2018/04/07 - 2018/04/07
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岡山県の日本百名城巡り、鬼ノ城の紹介です。鬼ノ城は、663年の白村江の戦いで敗戦した倭国・百済連合軍の倭国が、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて構築した防衛施設の一つです。大宰府防衛の大野城と水城、対馬の金田城、熊本の鞠智城などの築城と同じ目的でした。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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吉備平野に向かって開かれた、『南門跡』の光景です。先に紹介した、『西門跡』と同構造・同規模の12本柱からなる堀立柱城門です。開口部の大きさも西門跡とほぼ同じですが、門扉の柱は一辺最大58センチで、僅かに小さい造りです。城門は4箇所に構築され、大きく堅固な西・南門とやや小さい東・北門です。(同上)
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斜め後ろから見下ろした、『南門跡』の光景です。下方に向かって、左側の光景です。『西門跡』と同様、廃城後に木造部分は焼失したようです。『西門』とほぼ大きさが同じのため、『正門』の候補の一つです。(同上)
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同じく、左斜め後ろから見下ろした、『南門跡』の光景です。下方に向かって、右側の光景です。この南門の正面は、急斜面となっていますので、どの位置から出入したのか特定されていないようです。(同上)
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場所を移動して眺めた、『南門跡』の光景です。下方に向かって、更に右側方面の光景です。出入口の回りに、整然と敷石が並んでいました。感心させられた版築工法の土壁でしたが、石材の加工にも、並々ならない技量が感じられました。(同上)
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大きな基礎石と、その周りの土嚢の光景です。土嚢は一時的な措置ではなく、全体の補修・再建工事が完了するまでは、半ば恒久的な施設の様に見えました。見学者に踏まれたためでしょうか、破れた土嚢も散見されました。(同上)
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『鬼ノ城』は、吉備高原南縁の標高397メートルの鬼城山に築城され、周囲は土塁と一部石垣による全長2.8キロの城壁で囲まれています。1300年ほど前に築かれたとは思えないような規模と構造です。日本にやってきて築城に携わったのは、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が知られています。(同上)
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崖の端にずらりと並んだ青い土嚢列の光景です。柵代わりの危険表示にも役立っているようでした。この写真には写っていませんが、大宰府を守る『水城(みずき)』と同じような土塁跡を眺めることができます。『水城(みずき)』の読み方は、『鬼ノ城(きのじょう)』と同じ『キ』です。古代韓国語の『城』を意味する言葉です。(同上)
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『敷石」のタイトルがあった説明パネルの光景です。敷石が綺麗に並んだ右側と、不揃いの左側の光景です。推測ですが、発掘調査で確認された状態が、そのまま維持されているようでした。表面が平らなのは、表面加工されたものではなく、石の持つ層状に割れる性質を利用したもののようです。(同上)
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同じく、上部が平らになった『敷石」の光景です。大きさや形は不揃いでしたが、綺麗に揃った平らな表面の敷石の光景です。雨水のコントロールとともに、敷石も雨水からの土砂流出の防止に役立っていたようです。敷石の総重量は、数千トンに及ぶようです。(同上)
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『西門』から始まり、『南門』~『東門』へと向かう、版時計周りの城内散策です。城壁が谷を渡る6箇所には、排水のための水門が築かれ、下部は石積み、上部は土塁となっています。(同上)
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城内から排出した雨水を集めて、流下させる小川の光景だったようです。この辺りでは、元々あった小川を利用しているように見えました。手元の資料、例えば『日本百名城に行こう』のスタンプ帳の解説では、築城年は7世紀末が有力、築城者は、大和朝廷が有力と記載されています。城跡の遺物の年代から判断しても納得できます。(同上)
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小川に架かる木橋の光景です。推測になりますが、この辺りは城内ではなく、城壁外になるかも知れません。周りを見回しても、判断がつかない場所でした。西門から城壁の外を歩いているようですが、南門跡では城門内での見学でした。(同上)
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話は少し変わって、日本に来た百済人の話題です。その中には、百済王善光(くだらのこにきし・ぜんこう)』がいますが、彼は日本で693年に死去しました。また、その子の『百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)』は、日本で初めてとなる黄金の産出に尽力しました。(同上)
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名称:『アシビ(馬酔木)』
分類:ツツジ科アセビ属の常緑低木
原産地:日本の本州、四国、九州の山地に自生
花期:2月~4月
その他:有毒植物です。(同上) -
名称:『アシビ(馬酔木)』
分類:ツツジ科アセビ属の常緑低木
原産地:日本の本州、四国、九州の山地に自生
花期:2月~4月
その他:万葉集の中にも登場します。昔から大好きな植物です。(同上) -
名称:『アシビ(馬酔木)』
分類:ツツジ科アセビ属の常緑低木
原産地:日本の本州、四国、九州の山地に自生
花期:2月~4月
その他:満開の花のズームアップ光景です。(同上) -
『白村江の戦い』の前後のおさらいです。中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済再興を支援して661年から3年続けて百済援軍を日本から送りました。その数は、第1派(661年5月):1万余人、船舶170余隻(これに皇子(豊璋)も乗っていた)、第2派(662年3月):2万7千人。派遣の主力軍、第3派(663年10月:1万余人です。(同上)
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『白村江の戦い』の後始末です。684年(天武13年)、『猪使連子首(いつかいのむらじこびと)』『筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)』が、遣唐留学生だった『土師宿禰甥(はじのすくねおい)』『白猪史宝然(しらいのふびとほね)』らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の『白村江の戦い』における捕虜帰還です。(同上)
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707年、讃岐国の『錦部刀良(にしこりのとら)』、陸奥国の『生王五百足(みぶのいおたり)』、筑後国の『許勢部形見(こせべのかたみ)』らも帰還しました。このほかにも、696年に報賞を受けた『物部薬(もののべのくすり)』『壬生諸石(みぶのもろし)』の例が知られています。(同上)
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天智天皇は、671年に急死しました。扶桑略記では『狩りの最中で行方不明になると記した』不審死でした。その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦の『壬申の乱』が起きました。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳~686年)として即位しました。(同上)
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皇位に就いた天武天皇は、専制的な統治体制の国家の建設を目指しました。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝しました。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣され、その数は天武治世だけで14回に上ります。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環と解されています。しかし、天武天皇没(686年)後は、唐との関係が次第に悪化しました。(同上)
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天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承されました。701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了しました。『日本』の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、『粟田真人(生年不詳~719年)』を派遣して唐との国交を回復しました。(同上)
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『内側列石』の表示があった遺物の光景です。随分と大きな石が並んでいましたが、重機がない古代では、移動させるのにも相当な苦労が必要だったように思われました。当時の和人だけでなく、百済からの亡命が技術集団として鬼ノ城建設にも加わったようです。(同上)
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大石が並んだ、『内側列石』の光景です。先ほどは大きさ見本がありませんでしたが、今度は人と比べて、その大きさが実感できます。百済からの亡命が技術集団として鬼ノ城建設に加わっただけではなく、主導的な役割も果たしたのかも知れません。(同上)
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写真は、鬼ノ城からの麓の眺めです。百済王の一族、豊璋王の弟の善光(または禅広)は、朝廷から『百済王(くだらのこにきし)』という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなりました。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられています。(同上)
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終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に当時の昭和天皇は、『朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし』と語り、再び敗戦国の国民となってしまった日本人を励ましています。平成天皇にも、百済を意識した発言がありました。(同上)
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吉備平野方面の光景になるようです。古代には、瀬戸内海が内陸部まで入り込んでいたようです。このため、『鬼ノ城』は機内に至る街道の要所を抑える場所に位置していたようです。(同上)
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名称:『コバノミツバツツジ(小葉の三葉躑躅)』
分類:ツツジ科ツツジ属の落葉低木
分布:本州中部以西から九州まで分布
花期:3月~4月
その他:山城の各所で咲いていました。(同上) -
次に見学する予定の『東門』付近の光景です。再検査tれたらしい真新しい石垣に見えましたが、門の部分では、大きく外に張り出して威容を見せつけるような姿でした。出発した『西門』から数えて二つ目の城門です。(同上)
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次に見学する予定の『東門』付近のズームアップ光景です。復元された建物の姿はありませんでしたが、大きな柱が林立していました。城門の周りに、城壁らしいものの姿も見えませんでした。基礎部分だけかも知れません。(同上)
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