2018/04/07 - 2018/04/07
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旅人のくまさんさん
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岡山県の日本百名城巡り、『鬼ノ城』の紹介です。地元の一部では、以前から城の存在が知られていたようですが、昭和46年(1971年)、山火事によって石垣の存在が広く知られ、その後の発掘調査へと繋がり、昭和61年(1986年)に国指定の史跡となりました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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推定再建された『西門』と『角楼』の眺望などのために築かれた展望台に向かいました。現地案内図では『学習広場』と呼ばれる場所でした。その移動途中で振り返って眺めた、『角楼』の光景です。『西門』の守りと考えられているようです。(同上)
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『学習広場』と呼ばれる展望台に向かう途中に眺めた、推定再建された『西門』方面の光景です。右端に『西門』、左端に、その守りの『角楼』が見えています。後ほど詳しく紹介します。この位置から眺めますと、復元された城壁も連続して眺めることができました。(同上)
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『鍵岩(かぎいわ)』と呼ばれる奇岩の光景です。解説文が見付かりませんでしたから、勝手な解釈になりますが、右上に飛び出している部分を鍵の握り部分と見做したように見えました。『鬼城山』とその周りには、色々と名前が付けられた奇岩があります。(同上)
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少しだけ移動して眺めた、周りの光景です。まだ『学習広場』には達していない場所です。先ほど紹介した『鍵岩』が右端に見えています。この後紹介する『鬼城山(きのじょうさん)案内図』によれば、『学習広場』は、『西門』から直線距離で200メートルほど西に位置していました。(同上)
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先程渡ってきた、谷に架かる木橋の光景です。『学習広場』の展望台への見学通路として設けられたもののようでした。『鍵岩』の見学も兼ねている木橋かも知れません。造られて間もない橋のように見えました。(同上)
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『学習広場』の近くからの眺めです。『学習広場』の上が錯綜しましたので、少し時間をずらして見学することにしました。正面に見えている山は、城壁の姿がありませんでしたから『鬼ノ城』がある『鬼城山』ではないようでした。(同上)
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『学習広場』と呼ばれる、展望台の光景です。正面、やや左手に『西門』と『角楼』が眺められる位置に設けられていました。ネット情報によれば、車いすの方でも見学できるように配慮された『学習広場』のようでした。(同上)
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『学習広場』と呼ばれる、展望台からの眺めです。概ね、南方面の光景になるようでした。山に囲まれた、小さな盆地のような光景でした。街道脇を中心に、民家の姿もありました。(同上)
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『鬼城山(きのじょうさん)案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在位置が、『西門・角楼』付近に記されていました。黒い太線で記されたのが、山の頂上部分を鉢巻きのように取り囲む『城壁』です。その内側に城内の見学策路が破線で表示されていました、(同上)
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見学を終えて『西門・角楼』方面に向かう途中に、振り返って眺めた『学習広場』の展望台の光景です。景観に配慮してあるらしく、鉄筋コンクリートや金属製ではなく、手摺りだけが金属製の木製の展望台でした。(同上)
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名称:『コバノミツバツツジ(小葉の三葉躑躅)』
分類:ツツジ科ツツジ属の落葉低木
分布:本州中部以西から九州まで分布
花期:3月~4月
その他:ミツバツツジに比べて、葉が多少小さいための呼び名です。(同上) -
名称:『コバノミツバツツジ(小葉の三葉躑躅)』
分類:ツツジ科ツツジ属の落葉低木
分布:本州中部以西から九州まで分布
花期:3月~4月
その他:ピンクの花が見頃でした。(同上) -
版築の土壁と、再建された『西門』の光景です。4箇所の門が発掘調査で確認されていますが、どの門が正門に当たるかは、特定されていないようです。しかし、この門が、有力な正門候補とされているようです。(同上)
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同じ場所から眺めた、左側方面の版築の土壁の光景です。『版築(はんちく)』は、土を建材に用いて強く突き固める方法で、堅固な土壁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法のことです。元々石灰分を多量に含んだ微粒子から成りこの工法に適した黄土が、広く堆積した黄河流域で古代から用いられ、発展してきた工法とされます。(同上)
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『ヤマザクラ(山桜)』らしい桜の花の光景です。花と一緒に新芽が出ていました。白くて大きな花が咲いていましたから、『オオシマザクラ(大島桜)』かも知れません。右後ろには、ピンク色が濃い、別種の桜も咲いていました。(同上)
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1300年ほど経過しているとみられる、版築工法で築かれた土壁の光景です。同時代の版築工法の土壁は、続日本百名城の大宰府の水城(みずき)でも目にしました。白村江の戦いで敗れたヤマト政権が、大宰府防備のために築いた防備施設です。文献では確認できない天智天皇(626~672年)の頃の時代のようです。(同上)
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同じく、版築工法で築かれた土壁の光景です。『白村江の戦い』は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争です。百済は、660年に唐軍(新羅も従軍)に敗れて滅亡し、百済復興運動により救援を求められた倭国が参戦した戦いでした。ヤマト政権時代です。(同上)
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版築工法で築かれた土壁のズームアップ光景です。撞き固めた単位が、横筋で確認できる光景でした。『白村江の戦い』では、日本・百済遺民の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗し、それがヤマトの防衛を固めるために、古代城の建設を急かせることとなりました。戦いに勝った唐・新羅連合軍が、その勢いに任せて攻め寄せることを恐れたためです。(同上)
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結果として、唐や、唐・新羅の連合軍がヤマトに攻め込むことはありませんでしたが、日本での研究成果によれば、唐軍は軍船を修理し、ヤマト襲来を計画していたとされます。白村江での敗戦直後、数回だけ遣唐使の派遣が行われましたが、670年~702年までの約30年の間、遣唐使の派遣は行われていません。私見ですが、唐側には、ヤマトを征服するメリットが少なかったようです。(同上)
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土塁の下部のズームアップ光景です。土塁による防備は、九州の博多付近でも行われました。船で攻め寄せられる地域とみられたためです。大宰府の防備には、『水城(みずき)』で土塁と水堀が築かれました。その記録は日本書紀にも天智天皇3年(664年)と記されています。土塁の版築工法の類似性などから、『鬼ノ城』も同時期に築かれたとする説の根拠にもされているようです。(同上)
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同じく、土塁の外側にあった石のズームアップ光景です。先程の『大宰府』についての補足説明です。『大宰府(だざいふ)』は、7世紀後半に九州の筑前国に設置された地方行政機です。『大宰』は、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわゆる地方行政長官です。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年:679年)、周防総令(天武天皇14年:685年)、伊予総領(持統天皇3年:689年)等がありました。(同上)
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イチオシ
斜面に敷き詰められた敷石の光景です。修復作業はされているようですが、オリジナルの敷石がそのまま使われているようでした。推測になりますが、斜面と土塁・石垣の保護を長期的に考慮した施設のように見えました。城壁と一体になった、これだけの規模の敷石を目にしたのは初めてでした。『大宰(おほ みこともち)』は、大宝律令の施行(701年)とともに廃止され、『大宰の帥』のみが残されました。(同上)
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イチオシ
城外側から眺めた、推定再建された西門の光景です。1階部分は、遺跡として残された通路部分ですから、当時の姿をかなり正確に再現できたようですが、2階と三階部分は数位手による再建です。議論の末、三階建てとして再建されたようですが、瓦の出土がなかったため、三階の屋根は板葺きになっています。(同上)
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大きな敷石のズームアップ光景です。1300年以上前の施設とは思えないような光景の一つでした。推測ですが、当時のヤマト政権の技術だけでなく、百済からの亡命者を始めとする、城造りに精通した朝鮮半島の人達が大きく関与した技術のようです。鉄器の技術なども活用されているようです。(同上)
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イチオシ
『西門の復元』のタイトルがあった説明パネルの光景です。少し拾い読みしますと、西門跡の遺跡は極めて良好な状態で残されていて、寸法も正確に読み取れ、日本で初めての古代城跡の城門復元に繋がったと紹介されていました。通路床面の敷石、石段敷石の保存状態も良かったと説明されていました。(同上)
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『西門の復元』のタイトルがあった説明パネルの、写真部分のズームアップ光景です。各部の寸法が、正確に測定できたことが納得できる、発掘調査時の光景です。ただし、上部施設の遺物はありませんから、推定で2階部分を城壁上の連絡路、3階部分を見張りや尖塔の場として復元したことが解説されていました。(同上)
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『西門』付近から眺めた周りの光景です。白村江でのあった階は、天智天皇の時代ですが、それまで主導してきたのは、高齢にもかかわらず博多までやってきて亡くなった、女帝の斉明(さいめい)天皇です。型破りだったようです。舒明天皇の皇后で、天智天皇、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、天武天皇の母で、自らも35代皇極(こうぎょく)天皇、重祚して37代斉明天皇となりました。(同上)
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推定再建された、木造の『西門』の内部光景です。1階から眺めた、2階の床の光景です。斉明天皇が型破りだったのは、日本史上初の譲位(退位)と、再び皇位に即く(史上初の重祚)を行ったことです。その他にも、皇極天皇時代には、北方の蝦夷に対し三度にわたって遠征を送り、そして、斉明天皇時代の百済遠征です。土木工事が好きな天皇としても知られました。(同上)
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その斉明天皇の母の名前は(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ:生年不詳~643年)』です。母は未詳ですが、吉備との繋がりを強く感じさせる名前です。斉明天皇が、吉備に関わったとされる出来事と、無縁ではないようです。『吉備姫王』は、茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)、軽王(孝徳天皇)を儲けました。(同上)
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栄華を誇った吉備王国ですが、雄略天皇(400年代後半)が権力を誇った葛城氏を滅ぼした際に、葛城氏と近かった吉備も打撃を受けました。しかし、渡来人の技術による鉄産業の地となった吉備は、飛鳥時代に不死鳥のように蘇りました。吉備津姫王の娘の斉明天皇にとって、吉備は第二の故郷の可能性が高く、百済支援の兵の内、その大部分の2万人が吉備で集まったとされます。(同上)
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