総社・吉備路旅行記(ブログ) 一覧に戻る
岡山県の日本百名城巡り、鬼ノ城紹介です。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールです。城壁は土塁が主体で、城門4箇所・角楼・水門6箇所などで構成されます。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことでした。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山の日本百名城(5/13):鬼ノ城(5):古代山城、石垣、排水施設、水門、土塁

23いいね!

2018/04/07 - 2018/04/07

88位(同エリア250件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

岡山県の日本百名城巡り、鬼ノ城紹介です。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールです。城壁は土塁が主体で、城門4箇所・角楼・水門6箇所などで構成されます。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことでした。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
観光バス 新幹線

PR

  • 写真は、おそらく1300年以上は経過した、鬼ノ城の積み石です。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されています。鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わり、未完成の山城が多い中で、稀な完成した古代山城とされます。当時の国を挙げての大事業だったようです。(同上)

    写真は、おそらく1300年以上は経過した、鬼ノ城の積み石です。城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されています。鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わり、未完成の山城が多い中で、稀な完成した古代山城とされます。当時の国を挙げての大事業だったようです。(同上)

  • 中国大陸では南北朝時代が終わり、581年に隋が陳を滅ぼして全国統一を行いました。日本は600年に遣隋使の小野妹子を送った時代です。南北朝時代の終わりは、朝鮮半島情勢にも大きな影響を与えました。百済は、589年にいち早く使者を送り、隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努めました。また、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに従いました。写真は、土嚢を積んだ仮工事の部分です。(同上)

    中国大陸では南北朝時代が終わり、581年に隋が陳を滅ぼして全国統一を行いました。日本は600年に遣隋使の小野妹子を送った時代です。南北朝時代の終わりは、朝鮮半島情勢にも大きな影響を与えました。百済は、589年にいち早く使者を送り、隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努めました。また、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに従いました。写真は、土嚢を積んだ仮工事の部分です。(同上)

  • 写真は、城内から眺めた麓方面の光景です。ところが、隋軍を撃退した高句麗は、百済領への侵攻を行うようになりました。百済は、隋に対して更なる高句麗征討を要請しました。その一方で、新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、倭国とも協力しました。三国時代の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満州地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国が存在していました。(同上)

    写真は、城内から眺めた麓方面の光景です。ところが、隋軍を撃退した高句麗は、百済領への侵攻を行うようになりました。百済は、隋に対して更なる高句麗征討を要請しました。その一方で、新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、倭国とも協力しました。三国時代の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満州地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国が存在していました。(同上)

  • 写真は、『神籠石(こうごいし)』とも呼ばれる切石積みになるようです。広い範囲を、切り石を築いた石垣で区画した山城の古代遺跡の『神籠石』は、現在までに福岡・佐賀・山口・岡山・香川に合計13箇所が確認されています。岡山が、『鬼ノ城』になります。朝鮮式山城の系統を引き、城壁に排水溝を設けるのも特徴の一つになるようです。その排水溝がありました。(同上)

    イチオシ

    写真は、『神籠石(こうごいし)』とも呼ばれる切石積みになるようです。広い範囲を、切り石を築いた石垣で区画した山城の古代遺跡の『神籠石』は、現在までに福岡・佐賀・山口・岡山・香川に合計13箇所が確認されています。岡山が、『鬼ノ城』になります。朝鮮式山城の系統を引き、城壁に排水溝を設けるのも特徴の一つになるようです。その排水溝がありました。(同上)

  • 見事な切り石の石垣光景です。従来は『朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)』と、『神籠石(こうごいし)』と呼び分けられてきましたが、近年は『古代山城』と呼ばれることが多くなったようです。『古代山城』は、飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて、西日本各地の山に築造された防衛施設です。(同上)

    見事な切り石の石垣光景です。従来は『朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)』と、『神籠石(こうごいし)』と呼び分けられてきましたが、近年は『古代山城』と呼ばれることが多くなったようです。『古代山城』は、飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて、西日本各地の山に築造された防衛施設です。(同上)

  • 石垣の間からかを覗かせて咲いていた菫の光景です。『シハイスミレ(紫背菫)』かも知れません。本州、四国、九州および朝鮮の山地や山麓の日当たりのよいところに生える、 高さ約8センチほどのスミレです。観葉植物や山野草としても育てられているようです。(同上)

    石垣の間からかを覗かせて咲いていた菫の光景です。『シハイスミレ(紫背菫)』かも知れません。本州、四国、九州および朝鮮の山地や山麓の日当たりのよいところに生える、 高さ約8センチほどのスミレです。観葉植物や山野草としても育てられているようです。(同上)

  • 写真は、石垣下部の排水溝のズームアップ光景です。百済の話に戻ります。百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られます。日本の学界では、この4世紀前半頃の成立とするのが定説です。(同上)

    写真は、石垣下部の排水溝のズームアップ光景です。百済の話に戻ります。百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られます。日本の学界では、この4世紀前半頃の成立とするのが定説です。(同上)

  • 602年、百済は新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)を攻撃しています。倭国は、『任那の調』の実施を求めて591年と602年に筑紫への駐兵を行い、新羅への軍事的圧力をかけました。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見えます。(同上)

    602年、百済は新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)を攻撃しています。倭国は、『任那の調』の実施を求めて591年と602年に筑紫への駐兵を行い、新羅への軍事的圧力をかけました。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見えます。(同上)

  • 『水門と土塁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。規模は、第1水門が長さ14.6メートル、第二水門が16.4メートルと紹介されていました。石積と、版築を用いた造りとなっているようです。この場所は、二つの水門の中間にある土塁です。現状をよく留めていることが紹介されていました。よく言われるように、水は、山城の生命線です。(同上)

    『水門と土塁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。規模は、第1水門が長さ14.6メートル、第二水門が16.4メートルと紹介されていました。石積と、版築を用いた造りとなっているようです。この場所は、二つの水門の中間にある土塁です。現状をよく留めていることが紹介されていました。よく言われるように、水は、山城の生命線です。(同上)

  • 写真は、土塁の要所に施設された、石垣の光景です。高句麗が突厥との同盟を意図したことから、隋との関係が悪化していいました。隋が、611年、613年、614年の3回に亘り高句麗への遠征を行いましたが、これを制圧することはできませんでした。度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から、618年には隋朝が倒れ、唐にとって代わられました。(同上)

    写真は、土塁の要所に施設された、石垣の光景です。高句麗が突厥との同盟を意図したことから、隋との関係が悪化していいました。隋が、611年、613年、614年の3回に亘り高句麗への遠征を行いましたが、これを制圧することはできませんでした。度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から、618年には隋朝が倒れ、唐にとって代わられました。(同上)

  • 写真は、石垣の上に施設された『第二水門』の光景です。百済は611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領しました。624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けています。ところで、642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる変節点となりました。(同上)

    イチオシ

    写真は、石垣の上に施設された『第二水門』の光景です。百済は611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領しました。624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けています。ところで、642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる変節点となりました。(同上)

  • 646年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与えました。この時落城したのは、主に伽耶地方の城だったことが『三国史記』などにあるようです。百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成しました。この時百済は後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えました。(同上)

    646年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与えました。この時落城したのは、主に伽耶地方の城だったことが『三国史記』などにあるようです。百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成しました。この時百済は後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えました。(同上)

  • 翌643年、百済は、高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指しました。義慈王は、国内でも専制的な体制の構築を目指しました。倭国では、舒明天皇(593?~641年)が亡くなり、皇極天皇(594~661年)が即位し、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が実権を握りました。皇極天皇は齊明天皇を重祚しました。642年頃を境に、東アジア各国で権力の集中が進みました。(同上)

    翌643年、百済は、高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指しました。義慈王は、国内でも専制的な体制の構築を目指しました。倭国では、舒明天皇(593?~641年)が亡くなり、皇極天皇(594~661年)が即位し、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が実権を握りました。皇極天皇は齊明天皇を重祚しました。642年頃を境に、東アジア各国で権力の集中が進みました。(同上)

  • 写真は、『第1・第2水門』の表示があった道案内立札の光景です。百済は、高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返しました。これを受けた唐は、高句麗征討で同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ差し向けました。(同上)

    写真は、『第1・第2水門』の表示があった道案内立札の光景です。百済は、高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返しました。これを受けた唐は、高句麗征討で同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ差し向けました。(同上)

  • 660年、呼応した新羅も金庾信の指揮の下出兵しました。同年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始しました。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、遅れを取りました。7月には王都・泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れましたが間もなく降伏し、ここに百済は滅亡しました。写真は、鬼ノ城から眺めた周囲の光景です。(同上)

    660年、呼応した新羅も金庾信の指揮の下出兵しました。同年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始しました。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、遅れを取りました。7月には王都・泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れましたが間もなく降伏し、ここに百済は滅亡しました。写真は、鬼ノ城から眺めた周囲の光景です。(同上)

  • 写真は、各所に残る加工されたらしい巨石です。征服を終えた唐軍の主力が、旧百済領を離れると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛などの百済遺臣が反乱をおこしました。また、百済滅亡を知った倭国でも、朝鮮半島からの文物の導入ルートの途絶の懸念などから、斉明天皇、中大兄皇子、中臣鎌足らは救援の要請を受入れ、救済軍の派遣を決定しました。(同上)

    写真は、各所に残る加工されたらしい巨石です。征服を終えた唐軍の主力が、旧百済領を離れると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛などの百済遺臣が反乱をおこしました。また、百済滅亡を知った倭国でも、朝鮮半島からの文物の導入ルートの途絶の懸念などから、斉明天皇、中大兄皇子、中臣鎌足らは救援の要請を受入れ、救済軍の派遣を決定しました。(同上)

  • 写真は、石垣遺構らしい石材が並ぶ光景です。倭国に人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋を急遽帰国させるとともに、阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣しました。また、斉明天皇は斉明天皇は百済救援のために、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)ら文武百官を従えて、難波の港から海路筑紫の朝倉に向かいました。(同上)

    写真は、石垣遺構らしい石材が並ぶ光景です。倭国に人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋を急遽帰国させるとともに、阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣しました。また、斉明天皇は斉明天皇は百済救援のために、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)ら文武百官を従えて、難波の港から海路筑紫の朝倉に向かいました。(同上)

  • 斉明天皇らは、661年1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日に博多、博多から30キロほどの朝倉橘広庭宮に至ったのは5月9日のこととされます。しかし斉明天皇は滞在75日、7月24日に病のために崩御されました。御年68歳でした。中大兄皇子は母の遺骸を7日後の8月1日、朝倉に埋葬し、喪に服した後に奈良へ移しました。同時に兵を整え、唐・新羅連合軍と戦いに備えました。(同上)

    斉明天皇らは、661年1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日に博多、博多から30キロほどの朝倉橘広庭宮に至ったのは5月9日のこととされます。しかし斉明天皇は滞在75日、7月24日に病のために崩御されました。御年68歳でした。中大兄皇子は母の遺骸を7日後の8月1日、朝倉に埋葬し、喪に服した後に奈良へ移しました。同時に兵を整え、唐・新羅連合軍と戦いに備えました。(同上)

  • 写真は、数多くの古代山城の遺構が残る鬼ノ城跡の光景です。『鬼ノ城』は、古代の正規の歴史書には登場しませんが、後世の文献である『鬼ノ城縁起』などにでてきます。『異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼は備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪し、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼んだ』とされます。(同上)

    写真は、数多くの古代山城の遺構が残る鬼ノ城跡の光景です。『鬼ノ城』は、古代の正規の歴史書には登場しませんが、後世の文献である『鬼ノ城縁起』などにでてきます。『異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼は備中国の新山に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪し、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼んだ』とされます。(同上)

  • 先ほど紹介したのは、総社市の公式HPを引用した『温羅(うら)伝説』です。また、『鬼ノ城』の名前の世来ですが、古代韓国語では『城』のことを『キ』と呼んだようです。現代韓国語では、『ナマンサンソン(南韓山城)』などの様に『ソン』と呼んでいるようです。『ナマン(南韓)』は、『ナムハン』が転訛したものです。『北漢山城 (プッカンサンソン)』とともに首都のソウルを守る要塞です。(同上)

    先ほど紹介したのは、総社市の公式HPを引用した『温羅(うら)伝説』です。また、『鬼ノ城』の名前の世来ですが、古代韓国語では『城』のことを『キ』と呼んだようです。現代韓国語では、『ナマンサンソン(南韓山城)』などの様に『ソン』と呼んでいるようです。『ナマン(南韓)』は、『ナムハン』が転訛したものです。『北漢山城 (プッカンサンソン)』とともに首都のソウルを守る要塞です。(同上)

  • 故国に帰国した豊璋は、百済王に推戴されましたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きました。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵しました。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)での決戦に及びました。歴史に残る『白村江の戦い』です。韓国で、何度も現地見学をした場所の一つです。(同上)

    故国に帰国した豊璋は、百済王に推戴されましたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きました。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵しました。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)での決戦に及びました。歴史に残る『白村江の戦い』です。韓国で、何度も現地見学をした場所の一つです。(同上)

  • 写真は、各所に残る石造遺跡の光景です。『白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)』は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争です。結論から先に言えば、倭国・百済遺民の連合軍の大敗に終わり、これが倭国防衛のための各地の古代山城や大宰府防衛の水城(みずき)などの建設を急がせました。(同上)

    写真は、各所に残る石造遺跡の光景です。『白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)』は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争です。結論から先に言えば、倭国・百済遺民の連合軍の大敗に終わり、これが倭国防衛のための各地の古代山城や大宰府防衛の水城(みずき)などの建設を急がせました。(同上)

  • 写真は、基礎石か敷石のような平らな石が並んだ光景です。660年の百済攻撃では、水陸合わせて13万人の唐軍が派遣されました。663年の唐連合軍の正確な戦力は分からないようですが、同等規模と推測されています。軍の質の面では、四方の敵と戦ってきた唐軍には経験の差があったようです。倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れました。これも影響したようです。(同上)

    写真は、基礎石か敷石のような平らな石が並んだ光景です。660年の百済攻撃では、水陸合わせて13万人の唐軍が派遣されました。663年の唐連合軍の正確な戦力は分からないようですが、同等規模と推測されています。軍の質の面では、四方の敵と戦ってきた唐軍には経験の差があったようです。倭国・百済連合軍は、福信殺害事件の影響により白村江への到着が10日遅れました。これも影響したようです。(同上)

  • 写真は、大規模な石垣遺跡の光景です。版築工法と石垣を織り交ぜた古代山城です。遅れて到着した倭国・百済水軍は、唐・新羅水軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行いました。倭国軍は、三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられますが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年8月28日、唐・新羅水軍に大敗しました。(同上)

    写真は、大規模な石垣遺跡の光景です。版築工法と石垣を織り交ぜた古代山城です。遅れて到着した倭国・百済水軍は、唐・新羅水軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行いました。倭国軍は、三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられますが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年8月28日、唐・新羅水軍に大敗しました。(同上)

  • 『柵列』のタイトルがあった説明パネルの光景です。先ほどから紹介している遺跡が、それに該当するかもしれません。倭国・百済連合軍がとった作戦は『我等先を争はば、敵自づから退くべし』という極めてずさんなものだったと記されています。(日本書紀)白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち、400隻余りが炎上したとされます。(同上)

    『柵列』のタイトルがあった説明パネルの光景です。先ほどから紹介している遺跡が、それに該当するかもしれません。倭国・百済連合軍がとった作戦は『我等先を争はば、敵自づから退くべし』という極めてずさんなものだったと記されています。(日本書紀)白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち、400隻余りが炎上したとされます。(同上)

  • ところで、この敗戦は、倭国に並々ならない緊張感を与え、政治面・軍事面での改革が迫られました。倭国から『日本』という国家への衣替えです。百済が亡びたことにより、倭国の政治にも大きな変化が起きましました。倭国にも多くの亡命者が来るとともに、新羅の侵攻に備えて多くの朝鮮式山城が作られたり、防御態勢が整えられました。この後の時代は『倭国』ではなく、『日本』として国家を表現します。(同上)

    ところで、この敗戦は、倭国に並々ならない緊張感を与え、政治面・軍事面での改革が迫られました。倭国から『日本』という国家への衣替えです。百済が亡びたことにより、倭国の政治にも大きな変化が起きましました。倭国にも多くの亡命者が来るとともに、新羅の侵攻に備えて多くの朝鮮式山城が作られたり、防御態勢が整えられました。この後の時代は『倭国』ではなく、『日本』として国家を表現します。(同上)

  • 白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国しました。白村江の戦いに関連して、唐は668年高句麗を滅ぼして、安東都護府を置き、698年、高句麗遺民などは満州南部に渤海国を建国しました。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一がなされました。(同上)

    白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国しました。白村江の戦いに関連して、唐は668年高句麗を滅ぼして、安東都護府を置き、698年、高句麗遺民などは満州南部に渤海国を建国しました。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一がなされました。(同上)

  • 白村江の戦いの締め括りは、『倭国』から『日本』に衣替えした日本です。天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急速に進み、『倭国』は『日本』へと国号を変えました。白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考える説も有力です。(同上)

    白村江の戦いの締め括りは、『倭国』から『日本』に衣替えした日本です。天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急速に進み、『倭国』は『日本』へと国号を変えました。白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考える説も有力です。(同上)

  • 『南門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。間口3間(12.3メートル)、奥行き2間(8.2メートル)の規模と解説してありました。発掘調査時の写真と平面図が添えてありました。朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には『防人(さきもり)を配備したのも、一連の危機管理です。(同上)

    『南門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。間口3間(12.3メートル)、奥行き2間(8.2メートル)の規模と解説してありました。発掘調査時の写真と平面図が添えてありました。朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には『防人(さきもり)を配備したのも、一連の危機管理です。(同上)

  • 写真は、『南門跡』の光景です。場所としての重要性と、その造りの立派さから、『表門』とする説もあるようです。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見ました。ところで、万葉集巻二の148倭大后の歌は、天智天皇暗殺の裏の意味が込めれているとの李寧熙さんの解読があります。(蘇える万葉集:1993年3月刊) (同上)

    イチオシ

    写真は、『南門跡』の光景です。場所としての重要性と、その造りの立派さから、『表門』とする説もあるようです。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見ました。ところで、万葉集巻二の148倭大后の歌は、天智天皇暗殺の裏の意味が込めれているとの李寧熙さんの解読があります。(蘇える万葉集:1993年3月刊) (同上)

23いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP