2018/10/16 - 2018/10/17
208位(同エリア1493件中)
クッキーさん
函館から青森へ移動。青森駅に着いたのは夕闇迫るころ。
翌日には 八甲田山ロープウェイで山頂公園駅へ。周辺の田茂萢岳自然研究路 60分コースのお手軽ハイキング。
市内へ戻る途中 三内丸山遺跡へ。期待以上の施設見学を満喫した後、棟方志功ミュージアムへ寄り、版画の世界に没入。
最後は 青森ベイエリアの散策という、盛りだくさんな一日でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
新青森駅17:39発、青森駅17:45着。
めぼしいお土産をチェックしておきます。 -
青森駅から歩いてハイパーホテルズパサージュへ。
スーツケースを広げると 身動きもままならないほどの狭小スペース。
寝るだけとはいえ、この狭さで2泊は ちょっとへこみました。
喫煙ダブルルーム・朝食込みで2泊14,000円。 -
チェックインを済ませた後は、夕食をとるためにお出かけ。
ホテルのスタッフにお勧めを伺い、チェックもしていたこちらの居酒屋・鱒の介へ。 -
メニューです。
-
訪れた時には まだ空席がありましたが、出る頃には満席でした。
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翌日の早朝、青森駅のバス乗り場へ。相変わらず インバウンドの観光客であふれています。
8:15発のバスで 八甲田山へ向かいます。 -
十和田八幡平国立公園。
この辺りは 紅葉はまだのようですが、緑がきれい。 -
バスは 途中の萱野茶屋で一時停車。トイレ休憩を兼ねていたようです。
この樹形は 欅でしょうか。 -
ロープウェイ駅前で下車。
立錐の余地もないほどのロープーウェイに乗り 頂上へ。
八甲田ロープウェイは山麓駅から山頂駅まで高低差650mを一気に登ります。
ロープーウェイに乗っている間は 紅葉した山々が望めたのですが、着いたとたんに現れたのは この光景です。
山の天気は変わりやすいといいますが、本当に一瞬のうちの変化でした。 -
9:55
八甲田ロープウェイ山頂公園駅もガスの中。
ロープウェイ乗り場でじっと待っていても仕方がないので、 -
ハイキングコースに向かいます。
これだけガスっていると 眺望は望むべくもありませんが…歩いて行く先くらいは見えているのが せめてもの救い。
田茂萢岳自然研究路 は「八甲田ゴードライン」という名前。こちらは、山頂公園駅から湿地帯に続く約1時間の散策コースです。
この八甲田ゴードラインの「ゴード」とは、ひょうたんという意味で、遊歩道が8の字の形に整備されていることからこのコースの名がついた、のだそう。
まさに、天空の庭園遊歩道な感じで自然を肌で感じながらトレッキングできます。 -
どこかから人の声が聞こえてきました。
下に見える湿原からのようです。 -
垂れこめていたガスが 少し薄くなり、やや遠くまで見通せるようになってきました。
さきほど上から見下ろしていた田茂萢湿原まで下ってきました。
展望デッキからは田茂萢湿原の草紅葉が見渡せます。どちらかといえば、新緑の頃の湿原を見たかった。 -
歩道は整備されているところとされていないところがあるので、あまり汚れないようにと気を付けながら…。
-
10:24
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田茂萢岳自然研究路 60分コースを頑張っています。
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天候が良ければ、下北半島から津軽海峡 さらに条件がよければ北海道まで眺望できるそうですが、この日の眺望はこのくらい。
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アオモリトドマツ(オオシラビソ)などの針葉樹や 稜線にはハイマツが茂っています。
ナナカマドやミヤマハンノキなどの低木が混成。 -
展望台から。
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まだガスがとれません。
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ハイキングコースとはいっても、山道だから 上がったり下ったり。
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山頂公園駅が見えてきました。あそこまで上がっていくんですね。
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樹氷は いつかは見てみたいものの一つ。
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10:58
60分コースを歩いてきました。
ロープウェイ乗り場は 上がってきた人、これから下りる人で ごった返していました。
待合室には 四季折々の写真が飾られています。紅葉真っ盛りの景色は、写真で想像します。 -
ロープウェイで下りる頃になって この天気。
紅葉と海と空のコントラスト。 -
窓の外に見える景色が壮観。ブナやカエデ、ダケカンバなどが色づき複数の山々全体が紅葉に染まって 見事な錦模様が広がっています。まるで空中を散歩しているかのよう。
ただ 想像していたような色合いとは違っていますが… -
最後に 下りてきた方を振り返ります。
-
山麓駅には 手荷物一時預かり所もあります。
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八甲田ロープウェイ山麓駅。
右奥にある食堂で おそばでランチ。 -
ロープウェイを降りて、青森に戻るバスを待つ間に 辺りを散策。
冬場は ここがスキーコースになるようです。 -
十和田八幡平公園。
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八甲田山系。
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12:50
青森に戻るバスを 途中で降りて、三内丸山遺跡へ。
青森市南西部の八甲田山系からのびる緩やかな丘陵の先端部、沖館川右岸の標高約20mの段丘上に立地する、縄文時代前期中頃から中期末(紀元前3,900年~紀元前2,200年頃)の 国内最大規模の縄文遺跡で、その広さと巨大さから従前までの縄文文化のイメージを大きく塗り替えた遺跡です。 -
三内丸山遺跡は、石器時代に日本で花開いた縄文文化の後半に形成された集落跡です。エジプト文明やメソポタミヤ文明とほぼ同時期に出現、と聞くと 縄文時代のイメージが変わります。
この頃の世界の気温は最後の氷河期が1万年ほど前に終わり、以後上昇を続け ちょうどピークを迎えた時期で、平均気温は2度ほど高かったといわれてます。その後気温は寒冷化し現在の気温となりますが、三内丸山遺跡が放棄された年代と寒冷化が進んだ時代がほぼ一致していることから、三内丸山遺跡の終焉と地球の寒冷化は密接な関係があるのではないかと推測されています。 -
ボランティア・ガイドさんと共に、時遊トンネルをくぐって遺跡空間へ。
出口は さりげなくまわりの風景に溶け込んでいます。 -
いざ、縄文の世界へ。
縄文の道。
道路跡は 地面を削って作られていて、幅約7~12mあり、集落の東側へ約420m、南側へ30m延びています。
現在の園路は その道路跡に設定されたもの。 -
環状配石墓は 大人の墓のまわりを石で囲んだもので、大きさは直径約4m。
南側に延びる道路跡に沿った斜面に 並列に作られています。 -
三内丸山遺跡のすごさ…つまり特徴を 3つのキーワードを用いて表現すると、
(1)大きい
遺跡の推定範囲は、約35ヘクタールで、東京ドーム7個分、最大級の縄文遺跡だ。しかも、計画的に住居、墓、倉庫、ゴミ捨て場が配置されていた。
(2)長い
土器の編年から、縄文時代前期から中期にかけての約1500年間、遺跡が継続していたことがわかった。
(3)多い
出土遺物の量が、膨大だった。縄文遺跡の宝庫・青森県全体の40年分の遺物が、一つの遺跡から出現した。
・・関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より -
見渡すと、少し向こうに見える 大型竪穴住居と大型掘立柱建物。
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でも まずガイドさんの誘導で南盛土へ。
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縄文のムラに似つかわしくない このシェルターのようなものは何だろうと思っていたら…
-
シェルターの中では 発掘時の様子を見ることができるのです。
縄文人は燃えるゴミと燃えないゴミを分別し、1000年にわたって同じ場所に捨て続けたそうです。ここ 南盛土では大量の土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが土と一緒に捨てられ、約1000年間で丘のようになったのです。 -
縄文時代のイメージそのままの 竪穴建物。
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左手には 掘立柱建物。
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大型竪穴住居跡の説明を受けて、
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皆一斉に カメラを向けます。
こういった穴だけでは 当時の様子を想像するのは難しい。 -
三内丸山の集落には 最盛期で500人が住み、100棟の住居があったといいいます。
これまでに550棟以上見つかっており、15棟の竪穴住居が復元されています。
えっ?数が合いませんが… -
竪穴住居。
-
竪穴住居の入り口。
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床は地面を掘り込んで柱を立て 屋根をかけています。
中央には炉があります。 -
中へは 自由に入れます。
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大人の墓(土抗墓)。
大人は、地面に彫られた墓に埋葬されました。墓は道路をはさんで向かい合うように配置され、約500基見つかっています。
集団墓地があることは世代交代を繰り返し定住生活を営んでいた証だそう。
縄文人の一番の特徴が「争い」の痕跡が見つからないことです。後の弥生時代になると防衛用の矢倉や柵、堀、そして矢尻や刃物で傷ついた骨が出土するようになりますが、縄文時代の遺跡では ほとんど見つからないのだとか。 -
堀立柱建物。
地面に穴を掘り、柱を立てた建物跡。
遺跡中央部分でまとまって見つかりました。周辺及び内側に生活の痕跡が発見できなかったため、高床式建物であった可能性が高いと判断され 復元されたもの。
ガイドさんは、あくまでも想像上の復元だと 繰り返しおっしゃっていました。 -
大人の墓の向こう側。
-
北の谷(泥炭層)
この谷はゴミ捨て場でした。水分が多く空気からもさえぎられていたので、木製品や漆器、動物や魚の骨、植物の種子などが残っていました。
考古学者にとっては宝の山ですね。
鯛やヒラメ、栗等を食べていた跡が見つかり、意外と豊かな食生活を送っていたようです。 -
北盛土。
たくさんの土器や石器が土と一緒に捨てられた場所です。 -
こわれた土器が広がっています。
-
後ろに見えるのは子供の墓(埋設土器)。空調の整ったドームで保護されています。
子供は、土器に入れた埋葬されました。穴を開けたり底を抜いた土器の中に 握りこぶし大の丸い石が1~2個入れてあるものもあります。
これまでに、800基以上見つかっています。 -
三内丸山遺跡はもともとは県営の野球場が建設される予定地でした。青森県も従来よりそこに大規模な縄文遺跡があるということは認識していたのですが、いざ工事に着手すると縄文時代最大級の集落跡であることがわかってきたのです。
しかし、多額の税金を投入して 野球場の建設は始まり、一部の遺跡はすでに破壊・撤去処分され 三塁側のスタンドはほぼ完成状態になっていました。「野球場建設は中止しない」と正式なコメントまで発表していました。
税金を投入して始まった事業を中止するのは大変なこと、当時 青森県サイドはまだ三内丸山遺跡は考古学上大きな価値はあっても 世論や納税者を納得させるだけの力はないと判断していたのです。 -
そんな時に発見されたのが 直径約1mの破格の大きさをもつクリの巨木を6本立てた大型掘立柱建物跡です。世界でも類を見ない巨大な木造建設物跡がみつかったというニュースは瞬く間に日本中を駆けめぐり、青森県はおろか全国のマスコミや国民が三内丸山遺跡の存在を知り、世論は一斉に保存の方向に傾きます。縄文の時代観を根底から揺るがす“超一級の縄文遺跡”という折り紙が付けられたのです。
このため、青森県は 野球場建設中止・遺跡保存の方向に方針を急転換し、三内丸山遺跡は今に残されたのです。
「大型堀建柱跡」は三内丸山遺跡の救世主なのです。 -
遺跡のシンボルともいえる大型掘立柱建物は、佐賀県の吉野ケ里遺跡(弥生時代)の物見やぐらを2m近く上回る高さ14.7mの三層構造の高床式の建物として復元されました。
巨大柱の性格については、「建物説」と木柱列論に立つ「非建物説」の2つの流れに分かれ、「物見やぐら」「神殿」「灯台」「ウッド・サークル」など様々な説が唱えられ大論争に発展しましたが、いまだその用途を特定するには至っていません。 -
6本柱建物跡を復元するに当たり、青森県は屋根付きの建物を想定したが、「非建物説」を主張する人々の反論で、結果的には屋根なしの三階建てという中途半端な復元になったのだとか。
確実に分かっているのは、直径約1mの6本のクリ材が、深さ2mの穴に4.2mの等間隔で配置されていたことだけであり、建物の高さや構造においては、想像の産物でしかないのです。 -
これだけ充実した施設が無料だなんて、青森市も太っ腹、だと思っていましたが、
施設の充実やサービス向上を図るため、三内丸山遺跡と展示施設「縄文時遊館」の観覧が2019年4月から有料となるそうです。
有料化は1995年の一般公開以降初めて。
観覧料は一般が410円で高校生・大学生200円、中学生以下無料。 -
長さ32m、幅9.8mの 三内丸山遺跡最大の建物は、大型竪穴建物。
集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋などの説が様々。
これまでは 原始的な狩猟民族と考えられてきた縄文人ですが、三内丸山遺跡の発掘によりその常識は大きく覆されました。
幾層にもわたって積み上げられたゴミ捨て場は多くの縄文人がそこで長い期間(1500年近く)生活してきた証ですし、多数見つかった墓は世代交代を繰り返していた証となります。つまり縄文人は三内丸山の地で定住生活をしていたことになります。 -
また竪穴式住居の内部には円筒状の石が置かれているものもあり、家族で祈りを捧げる祭壇のような役割を果たしていたと考えられています。
大きすぎて非実用的な翡翠の装飾品や土偶などから推測するに 自然の恵みに感謝する精霊信仰のようなものもあったことをうかがわせます。
食べ物も現在より温暖だった為、多種多様な魚介類や動植物が採れ、足りない分を補うために簡易な農耕も行われていました。集落の周辺には 栗を植え採取していたことも判明しました。また縄文前期にはエゴマ、ヒョウタン、緑豆、ゴボウなどがすでに栽培されていたことが確認されています。
これまた、縄文時代のイメージを覆す事実。 -
さんまるミュージアムに戻り、駆け足で回りました。
異形石器。 -
岩偶。
土偶がつくられる前は石で人形を作っていました。 -
土偶。
北盛土、南盛土、西盛土などから200点以上見つかっており、日本一の数。 -
貝輪、牙玉、その他装身具。
耳飾りやヘアピンなど。 -
鹿角製ハンマー。
-
黒曜石製石槍。
水晶製石鏃。矢の先端につける石製の矢じりのことです。 -
煮炊きに使われた土器。
縄文土器のイメージとは少し違います。 -
矢じりや石槍が出来上がるまで。
-
釣り針や針まで。
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埋設地層盛土(縄文時代のゴミ捨て場)の表面をはぎ取った土層を展示しているもの。土層には約1000年もの間生活廃棄物(壁の突起物が腐らずに現代まで残った廃棄物)が捨てられ、それが堆積しています。
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土偶といっても こんな小さなものまで。
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土器展示コーナー。
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こちらも土偶?
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土製のアクセサリー。
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石製アクセサリー。
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さまざまな装身具。
豊かな生活をうかがわせます。 -
縄文人の生活。
樹皮でつくられた縄文ポシェットを見逃していました。 -
広域なネットワーク。
色々な地域と交流し、交易をしていたことがわかっています。
狭い集落の中で 閉じられた生活をしていた縄文時代、というイメージ、知識が どんどん崩れていきます。 -
三内丸山遺跡は北の文化ともつながっていました。北海道の西海岸、サハリンの西海岸、シベリアの東北との交流が盛んだったようです。
中国との往き来もあって、日本海の時計回りの航路が利用されていた可能性も出てきています。
4000年前の三内丸山遺跡から出土した円筒土器と同型の代物が中国大陸で発見されているそう。 -
黒曜石は、北海道十勝、秋田県男鹿、長野県霧ヶ峰などのもの。
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ヒスイも、約600キロ離れた新潟県糸魚川市から流入。
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接着剤に用いたアスファルトは秋田県から。
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北海道・北東北の縄文遺跡群。
日本の古い歴史は 大和朝廷を中心としたものしか教わりませんでしたから、函館の北方民族博物館の見学と合わせて、印象深く 新鮮な驚きの連続でした。 -
縄文の時代観を根底から揺るがす“超一級の縄文遺跡”を伝える記事や、既に着工していた野球場建設を中止し 遺跡の保存を決定する、という記事。
駆け足でしたが、スタンダード90分コースを廻れました。 -
14:38
青森市内と八甲田山を結ぶバスは ここで降車できたのですが、乗車はできないのです。
受付でタクシーを呼んでもらい、青森市内へ向かいます。 -
15:00
タクシーの中で、夫が 棟方志功ミュージアムへ行きたいというので 行先を変更してもらいました。 -
棟方志功ミュージアム。館内は撮影禁止になっています。
一番記憶に残ったものは 二菩薩釈迦十大弟子の柵でした。
『柵、とは 四国を巡礼する方々が寺々を廻る時、首に下げる、寺々へ納める廻札。この札は、一つ一つ、自分の願いと信念をその寺に納めていくという意味で下げるものですが、わたくしの願所に一つ一つ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです。
一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一つずつ、そこへ置いていく。作品に念願をかけておいていく、柵を打っていく。そういうことで「柵」というのを使っているのです。この柵は、どこまでもつづいて行くことでしょう。際々無限に。「板極道」昭和39年』 -
ミュージアム内の庭園。
校倉造りを模した建物は 池泉回遊式日本庭園とよく調和し、落ち着いた佇まいです。 -
ミュージアムから少し歩いて 記念館通りバス停まで。
青森駅からすぐ見える外観が特徴的な建物は、ねぶたの家 ワ・ラッセ。
青森ねぶた祭で運行された大型ねぶたが常設展示されており、ねぶたの起源や歴史、ねぶたとともに発展してきた街の歴史などを分かりやすく映像や造作物で紹介されています。
右端に見えるねぶたのお顔は 有料コーナーに展示されていたものですが、ちょっと覗かせていただきました。 -
ワ・ラッセの奥に見えるのは 青森ベイブリッジ。
ベイブリッジの下をくぐったところにある 青函連絡船メモリアルシップ「八甲田丸」。
八甲田丸は 明るい黄色の船体。
青函連絡船の青森発最終便となった八甲田丸は、現在は青函連絡船メモリアルシップとして 当時の桟橋付近に係留展示されています。 -
メモリアルシップ「八甲田丸」の入口は、当時の一般乗船客の入口をそのまま利用していて、入場するとそこは多目的ホールとレストランがある2階フロア。チケットカウンターでチケットを購入して3階フロアから見学をスタートします。
青函連絡船とそのうちの一隻である「八甲田丸」の歴史をパネルや当時の貴重な資料等で展示しています。昭和30年代の活気あふれる青森駅の周辺をジオラマで再現した「青函ワールド」には、古き良き昭和の風情が漂います。
薄暗いせいか 少し不気味な雰囲気も。 -
3階には 80年間に渡る青函連絡船の歴史が一目瞭然の「青函鉄道連絡船記念館」があります。
就航当時に使用していた備品や貴重な資料、様々な歴史を経てきた連絡船の模型、歴代の連絡船の写真パネル。国鉄5500型旅客用機関車をはじめとする東北・奥羽本線の機関車の模型や写真パネルなど。 -
初代の「比羅夫丸」・青函連絡船初の貨車輸送船「翔鳳丸」・明治天皇御乗船「明治丸」・終戦直前の昭和20年に 11隻の連絡船とともに沈没した「第一青函丸」・昭和29年9月26日の台風15号(洞爺丸台風)により、函館港内に停泊していた4隻の連絡船とともに、1430人にのぼる犠牲者を出し就航後わずか7年余りで沈没した悲劇の連絡船「洞爺丸」などの模型など。
-
4階にあるブリッジ。
1階は 車両甲板(世界的にも珍しい鉄道車両を輸送するためのスペース。郵便車両など本物を当時のままで展示)。
地下1階のエンジンルーム。
40分ほど 駆け足で見て回りました。
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素敵なモニュメント。
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突然歌声が聞こえてきたかと思ったら、津軽海峡冬景色の歌碑でした。
ボタンを押すと 歌が流れるようになっていました。 -
闇夜に浮かび上がる八甲田丸。
-
17:34
夕闇に浮かぶ ワ・ラッセ。
日没時間が 本当に早いです。 -
17:52
ホテルに戻る前に、今夜の夕食は「おさない」で。 -
注文した ホタテ丼。
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6:55
翌朝の朝食。 -
カウンター席も良さそう。
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外のベランダででも食べられるようになっていました。
-
大通りに面した このユニークな色合いの建物は、青森市役所・駅前庁舎。
これからバスで 奥入瀬渓流へ向かいます。
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