2019/05/01 - 2019/05/05
140位(同エリア3722件中)
mistralさん
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今年のゴールデンウィークは10日間も。
それでもどこにも出かけられないかも、無理、無理、と諦めていた。
気がかりとなっていたことも終わってみると、やはりどこか旅に出ようと
目的地を探し始めたのはすでに3月の中旬となっていた。
長崎往復のフライトの予約がなんとかできたのは3月18日。
それも空席のある便から日程を組んでいった。
5月1日 SNA039(ソラシドエア) 羽田発18:40 長崎着20:30
5月5日 SNA040 長崎発15:25 羽田着17:10
行きの便はちゃっかりとシニア割を利用できた。
フライトは無事に取れたので、宿もなんとかなると当初は甘く考えていた。
最初の2泊は長崎の予定。
探しはじめたら、まず長崎の2泊が取れなかった!
仕方なく長崎空港から長崎へ向かう途中にある諫早のホテルを2泊押さえた。
そのうち長崎港近くのホテルに空きがでて2泊目を予約。
出発の数日前に同じホテルにキャンセルが出たため、一泊目も諫早から
そちらに乗り換えた。予約サイトは複数から検索していた。
結果的に長崎に同じホテルで2泊できることになり、部屋タイプも同じようだったので、ホテルに連絡。同じ部屋に連泊出来ることとなった。
長崎から五島列島にフェリーで渡り、福江島での2泊を平行して探していた。
二泊目となる4日は選択の余地が残されていたのですんなりと予約。
一泊目の3日の宿は、かなり辺鄙そうな島にある(釣り人用?)宿のみ。
そのうち福江島にある宿で、6人部屋の2段ベッドに空きが出たので予約。
それでも諦めきれず、探していたら、一瞬、市内中心からは離れているけれど、面白そうな?!テントの宿泊施設にキャンセルが出たので、すかさず予約が出来た。
綱渡りであれこれの予約をしていった今回の旅、
どんな旅となったのかは旅行記にて。
どうぞお付き合いくださいませ。
(表紙写真は出津教会)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- ソラシド エア
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
5月2日、すでにツアーバスに乗っている。
<映画 「沈黙」の舞台の地を巡る 潜伏キリシタンの里 そとめ>
という名前のツアーで
長崎遊覧トラベル 企画のツアー。
集合は9時25分、長崎駅下車ご NHKの塔が道路反対側に見える
大村ボート発着場。
参加費1人8500円は現地にてお支払い。 -
マイクロバスに乗り込んだ参加者は当日は19名。
ガイドさんによると参加者が2桁になったのは初めてとのこと。
それまでは数名でも催行していたようだ。
長崎駅近くから45分ほど乗車後
次に見学する黒崎教会を一旦通り過ぎ -
最初に見学したのは、教会下に位置する
潜伏キリシタン文化資料館。
外海地区の住民の方々でつくる「外海文化愛好会」によって
調査研究した成果を公開するための施設として開館したようだ。
資料館の女性から、キリスト教が日本に伝来し、その後の弾圧
に至る歴史、信徒発見などについてのご説明を伺った。 -
「1549年、イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルによって
日本に伝来したキリスト教は、南蛮貿易の進展や戦国時代の社会
情勢のもとで勢力を拡大していき、長崎はその中心地となりました。
しかし、キリスト教国による侵略を恐れた豊臣秀吉は禁教へと姿勢を
変え、徳川幕府は、1613年にキリシタン禁教令を発布してキリスト教
を完全に禁止します。幕府はキリシタンを根絶やしにするため、徹底
した弾圧、迫害を続けますが、一部のキリシタンは潜伏して250年に
わたり信仰を守りました。外海地区は潜伏キリシタンが密かに信仰を
守り続けた土地の一つです。」
(外海潜伏キリシタン文化資料館 パンフより一部を抜粋)
写真右の聖人像(納戸神)
外海・黒崎地区の潜伏キリシタンが伝承したもの。 -
この地方一帯を戦国時代に統治していたのは
日本初のキリシタン大名、大村純忠だった。
当時の大村領民のほとんどは、純忠からキリスト教への
入信を命じられたために、キリシタンだったと思われる。
その後、徳川幕府によってキリスト教が禁止されると
大村藩は、藩を存続させるためにキリスト教を禁止した。
1629年、外海地区でも2人の神父が捕らえられ、その後
迫害が強まっていった。
1657年、大村で起きた「郡崩れ」(大村の山中で隠れて
キリスト教の信仰を続けていた人々の存在が発覚、603人が
捕らえられ406人が打ち首となった)で、ほとんどの
キリシタンは姿を消すこととなったが、
このあたり外海一帯は道が険しく、交通手段はほとんど海
からだったこと、またキリスト教に対して比較的寛容だった
佐賀鍋島藩の飛び地が混在していたこともあって、監視の
目が行き届かず、キリシタンの潜伏を許すこととなった。
このあたりの時代を、遠藤周作の「沈黙」は描いている。
1797年には五島藩からの要請で、約3000人が五島に移住
していったが、その中には多くのキリシタンが混ざっていた。
写真、竹筒の中にはメダイや十字架を収納し、屋根裏などに
隠されていた。
黒崎地区のかくれキリシタン宅の建物の解体時に
袋戸棚(天袋?)に隠されていたものが発見された。 -
右は聖骨箱。
潜伏期に宣教師から伝来したヨーロッパ製で、イエズス会に関係する
遺物と考えられ、さらに再布教期のメダイが結びつけられている。
潜伏期から外海・黒崎のキリシタンが伝承していたもの。
左はメダイ。
片面はキリスト像、もう片面はマリア像で、ルネサンス期ヨーロッパ製と
考えられる。 -
ロザリオ。
再布教期(1831年~)にパリ外国宣教会が宣教の記念として、
黒崎地区の潜伏キリシタンに配布したもの。
江戸末期から明治初期、浦上四番崩れの際政府に押収され、
現在、国の重要文化財となっているものと同型のものだそうだ。 -
オラショ。
ポルトガル語で祈りのことをいう。
本来は口伝されたもので、黒崎地区のかくれキリシタンが
大正時代に書き残したもの。
上段にある「こんちりさんのりやく」は
外海のキリシタンが最も大切にしたオラショであり、この
写本の中に収められている。
寺参りや絵踏みもさせられていたので、帰宅後に唱えられた。
神に赦しを乞うことで立ち直り、禁教時代を耐え抜いていった。
1603年に日本司教セルケイラが刊行したとされる。 -
資料館を出て坂道を上がった所に「黒崎教会」がある。
マリア像の下部にはこの教会の歴史が刻まれている。
1571年、ガブラル神父らが始めて外海地方を布教、
各地に15の教会ができた。
その後、日本人伝道師バスチャンらの指導のもと信仰を守り
代々の子孫に伝えられていった。
1865年、信徒発見
1867年、クーザン神父が訪れ、辻村宅でミサが捧げられ
この地は信徒の集会場所となった。
1897年、信徒が増え、ド・ロ神父(後述)の指導によって聖堂
建設がこの地に計画された。ここは海からも山からも見える地
だった。 -
1920年、計画以来23年
子供まで煉瓦運びに奉仕するなどの苦労の末に
ロマネスク様式、赤煉瓦造りの現聖堂が竣工した。
聖堂内部。リブ・ヴォールト天井が美しい。
ここでは撮影が許可されているとのことで撮影したが、
本当はどうだったのか?と後で気になってきた。
(現在も使用されている教会内部の撮影は原則禁止だった。) -
ステンドグラス
素朴であるが故に、一層鮮やかな印象。 -
教区内には未だに多くのかくれキリシタンがおられる
とのこと。
付属する鐘楼は、そのかくれキリシタンの帰依を願って
故渋谷神父さまから寄贈されたそうだ。 -
潜伏時代の信仰の形を今だに維持し続ける人々が?
長崎県には外海地区のほかに平戸、生月にも
残っておられるようだ。
彼らは何故カトリックに復活しなかったのだろうか?と
思い、いくつかの本を読んでみた。
神父さまから洗礼を受けなおすことが、先祖から伝わった
宗教を捨てることにつながり出来なかった、
死後、先祖と違う場所に行く、
祟りがくる
などなどの感情を抱いた人。
「仏教徒を装った200年以上にも及ぶ地下信仰の形は、
キリシタン世紀当時のラテン語やポルトガルのオラショ
を伝承し続けながらも、もともとのキリスト教とは
随分変わってきていましたし、いわば、潜伏しながらの
信仰こそが、自分たちの信仰、日常になっていたのかも
しれません。
プチジャン神父をはじめパリ外国宣教会の神父は、同じ
キリスト教でも違うものに感じ、自然に入り込めなかった
人々も多かったのでしょう。」
「外海のキリシタンとド・ロ神父 長崎巡礼協議会より」
などの記載を見つけた。 -
教会を回り込んでしばらく歩いたところに
バスが停まっていて乗車。 -
枯松神社と立て看板のある近くでバスを降りて
山の中へ分け入っていった。 -
「祈りの岩」と題された立て看板があった。
禁教時代、潜伏キリシタンがこの岩に隠れてオラショ
(祈りの言葉)を唱えたとされる大きな岩。
年に一度、復活祭前の「悲しみの節」の夜、信者たちは
この岩に集まり、見張りを立ててオラショの練習をし、
伝承していったそうだ。 -
枯松神社
日本で3か所しかないとされる
キリシタン神社の一つ。
(あとは、長崎市の桑姫神社、伊豆大島にある
オタアネ大明神とされる。)
拝殿内には「サン・ジワン枯松神社」の石祠が
あるそうだ。 -
神社裏手にあった手水鉢のようなものの
蓋の上に造られていた小石による十字架。
毎年11月3日に行われる枯松神社祭のおりには
カトリック教会による祈念ミサ、寺の住職によるお話、
旧キリシタン代表によるオラショ奉納などが行われる。
このような不思議な光景は、この地方が担ってきた複雑な
歴史を物語っているようだ。 -
十字架を抱く墓石が一基だけ
林の中にあった。 -
参拝者は、海から拾ってきて置いてある白い小石を
並べて十字架を形作り、無言でオラショ(祈り)を
唱え、その後バラして石を丸めて置いておくそうだ。 -
現地には、どなたが並べたのか(観光客が?)
平たい石の上に小石で十字架が作られていた。 -
こんな山道を辿る。
先頭を歩くのはガイドさん。 -
再びバスに乗車して向かったのは
出津(しつ)教会(国指定重要文化財)
1879年 ド・ロ神父が赴任
当時、すでに信者の数は3000人近くになっており
神父は本格的な教会を造ることを決意し、この
集落を見渡せる高台を選び、教会設計に着手した。
1882年、出津教会 完成
軒高を低く抑えているのは、風が強い外海の気候を
考慮してのこと。ド・ロ神父の故郷も同じように
風の強い土地柄だったこともあるのかもしれない。 -
教会には2つの塔が立っている珍しい形式。
内部にはアンジェラスの鐘が納められ
正面の塔頂部のマリア像はフランスから取り寄せられた
そうだ。
もう一方の塔にはイエス像が。 -
出津教会からは徒歩で出津文化村まで
やってきた。 -
まずド・ロ神父記念館へ入場。
1885年、当初は鰯網の工場として建設された。
ド・ロ神父の鰯網は、原料の麻を栽培し、そこから糸を
とって手編みの網をつくって販売していたので
品質も良く、最盛期には周辺漁民から注文があるほどの
人気だったそうだ。
現在は工場の建物を一部改造し、ド・ロ神父記念館として
利用している。 -
神父がフランスから購入したオルガン
-
ド・ロ版画
「煉獄の霊魂の救い」
(長崎県指定文化財) -
糸車
-
Marc Marie de Rotz 神父
(1840-1914) -
出津文化村にある神父の銅像
-
すでに何度も名前の登場しているド・ロ神父。
Marc Marie de Rotz 神父
1840年3月26日、フランス、ノルマンディ
ヴォスロール村の貴族の次男として生まる。
厳しい父のもとで、農業・大工作業などしつけられ
た。
神学校卒業後、東洋布教のためにパリ外国宣教会に
入会、そこで印刷技術も習得。
1868年来日、
日本ではまだキリシタン弾圧が続いていた時代であり、
死を覚悟しての来日だった。 -
28歳という若さで来日したド・ロ神父。
横浜や大浦天主堂で印刷や建築面での功績を残し
浦上で赤痢が発生した際には命がけで患者の救済に
あたった。
外海への赴任は、来日11年目、39歳のとき。
長崎から船で外海の港に着いた神父。
険しい山の斜面の痩せた畑を耕す、貧しい村人の
姿を目にし、なんとか村人たちを救いたいと考えたようだ。
出津に教会堂を建てる一方で、授産場である救助院を
設立。
(旧出津救助院は国指定の重要文化財。)
フランスで学んだ建築・医学・農業など幅広い分野の
知識を生かし、外海の人たちの生活の立てなおしに尽力
した。
フランスの家族から譲り受けてきた莫大な私財を投じて
の事業だった。
来日後、一度も帰国することなく、自ら造った野道の
共同墓地に眠っておられる。 -
救助院に入り、すぐ右手にあるのは
薬局。 -
旧マカロニ工場跡から延びる
神父が考案されたド・ロ壁が見える。 -
洋風建築ではあるが
雨戸が設置されていると説明をして下さる
男性。 -
ノルマンティー出身の神父らしく
雪対策の為に設けられている鍵穴の
カバー。 -
授産場の模型
-
一階は仕切りのない土間の部屋で
作業場として使われた。
パン、マカロニ、ソーメン、醤油の製造
染色工場として使われた。
中央には地下貯蔵庫があり、パン生地などを
発酵させるムロやパン焼窯などもあった。 -
ソーメンをかけて乾燥させるための施設。
-
ここで作られたシーツやマカロニ、パンなどは
長崎の外国人居留地向け、
ソーメンや醤油などは地元向けに販売された。
写真は麺を乾燥している様子。
日々の暮らしは質素だったとしても
女子修道院の前身だった「聖ヨゼス会」から
お嫁に行く娘を送り出す時には、
ご馳走をしてお祝い金を持たせていた、
という記述を目にすると救助院全体が一つの
ファミリーのように機能していたと思われる。 -
神父がローマ字で記載した毎日の授産場での記録。
フランス語かと思うと、日本語をローマ字で
几帳面に書かれている。 -
カンコロ餅を切るための装置。
-
神父自筆の数字が今も残る戸棚。
-
伝統的な軸組工法ではなく
太い梁を固定する際には金具を使用しているのが
ド・ロ神父様式。 -
2階は女性たちの生活場所、礼拝堂があり
織物工場としても使用された。
写真はハルモニュウムを演奏されるシスター。 -
フランス・デュモン社製のオルガンで
一音おすと和音となって音が出る。
他にも驚くほどの多機能があった。 -
神父の手がけた事業は、多岐にわたり
港を整備し防波堤を築き、漁民が港から出入りできる
ようにしたり
農道の整備や、とくに県道の大整備工事の際には
折からの干ばつによる食糧難のときでもあり
五島から大量のカンコロを買い求め原価で配給、
県当局には、工事に出た人には税金面で優遇するように
交渉したり
宗教を超えたところで、深い人類愛の感じられる
ド・ロ神父だったそうだ。 -
ツアーのランチは
すぐそばにある「ヴォスロール」で。
お店の名前の由来は、ド・ロ神父の故郷、
フランスのノルマンディー地方の村の名前による。
ド・ロ様畑と言われる神父が開墾した畑から収穫した
野菜や小麦を材料に、家庭料理や手作りパンが
出されるようだ。
期待度、高かった! -
当日のランチ。
ムニエルやキッシュ、ガレットなどなど
ほかにパスタやお茶が三種類、
お椀のなかにはド・ロ様ソーメンも入っている。
次々と出てきて、おなかもこころもいっぱい! -
店内の様子。
当日は私たちツアーグループの他に
5、6人のグループが食事されていた。 -
当日のハーブティーは
摘みたてのミントとカモミール。
爽やかな香りいっぱいのお茶で
リフレッシュ。
調理コーナーで撮影させていただいた。
日宇スギノさんとおっしゃる素敵な方が店主で
「フェルム・ド・外海」という地域活性化グループの
代表でもある方。 -
食後、外で。
マカロニ工場のあった建物。
パスタ類は長崎居留地の外国の人々に好評だった
ようだ。 -
ド・ロ神父記念館を広場から
見下ろしている。 -
出津文化村広場にあった世界遺産のプレート。
ここから徒歩で外海歴史民俗資料館へ向かい
集合時間まで内部を見学した。 -
1階は民族資料が展示されていて
2階は歴史・宗教・考古の展示フロアとなる。
ロザリオ、マリア観音、キリシタン暦など
特に潜伏キリシタンにまつわるものが多く展示されていて
スピーカーからはオラショが流れていた。 -
展示品の一部。
右下は使用されていた踏絵。 -
再び乗車。
-
バスを降りて
-
「大野教会」へと坂道を上がっていく。
ド・ロ神父が、出津教会建設の後に、近くの
神浦・大野地区の信者の為に設計した巡回教会。
(国指定重要文化財) -
地元産の玄武岩を用いた通称「ド・ロ壁」が特徴の
教会。
信者の皆さんによって、玄武岩が露出している土地を
開墾して建築し、周囲には石垣を築いた。
煉瓦の半円アーチなども見られ、洋風の外観が見られる。 -
最近では信徒数が少なくなったため、普段は使われなく
なったようだ。
それでも当日も教会守りの方が終日立っておられた。
今では祈念のミサが年に一度行われているとのこと。 -
マリア像の先には
木立越しに海(角力灘)が広がっているのが見える。 -
十字架は立てられていないが
屋根瓦の先端には十字架の模様が見られる。 -
-
100年以上も経っているというのに今でも健在なド・ロ壁。
ド・ロ神父が考案し、この外海地区で見られる
赤土を水に溶かした濁液で石灰と砂をこね合わせたもので
自然石を積み重ねていった壁の工法。 -
-
-
このような細い道を
マイクロバスは進んでいく。 -
バスチャン屋敷跡の看板のところから
山中へ徒歩で向かう。
建物全体の写真は撮っていなかったが
跡地には小屋が造られ、周辺の木立は切り払われ
足元が確保されていた。 -
彼はサン・ジワン神父の弟子になり、神父がいなくなってからも
伝道を続けていたが、牧野の山中で捕まり、長崎で処刑された。
バスチャンが遺したものとして
日繰り:1634年の教会暦(グレゴリオ暦)を太陰暦に改編
潜伏生活の中、信徒たちが信仰生活を続けていく上で
大切な役割を果たした。
十字架、椿の十字架
予言:7代後に、コンヘソーロ(告白を聴いてくれる神父)
が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告白)が
できるようになる。
などがあったが、
1865年、プチジャン神父が出津の港を訪れた。潜伏キリシタン
たちは神父がローマ教皇から派遣されてきたことを知り、
7代にわたって待ち続けていた希望が叶ったことを実感した
そうだ。
その後、ド・ロ神父が眠る
野道の共同墓地を左手に見ながらバスは走った。 -
ツアー最後の訪問地「遠藤周作文学館」は
角力灘を眼下に見る地に建設された。
晴れた日には遠く五島列島が望めるそうだ。
建物は西洋の方角に広がる海に向かって
祈る形となっている。 -
テラスに出ると丁度
パラグライダー(?)が悠然と飛んでいた。
写真ではハッキリとはしないが、一緒にトンビ(?)も
グライダーと競うように飛び回っていた。 -
-
外のテラスからエントランスホールに続く足元は
ポルトガル産のテラコッタタイルを使用。
石積みは「温石 おんじゃく」と称されるこの地方独特の
石を使用している。
主に段々畑や棚田の土留めに用いられるが、ここでは
丸くなった「神浦川」の石を積み重ねている。 -
外海の光をテーマに、小説「沈黙」の世界と外海の海をイメージし
青を基調としたステンドグラスが。 -
垂直の帯は光を、
この帯を囲むブルーのガラスに点在する白い点は
波の泡を表しているそう。 -
光が床に写り込んでいる。
-
書斎の様子と愛用品が展示されていた
コーナー。 -
取材旅行
エルサレム市街地で。
写真と共にコメントが付けられていて、
一枚一枚読んでいると
時間が経つのを忘れそう。 -
「死海のほとり」を準備していた頃に何度かのイスラエル
旅行で手に入れたという幾つかのローマ女神像の展示。
「・・・イスラエルは新約聖書の時代、ローマの占領下にあった。
その占領下時代のローマ人たちが自邸に飾ったのか、女神像が「エルサレムの骨董屋にあって、その幾つかを当時、手に入れたものだ。
正直言っていずれも芸術的にいい像とはいえない・・・
しかし、そんなことは私にはどうでもいい。夜、ガラスのケースに
陳列したその像とむきあって、あどけない顔をした女神たちと
向きあいながら、色々なことを考える。」
「仕事部屋の窓から」 文学館のパネルより -
1943年、白鳩寮の僚友たちと御殿場の神山復生病院を慰問。
中央、頬かむりしているのが遠藤周作。
後の狐狸庵先生を彷彿とさせる。
「慶應大学文学部予科に入学後、信濃町のカトリック学生寮
に入っていた。当時、自身のキリスト教信仰への疑問を強めていた
遠藤は、舎監であり哲学者の吉満義彦や堀辰雄の著作を通して
汎神教的な風土で生きてきた日本人が、一神教であるキリスト
教に違和感なく身を委ねられるか、という問題を考えるようになって
いった。」
文学館のパネルより -
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。
それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で
最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、
最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。
この足の痛み、その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって
言った。
踏むがいい。お前の足の痛みをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、
お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。
鶏が遠くで啼いた。
「沈黙」より 文学館のパネルより
拷問に苦しむ信者たちを前にして、遂に踏絵に足をかけようと
している神父の場面の描写が、悲しい。 -
「沈黙」という小説は・・・さまざまな解説や分析を受けた
けれども、私にとって一番大切なことは、外国人である主人公
が、心にいだいていたキリストの顔の変化である。私の主人公
は、心の中に力強い威厳のある、そして秩序をもった、秩序
を支配するようなイエスの顔を持っていた。それは西洋の芸術家
たちが考えていたキリストの顔である。そのようなイエスの
イメージを持ちながら、日本に上陸してきた。そしてまたその
力強いキリストの顔に勇気づけられながら布教をはじめる。
しかしさまざまの困難や挫折のうちに、彼はついに捕らえられて、
踏絵の前に立たされた。彼がはじめて日本で見た、日本人の手
によって作られたキリストの顔は、彼がヨーロッパ人として
考えていた、秩序があり、威厳があり、力強いキリストの顔では
なくて、くたびれ果てた、そしてわれわれと同じように苦しんで
いるキリストの顔だったのである。
(私の文学 「異邦人の立場から」) 文学館のパネルより
写真はかつての師、フェレイラと西勝寺で再会する場面。
司祭は、顔をそらしているフェレイラの眼に突然白い泪が光った
のを見た。日本の黒い着物を着せられ、栗色の毛を日本人のように
結わせられ、そして名まで沢野忠庵と名づけられ・・・しかもなお
生き続けている。主よ。あなたはまだ黙っていられる。こんな人生
にも頑なに黙っていられる。
「沈黙」より 文学館のパネルより -
かつて20代のころ読んだ「沈黙」
当時は著者の深い想いにも触れられず、ただただ
ストーリーを追っていくだけの読み方だったかもしれない。
「沈黙」の舞台となった地が
長崎のどの辺りに位置するのかも良くわからないまま
ツアーに参加し巡ってきて、
次の目的地、五島列島へと更なる興味が湧いてきたのです。
この辺り、夕日が沈む絶景のポイントのようだ。
長崎に通い続けているという参加者のお一人は
ここでツアーを離れ、夕日まで数時間を過ごされるとのこと
だった。
当日の夕日は、さぞかし素晴らしかったことだろう。 -
最後に,
巡ってきた外海の地図を
載せます。
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旅行記グループ
長崎から五島へ
この旅行記へのコメント (10)
-
- Decoさん 2023/06/25 09:22:39
- 青く悲しい海
- mistralさん、おはようございます。
先日、こちらの旅行記を拝見して、今日改めて読み直してみました。
私も以前、知人と外海地区を訪れたことがあります。やはり車で来る人が多く(私たちはレンタカー)、たまにタクシー、なかには路線バスで来られる方もいらしたかも知れません。
mistralさんはバスツアーをご利用されたそうですが、大正解だったと思います。見どころはきっちり廻ってくれますし、個人では行きそこなう場所もありますから。
ド・ロ神父について、私も見学して理解したつもりでいましたが、mistralさんはしっかりと御覧になっていて、勉強になりました。信仰と共に、地元の人々のため苦労された方だと。
ランチも、とても美味しそうで品数もあって、地元の方も頑張っていらっしゃるのだと感動しました。
小説「沈黙」を読んで、遠藤周作文学館を訪れたとき、文学館前の青い海が美しく、それ故に悲しく感じたことは今も強く覚えています。小説ではありますが、主人公はこのような海岸に上陸して、そこから物語が始まったのだろうか…と。
素晴らしい旅行記、ありがとうございました。
Deco
- mistralさん からの返信 2023/06/25 17:48:04
- RE: 青く悲しい海
- Decoさん
こちらにコメントをいただきましてありがとうございました。
> 先日、こちらの旅行記を拝見して、今日改めて読み直してみました。
> 私も以前、知人と外海地区を訪れたことがあります。やはり車で来る人が多く(私たちはレンタカー)、たまにタクシー、なかには路線バスで来られる方もいらしたかも知れません。
> mistralさんはバスツアーをご利用されたそうですが、大正解だったと思います。見どころはきっちり廻ってくれますし、個人では行きそこなう場所もありますから。
再読くださったとのことで、感謝です。
レンタカーで回られたんですね。
その折は、私達は土地勘もありませんし、おあつらえ向きのバスツアーに出会いラッキーでした。
普段はあまりツアーを利用しませんが、ツアーも良いものだとその時に思いました。
確かに説明もきっちりして下さいますし、理解度が上って満足できるツアーでした。
> ド・ロ神父について、私も見学して理解したつもりでいましたが、mistralさんはしっかりと御覧になっていて、勉強になりました。信仰と共に、地元の人々のため苦労された方だと。
> ランチも、とても美味しそうで品数もあって、地元の方も頑張っていらっしゃるのだと感動しました。
ド・ロ神父の生涯につきましては、私財も投げ打って生涯を異国の地で尽くされたこと、
何と言ってよいかわからないくらいの感謝の念でいっぱいでした。
五島、島原、おそらく他の地でも、同じように布教の為にはるばる異国を訪れ、そこで生涯を
終わられた宣教師の方々のことを知る機会が続いています。
自身でははかり知れないほどの信仰心の深さに出会います。
> 小説「沈黙」を読んで、遠藤周作文学館を訪れたとき、文学館前の青い海が美しく、それ故に悲しく感じたことは今も強く覚えています。小説ではありますが、主人公はこのような海岸に上陸して、そこから物語が始まったのだろうか…と。
文学館に設置されている青を基調としたステンドグラスの色彩が、周辺の海を象徴していますね。
私もDecoさんと同じように深い悲しみまでを感じました。
できたら再訪して遠藤周作ワールドにもう一度浸ってみたいです。
ツアー故に時間が充分ではなかったのです。
> 素晴らしい旅行記、ありがとうございました。
お目に留めていただき、ありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
mistral
-
- cokemomoさん 2019/05/26 23:05:26
- 知らなかったことばかりで。
- mistralさん、こんばんは。
宿の手配のあれこれを「わ、大変だ」となぜか笑いながら拝見し始めたのですが、今はなんだかいろいろなことを考えています。
潜伏キリシタンとかくれキリシタンが違うとも知らなかったのですが、何よりも明治以降もずっと今のキリスト教教会に帰依することなく、独自(になってしまった)の信仰を持っている人がいるなんて、思いもかけないことでした。
でも、かくれキリシタンの人の気持ちも分かるような気がします。
ド・ロ神父のことも初めて知りました。
じわじわと感動が・・・照れるし、なんと書いたものか整理もつかないのですが。
それからド・ロ壁も大野教会もとても美しいと思いました。いいなぁ。
ド・ロ様畑というのもいいですね。
遠藤周作よりも狐狸庵先生の方ばかり読んでいたのもかなり昔になってしまいました。
mistralさんが書き起こしてくださった遠藤周作文学館のパネルの文章が、なんだか心にしみて、読んでみようと意欲がわきました。
なんだかまとまりのないコメントで。この旅行記をありがとうございます。
次のグランピングも気になる~。
- mistralさん からの返信 2019/05/27 23:01:14
- RE: 知らなかったことばかりで。
- cokemomoさん
こんばんは。
メッセージを有難うございました。
> 宿の手配のあれこれを「わ、大変だ」となぜか笑いながら拝見し始めたのですが、今はなんだかいろいろなことを考えています。
フライトが取れたのに、宿がなくてはどうしようもありません。
一時は、離れ小島?にあるらしい、釣り人の宿にでも、と真剣に考えたくらいでした。
> 潜伏キリシタンとかくれキリシタンが違うとも知らなかったのですが、何よりも明治以降もずっと今のキリスト教教会に帰依することなく、独自(になってしまった)の信仰を持っている人がいるなんて、思いもかけないことでした。
私も最初は同じように考えていました。
現地に行って、更には旅行記を書くようになって、あちこちの文書を読み、だんだんに
わかってきたのです。
その事を自分の記憶にとどめるため、又確認の意味もあって旅行記に書き始め
だんだんに力が入ってしまいます。中途半端な出来栄えでごめんなさい。
> でも、かくれキリシタンの人の気持ちも分かるような気がします。
そうなんです。
そこがきっと遠藤周作さんもテーマにしたかったのではないかしら?とも思いました。
日本の風土に、本当のキリスト教は根づくことがあったのか?など。
> ド・ロ神父のことも初めて知りました。
> じわじわと感動が・・・照れるし、なんと書いたものか整理もつかないのですが。
命の危険をも顧みず日本に来て、持参されたご自分の財産を全て投げ出されて
布教だけでなく、貧しい人々の暮らしを支えて下さったド・ロ神父、
そのような方の存在を知ったことも、今回の旅の大きな収穫でした。
> それからド・ロ壁も大野教会もとても美しいと思いました。いいなぁ。
> ド・ロ様畑というのもいいですね。
その土地ならではの、風土を生かしたものの美しさ、ですね、きっと。
> 遠藤周作よりも狐狸庵先生の方ばかり読んでいたのもかなり昔になってしまいました。
> mistralさんが書き起こしてくださった遠藤周作文学館のパネルの文章が、なんだか心にしみて、読んでみようと意欲がわきました。
私も若い折りには「沈黙」は一応読み終えたものの、狐狸庵先生シリーズばかりに
偏っていましたが、今回、更に「深い河」もなんとか読み終え、しみじみとした気持ちに
なりました。
> なんだかまとまりのないコメントで。この旅行記をありがとうございます。
> 次のグランピングも気になる?。
cokemomoさんのコメントから、多分、私が受けた感動?揺さぶられた内面?
を受け取ってくださったようで、嬉しかったです。
mistral
-
- ダイスケitさん 2019/05/21 20:01:01
- 充実のバスツアーでしたね
- GWに、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を含む外海地区のキリシタン関連施設の見物に行って来られたとのこと、充実のバスツアーでしたね。私は、昨年12月に仲間10数名と一緒に外海地区の大野集落と出津集落に行って来ましたが、訪れた施設や見物した内容の多さ・詳しさではmistralさんの方がはるかに凌駕する素晴らしいものです。
おまけに、出津集落ではユネスコと世界遺産のロゴマークの銘板の写真も撮っておられる。私は、世界遺産を訪れる度に、御朱印よろしくこの銘板やパネルの写真を楽しみに撮っているのですが、昨年12月の時点では登録後半年でまだなかったように記憶しています。確か、ボランティアガイドさんにお訊ねしたもののご存知なかった。翌々日の大浦天主堂では、教会関係者の方に早期の設置をお願いしてきたのですが、見たところ新しく見えるので半年間の間に進展があったのでしょうか。羨ましい限りです(笑)。
五島列島の旅日記も楽しみにしています。
ダイスケit
- mistralさん からの返信 2019/05/21 21:40:43
- RE: 充実のバスツアーでしたね
- ダイスケitさん
こちらにもメッセージをありがとうございました。
> GWに、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を含む外海地区のキリシタン関連施設の見物に行って来られたとのこと、充実のバスツアーでしたね。私は、昨年12月に仲間10数名と一緒に外海地区の大野集落と出津集落に行って来ましたが、訪れた施設や見物した内容の多さ・詳しさではmistralさんの方がはるかに凌駕する素晴らしいものです。
ありがとうございます。
たまたま参加しましたツアーの内容が
遠藤周作さんの「沈黙」の舞台を巡るツアーということでしたので
充実した見学をすることができました。
個人で回りましたら、それ程たくさんは回れなかったことと思います。
海外でも個人で旅をすることが多く、多分、たくさんの事を見落としている
んだろうと思うことがしばしばあります。
また、ツアーガイドさんのご説明で、一層理解が深まりました。
> おまけに、出津集落ではユネスコと世界遺産のロゴマークの銘板の写真も撮っておられる。私は、世界遺産を訪れる度に、御朱印よろしくこの銘板やパネルの写真を楽しみに撮っているのですが、昨年12月の時点では登録後半年でまだなかったように記憶しています。確か、ボランティアガイドさんにお訊ねしたもののご存知なかった。翌々日の大浦天主堂では、教会関係者の方に早期の設置をお願いしてきたのですが、見たところ新しく見えるので半年間の間に進展があったのでしょうか。羨ましい限りです(笑)。
>
そうでした!
ダイスケitさんは世界遺産の地を巡られ、たくさんの素晴らしいお写真を
ご紹介くださっていますね。
世界遺産の銘板は、たまたま移動する際のついで?!に収めたものでした。
真新しい感じがしましたので、多分、今年になって設置されたものかも
しれませんね。
ラッキーでした。
mistral
-
- マーさん 2019/05/14 17:34:19
- おひさしぶりです。
- 「沈黙」ワタシも学生の頃、初めて読んでその時の印象は少し難しいかな !?
とも感じてたのですが、一昨年入院手術する際にもう一度読んでみたく
なり2日程で読み終わり、やはり年齢を重ねてくると感じ方もまったく違い
ものだなと思いました。
ワタシも以前から、カクレ切支丹は興味が有り mistralさんの旅行記
とても詳細に書かれており、大変参考になりました。
一度は、この外海地区 訪ねてみたいと思ってます。
そして、同じ長崎に赴任されてた マクシミリアン・コルベ神父
先月、その終焉の地 アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所を
訪ねて来ました。
五島列島の旅行記も楽しみにしています。
- mistralさん からの返信 2019/05/14 20:47:08
- Re: おひさしぶりです。
- マーさん
こちらこそ、ご無沙汰しておりました。
マーさんのアウシュヴィッツの旅行記、拝見してきました。
私も2016年秋、ポーランド訪問の折、アウシュヴィッツへ行ってきました。
はからずもコルベ神父の殉教をその折に知り
旅行記にアップしました。
長崎に赴任されていた、ということにも
何やら不思議な感慨がありました。
何とも言えない気持ちになりましたが、その折のガイドさんの中谷さんがおっしゃっていたように、
過去の事実を知り、二度と起こらないようにすることが
私たちの務めのように思いました。
残りのポーランドの旅行記も後で拝見させていただきます。
mistral
-
- sanaboさん 2019/05/14 10:55:21
- 隠れキリシタン
- mistralさん、おはようございます。
10連休となった今年のGW、皆さん早くから予約など
なさってらしたのでしょうね。
ホテル予約に苦労されたようですが、結果オーライで良かったですね。
テントの宿泊施設も興味津々です^^
隠れキリシタンが今もいらっしゃるということは
全く知りませんでしたので、とても驚きました。
そもそも隠れキリシタンとはキリスト教が禁止された時代に
隠れて信仰を抱き続けた人々のことであり、今の時代には
存在しえないと思っていました。
隠れキリシタンとしての信仰の在り方が本来のカトリック教とは
異なる形で今の世まで伝承されたのは、信仰を貫いた先祖に対する
強い思いがあったからこそかもしれませんね。
映画『沈黙-サイレンス』を観てみたくなりました。
sanabo
- mistralさん からの返信 2019/05/14 20:34:47
- Re: 隠れキリシタン
- sanaboさん
こんばんは。
早速のコメントをありがとうございます。
10連休もの長いお休み、普通でしたら早くから準備を
する事でしょうね。
それも世界遺産に登録されて間もない地ですもの。
最初はフライトが取れたのに宿がない!?と焦りました。
確かに結果は、オーライ。
なんとか行ってきました。
私も最初は潜伏とかくれ、キリシタン
同じ意味と思っていました。
現地に行って説明を受け、初めてわかりました。
禁教だった時代に信仰を持っていた方が、潜伏キリシタン
キリスト教が認められて以降も、密かに信仰を持たれている方をかくれキリシタンとよぶそうです。
いまだにそのような方がおられることにも驚きました。
映画、沈黙、旅行前に見始めたたのですが
描写が残酷な場面も多く、途中でやめてしまい、小説を
改めて読み直しました。
若い頃の印象と、今、とし取ってから受ける印象は
随分大きな開きがあって驚きました。
そういった意味からも、最後に訪れた遠藤周作さんの記念館は、著者の生き様、キリスト教に対する姿勢などなど
学ぶことがたくさんありました。
旅行記では舌足らずの説明となり、申し訳ありません。
mistral
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