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岡山県の名城巡り、日本百名城の鬼ノ城の紹介です。再建された『西門』の木造部分は、推定再建されたものですが、千年以上を経過した版築の土壁や石垣は、修復はされているようですが、オリジナルです。その保存状態のよさには驚かされます。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山の日本百名城(4/13):鬼ノ城(4):西門(再建)、城壁、版築と石垣、神籠石

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2018/04/07 - 2018/04/07

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

岡山県の名城巡り、日本百名城の鬼ノ城の紹介です。再建された『西門』の木造部分は、推定再建されたものですが、千年以上を経過した版築の土壁や石垣は、修復はされているようですが、オリジナルです。その保存状態のよさには驚かされます。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
観光バス 新幹線
  • 城内側から眺めた、想像再建された『西門』のズームアップ光景です。12本柱で構成される堀立柱城門で、開口部の床面は大きな石を敷いています。その両側に6本の角柱が立ちます。門扉が付く柱は、一辺最大60センチもあり、これに精巧な加工をした門礎を添わせています。(同上)

    城内側から眺めた、想像再建された『西門』のズームアップ光景です。12本柱で構成される堀立柱城門で、開口部の床面は大きな石を敷いています。その両側に6本の角柱が立ちます。門扉が付く柱は、一辺最大60センチもあり、これに精巧な加工をした門礎を添わせています。(同上)

  • 同じく、想像再建された『西門』の内部光景です。門礎には方立、軸摺穴、蹴放しが刻まれています。両側の門礎とも原位置を保っていることから、開口部は間口約4メートルで、その内の3メートルが出入口になります。(同上)

    同じく、想像再建された『西門』の内部光景です。門礎には方立、軸摺穴、蹴放しが刻まれています。両側の門礎とも原位置を保っていることから、開口部は間口約4メートルで、その内の3メートルが出入口になります。(同上)

  • 平らに加工された敷石が敷き詰められた西門内の光景です。扉は内開きです。扉を開け、4段の石段を上がると城内となりますが、ほぼ3メートルの間隔で4本の柱が立っています。この柱は、城内の目隠しと敵兵を分散させる板塀の柱と思われ、大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかってい増す。以上、総社観光ナビからの紹介です。(同上)

    平らに加工された敷石が敷き詰められた西門内の光景です。扉は内開きです。扉を開け、4段の石段を上がると城内となりますが、ほぼ3メートルの間隔で4本の柱が立っています。この柱は、城内の目隠しと敵兵を分散させる板塀の柱と思われ、大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかってい増す。以上、総社観光ナビからの紹介です。(同上)

  • 『西門』の床下、出入口の脇に積まれた石垣の光景です。野面積というより、打込み接ぎの石積です。敷石が平らに加工されていることからも、石材の加工技術は、相当に高かったようです。(同上)

    『西門』の床下、出入口の脇に積まれた石垣の光景です。野面積というより、打込み接ぎの石積です。敷石が平らに加工されていることからも、石材の加工技術は、相当に高かったようです。(同上)

  • 同じく、『西門』の床下、出入口の脇に積まれた石垣の光景です。傾斜に沿って、最上部が水平になるように積まれていました。積み直されたのかも知れませんが、石材はオリジナルの可能性が高いようです。(同上)

    同じく、『西門』の床下、出入口の脇に積まれた石垣の光景です。傾斜に沿って、最上部が水平になるように積まれていました。積み直されたのかも知れませんが、石材はオリジナルの可能性が高いようです。(同上)

  • 城内側から眺めた『西門』の全景です。先に紹介した、斉明天皇(594~661年)のことが少し半端になりましたので、その紹介の続きです。個人的に斉明天皇に関心を持ったのは、松本清張さんの小説、『火の路(1975年初版)』を読んだ時です。同じく上下巻の文庫本(1979年)にもなりました。清張さんは、推理小説ブームをはじめ、古代史ブーム、邪馬台国ブーム等も起こしました。(同上)

    城内側から眺めた『西門』の全景です。先に紹介した、斉明天皇(594~661年)のことが少し半端になりましたので、その紹介の続きです。個人的に斉明天皇に関心を持ったのは、松本清張さんの小説、『火の路(1975年初版)』を読んだ時です。同じく上下巻の文庫本(1979年)にもなりました。清張さんは、推理小説ブームをはじめ、古代史ブーム、邪馬台国ブーム等も起こしました。(同上)

  • 城内側から眺めた『西門』のズームアップ光景です。小説の中で、イランのゾロアスター教が中国で祆教となり、斉明天皇は仏教以前のゾロアスター教に惹かれていたのではないかとする仮説です。その傍証として、飛鳥の謎の石、酒船石、猿石、亀石などの謎の解明に取り組む若い女性考古学者を主人公にしています。当時の朝日新聞に連載された後、出版されました。(同上)

    城内側から眺めた『西門』のズームアップ光景です。小説の中で、イランのゾロアスター教が中国で祆教となり、斉明天皇は仏教以前のゾロアスター教に惹かれていたのではないかとする仮説です。その傍証として、飛鳥の謎の石、酒船石、猿石、亀石などの謎の解明に取り組む若い女性考古学者を主人公にしています。当時の朝日新聞に連載された後、出版されました。(同上)

  • 版築工法の土塁と再建された『西門』の光景です。平成22年(2010年)、奈良県明日香村の『牽牛子塚(けんごしづか)古墳』の発掘調査で、その被葬者と判明したのが女帝の斉明天皇です。奈良県高市郡明日香村大字越にある八角墳です。『牽牛子』は、アサガオの別称とされます。『御前塚』の別称を持ちます。以前から、巨石をくりぬいて二つの墓室を設けた特異な内部構造で知られていました。(同上)

    イチオシ

    版築工法の土塁と再建された『西門』の光景です。平成22年(2010年)、奈良県明日香村の『牽牛子塚(けんごしづか)古墳』の発掘調査で、その被葬者と判明したのが女帝の斉明天皇です。奈良県高市郡明日香村大字越にある八角墳です。『牽牛子』は、アサガオの別称とされます。『御前塚』の別称を持ちます。以前から、巨石をくりぬいて二つの墓室を設けた特異な内部構造で知られていました。(同上)

  • 版築工法の土塁の光景です。先端部分には、石垣が張り付ていました。『牽牛子塚』の墳丘は、地震により崩落していましたが、高さ約4.5メートルと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明しました。墳丘の裾は、平面八角形状に削られていて、対辺の長さは約22メートルに及びます。墳丘周囲では外側を八角形に囲む石敷遺構が確認されました。(同上)

    版築工法の土塁の光景です。先端部分には、石垣が張り付ていました。『牽牛子塚』の墳丘は、地震により崩落していましたが、高さ約4.5メートルと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明しました。墳丘の裾は、平面八角形状に削られていて、対辺の長さは約22メートルに及びます。墳丘周囲では外側を八角形に囲む石敷遺構が確認されました。(同上)

  • 先端部分に見えていた、石垣を張り付けた部分のズームアップ光景です。『牽牛子塚』の北西の裾からは三辺分の石敷を検出しています。うち一辺(約9メートル)は、ほぼ完全なかたちで遺存していました。幅は約1メートルで、ブロック状の切り石が3列にすき間なく敷き詰められていました。ここまで紹介しただけでも、土木工事が好きだった『斉明天皇』が重なってしまいます。(同上)

    イチオシ

    先端部分に見えていた、石垣を張り付けた部分のズームアップ光景です。『牽牛子塚』の北西の裾からは三辺分の石敷を検出しています。うち一辺(約9メートル)は、ほぼ完全なかたちで遺存していました。幅は約1メートルで、ブロック状の切り石が3列にすき間なく敷き詰められていました。ここまで紹介しただけでも、土木工事が好きだった『斉明天皇』が重なってしまいます。(同上)

  • 『版築土塁』と、石垣の境目のズームアップ光景です。『牽牛子塚』の石敷遺構そのものも、正八角形になるよう途中で約135度の角度で屈曲しています。上空から鳥瞰した場合、共通の中心を持ち大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石敷部分3列の相似八角形が重なる形となります。石敷の外側には、砂利が敷き詰められ、その部分も含めた大きさは、32メートルの規模となります。(同上)

    『版築土塁』と、石垣の境目のズームアップ光景です。『牽牛子塚』の石敷遺構そのものも、正八角形になるよう途中で約135度の角度で屈曲しています。上空から鳥瞰した場合、共通の中心を持ち大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石敷部分3列の相似八角形が重なる形となります。石敷の外側には、砂利が敷き詰められ、その部分も含めた大きさは、32メートルの規模となります。(同上)

  • 更にズームアップした、『版築土塁』と、石垣の境目の光景です。『牽牛子塚』には、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石や、その破片が数百個以上出土しました。調査者は、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたと想定していて、その切石の総数は、約7,200個におよぶと推定しています。(同上)

    更にズームアップした、『版築土塁』と、石垣の境目の光景です。『牽牛子塚』には、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石や、その破片が数百個以上出土しました。調査者は、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたと想定していて、その切石の総数は、約7,200個におよぶと推定しています。(同上)

  • 振り返って眺めた、『版築土塁』と石垣境目付近の光景です。『牽牛子塚』の墳丘一段目は一辺12.2メートル、対角線約33メートル、墳丘二段目は一辺約7メートル、対角線約18.5メートル、高さ4メートルと計測されています。斉明天皇が亡くなったのは、斉明天皇7年(661年)、68歳でした。 (同上)

    振り返って眺めた、『版築土塁』と石垣境目付近の光景です。『牽牛子塚』の墳丘一段目は一辺12.2メートル、対角線約33メートル、墳丘二段目は一辺約7メートル、対角線約18.5メートル、高さ4メートルと計測されています。斉明天皇が亡くなったのは、斉明天皇7年(661年)、68歳でした。 (同上)

  • 『城壁』のタイトルが記された説明パネルの光景です。『鬼ノ城』は、山の頂上付近に、長さ2.8キロ以上の鉢巻き状の土塁の城壁を巡らした、城内面性が30ヘクタールとされる巨大な山城であることが紹介されていました。城壁の土塁の規模は、下幅7メートル、上幅6メートル、高さ6メートルとも紹介されえ散ました。要所の6箇所が石垣です。(同上)

    『城壁』のタイトルが記された説明パネルの光景です。『鬼ノ城』は、山の頂上付近に、長さ2.8キロ以上の鉢巻き状の土塁の城壁を巡らした、城内面性が30ヘクタールとされる巨大な山城であることが紹介されていました。城壁の土塁の規模は、下幅7メートル、上幅6メートル、高さ6メートルとも紹介されえ散ました。要所の6箇所が石垣です。(同上)

  • 先に斉明天皇陵の確率が高い『牽牛子塚』から紹介しましたが、生前の主な出来事なども紹介しておきます。皇極天皇元年(642年)、舒明天皇が亡くなった後、継嗣となる皇子が定まらなかったため、『皇極天皇(在位:642~645年)』として即位しました。49歳の時です。蘇我蝦夷が大臣として重用され、その子・入鹿が国政を執政しました。(同上)

    先に斉明天皇陵の確率が高い『牽牛子塚』から紹介しましたが、生前の主な出来事なども紹介しておきます。皇極天皇元年(642年)、舒明天皇が亡くなった後、継嗣となる皇子が定まらなかったため、『皇極天皇(在位:642~645年)』として即位しました。49歳の時です。蘇我蝦夷が大臣として重用され、その子・入鹿が国政を執政しました。(同上)

  • 写真は、オリジナル部分と補修された部分が交錯しているらしい部分の光景です。皇極天皇時代の主な出来事です。(同上)<br />◎643年:小墾田宮に遷幸。<br />◎643年:飛鳥板蓋宮に遷幸。<br />◎643年:蘇我入鹿が厩戸王の子山背大兄王の斑鳩宮を攻め、山背大兄王は自害。

    写真は、オリジナル部分と補修された部分が交錯しているらしい部分の光景です。皇極天皇時代の主な出来事です。(同上)
    ◎643年:小墾田宮に遷幸。
    ◎643年:飛鳥板蓋宮に遷幸。
    ◎643年:蘇我入鹿が厩戸王の子山背大兄王の斑鳩宮を攻め、山背大兄王は自害。

  • 写真は、オリジナル部分と補修された部分が交錯している部分のズームアップ光景です。皇極天皇時代の主な出来事の続きです。(同上)<br />◎645年7月:中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害(乙巳の変・大化の改新)。<br />◎645年7月:皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。日本史上初の譲位とされます。

    写真は、オリジナル部分と補修された部分が交錯している部分のズームアップ光景です。皇極天皇時代の主な出来事の続きです。(同上)
    ◎645年7月:中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害(乙巳の変・大化の改新)。
    ◎645年7月:皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。日本史上初の譲位とされます。

  • 振り返って眺めた、土塁と石垣の光景です。左端に『西門』が見えていました。<br />ここからは斉明天皇時代(在位:655~661年)の工事主体の主な出来事です。(同上)<br />◎655年7月:北の蝦夷、東の蝦夷、百済の調使を饗応。<br />◎655年10月:小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。<br />◎655年冬:飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。

    振り返って眺めた、土塁と石垣の光景です。左端に『西門』が見えていました。
    ここからは斉明天皇時代(在位:655~661年)の工事主体の主な出来事です。(同上)
    ◎655年7月:北の蝦夷、東の蝦夷、百済の調使を饗応。
    ◎655年10月:小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
    ◎655年冬:飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。

  • ◎655年8月:高句麗から大使、9月:高句麗へ大使。<br />◎655年:飛鳥の岡本に宮を造り始める。岡本宮が火災。<br />◎655年:香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を築く。<br />◎655年:吉野宮を作る。多武峰に両槻宮を作る。<br />◎656年:天皇主導での土木工事が相次ぎ、後年に溝は『狂心の渠』と揶揄。

    ◎655年8月:高句麗から大使、9月:高句麗へ大使。
    ◎655年:飛鳥の岡本に宮を造り始める。岡本宮が火災。
    ◎655年:香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を築く。
    ◎655年:吉野宮を作る。多武峰に両槻宮を作る。
    ◎656年:天皇主導での土木工事が相次ぎ、後年に溝は『狂心の渠』と揶揄。

  • 石垣の下から直角方向に伸びている石が組まれた溝は、排水設備のようです。石垣から水が染み出し今も僅かばかりの水が、排水設備の水路を流れていました。<br />◎657年7月:須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を開く。<br />◎658年4月: 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征。<br />◎658年11月:謀反の疑いで有馬皇子に死罪。

    石垣の下から直角方向に伸びている石が組まれた溝は、排水設備のようです。石垣から水が染み出し今も僅かばかりの水が、排水設備の水路を流れていました。
    ◎657年7月:須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を開く。
    ◎658年4月: 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征。
    ◎658年11月:謀反の疑いで有馬皇子に死罪。

  • ◎659年3月:甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗応。<br />◎660年3月:阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。<br />◎660年5月:皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。<br />◎660年7月:百済が、唐と新羅に攻められ滅亡。<br />◎660年10月:百済を助けるための出兵を命令。<br />◎661年1月:百済支援のため、西に向かって出航。<br />◎661年7月:朝倉宮で崩御(68歳)。<br />◎661年10月:天皇の喪が難波津に着く。<br /> 過労死のような斉明天皇の晩年でした。

    ◎659年3月:甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗応。
    ◎660年3月:阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。
    ◎660年5月:皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。
    ◎660年7月:百済が、唐と新羅に攻められ滅亡。
    ◎660年10月:百済を助けるための出兵を命令。
    ◎661年1月:百済支援のため、西に向かって出航。
    ◎661年7月:朝倉宮で崩御(68歳)。
    ◎661年10月:天皇の喪が難波津に着く。
     過労死のような斉明天皇の晩年でした。

  • 復元された遺跡ではなく、観光や作業時などの移動用に施設された木造の階段のようでした。土塁の高さが6メートル程ですから、踊り場も付いた本格的な造りの階段でした。(同上)

    イチオシ

    復元された遺跡ではなく、観光や作業時などの移動用に施設された木造の階段のようでした。土塁の高さが6メートル程ですから、踊り場も付いた本格的な造りの階段でした。(同上)

  • 保護のためにシートを掛けられ、これからの発掘調査に備えた場所の光景になるようです。国の史跡に指定されている『鬼の城址』ですから、発掘調査の実施には、<br />多くの手順を踏む必要がありそうでした。(同上)

    保護のためにシートを掛けられ、これからの発掘調査に備えた場所の光景になるようです。国の史跡に指定されている『鬼の城址』ですから、発掘調査の実施には、
    多くの手順を踏む必要がありそうでした。(同上)

  • 隙間から眺めた、保護のためのシートを掛けられた土塁の部分的な光景です。土塁の端には、石垣の姿は見えませんでしたが、手前には、保存状態の良い敷石が残っていました。(同上)

    隙間から眺めた、保護のためのシートを掛けられた土塁の部分的な光景です。土塁の端には、石垣の姿は見えませんでしたが、手前には、保存状態の良い敷石が残っていました。(同上)

  • 少しだけズームアップした、隙間から眺めた保護シートの中の光景です。内側の古いシートに、雨水の水圧や土砂の圧力が掛かって、シートが破れたようでした。経年的にシートが劣化したのかもしれません。あるいは見学のために、意図的にオープンにされているのかもしれません。(同上)

    少しだけズームアップした、隙間から眺めた保護シートの中の光景です。内側の古いシートに、雨水の水圧や土砂の圧力が掛かって、シートが破れたようでした。経年的にシートが劣化したのかもしれません。あるいは見学のために、意図的にオープンにされているのかもしれません。(同上)

  • オリジナルの石垣の光景のようです。表面に付いた土などが整備されて、オリジナルの石組が顔を出しているようでした。打込み接ぎと言ってよい、表面が平らに加工された石材が使われていました。布積ではなく、乱積です。(同上)

    オリジナルの石垣の光景のようです。表面に付いた土などが整備されて、オリジナルの石組が顔を出しているようでした。打込み接ぎと言ってよい、表面が平らに加工された石材が使われていました。布積ではなく、乱積です。(同上)

  • 『神籠石(こうごいし)状列石』の文字が記されていた表示板の光景です。神籠石、または神籠石式山城は、九州地方から瀬戸内地方に残る、石垣で区画した列石遺跡の総称です。一般には『日本書紀』や『続日本紀』に記載がなく、遺構でのみ存在が確認される山城を指します。(同上)

    『神籠石(こうごいし)状列石』の文字が記されていた表示板の光景です。神籠石、または神籠石式山城は、九州地方から瀬戸内地方に残る、石垣で区画した列石遺跡の総称です。一般には『日本書紀』や『続日本紀』に記載がなく、遺構でのみ存在が確認される山城を指します。(同上)

  • 散乱したままの『神籠石』の光景です。『神籠石』は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも記され、『こうご』の本来の意味は分かっていないようです。本来、高良大社の参道脇にある「馬蹄石』など、『神の依り代となる岩石』のことを指す名称だったとする説もあります。(同上)

    散乱したままの『神籠石』の光景です。『神籠石』は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも記され、『こうご』の本来の意味は分かっていないようです。本来、高良大社の参道脇にある「馬蹄石』など、『神の依り代となる岩石』のことを指す名称だったとする説もあります。(同上)

  • 『列石』として残った『神籠石』の光景です。高良大社の参道脇にある『馬蹄石』の近くにあった高良山の列石、『八葉石塁(八葉の石畳)』が混同して学会に報告され、列石遺構の方にこの名が付けられたとする説があります。その後、他の類似した石積み遺構にも神籠石の名を冠するようになりましたが、命名の経緯からすれば明らかな誤指摘があります。(同上)

    『列石』として残った『神籠石』の光景です。高良大社の参道脇にある『馬蹄石』の近くにあった高良山の列石、『八葉石塁(八葉の石畳)』が混同して学会に報告され、列石遺構の方にこの名が付けられたとする説があります。その後、他の類似した石積み遺構にも神籠石の名を冠するようになりましたが、命名の経緯からすれば明らかな誤指摘があります。(同上)

  • 同じく、『列石』として残った『神籠石』の光景です。文化財の指定名称としては、従来『唐原神籠石』と呼ばれていたものが、2005年に『唐原山城跡』という名称で国の史跡に指定された例があります。これまでに『神籠石』という名称で指定されている史跡も、今後改名される可能性があるようです。(同上)

    同じく、『列石』として残った『神籠石』の光景です。文化財の指定名称としては、従来『唐原神籠石』と呼ばれていたものが、2005年に『唐原山城跡』という名称で国の史跡に指定された例があります。これまでに『神籠石』という名称で指定されている史跡も、今後改名される可能性があるようです。(同上)

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