『玉依比売命(神武天皇の御母』と『応神天皇(八幡様)』が記されていました。弥生前期に九州の弥生人がこの地に定住して稲作などを広め、その中核が北九州の『志賀』の『安曇族』と記されていました。国宝の金印が見付かった『志賀(しか)の島』は、昨年見学しました。

  • 『綿神社』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の説明立札の光景です。『戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったと言われている』と紹介されていました。

    『綿神社』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の説明立札の光景です。『戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったと言われている』と紹介されていました。

  • 『綿神社』の入口両脇に置かれた大きな石の光景です。注連縄はありませんでしたが、主祭神の『玉依比売命』に因むものか、『石神様』との関連がありそうでした。『神明神社の石神さん』は 『女性の願いをひとつだけ叶えてくれる』と有名なようです。その神明神社の主祭神は、『玉依比売命』のようです。

    『綿神社』の入口両脇に置かれた大きな石の光景です。注連縄はありませんでしたが、主祭神の『玉依比売命』に因むものか、『石神様』との関連がありそうでした。『神明神社の石神さん』は 『女性の願いをひとつだけ叶えてくれる』と有名なようです。その神明神社の主祭神は、『玉依比売命』のようです。

  • 『綿神社』の入口両脇に置かれた大きな石の光景です。こちらが参道の右側に置かれていました。詳しくは調べていませんが、『石神様』と『玉依比売命』には何か繋がりがありそうです。

    『綿神社』の入口両脇に置かれた大きな石の光景です。こちらが参道の右側に置かれていました。詳しくは調べていませんが、『石神様』と『玉依比売命』には何か繋がりがありそうです。

  • 北側の鳥居を潜って見学した『綿神社』ですが、先ほど紹介した立看板や石標が建ったこの場所が。南の参道の入口になるようです。余談ですが、散策に持参したポケット版の『名古屋地図』には『綿神社』が『錦神社』と誤記され、最初のネット検索で、少し戸惑いました。

    イチオシ

    北側の鳥居を潜って見学した『綿神社』ですが、先ほど紹介した立看板や石標が建ったこの場所が。南の参道の入口になるようです。余談ですが、散策に持参したポケット版の『名古屋地図』には『綿神社』が『錦神社』と誤記され、最初のネット検索で、少し戸惑いました。

  • 見学を終えて、振り返って眺めた『綿神社』と『霊源寺』方面の光景です。北九州の『志賀島』地方と、尾張の『志賀』の起源に繋がりがあることは、今回の見学で初めて認識しました。『綿神社』の創建が弥生時代との記述がその入口でした。『志賀の安曇族』を通じて、長野県の杏で有名な『安曇群」との繋がりも意外でした。

    見学を終えて、振り返って眺めた『綿神社』と『霊源寺』方面の光景です。北九州の『志賀島』地方と、尾張の『志賀』の起源に繋がりがあることは、今回の見学で初めて認識しました。『綿神社』の創建が弥生時代との記述がその入口でした。『志賀の安曇族』を通じて、長野県の杏で有名な『安曇群」との繋がりも意外でした。

  • <付録1> 志賀公園の平面図<br />この地図緑色の部分に隣接する右側に、半円形や不思議な三叉路が記されています。推測ですが、志賀公園内の通路も、かつての平手政秀や式時代の地形の一部を残しているのかも知れません。

    <付録1> 志賀公園の平面図
    この地図緑色の部分に隣接する右側に、半円形や不思議な三叉路が記されています。推測ですが、志賀公園内の通路も、かつての平手政秀や式時代の地形の一部を残しているのかも知れません。

  • <付録2> 志賀公園の航空写真<br />先程の平面図と同じ場所の航空写真です。少し見難いですが、半円形の道路なども確認できました。多分、発掘調査が出来ずに、そのままになった部分です。

    <付録2> 志賀公園の航空写真
    先程の平面図と同じ場所の航空写真です。少し見難いですが、半円形の道路なども確認できました。多分、発掘調査が出来ずに、そのままになった部分です。

  • <付録3> 江戸時代より前の伊勢湾地図<br /> 以前にお城巡りの時にも紹介した、猿投神社古文書からの伊勢湾地図のイメージ図です。地名に『島』が付く場所は伊勢湾に浮かぶ『島』でした。『津島』、『飛島』、『枇杷島』や三重県の『長嶋』等です。この地形を思い出させたのが伊勢湾台風時の高潮被害でした。

    <付録3> 江戸時代より前の伊勢湾地図
     以前にお城巡りの時にも紹介した、猿投神社古文書からの伊勢湾地図のイメージ図です。地名に『島』が付く場所は伊勢湾に浮かぶ『島』でした。『津島』、『飛島』、『枇杷島』や三重県の『長嶋』等です。この地形を思い出させたのが伊勢湾台風時の高潮被害でした。

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