山陰の名城巡りです。江戸初期、湊山に築かれた現在に残る米子城跡は、山頂に本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置きました。戦国時代の米子城の主郭だった飯山は、出丸として利用されました。

2018春、山陰の名城巡り(11/24):3月19日(1):米子城(1):登り石垣、雨中の登山、椿の落花、番所跡、本丸石垣

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2018/03/18 - 2018/03/19

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旅人のくまさん

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山陰の名城巡りです。江戸初期、湊山に築かれた現在に残る米子城跡は、山頂に本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置きました。戦国時代の米子城の主郭だった飯山は、出丸として利用されました。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 松江駅前近くで泊まったホテルのロビー光景です。松江駅は利用しませんでしたが、駅の北口から歩いて3分と紹介されていた、『松江エクセルホテル東急』でした。

    松江駅前近くで泊まったホテルのロビー光景です。松江駅は利用しませんでしたが、駅の北口から歩いて3分と紹介されていた、『松江エクセルホテル東急』でした。

  • 松江駅前近くで泊まったホテルの、内側から眺めた玄関光景です。ネット情報では、開業35周年を迎えたホテルのようでした。

    松江駅前近くで泊まったホテルの、内側から眺めた玄関光景です。ネット情報では、開業35周年を迎えたホテルのようでした。

  • 松江駅前近くで泊まったホテルの朝食会場の光景です。レストラン『MOSOLO』の出入口光景です。ライブ・キッチンの表示もありました。内部の写真撮影は省略しました。『MOSORO(モソロ)』とは、出雲風土記の中にある国引き伝承の『もそろもそろ』という擬音表現と紹介されていました。

    松江駅前近くで泊まったホテルの朝食会場の光景です。レストラン『MOSOLO』の出入口光景です。ライブ・キッチンの表示もありました。内部の写真撮影は省略しました。『MOSORO(モソロ)』とは、出雲風土記の中にある国引き伝承の『もそろもそろ』という擬音表現と紹介されていました。

  • 予定の時刻に松江のホテルを出発し、米子城に到着しました。その登山道の近くに建てられていた、『湊山公園案内図』のタイトルがあった道案内看板の光景です。本丸がある山頂までは約15分と記されていました。

    予定の時刻に松江のホテルを出発し、米子城に到着しました。その登山道の近くに建てられていた、『湊山公園案内図』のタイトルがあった道案内看板の光景です。本丸がある山頂までは約15分と記されていました。

  • 小雨の中での登山となりました。旅行案内に記されていたように、大多数の方が雨合羽と雨傘持参でした。標高90メートルとされる湊山山頂までは約15分の行程です。

    小雨の中での登山となりました。旅行案内に記されていたように、大多数の方が雨合羽と雨傘持参でした。標高90メートルとされる湊山山頂までは約15分の行程です。

  • 登山道は平地も坂道も整備されていました。その登山道に散り敷いた赤い椿の花弁光景です。『ヤブツバキ(藪椿)』のようでした。

    登山道は平地も坂道も整備されていました。その登山道に散り敷いた赤い椿の花弁光景です。『ヤブツバキ(藪椿)』のようでした。

  • 写真を撮りながら、最後尾を歩きました。小雨でしたから、写真撮影にはさほど影響はありませんでした。前を歩く方との距離が、大分開いてしまったようです。

    写真を撮りながら、最後尾を歩きました。小雨でしたから、写真撮影にはさほど影響はありませんでした。前を歩く方との距離が、大分開いてしまったようです。

  • 『米子城』は、『山城(やまじろ)』ではなく、『平山城(ひらやまじろ、ひらやまじょう)』に分類されたお城です。平野の中にある山、丘陵等に築城された城のことを指します。江戸時代の軍学者によって分類された、地形による城の分類法の一つとされます。

    『米子城』は、『山城(やまじろ)』ではなく、『平山城(ひらやまじろ、ひらやまじょう)』に分類されたお城です。平野の中にある山、丘陵等に築城された城のことを指します。江戸時代の軍学者によって分類された、地形による城の分類法の一つとされます。

  • 振り返って眺めた登り坂部分の光景です。段差を低く抑えた石段が整備されていました。これだけ登りやすい山道ですから、戦国時代や江戸時代の登城路ではないかも知れませんが、まだ調べていません。

    イチオシ

    振り返って眺めた登り坂部分の光景です。段差を低く抑えた石段が整備されていました。これだけ登りやすい山道ですから、戦国時代や江戸時代の登城路ではないかも知れませんが、まだ調べていません。

  • 右手情報に見えていた、『登り石垣』らしい遺構の光景です。『登り石垣(のぼりいしがき)』は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島の倭城の防備を固めるために採られた石垣普請の手法とされます。日本に現存するお城の『登り石垣』は、松山城、彦根城や米子城など、わずかに残るだけです。

    右手情報に見えていた、『登り石垣』らしい遺構の光景です。『登り石垣(のぼりいしがき)』は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島の倭城の防備を固めるために採られた石垣普請の手法とされます。日本に現存するお城の『登り石垣』は、松山城、彦根城や米子城など、わずかに残るだけです。

  • 同じく、登山度の右手に見えていた『登り石垣』の光景です。城の守にもなった施設です。文禄・慶長の役において、大名達が築いた倭城の多くは、見晴らしの良い小高い丘や山の上でした。この倭城と物資補給の拠点となる港を取り囲むように山腹の両側に築かれた日本式の石垣が、『登り石垣』とされます。

    同じく、登山度の右手に見えていた『登り石垣』の光景です。城の守にもなった施設です。文禄・慶長の役において、大名達が築いた倭城の多くは、見晴らしの良い小高い丘や山の上でした。この倭城と物資補給の拠点となる港を取り囲むように山腹の両側に築かれた日本式の石垣が、『登り石垣』とされます。

  • 『湊山の植物と野鳥』のタイトルがあった説明看板の光景です。湊山は、都市部に隣接するものの、多くの暖帯性の植林生態が保っていることが紹介されていました。イラストで紹介されていた鳥類は、雉やエナガ、コゲラなどの16種でした。

    『湊山の植物と野鳥』のタイトルがあった説明看板の光景です。湊山は、都市部に隣接するものの、多くの暖帯性の植林生態が保っていることが紹介されていました。イラストで紹介されていた鳥類は、雉やエナガ、コゲラなどの16種でした。

  • 左側に見える道案内標識には、左向きの矢印で『内膳丸跡』の表示がありましたが、こちらは、本丸見学の後に立寄ることにしました。『内膳丸跡頂上』と纏めて読んでしまいそうですが、『頂上』は本丸方面のことで、右向きの矢印でした。ちょっと紛らわしい表示です。

    左側に見える道案内標識には、左向きの矢印で『内膳丸跡』の表示がありましたが、こちらは、本丸見学の後に立寄ることにしました。『内膳丸跡頂上』と纏めて読んでしまいそうですが、『頂上』は本丸方面のことで、右向きの矢印でした。ちょっと紛らわしい表示です。

  • 先程の『内膳丸跡』標識の右奥に見えていた道案内標識の紹介です。右向きの矢印で『本丸跡』と『二の丸』が記されていました。今回は、残念ながら『二の丸』に立寄る時間はありませんでした。

    先程の『内膳丸跡』標識の右奥に見えていた道案内標識の紹介です。右向きの矢印で『本丸跡』と『二の丸』が記されていました。今回は、残念ながら『二の丸』に立寄る時間はありませんでした。

  • 赤い印が付いた杭が見えましたから、発掘調査箇所のようです。『登り石垣』に関連する遺跡部分のようでした。『登り石垣』は、『内膳丸』から『本丸』に向かって、最短距離で伸びていたようです。<br />

    赤い印が付いた杭が見えましたから、発掘調査箇所のようです。『登り石垣』に関連する遺跡部分のようでした。『登り石垣』は、『内膳丸』から『本丸』に向かって、最短距離で伸びていたようです。

  • 左手前に見える黄色の道案内標識には、『米子城跡・登り口』の文字が見えました。麓の登り口では『頂上まで約15分』の表示でしたが、ここでもまだ『10分~15分』の表示でした。少しばかりがっかりです。

    左手前に見える黄色の道案内標識には、『米子城跡・登り口』の文字が見えました。麓の登り口では『頂上まで約15分』の表示でしたが、ここでもまだ『10分~15分』の表示でした。少しばかりがっかりです。

  • 左下を指した道案内標識には、『二の丸』と『桝形』が表示されていました。今回は見学する時間がありませんでしたが、ネット情報で遺跡を確認しておきました。『二の丸』は、城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた場所で、その入口に、東西25.4メートル、南北22.7メートルの桝形があるようです。

    左下を指した道案内標識には、『二の丸』と『桝形』が表示されていました。今回は見学する時間がありませんでしたが、ネット情報で遺跡を確認しておきました。『二の丸』は、城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた場所で、その入口に、東西25.4メートル、南北22.7メートルの桝形があるようです。

  • 『二の丸』と『桝形』が表示されていた方向の石段光景です。こちらの登山道も整備されているようでした。歩き易い道でも、濡れた落葉が重なっている場所は滑りやすく、要注意です。滑って転んだ経験からの反省事項です。

    『二の丸』と『桝形』が表示されていた方向の石段光景です。こちらの登山道も整備されているようでした。歩き易い道でも、濡れた落葉が重なっている場所は滑りやすく、要注意です。滑って転んだ経験からの反省事項です。

  • 石段の道が途切れて、簡易舗装の道に代わりました。高低差がほとんどない、平坦な道になったためでした。その先には、また石段の道が見えていました。左手が谷側、右手が山側の山道です。

    石段の道が途切れて、簡易舗装の道に代わりました。高低差がほとんどない、平坦な道になったためでした。その先には、また石段の道が見えていました。左手が谷側、右手が山側の山道です。

  • 本丸がある山頂が近付いてきたようです。左奥に見えるのは、『番所郭跡』の石垣です。本丸は、この写真の右手方面になります。

    本丸がある山頂が近付いてきたようです。左奥に見えるのは、『番所郭跡』の石垣です。本丸は、この写真の右手方面になります。

  • 米子城跡に残された、見事な本丸石垣の光景です。右端と左端に一段高くなった石垣が、櫓台になります。右側が天守があった天守台、左側が四重櫓があった櫓台です。

    イチオシ

    米子城跡に残された、見事な本丸石垣の光景です。右端と左端に一段高くなった石垣が、櫓台になります。右側が天守があった天守台、左側が四重櫓があった櫓台です。

  • 本丸跡に登る前に眺めた麓方面の光景です。木立が育って、麓方面の光景を遮っていましたが、落葉樹の間から、僅かに家並みが見えました。

    本丸跡に登る前に眺めた麓方面の光景です。木立が育って、麓方面の光景を遮っていましたが、落葉樹の間から、僅かに家並みが見えました。

  • 同じく、本丸跡に登る前に眺めた麓方面の光景です。こちらの方角は前ぽの視野を妨げる木々は少なくなりました。中央やや右寄りに、整地された広い広場のようなものが見えました。確認はできませんでしたが、今は市営湊山庭球場になった『二の丸跡』、もしくは野球場がある『三の丸』かも知れません。

    同じく、本丸跡に登る前に眺めた麓方面の光景です。こちらの方角は前ぽの視野を妨げる木々は少なくなりました。中央やや右寄りに、整地された広い広場のようなものが見えました。確認はできませんでしたが、今は市営湊山庭球場になった『二の丸跡』、もしくは野球場がある『三の丸』かも知れません。

  • 纏まって標識があった場所の光景です。右側の標識には、上向きの左側方面に『天守閣跡』、下向きの右側方面に、『二の丸跡』と『内膳丸跡』が記してありました。左側の白い標識は、おまけに付いたような『降り口』の表示でした。

    纏まって標識があった場所の光景です。右側の標識には、上向きの左側方面に『天守閣跡』、下向きの右側方面に、『二の丸跡』と『内膳丸跡』が記してありました。左側の白い標識は、おまけに付いたような『降り口』の表示でした。

  • 振り返って眺めた、登ってきた方向の光景です。石段を登ったはずですが、この位置からはその石段は見えませんでした。右手に見える石垣は、『番所跡』の石垣か、その付近の虎口の石垣になるようです。

    振り返って眺めた、登ってきた方向の光景です。石段を登ったはずですが、この位置からはその石段は見えませんでした。右手に見える石垣は、『番所跡』の石垣か、その付近の虎口の石垣になるようです。

  • 『番所跡』の文字が記された標識の光景です。天守付近を警護するため、昼夜を違わず守備兵が見張りに立っていたようです。天守に向かう途中、左手に見えていた石垣の上になります。

    『番所跡』の文字が記された標識の光景です。天守付近を警護するため、昼夜を違わず守備兵が見張りに立っていたようです。天守に向かう途中、左手に見えていた石垣の上になります。

  • この辺りも『番所跡』になるようです。先程の標識の側面には、7.27メートル四方の役人詰所があったことが記されていました。尺貫法での表現では、四間四方の建物だったようです。

    この辺りも『番所跡』になるようです。先程の標識の側面には、7.27メートル四方の役人詰所があったことが記されていました。尺貫法での表現では、四間四方の建物だったようです。

  • 真下から見上げた櫓台の光景です。天守台ではなく、四重櫓があった櫓台です。幕末の改修とされる櫓台です。天正19年(1591年)に城主となった吉川広家が建てた初代の天守といわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に『四重櫓』と呼んで存続させたという伝承があります。発掘調査資料には、『打込み接ぎ、谷落し積、算木積み』の石垣と紹介されていました。

    イチオシ

    真下から見上げた櫓台の光景です。天守台ではなく、四重櫓があった櫓台です。幕末の改修とされる櫓台です。天正19年(1591年)に城主となった吉川広家が建てた初代の天守といわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に『四重櫓』と呼んで存続させたという伝承があります。発掘調査資料には、『打込み接ぎ、谷落し積、算木積み』の石垣と紹介されていました。

  • 切込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。亀甲積の部分も見えました。吉川広家が建てた『四重櫓』は、規模を考慮して『古天守』や『副天守』とも呼ばれます。独立式望楼型3重4階の大型櫓で、初重平面形は不整形、石落としや出張がありました。天守と同じく、最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆ったことが分かっています。

    切込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。亀甲積の部分も見えました。吉川広家が建てた『四重櫓』は、規模を考慮して『古天守』や『副天守』とも呼ばれます。独立式望楼型3重4階の大型櫓で、初重平面形は不整形、石落としや出張がありました。天守と同じく、最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆ったことが分かっています。

  • 天守台方向の石垣の光景です。腰郭のような長石垣が下部に続いていました。高石垣を分割して積んだものかもしれません。発掘調査資料には、『控え石垣』と表現してありました。石垣の上に樹木の光景がなく、平削して地盤がいい場所なのか、石垣に歪みや孕みなどは見受けられないようでした。

    天守台方向の石垣の光景です。腰郭のような長石垣が下部に続いていました。高石垣を分割して積んだものかもしれません。発掘調査資料には、『控え石垣』と表現してありました。石垣の上に樹木の光景がなく、平削して地盤がいい場所なのか、石垣に歪みや孕みなどは見受けられないようでした。

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