2019/06/01 - 2019/06/01
110位(同エリア167件中)
あおしさん
大牟田市から荒尾市にかけてはかつては三池炭鉱という大規模な炭鉱地帯でした。
現在では閉山してしまいましたが、明治日本を支えた地域として世界遺産に指定されています。
今回は大牟田駅前でレンタサイクルを借りて1周してきました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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荒尾のホテルに1泊して、翌朝まずは荒尾駅へ。
かつて炭鉱で栄えた地域の駅だけに風情のある駅舎が健在です。
いまとなっては、不相応に立派すぎる駅のように思えますが・・・HOTEL AZ 熊本荒尾店 宿・ホテル
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荒尾駅から電車で1駅、大牟田駅でまずは下車します。
大牟田駅前の観光案内所で電動レンタサイクルを借りて、荷物は預けて世界遺産めぐりにスタート。
電動レンタサイクルは4時間まで600円、1日1000円。大牟田観光プラザ 名所・史跡
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まずは大牟田市石炭産業科学館へ。
ここでこのあたり一帯の三池炭鉱についてお勉強。
三池炭鉱は室町時代・応仁の乱直後の1469年に農夫が「燃える石」を発見したと伝えられ、500年の歴史を持つ炭鉱でした。大牟田市石炭産業科学館 美術館・博物館
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江戸時代には立花氏柳河藩、その後は立花氏三池藩が炭鉱を開発しました。
当時はすべて手作業で穴を掘り、石炭を採取していました。
当時は2人一組(多くは夫婦)で、1人がツルハシで石炭の壁を掘り崩し、1人がその石炭を担いで坑外へ運んでいたそうで、かなりの重労働だったようです。 -
明治時代になるとまずは官営、やがては三井財閥に払い下げられてました。
このころになると蒸気エネルギーが使われるようになり、また坑内の運搬には馬車が使われるようになりました。 -
この資料館には模擬坑道があり、当時の機械やトロッコなども展示されています。
坑道内から石炭を運び出した電気機関車です。 -
科学館で1時間ほど「勉強」した後は三池炭鉱関連の世界遺産めぐりをスタート。
まずは大きな煙突が残っている宮浦石炭記念公園へ。
宮浦抗は明治20年に開抗され、昭和43年に閉坑しました。
蒸気エネルギーが使われるようになり多くの煙突が作られ、「あんまり煙突が高いので~」と炭坑節にうたわれた煙突も今ではここしか残っていません。宮浦石炭記念公園 公園・植物園
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大斜抗跡。
ここから坂道を坑内へこのトロッコで炭鉱夫や石炭は運ばれていました。 -
眼鏡橋。
眼鏡橋と言えば長崎が有名ですが、ここに眼鏡橋があります。
石積みのアーチ橋で水路橋で、風情のある橋でした。早鐘眼鏡橋 名所・史跡
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三池集治監外塀。
明治時代は囚人が多く集治監(監獄、今の刑務所)に送り込まれて、炭鉱で強制労働をさせられました。
現在はここは高校となり、外壁だけが残っています。
高校の塀に刑務所の塀を使うのは、ちょっとブラックジョーク。旧三池集治監外塀 名所・史跡
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今度は宮原抗へ。
ここでは鋼鉄製の竪坑櫓が残っています。
ここでワイヤーでケージを下して、炭鉱労働者や石炭を坑内から地上へ運びました。宮原坑(世界遺産) 名所・史跡
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三池炭鉱周辺は当時の人々が住んでいた炭鉱住宅はほとんど残っていないのですが、ここには事務所兼住居、今でいえば「社宅」が残っていました。
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当時の住まい。
2部屋と台所のあるアパートです。
当時ではお風呂もあり、最先端の住居だったそうです。 -
宮原抗の下には三池炭鉱専用鉄道跡が残っています。
三池炭鉱専用鉄道は石炭を三池港まで運び、三池港から船で国内、海外へ運ばれました。三池炭鉱専用鉄道敷跡 名所・史跡
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三池炭鉱専用鉄道の橋の跡。
レンガの橋げたと鉄筋の橋が残っていました。 -
この橋のところからは廃線跡の遊歩道があります。
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旧万田駅のホームが残っていました。
かつては多くの石炭満載の貨物列車が行きかったからか、構内は広かったようです。 -
案内板にあった写真。
石炭を運ぶのがメインの鉄道ですが、炭鉱で働いている人のための通勤電車が運行され、地元の人も利用できたそうです。
時刻表によれば夜の11時ごろまで1時間おきくらいに列車があったようです。 -
万田駅跡からは福岡県大牟田市から熊本県荒尾市に入ります。
近くにある荒尾市の万田抗。
世界遺産です。
まずはきっぷ売り場の万田抗ステーションの資料室へ。
万田抗の模型です。
現在ではほとんどの建物や煙突は残っていません。万田坑 名所・史跡
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ここから万田抗に入場します。
ボランテイアのガイドさんがいろいろ案内してくれました。 -
万田抗のシンボル、二坑竪抗(やぐら)。
レンガ造りの建物の中にワイヤーの巻き上げ機があり、竪坑のエレベーターで炭鉱で働く人を地下深い坑道に送り込みました。 -
この巻き上げ機のある建物の横の建物は浴室です。
坑道から戻ってきた炭鉱で働いていた人は、この浴室で汚れや汗を流しました。
ガイドさんもかつてここで働いていた人なのでしょう。
懐かしそうに語っておられました。 -
やはり手前にある事務所。
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事務所のうしろにある「職場」
炭鉱労働者の控室であり、休憩室でした。 -
一坑竪抗やぐら)跡。
ココには現在残る二坑竪抗(やぐら)の2倍近く巨大な竪抗がありました。
現在は撤去されており、足場のみが残っていました。 -
一坑竪抗跡から見た二坑竪抗と巻き上げ室のある建物。
かつては模型にあったように多くの建物が並んでいたようですが、今ではほとんど建物は撤去され、広い敷地は公園のようになっていました。 -
万田抗からやはり三池専用鉄道廃線跡沿いに進みます。
鉄道の鉄橋の橋げた跡。 -
パンフレットによればこの近くの旧大平駅もホームが残ってるとのことでしたが、見当たりません。
階段らしき道が見つかったので、上ってみまたが、草むらで先に進むことはできず、あきらめました。 -
もう少し先に行くと、旧宮内駅。
この駅はホームが残り、きれいに整備されていました。 -
宮内駅前まで道路が整備されており、一番寄り道しやすい駅跡です。
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万田抗ステーションに展示されていた現役時代の宮内駅の模型。
2両編成の電車だったようです。 -
万田抗ステーションに展示されていた当時の写真。
三池炭鉱の専用鉄道ですが、三池炭鉱への通勤客だけではなく、一般の方も利用していたようです。 -
宮内駅跡から少し進んだところにある宮崎兄弟の生家。
西南戦争で薩摩軍に参加して26歳の若さで亡くなった宮崎八郎(1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」では堤真一さんが演じていました)と孫文の中国革命を助けた宮崎滔天の兄弟の生家です。宮崎兄弟の生家 資料館 名所・史跡
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宮崎家はこの地方の有力な郷士でした。
蔵は宮崎兄弟をはじめとするゆかりの人の現在資料館に使われています。
大正時代、柳原白蓮(朝ドラ「花子とアン」では仲間由紀絵さんが演じていました)と駆け落ちした宮崎龍介は宮崎滔天の息子だと初めて知りました。 -
宮崎兄弟の育った家が保存されています。
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日本に亡命してきた孫文がこの家に居候していたときのシーン。
宮崎滔天は孫文を助けて中国革命のために東奔西走していましたが、家族はほとんど放置していたようです。
朝ドラ「花子とアン」では宮崎龍介は「父とは絶縁しました!」というシーンがありましたが、革命家としては一流でも、夫、父親としては?だったかもしれません。 -
宮崎家から三池港へ向かいます。
途中残っていた西原駅跡。
この駅は交換駅だったようです。
三池炭鉱専用鉄道では結局、万田駅、宮内駅、西原駅が跡が残っていました。 -
三池港です。
かつてはここから石炭が船で国内や世界に運ばれていきました。三池港と光の航路 自然・景勝地
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科学館に展示されていた当時の三池港の模型。
石炭を満載した多くの貨物列車が発着していたようです。
今ではレールは1本も残されていません。 -
三池港倶楽部。
いわば三池の迎賓館です。
現在は高級レストランとしてこの建物は使われていました。
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