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劔神社と織田一族との繋がりを示す資料として、『柴田勝家諸役免許状』が有名です。この資料は、柴田勝家が天正3年(1575年)に劔神社・織田寺へ発給した古文書です。書中に『当社之儀者殿様御氏神之儀』と認められ、劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が祖先の出身地として認識していたことが分かります。

2020新春、続・平手政秀所縁の地(1/5):2月12日(1):東雲寺(1):通用門、鐘楼、山門、観音堂、本堂

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2020/02/12 - 2020/02/12

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旅人のくまさん

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劔神社と織田一族との繋がりを示す資料として、『柴田勝家諸役免許状』が有名です。この資料は、柴田勝家が天正3年(1575年)に劔神社・織田寺へ発給した古文書です。書中に『当社之儀者殿様御氏神之儀』と認められ、劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が祖先の出身地として認識していたことが分かります。

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  • 名古屋市西区上小田井に位置する、臨済宗妙心寺派の『龍光山東雲寺』の紹介です。その通用門になるようです。その先に鐘楼が見えていました。織田常寛(生年不明~1506年)による開基とされ、1492年(明応元年)に創建された名古屋の古刹です。現在の庄内緑地公園の北側に隣接する場所に立地しています。<br />

    イチオシ

    名古屋市西区上小田井に位置する、臨済宗妙心寺派の『龍光山東雲寺』の紹介です。その通用門になるようです。その先に鐘楼が見えていました。織田常寛(生年不明~1506年)による開基とされ、1492年(明応元年)に創建された名古屋の古刹です。現在の庄内緑地公園の北側に隣接する場所に立地しています。

  • 龍光山東雲寺の本堂光景です。織田常寛の通称は弾正左衛門、官職は丹波守で、初代の於田井(小田井)城主でした。小田井城(おたいじょう)は、現在の愛知県清須市西枇杷島町の古城交差点付近にあった、室町時代中期の平城です。応永年間(1394~1428年)、『織田大和守家』当主の織田敏定が、清洲城の支城として築城したといわれます。

    龍光山東雲寺の本堂光景です。織田常寛の通称は弾正左衛門、官職は丹波守で、初代の於田井(小田井)城主でした。小田井城(おたいじょう)は、現在の愛知県清須市西枇杷島町の古城交差点付近にあった、室町時代中期の平城です。応永年間(1394~1428年)、『織田大和守家』当主の織田敏定が、清洲城の支城として築城したといわれます。

  • 龍光山東雲寺の鐘楼光景です。織田常寛は、室町時代の武将の清洲三奉行の一家・藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされる、尾張国楽田城主の織田久長の子として誕生しました。兄とされる敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築いて城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、常寛は小田井城主となりました。楽田城は、永正年間(1504~1521年)に久長が築いたとされます。

    龍光山東雲寺の鐘楼光景です。織田常寛は、室町時代の武将の清洲三奉行の一家・藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされる、尾張国楽田城主の織田久長の子として誕生しました。兄とされる敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築いて城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、常寛は小田井城主となりました。楽田城は、永正年間(1504~1521年)に久長が築いたとされます。

  • 龍光山東雲寺の鐘楼のズームアップ光景です。織田丹波守久孝と同一人物とされ、初め『久孝(ひさたか)』と名乗り、尾張国守護・斯波義寛の一字『寛』の偏諱を受け『常寛』と改めたと推定されています。ところで、織田信長の先祖、織田氏の出身地は、現在の福井県の越前町織田(おた)地区とされます。『織田』の名字は、この地名に由来すると考えられています。

    龍光山東雲寺の鐘楼のズームアップ光景です。織田丹波守久孝と同一人物とされ、初め『久孝(ひさたか)』と名乗り、尾張国守護・斯波義寛の一字『寛』の偏諱を受け『常寛』と改めたと推定されています。ところで、織田信長の先祖、織田氏の出身地は、現在の福井県の越前町織田(おた)地区とされます。『織田』の名字は、この地名に由来すると考えられています。

  • 龍光山東雲寺の梵鐘のズームアップ光景です。織田(おた)地区の劔神社に伝わる、明徳4年(1393年)の『藤原信昌・将広置文』が、織田氏のルーツに関する重要な古文書とされます。この資料中にみえる『藤原将広』は、応永年間(1394~1428年)に尾張守護代として活躍した『織田伊勢入道常松』と同一人物と考えられています。その根拠の一つが、将広の花押と常松の花押とが非常によく似ていることです。将広は越前守護・斯波義将の家臣であり、義将の子・義重が越前と尾張の守護を兼任するに当たり、尾張へ移住したようです。尾張へ移った将広は、故郷の地である『織田』の地名を名字とし、織田氏と名乗ったと推測されます。

    龍光山東雲寺の梵鐘のズームアップ光景です。織田(おた)地区の劔神社に伝わる、明徳4年(1393年)の『藤原信昌・将広置文』が、織田氏のルーツに関する重要な古文書とされます。この資料中にみえる『藤原将広』は、応永年間(1394~1428年)に尾張守護代として活躍した『織田伊勢入道常松』と同一人物と考えられています。その根拠の一つが、将広の花押と常松の花押とが非常によく似ていることです。将広は越前守護・斯波義将の家臣であり、義将の子・義重が越前と尾張の守護を兼任するに当たり、尾張へ移住したようです。尾張へ移った将広は、故郷の地である『織田』の地名を名字とし、織田氏と名乗ったと推測されます。

  • 同じく、角度を変えて眺めた『鐘楼』の光景です。劔神社と織田一族との繋がりを示す資料として、『柴田勝家諸役免許状』が有名です。この資料は、柴田勝家が天正3年(1575年)に劔神社・織田寺へ発給した古文書です。書中に『当社之儀者殿様御氏神之儀』と認められ、劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が祖先の出身地として認識していたことが分かります。

    同じく、角度を変えて眺めた『鐘楼』の光景です。劔神社と織田一族との繋がりを示す資料として、『柴田勝家諸役免許状』が有名です。この資料は、柴田勝家が天正3年(1575年)に劔神社・織田寺へ発給した古文書です。書中に『当社之儀者殿様御氏神之儀』と認められ、劔神社を織田信長の氏神として位置づけていることから、信長自身が祖先の出身地として認識していたことが分かります。

  • 右手に『観音堂』の石標があった小さな堂宇の光景です。織田家略系図によれば、織田常松(藤原将広)以降の系図では、次代は、伊勢守系の織田郷広(守護代)、大和守系(二代目が久長:又守護代)、孫左衛門尉系と弾正忠系の4系統に分かれました。信長の先祖の系統は、嫡流ではない弾正忠系となります。

    右手に『観音堂』の石標があった小さな堂宇の光景です。織田家略系図によれば、織田常松(藤原将広)以降の系図では、次代は、伊勢守系の織田郷広(守護代)、大和守系(二代目が久長:又守護代)、孫左衛門尉系と弾正忠系の4系統に分かれました。信長の先祖の系統は、嫡流ではない弾正忠系となります。

  • 織田家の家紋の『織田木瓜』です。普通の木瓜紋の四弁に対し五弁です。『桔梗紋』にも似ています。ところで、少し話が逸れますが、『桔梗』は古語で『トキ』と言われることから、土岐氏の家紋となりました。土岐氏は、美濃(今の岐阜県)に一大勢力を築きましたが、戦国時代に斎藤道三に敗れて立場を失いました。土岐氏の分家の明智光秀、浅井長政は武将として戦国の世に名を残しました。

    織田家の家紋の『織田木瓜』です。普通の木瓜紋の四弁に対し五弁です。『桔梗紋』にも似ています。ところで、少し話が逸れますが、『桔梗』は古語で『トキ』と言われることから、土岐氏の家紋となりました。土岐氏は、美濃(今の岐阜県)に一大勢力を築きましたが、戦国時代に斎藤道三に敗れて立場を失いました。土岐氏の分家の明智光秀、浅井長政は武将として戦国の世に名を残しました。

  • 大和守系の二代目の久長は、その妻が朝倉経景の子になります。織田氏の出自は、平氏説、藤原氏説と忌部氏説の三説があります。『平氏説』は、平重盛の子資盛の遺児である親真が、近江国津田(滋賀県近江八幡市)の郷長に母とともに養われ、のちに越前国織田社の神職の養子となり、その子孫が織田と名乗ったことに由来します。

    大和守系の二代目の久長は、その妻が朝倉経景の子になります。織田氏の出自は、平氏説、藤原氏説と忌部氏説の三説があります。『平氏説』は、平重盛の子資盛の遺児である親真が、近江国津田(滋賀県近江八幡市)の郷長に母とともに養われ、のちに越前国織田社の神職の養子となり、その子孫が織田と名乗ったことに由来します。

  • 『平氏説』は、織田氏の祖先は平氏に繋がることから、主に系図・系譜を根拠とする説です。信長が積極的に『自分は平氏である』と述べた形跡は残されていません。次に、『藤原氏説』です。信長の父信秀の主君にあたる清洲城主・織田大和守達勝が藤原を名乗り(『尾張円福寺文書』)、天文18年(1549年)の信長の制礼(『加藤文書』)にも藤原信長の署名の実例などから、藤原氏であるとの説です。

    『平氏説』は、織田氏の祖先は平氏に繋がることから、主に系図・系譜を根拠とする説です。信長が積極的に『自分は平氏である』と述べた形跡は残されていません。次に、『藤原氏説』です。信長の父信秀の主君にあたる清洲城主・織田大和守達勝が藤原を名乗り(『尾張円福寺文書』)、天文18年(1549年)の信長の制礼(『加藤文書』)にも藤原信長の署名の実例などから、藤原氏であるとの説です。

  • 『藤原氏説』には、信長が天下取りを図るにあたり、源氏の子孫である室町幕府の足利将軍の打倒を正当化するために考え出したとの反論もあります。最後の『忌部氏説』です。多賀谷健一氏は、『織田氏が七条院領織田荘(越前町織田)の荘官だったとの田中説を進め、同荘内の織田劔神社の神官の出身で、本姓は忌部氏であろう』と考証しました。

    『藤原氏説』には、信長が天下取りを図るにあたり、源氏の子孫である室町幕府の足利将軍の打倒を正当化するために考え出したとの反論もあります。最後の『忌部氏説』です。多賀谷健一氏は、『織田氏が七条院領織田荘(越前町織田)の荘官だったとの田中説を進め、同荘内の織田劔神社の神官の出身で、本姓は忌部氏であろう』と考証しました。

  • また、越前町織田と忌部氏の関係については、『吉田東伍(1864~1918年)』氏の見解が知られています。律令制下の敦賀郡伊部郷を『忌部』に通じ、織田の社司を忌部氏とする見解です。織田氏の出自には諸説ありますが、その発祥が『織田の地』とする見解は共通しているようです。織田氏のルーツの話しは、これでおしまいです。

    また、越前町織田と忌部氏の関係については、『吉田東伍(1864~1918年)』氏の見解が知られています。律令制下の敦賀郡伊部郷を『忌部』に通じ、織田の社司を忌部氏とする見解です。織田氏の出自には諸説ありますが、その発祥が『織田の地』とする見解は共通しているようです。織田氏のルーツの話しは、これでおしまいです。

  • 『臨済宗妙心寺派・龍光山東雲寺』の文字が刻まれた石標の光景です。本山は、日本最大の禅寺とされる京都花園の『大本山妙心寺』になるようです。『山号を『正法山』と言い、建武4年(1337年)に関山慧玄禅師(無相大師)を開山に迎え、花園法皇の離宮を改め禅寺としたのが始まりとされます。諸堂伽藍は典型的な禅宗様式で日本随一といわれ、その七堂伽藍を46もの塔頭が取り囲み、ひとつの町のような広さを誇り、重要文化財の法堂(はっとう)は、明暦2年(1656年)に建立された入母屋造本瓦葺の大建築で、高さ13メートルの天井には狩野探幽の大傑作『雲龍図』があると紹介されていました。

    『臨済宗妙心寺派・龍光山東雲寺』の文字が刻まれた石標の光景です。本山は、日本最大の禅寺とされる京都花園の『大本山妙心寺』になるようです。『山号を『正法山』と言い、建武4年(1337年)に関山慧玄禅師(無相大師)を開山に迎え、花園法皇の離宮を改め禅寺としたのが始まりとされます。諸堂伽藍は典型的な禅宗様式で日本随一といわれ、その七堂伽藍を46もの塔頭が取り囲み、ひとつの町のような広さを誇り、重要文化財の法堂(はっとう)は、明暦2年(1656年)に建立された入母屋造本瓦葺の大建築で、高さ13メートルの天井には狩野探幽の大傑作『雲龍図』があると紹介されていました。

  • 山門脇にあった二つの地蔵堂の紹介です。半開きになった麹度の中に石の地蔵さんが見えていました。瞑想されるお顔が見えました。地蔵尊ではなく、観音菩薩像かも知れません。

    山門脇にあった二つの地蔵堂の紹介です。半開きになった麹度の中に石の地蔵さんが見えていました。瞑想されるお顔が見えました。地蔵尊ではなく、観音菩薩像かも知れません。

  • 山門脇にあった二つの地蔵堂の、もう片方の社の紹介です。お顔は格子戸で見えませんでしたが、こちらも地蔵尊ではなく、千手観音像のようでした。今は小さいながらも立派なお堂の中ですが、二体とも、かつては風雪に耐えられた像のように見えました。

    山門脇にあった二つの地蔵堂の、もう片方の社の紹介です。お顔は格子戸で見えませんでしたが、こちらも地蔵尊ではなく、千手観音像のようでした。今は小さいながらも立派なお堂の中ですが、二体とも、かつては風雪に耐えられた像のように見えました。

  • 『興宗宗松禅師道場』の文字が刻まれた石標の光景です。左後ろに鐘楼が見える場所からの撮影です。『興宗宗松(こうじゅう そうしょう:1445~1522年)禅師』は、室町から戦国時代の曹洞宗の僧です。『悟渓宗頓(ごけい-そうとん)』の法を継ぎ、京都妙心寺、大徳寺の住持となりました。明応3年、美濃(岐阜県)の守護代斎藤利国に招かれ、大宝寺を開きました。諡号(しごう)は、『大猷慈済禅師』です。

    『興宗宗松禅師道場』の文字が刻まれた石標の光景です。左後ろに鐘楼が見える場所からの撮影です。『興宗宗松(こうじゅう そうしょう:1445~1522年)禅師』は、室町から戦国時代の曹洞宗の僧です。『悟渓宗頓(ごけい-そうとん)』の法を継ぎ、京都妙心寺、大徳寺の住持となりました。明応3年、美濃(岐阜県)の守護代斎藤利国に招かれ、大宝寺を開きました。諡号(しごう)は、『大猷慈済禅師』です。

  • 同じく、角度を変えて眺めた『興宗宗松禅師道場』の文字が刻まれた石標の光景です。『悟渓宗頓(ごけいそうとん:1416年~1500年)』は、室町時代の臨済宗の僧で、大徳寺52世住持、妙心寺11世住持を務めました。妙心寺四派の一つである東海派の開祖となり、後に『仏徳広通国師』と諡されました。

    同じく、角度を変えて眺めた『興宗宗松禅師道場』の文字が刻まれた石標の光景です。『悟渓宗頓(ごけいそうとん:1416年~1500年)』は、室町時代の臨済宗の僧で、大徳寺52世住持、妙心寺11世住持を務めました。妙心寺四派の一つである東海派の開祖となり、後に『仏徳広通国師』と諡されました。

  • 御本尊は、釈迦牟尼如来とされます。寺伝によれば、1384年(至徳元年)に創建された『長興寺』が始まりです。写真中央奥は本堂です。先に、織田氏のルーツを紹介しましたが、次は、尾張に移ってからの一族の紹介です。織田氏が守護代・又守護代を継承する体制が戦国期まで続きました。守護代は、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職です。

    御本尊は、釈迦牟尼如来とされます。寺伝によれば、1384年(至徳元年)に創建された『長興寺』が始まりです。写真中央奥は本堂です。先に、織田氏のルーツを紹介しましたが、次は、尾張に移ってからの一族の紹介です。織田氏が守護代・又守護代を継承する体制が戦国期まで続きました。守護代は、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職です。

  • 龍光山東雲寺の本堂光景です。守護代(しゅごだい)』は、広義には代官の一種ですが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を『代官』といい、守護の代理人の守護代と、代官は区別されました。守護は、鎌倉や京都に詰めて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長いため、守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させました。これが守護代です。

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    龍光山東雲寺の本堂光景です。守護代(しゅごだい)』は、広義には代官の一種ですが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を『代官』といい、守護の代理人の守護代と、代官は区別されました。守護は、鎌倉や京都に詰めて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長いため、守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させました。これが守護代です。

  • 守護代も自らの代理人たる『小守護代』を置き、守護任国における土地支配構造は極めて重層的でした。また、一国に2人以上の守護代がいることもあり、このような場合は『分郡守護代』の体制を採りました。室町時代に入りますと、当初は守護の一門やその傍流、あるいは重臣、または守護国内の有力武士(国人)が任じられました。写真は、少しだけズームアップした本殿光景です。

    守護代も自らの代理人たる『小守護代』を置き、守護任国における土地支配構造は極めて重層的でした。また、一国に2人以上の守護代がいることもあり、このような場合は『分郡守護代』の体制を採りました。室町時代に入りますと、当初は守護の一門やその傍流、あるいは重臣、または守護国内の有力武士(国人)が任じられました。写真は、少しだけズームアップした本殿光景です。

  • 前置きが長くなりましたが、尾張に入った織田氏の説明です。 15世紀後半の織田氏で、活躍が特筆されるのが大和守家・織田敏定(1452~1495年)です。敏定は又守護代・大和守久長の子です。応仁・文明の乱では本家・敏広は西軍に、敏定は東軍につき、抗争を繰り広げました。いったん尾張を退いた敏定でしたが、足利義政の命により再び尾張に入り、斯波義廉・織田敏広と戦いました。<br />

    前置きが長くなりましたが、尾張に入った織田氏の説明です。 15世紀後半の織田氏で、活躍が特筆されるのが大和守家・織田敏定(1452~1495年)です。敏定は又守護代・大和守久長の子です。応仁・文明の乱では本家・敏広は西軍に、敏定は東軍につき、抗争を繰り広げました。いったん尾張を退いた敏定でしたが、足利義政の命により再び尾張に入り、斯波義廉・織田敏広と戦いました。

  • 中央の石碑には『織田常寛公碑』の小さな石碑が付属していました。その左右には、屋根を下ろされた用済みになったらしい鬼瓦が置かれていました。二つとも、中央に『丸に桔梗紋』がありました。『織田常寛(生年不詳~1506年)』は、『織田大和守家』の清洲城主・織田敏定の弟と言われます。

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    中央の石碑には『織田常寛公碑』の小さな石碑が付属していました。その左右には、屋根を下ろされた用済みになったらしい鬼瓦が置かれていました。二つとも、中央に『丸に桔梗紋』がありました。『織田常寛(生年不詳~1506年)』は、『織田大和守家』の清洲城主・織田敏定の弟と言われます。

  • 『丸に桔梗紋』の鬼瓦のズームアップ光景です。文明10年(1478年)の清須城防戦で、籠城側の敏定は、戦いのさなか矢を右目に受けますが、抜きもせず、そのまま戦い続けたと言います。現在、実成寺(愛知県甚目寺町)に伝わる敏定の肖像画は、目が潰れた後の風貌を描いています。現在は、その敏定隻眼の肖像画は、名古屋市博物館に所蔵されているようです。

    『丸に桔梗紋』の鬼瓦のズームアップ光景です。文明10年(1478年)の清須城防戦で、籠城側の敏定は、戦いのさなか矢を右目に受けますが、抜きもせず、そのまま戦い続けたと言います。現在、実成寺(愛知県甚目寺町)に伝わる敏定の肖像画は、目が潰れた後の風貌を描いています。現在は、その敏定隻眼の肖像画は、名古屋市博物館に所蔵されているようです。

  • 『織田常寛公碑』のズームアップ光景です。文字はほとんど読み取れませんでしたが、末尾近くに『政秀』の文字がありました。『触ると「おこり」があると言い伝えられている』石碑です。(ウィキペディア)『おこり』は、通常マラリアを指すようです。文明11年(1479年)に敏定と敏広は和睦し、敏定は尾張南部二郡守護代となりました。敏定の清須方守護代家と、敏広の岩倉方守護代家による尾張分割支配の成立です。その後、敏定と岩倉方守護代家との抗争が再燃しました。美濃船田の石丸氏とその主家・守護代斎藤氏との抗争、すなわち船田合戦です。敏定は石丸方に与し、織田寛広(敏広の子)は斎藤方に与しましたその最中、明応4年(1495年)、敏定は陣中で病没しました。翌5年(1496年)、石丸は自殺して斎藤方の勝利に終わりました。

    『織田常寛公碑』のズームアップ光景です。文字はほとんど読み取れませんでしたが、末尾近くに『政秀』の文字がありました。『触ると「おこり」があると言い伝えられている』石碑です。(ウィキペディア)『おこり』は、通常マラリアを指すようです。文明11年(1479年)に敏定と敏広は和睦し、敏定は尾張南部二郡守護代となりました。敏定の清須方守護代家と、敏広の岩倉方守護代家による尾張分割支配の成立です。その後、敏定と岩倉方守護代家との抗争が再燃しました。美濃船田の石丸氏とその主家・守護代斎藤氏との抗争、すなわち船田合戦です。敏定は石丸方に与し、織田寛広(敏広の子)は斎藤方に与しましたその最中、明応4年(1495年)、敏定は陣中で病没しました。翌5年(1496年)、石丸は自殺して斎藤方の勝利に終わりました。

  • 新旧の石材を組み合わせた、ユニークな石灯篭の光景です。この後も守護代は、寛広の系統と敏定の系統で継承されました。しかし、その具体的な系譜については、よく分かっていません。次は、信長の祖先の弾正忠家の台頭についての紹介です。ただし、確実な史料で辿れるのは曾祖父までです。織田良信は、織田敏定に仕えました。ただし『良』の名は、守護・斯波義良(のち義寛)から与えられたようです。その点、敏定の家人というより、守護被官としての性格が強いと考えられます。信長の祖父・信定(信貞)の活動は、永正年間(1504~1521年)に確認できます。

    新旧の石材を組み合わせた、ユニークな石灯篭の光景です。この後も守護代は、寛広の系統と敏定の系統で継承されました。しかし、その具体的な系譜については、よく分かっていません。次は、信長の祖先の弾正忠家の台頭についての紹介です。ただし、確実な史料で辿れるのは曾祖父までです。織田良信は、織田敏定に仕えました。ただし『良』の名は、守護・斯波義良(のち義寛)から与えられたようです。その点、敏定の家人というより、守護被官としての性格が強いと考えられます。信長の祖父・信定(信貞)の活動は、永正年間(1504~1521年)に確認できます。

  • 境内側から眺めた、『龍光山東雲寺』の通用門方面の光景です。清須方守護代家に清須三奉行と呼ばれる有力家臣がいました。その一人が織田信定でした。信定は勝幡を本拠としました。港町・門前町の津島を領有したことが、弾正忠家の重要な経済基盤となりました。信長の父信秀の活動は、天文年間(1532~1555年)に顕著となりました。最近では、信長が生まれたのは勝幡(しょばた)城説が有力です。

    境内側から眺めた、『龍光山東雲寺』の通用門方面の光景です。清須方守護代家に清須三奉行と呼ばれる有力家臣がいました。その一人が織田信定でした。信定は勝幡を本拠としました。港町・門前町の津島を領有したことが、弾正忠家の重要な経済基盤となりました。信長の父信秀の活動は、天文年間(1532~1555年)に顕著となりました。最近では、信長が生まれたのは勝幡(しょばた)城説が有力です。

  • 『龍光山東雲寺』の庭園光景です。父の信秀の死により、信長が家督を継承しました。信長は尾張一国を統一のため、国内の反信長勢力を各個撃破していきました。信秀の重臣で、生まれたばかりの信長の守役が平手政秀でした。永禄2年(1559年)、織田家主家・清須方守護代織田信友を滅ぼし、更に本家・岩倉方守護代織田信賢を滅ぼし、尾張一国をほぼ制圧しました。

    『龍光山東雲寺』の庭園光景です。父の信秀の死により、信長が家督を継承しました。信長は尾張一国を統一のため、国内の反信長勢力を各個撃破していきました。信秀の重臣で、生まれたばかりの信長の守役が平手政秀でした。永禄2年(1559年)、織田家主家・清須方守護代織田信友を滅ぼし、更に本家・岩倉方守護代織田信賢を滅ぼし、尾張一国をほぼ制圧しました。

  • 石碑の文字が少し隠れましたが、『望鯱亭』の文字が読み取れました、茶亭のようですが、戸は閉められていました。『鯱』は、名護屋城か、あるいは清州城を指しているのかも知れません。

    石碑の文字が少し隠れましたが、『望鯱亭』の文字が読み取れました、茶亭のようですが、戸は閉められていました。『鯱』は、名護屋城か、あるいは清州城を指しているのかも知れません。

  • 『来し人に極楽風や盆の寺・良彦』の文字が刻まれた、まだ新しい句碑の光景です。『風の盆』を詠んだ1句のようです。『風の盆』の美しい言葉は、奥飛騨地方、現在の高山市以北辺りが起源のようです。養蚕が盛んであった時代、8月15日の盂蘭盆会は、蚕が繭になりはじめる時期と重なるため、人々はその世話に忙殺され、お墓参りどころではなかったようです。蚕が一段落して、村中がほっと一息つくことが出来た時、吹き始めた秋風の中を、遅れた墓参りに向かいました。全国的に養蚕の盛んだった山間部では、『九月盆』や『秋盆』という言葉が残っていますが、飛騨地方では『風の盆』と呼びました。

    『来し人に極楽風や盆の寺・良彦』の文字が刻まれた、まだ新しい句碑の光景です。『風の盆』を詠んだ1句のようです。『風の盆』の美しい言葉は、奥飛騨地方、現在の高山市以北辺りが起源のようです。養蚕が盛んであった時代、8月15日の盂蘭盆会は、蚕が繭になりはじめる時期と重なるため、人々はその世話に忙殺され、お墓参りどころではなかったようです。蚕が一段落して、村中がほっと一息つくことが出来た時、吹き始めた秋風の中を、遅れた墓参りに向かいました。全国的に養蚕の盛んだった山間部では、『九月盆』や『秋盆』という言葉が残っていますが、飛騨地方では『風の盆』と呼びました。

  • 『コウバイ(紅梅)』<br />分類:バラ科サクラ属の落葉高木<br />分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。<br />特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。<br />その他:食用の栽培のほか、庭木や盆栽などにも用いられています。

    『コウバイ(紅梅)』
    分類:バラ科サクラ属の落葉高木
    分布:原産地は中国で、遣唐使が日本に持ち込んだとされます。
    特徴:青梅には青酸が含まれ有毒ですが、食用となります。
    その他:食用の栽培のほか、庭木や盆栽などにも用いられています。

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