2018/04/07 - 2018/04/07
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旅人のくまさんさん
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日帰りツアーに参加した、岡山県の2箇所の日本百名城巡りです。古代山城の鬼ノ城見学の後にやって来た、津山城の紹介です。ソメイヨシノは散り始めていましたが、白い花の『大島桜』や、八重桜の『関山(かんざん)』が見頃になっていました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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- 観光バス 新幹線
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駐車場で観光バスを降りた後、歩いて津山城址に向かいました。往時は外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並び、『日本三大平山城』の一つに数えられました。他の二つは、姫路城と、松山城で、いずれも天下の名城です。津山城は、明治初頭にその様子を撮影した写真が残されています。別名、『鶴山城(かくざんじょう)』です。(同上)
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イチオシ
先程の入口看板で右に折れ、その先に見えてきた津山城の大手道の光景です。桜の季節ですから、その沿道に沿って赤い雪洞の飾りが続いていました。この日は、お城見学より、花見の客の方が多いかもしれません。『日本さくら名所100選』にも選ばれています。(同上)
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守りを固めたお城ですから、直進で城内に向かうことは出来ません。正面の高石垣の前で右折しました。廃城になったのは明治6年(1873年)、城跡は国の史跡に指定されています。(同上)
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『津山城跡(鶴山公園)』のタイトルがあった、観光案内の看板光景です。城跡の他に、季節の花の見頃が紹介されていました。3月が白木蓮で、4月は桜と芝桜、5月が藤の花でした。その他には、紫陽花(6月)、ヒガンバナ(9月)、モミジの紅葉(11月初旬)が紹介されていました。(同上)
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『史跡・津山城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。国の史跡に登録されたのは昭和38年(1963年)です。左手前に『津山さくらまつり』の赤い雪洞がありました。平成18年(2007年)、日本百名城の67番に指定されました。津山城は、1603年(慶長8年)、森忠政が18万6千石で入封し津山藩を立藩、現在みられる城郭への改修を始めました。完成したのは、13年の歳月をかけた1616年(元和2年)のことでした。(同上)
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津山城は、小倉城の天守を模して造られたとも言われます。その伝承の一つが、小倉城の天守の評判を聞いた藩主の森忠政が、築城にあたって小倉に家臣の薮田助太夫を派遣したというものです。当時、海に面して築かれていた小倉城は、海の上から検分できたため、船を出して津山から同行した大工と絵師に天守を見取らせようとしました。(同上)
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写真は、打込み接ぎの石垣光景です。ところが、船の上から検分していたところを小倉の家中に見つかってしまいました。事情を伝え聞いた小倉城主の細川忠興(1563~1645年)は、薮田一行を城内に招き入れて、好きなだけ調査させ、図面まで手土産に持たせたという話が伝わっています。忠興公は、足利家支流の細川家出身で、正室は、後に『細川ガラシャ』の名前で呼ばれる明智光秀の娘でした。(同上)
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『津山城復元図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。絵図が薄れていましたが、古層の天守閣や、備中櫓などが描かれていました。天守閣を小倉城に倣ったとする、もう一つの伝承は、『慶長8年(1603年)に津山築城に携わっていた大工の保田惣右衛門が小倉城の天守を写して津山に帰った』というものです。現在の小倉城は再建で、昔のイメージとは大きく異なるとされます。(同上)
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『森忠政座像』です。『森忠政(1570~1634年)』は、本能寺の変で、信長の傍に仕えて最期を遂げた森蘭丸(成利:1562~1582年)の弟です。はじめ、豊臣秀吉に仕え金山7万石、後に徳川家康に仕えて、18万石余で美作(みまさか)一円を治め、津山城の初代城主として築城に取組みました。(同上)
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『巣山城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。『美作国(みまさかのくに)』は、現在の津山市や美作市などが含まれます。『ミサカ(御坂・三坂)』に由来する説と、『ウマサケ(甘酒)』の産地であることに由来する説があります。前者の説の方が自然なように感じますが、諸説あった方が面白い話かもしれません。(同上)
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津山城から眺めた、かつての城下町の光景です。日当たりがいいのか、手前の染井吉野は、すっかり散っていました。津山城の天守閣を巡っては、四重か、五重かを巡ってのエピソードもあります。実際の天守は、破風を持たない4重5階地下1階の層塔型天守で、南側に六番門(櫓門)を付属させる複合式平面の天守です。小倉城は、破風を付けて再建したことで、賛否両論があったようです。(同上)
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築城400周年を迎えた2004年(平成16年)に復元された備中櫓の光景です。現存時の天守閣の最上階は、明治期の写真では、戸板に覆われている様子が写されています。その下階の4重目は最上階とほぼ同規模に造られていることが、寸法からも伺われますが、創建当初は外廻縁に高欄を廻らせていたようです。4重目の屋根は板葺きで、軒出も浅く造られていたようです。(同上)
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森忠政の領する津山に五重の天守が建ったことを知った徳川幕府は、さっそく忠政にこの旨を問い詰めましたが、忠政はとっさに『四重である』と主張したとされます。幕府は疑いを拭えず、津山に調査の使者を向かわせました。忠政は、急ぎ家臣の伴唯利を津山に先回りさせて、天守の四重目の屋根瓦を破棄させました。(同上)
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四重目の屋根瓦を取り去ったことで、『あれは庇(ひさし)であって、四重である』と言い切り、難を逃れたと伝えられています。初代城主の森忠政は、城地の名を『鶴山』から『津山』に改めました。写真は、突き当りの石垣を右折した先になるようです。この大手道の石段を見ただけで、規模の大きさに驚かされます。(同上)
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イチオシ
石段の上り坂が、二方向に分かれた場所の光景です。あまり記憶に残っていませんが、右手に直進したのではなく、左側の石段を登ったような記憶です。階段も城壁も、石だらけの光景です。(同上)
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左端を通行している人が多いのは、歩き易いように、石段の高さを半分ほどにしてあるためです。確認はしていませんが、観光用に改宗された石段部分のようです。従来の石段はそのままにして、低い石段を割り込ませてありました。この種の改修は、ほかのお城でも経験しました。(同上)
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『四足門』のタイトルがあった説明看板の光景です。発掘調査では、門の礎石の根石が確認されています。また、廃城後の門は、中山神社(津山市一宮)の神門として移築され、現存しています。写真で紹介されているのは、その扉がない薬医門です。屋根は絵図当時の本瓦に対し、茅葺となっています。(同上)
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イチオシ
『二の丸』から見上げた、本丸の『備中櫓』の光景です。初代藩主の森忠政以後、80年ほどは平穏に過ぎましたが、1697年、4代藩主の長成(ながなり)が亡くなり事態が急変しまました。2代目・長継の子で、叔父である家老の養子になっていた衆利(あつとし)を呼び戻し、藩主家の養子に迎えました。しかし、事態はそれで収まりませんでした。(同上)
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1697年、5代津山藩主となった衆利(あつとし)が、就任挨拶のために江戸に向かう途中、伊勢で乱心したとされます。このため、幕府は津山藩を召し上げました。しかし、隠居していた2代藩主の長継が、87歳ながら健在で、息子も多数いたため、幕府は石高を大幅に減らした上で、森家の家名存続を認めました。(同上)
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森家の新しい任地は、津山から西へ70キロほど離れた、岡山県井原市の西江原藩2万石でした。高齢だった津山藩2代目藩主の長継は、翌年に亡くなりました。この国替えに伴い、津山新田藩1万5000石を領していた分家の森長俊が、同じ石高で佐用町の三日月藩に移りました。中央付近に見える、倒れ掛かった標識に『長柄ヤグラ』の文字がありました。(同上)
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『長柄櫓』の桜の樹越しにながめた、かつての津山城下町の光景です。『長柄櫓』は、津山市の『津山城について』と題された一覧表から、二の丸と三の丸の境の二の丸側にあった二層櫓のようです。縄張図に記された、天守閣を含めた76箇所の門と櫓が一覧になっていました。(図面は59番目まで)『長柄櫓』は55番が付されていました。(同上)
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『長柄櫓』からの光景が続きます。右手前方に見えるのは、同じ二の丸櫓になるようです。手前側のエリアには、『塩櫓:二重櫓:53番』や『昇櫓:二重櫓:54番』などが記されていました。(同上)
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同じく、二の丸櫓の光景になるようです。かなりの高石垣になっていました。このエリアの段下には、『二の丸台所:57番』や『十七番門:58番』などが記されていました。『二の丸台所:57番』は、どちらかと言えば『三の丸台所』と呼んだ方が分かりやすい場所でした。(同上)
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ちらほらと咲き始めた、白い藤の花のようです。『フジ(藤)』は、マメ科フジ属のつる性落葉木本です。一般名称としての藤には、つるが右巻き(上から見て時計回り)と左巻きの二種類があ利ます。右巻きの藤の標準和名を『フジ』または『ノダフジ』、左巻きの藤の標準和名を『ヤマフジ』または『ノフジ』とするのは、植物学の泰斗、牧野富太郎の命名によるとされます。(同上)
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右端に見える白い標識には、『切手門跡』の文字が見えました。『切手(きって)門』は、二の丸から本丸表鉄門へ至る間の通路を仕切る大型の『櫓門』でした。二階部分は南側にある『弓櫓』に接続していました。平成20年から21年度にかけて発掘調査が実施され、門の礎石が良好に残っていました。梁間三間となる珍しい形式の門であったことも分りました。(同上)
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『切手門跡』付近の石垣のズームアップ光景です。打込み接ぎの石垣でした。この辺りの積み方は、乱積ではなく、布積を意識した積み方に見えました。『切手門』の発掘調査では、豊島石製のU字溝を使用した門の雨落溝や暗渠排水など、雨水を処理するための施設も確認されました。(同上)
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東方向になる『二の丸』方面の光景になるようです。右手の石垣が『本丸石垣』、左手が『三の丸』になるようです。本丸石垣の上には、遠くに『備中櫓』らしい姿が見えていました。(同上)
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東側方面になるらしい、津山の市街光景です。かつての城下町になるようです。川の本流が右手方面に見え、支流らしい細い川が、お城に並行して手前付近に左右に見えていました。(同上)
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赤い雪洞が通路の両脇に並んだ、『二の丸』エリアの光景です。残念ながら、染井吉野はほとんど散ってしまっていましたが、満開の時には見どころの一つになっていたようです。(同上)
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牡丹桜越しに眺めた、独特の存在感がある『備中櫓』の光景です。備中櫓は、本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられます。森藩時代の基本的な史料の『森家先代実録』には、『備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来』と記されています。森忠政は、長女於松を池田備中守長幸に嫁がせていて、長幸は忠政の娘婿にあたいてります。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓とされます。備中櫓跡の発掘調査で、池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土しています。(同上)
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