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 「秦野市田原ふるさと公園」にある史跡「源実朝公御首塚」を訪れた。毎年11月23日に御首塚と田原ふるさと公園で実朝まつりが開催され、実朝の供養や稚児行列などが行われている。<br /> 先月に鎌倉国宝館で木造五輪塔(https://4travel.jp/travelogue/11451416)を見たばかりだ。源実朝の墓(https://4travel.jp/travelogue/10609078)として、壽福寺に五輪塔が建っているが、首塚に五輪塔が建てられていることから、五輪塔が建てられたのだろう。首のない亡骸は勝長寿院に法華堂が建てられて葬られたであろうから、勝長寿院には供養塔もなかったのだろう。壽福寺にある母・北条政子の墓(https://4travel.jp/travelogue/10601806)にも五輪塔が建てられているのは、子・実朝の墓に建てられた五輪塔に合わせたのだろう。あるいは、安養院には北条政子のものされる宝篋印塔が残っている。北条政子も勝長寿院に法華堂が建てられて葬られたであろうから、勝長寿院には供養塔もなかったはずだ。<br /> 一方、父・源頼朝の墓(https://4travel.jp/travelogue/10522640)は五層塔であるが、これは勝長寿院にあった頼朝の供養塔を運んだものとも伝えられている。たった四半世紀余りの間に亡くなった親子でもその墓石の形式が異なっているのも不思議な気がする。<br />(表紙写真は源実朝の首塚に建つ五輪塔)

源実朝の首塚

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2019/02/24 - 2019/02/24

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 「秦野市田原ふるさと公園」にある史跡「源実朝公御首塚」を訪れた。毎年11月23日に御首塚と田原ふるさと公園で実朝まつりが開催され、実朝の供養や稚児行列などが行われている。
 先月に鎌倉国宝館で木造五輪塔(https://4travel.jp/travelogue/11451416)を見たばかりだ。源実朝の墓(https://4travel.jp/travelogue/10609078)として、壽福寺に五輪塔が建っているが、首塚に五輪塔が建てられていることから、五輪塔が建てられたのだろう。首のない亡骸は勝長寿院に法華堂が建てられて葬られたであろうから、勝長寿院には供養塔もなかったのだろう。壽福寺にある母・北条政子の墓(https://4travel.jp/travelogue/10601806)にも五輪塔が建てられているのは、子・実朝の墓に建てられた五輪塔に合わせたのだろう。あるいは、安養院には北条政子のものされる宝篋印塔が残っている。北条政子も勝長寿院に法華堂が建てられて葬られたであろうから、勝長寿院には供養塔もなかったはずだ。
 一方、父・源頼朝の墓(https://4travel.jp/travelogue/10522640)は五層塔であるが、これは勝長寿院にあった頼朝の供養塔を運んだものとも伝えられている。たった四半世紀余りの間に亡くなった親子でもその墓石の形式が異なっているのも不思議な気がする。
(表紙写真は源実朝の首塚に建つ五輪塔)

  • 史跡「源実朝公御首塚」。

    史跡「源実朝公御首塚」。

  • 三重石塔。三重は珍しい。

    三重石塔。三重は珍しい。

  • 「波多野金槐植物苑」。

    「波多野金槐植物苑」。

  • 史跡「源実朝公御首塚」。

    史跡「源実朝公御首塚」。

  • 源実朝の首塚に建つ五輪塔。

    源実朝の首塚に建つ五輪塔。

  • 「首塚碑」(大正8年(1919年)銘)。

    「首塚碑」(大正8年(1919年)銘)。

  • 実朝の歌碑。

    実朝の歌碑。

  • 「秦野市指定史跡 源実朝公御首塚 昭和四十六年七月二十六日指定」看板。<br /><br /> 「ここは若くして非業の最後を遂げた鎌倉幕府三代将軍源実朝の首塚と伝えられている 実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の子として生まれ、建仁三年(一二〇三年)二月に十二歳で鎌倉幕府三代将軍となり、建保六年(一二一八年)十二月に、武士として初めて右大臣となった人物である。<br />」実朝は建仁七年(一二一九年)正月二十七日、右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮へ参拝した際に、二代将軍頼家の子、公暁により命を奪われた。『吾妻鑑』には、首のないまま埋葬されたと記されており、首を持ち去った公暁が討れたのちの首の行方については一切触れられていない。<br /> <br />暗殺されます。公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走しました。しかし、義村には北条氏より公暁追討が命じられていたため、公暁は義村の家来に殺されてしまいます。その時以来、実朝の首は行方不明となり、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られました。この失われた首を三浦の武将武常晴が探し出し葬ったのが、東田原の御首塚であると伝えられています。<br /> 多くの謎の残る事件ではあるが『新編相模国風土記稿』(一八四一年)の東田原村の項に「源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建り 承久元年(一二一九年)武常晴 実朝の首級を当所に持来り」という記述がある。この武常晴は三浦半島<br />地域を本拠地とした御家人、三浦氏の家臣であり、のちに一族は現在の当市寺山に移り住んだといわれている。なお、ここからほど近い金剛寺には、源実朝像が安置されている。<br /> 実朝は歌人としても名高く、私家集に『金槐和歌集』がある。歌碑に刻まれた和歌はそれに納められた一首であり、近代を代表する歌人のひとりである佐佐木信綱の筆によるものである。<br /> <br /> ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも<br />       あわれなるかや 親の子をおもふ<br />               秦野市教育委員会」。

    「秦野市指定史跡 源実朝公御首塚 昭和四十六年七月二十六日指定」看板。

     「ここは若くして非業の最後を遂げた鎌倉幕府三代将軍源実朝の首塚と伝えられている 実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の子として生まれ、建仁三年(一二〇三年)二月に十二歳で鎌倉幕府三代将軍となり、建保六年(一二一八年)十二月に、武士として初めて右大臣となった人物である。
    」実朝は建仁七年(一二一九年)正月二十七日、右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮へ参拝した際に、二代将軍頼家の子、公暁により命を奪われた。『吾妻鑑』には、首のないまま埋葬されたと記されており、首を持ち去った公暁が討れたのちの首の行方については一切触れられていない。
     
    暗殺されます。公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走しました。しかし、義村には北条氏より公暁追討が命じられていたため、公暁は義村の家来に殺されてしまいます。その時以来、実朝の首は行方不明となり、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られました。この失われた首を三浦の武将武常晴が探し出し葬ったのが、東田原の御首塚であると伝えられています。
     多くの謎の残る事件ではあるが『新編相模国風土記稿』(一八四一年)の東田原村の項に「源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建り 承久元年(一二一九年)武常晴 実朝の首級を当所に持来り」という記述がある。この武常晴は三浦半島
    地域を本拠地とした御家人、三浦氏の家臣であり、のちに一族は現在の当市寺山に移り住んだといわれている。なお、ここからほど近い金剛寺には、源実朝像が安置されている。
     実朝は歌人としても名高く、私家集に『金槐和歌集』がある。歌碑に刻まれた和歌はそれに納められた一首であり、近代を代表する歌人のひとりである佐佐木信綱の筆によるものである。
     
     ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも
           あわれなるかや 親の子をおもふ
                   秦野市教育委員会」。

  • 石材。

    石材。

  • 穴の開いた石。手水鉢か?

    穴の開いた石。手水鉢か?

  • 「秦野市指定重要文化財 源実朝公御首塚」。

    「秦野市指定重要文化財 源実朝公御首塚」。

  • 参道。

    参道。

  • 史跡「源実朝公御首塚」の木立。

    史跡「源実朝公御首塚」の木立。

  • 史跡「源実朝公御首塚」の木立。

    史跡「源実朝公御首塚」の木立。

  • 史跡「源実朝公御首塚」の木立。

    史跡「源実朝公御首塚」の木立。

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