2018/02/28 - 2018/02/28
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旅人のくまさんさん
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明日香の遺跡巡りです。キトラ古墳は、檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測され、この時代は古墳時代の終わり頃になります。(ウィキペディア)
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『四神の館』の展示室紹介の続きです。飛鳥への『渡来人』を紹介した3枚のパネルです。この後、個別に紹介します。歴史用語としては、『渡来人』は4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いとされます。そのルーツは、黄河流域~山東半島、揚子江流域、満洲~朝鮮半島など様々とされます。(同上)
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『飛鳥への最初の渡来人は、その名も桧隈明使博徳』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。飛鳥に初めてやってきた渡来人は、5世紀半ばころの雄略天皇2年(457年)、桧隈明使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)達と紹介されていました。渡来人は、縄文時代の終わりころから飛鳥・奈良時代まで続いたとされます。5~7世紀にやってきた渡来人は、多様な技術と文化をもたらしたとされ、『今来才伎(いまきのてひと)』と呼ばれています。キトラ古墳の壁画の制作者に名前を挙げられている一人が、高句麗系の『今来才伎』、『黄文本実(きぶみのほんじつ)』です。669年の遣唐使に加わった人とされます。(同上)
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『外国風の暮らしのあとが見える、檜前遺跡群とその周辺』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。地図で示された『檜前(ひのくま)遺跡群』は、キトラ古墳から檜隈寺の周辺一帯の遺跡群の総称とされます。飛鳥の地にやってきた渡来人は、東漢氏をはじめ、鞍作氏、平田氏、軽氏や大窪氏と紹介されていました。左下の古代建物の発掘遺跡では、L字型カマド、大壁住居跡やオンドル施設もありました。(同上)
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『渡来系氏族「東漢氏(やまとのあやうじ)」の氏寺と考えられる檜隈寺』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。寺跡は昭和44年(1969年)以降、4次に亘る発掘調査が実施されました。その結果、檜隈寺の伽藍配置は、中軸線が西方に振れ、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、中門は西側に位置する特異なものであったことがわかりました。このパネルの中央に、その伽藍配置が記されています。左下の写真は、渡来系の文化を示す出土品です。金銅製飛天像、金銅仏片や瓦などです。(同上)
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イチオシ
三枚の写真に集約して紹介する、『四神』の館に展示されたキトラ古墳のみどころです。最初は『日本最古とされる精密な天文図』です。キトラ古墳の天井に描かれていました。描かれている星の総数は、277個とされます。(同上)
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次は、キトラ古墳の四方の壁に描かれていた『四神図』です。東壁の青龍、西壁の白虎、南壁の朱雀、北壁の玄武です。天井に描かれた天文図も上に見えています。(同上)
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最後に紹介するのが、『獣頭人身十二支図』12体の内、6体が確認されましたが、あとの6体は漆喰壁の損傷が大きく、壁画を取り出すことができませんでした。取り出された6体の像にも、土砂に転写された像があります。(同上)
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ここからは現地でのキトラ古墳の見学です。急斜面の丘の上に、円墳が見えてきました。発掘調査を終えて、永の眠りに入ったキトラ古墳です。発掘調査時には樹木も茂っていたようですが、すべて切り払われていました。創建時の周りの環境に戻ったようです。(同上)
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同じ場所からズームアップしたキトラ古墳の光景です。二段築成の円墳の下の部分も見えていました。高さ90センチとされるテラス状の部分です。考古学者の白石太一郎(1938~)は、被葬者は右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が『阿部山』という名前の地名であることを挙げています。(同上)
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少し近付いて撮影したキトラ古墳の光景です。京大名誉教授の日本史学者で古代史専攻の岸俊男(1920~1987年)なども、白石説の蓋然性が極めて高いと考え、支持していました。古代史を専門とする歴史学者で、大阪市立大名誉教授の直木孝次郎(1919~)も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとしました。(同上)
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『四神像』や『獣頭人身十二支像』の拓本を採ることができたセットの光景です。ステンレス製の平板に像の陽刻がありました。この像の原本は、キトラ古墳の東壁に描かれていた『朱雀(すじゃく)』です。『朱雀』は、中国の伝説上の神獣で、四神の一つとされ、五獣の一つともされます。(同上)
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先ほど紹介した拓本セットで転写した朱雀像です。拓本はA3サイズでしたから、家で使っているコピー機の都合で、その一部分の紹介になりました。『朱雀』は、南方を守護する神獣とされ、翼を広げた鳳凰の姿をしています。(同上)
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イチオシ
こちらの拓本は、A4サイズでしたから、北壁面に描かれていた『玄武』の全身が紹介できました。『玄武(げんぶ)』は、中国の四神の一つです。亀に似た姿をしています。拓本には、好きな落款を選んで押印することができました。(同上)
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ステンレス製で模擬されたキトラ古墳の光景です。『キトラ古墳地形復元模型』の表示がありました。左下にあった方向表示では、少し東に降っていますが、おおむね奥の方が北側、手前の方が南側になります。(同上)
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ステンレス製で模擬された『キトラ古墳地形復元模型』の、『キトラ古墳』部分のズームアップ光景です。二段築成の円墳で、上段が直径9.4メートル、高さ2.4メートル、テラス状の下段が直径13.8メートル、高さ90センチです。方向表示の下に、10メートルの長さ表示がありましたが、丁度それくらいの直径でした。(同上)
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『キトラ古墳地形復元模型』と『特別史跡・キトラ古墳』の石標があった場所付近の光景です。斜面の裾から上は、立入り禁止のロープが張られていました。有力な被葬者とされる阿倍御主人(あべのみうし)は、『続日本紀』等によれば、大宝3年(703年)4月に右大臣従二位、69歳で没したとされます。(同上)
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『特別史跡・キトラ古墳』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。キトラ古墳が国の『史跡』に指定されたのが平成12年(2000年)7月31日、同年11月24日には特別史跡に格上げされました。大雑把な表現ですが、『史跡』は『重要文化財』に、『特別史跡』は『国宝』に相当します。(同上)
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30名を超えるツアーメンバーでしたから、二つのグループに分かれて現地説明をお聞きしました。キトラ古墳の前で説明を聞かれているのは、別の組の方達です。この説明の間に、拓本を採る時間が設定されていましたが、こちらが早く終わりました。(同上)
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イチオシ
場所を変えながら、何枚か撮影したキトラ古墳の光景です。高松塚古墳との類似性が指摘されているキトラ古墳ですが、どちらも国の『特別史跡』に指定されたものの、壁画の扱いは異なっています。高松塚古墳の方が『国宝』に指定されたのに対し、キトラ古墳の方は『重要文化財』の指定です。保存状態で差がついたのか、高松塚の飛鳥美人が特別扱いだったのかも知れません。(同上)
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キトラ古墳の前の通路から見下ろした南側方面の光景です。古墳が小高い阿部山の南斜面に位置しているため、かなり急な斜面になっていました。『阿部山』の呼び名は、現在は明日香村内の地名として使われていました。(同上)
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同じく、キトラ古墳の前の通路から見下ろした南東方面の光景です。土塁で半円を描いた、不思議な地形をしていました。土塁の裾には、野面積の低い石垣もありました。(同上)
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最後にもう一度、正面から眺めたキトラ古墳の光景です。キトラ古墳は、7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されていますが、この期間は藤原京の時代になります。694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間で、都城制を敷いた初めての都とされます。日本書紀等によれば、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷したと記述されています。(同上)
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藤原京の話しの続きです。その後の研究により、既に676年(天武天皇5年)には開始され、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言われます。以来、藤原宮には持統、文武、元明の三代に亘って居住しました。完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都されました。それまでは、一代の天皇で数度の遷宮もありました。(同上)
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現地に設置してあった『特別史跡・キトラ古墳』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。左端の説明文は、キトラ古墳の発掘調査の経緯と歴史などの説明でした。右端の列の3枚の写真は、石室内外の紹介、その左の列は、上から、発掘調査時の模様と出土品の写真、その下には、推定復元図を含めたキトラ古墳の平面図が記されていました。(同上)
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キトラ古墳の現地見学を終え、一旦は『四神の館』に戻りました。休憩を兼ねて、お土産も買い求めることができました。(同上)
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お土産店兼休憩所の光景です。この休憩所の中で、『四神像』や『獣頭人身十二支像』の拓本に落款を押すことができました。落款(らっかん)は、落成款識(らくせいかんし)の略語とされます。書画を作成した際のサインのようなものですが、押捺された印影、または署名に代えて押捺した印影をさすことも多いとされます。(同上)
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キトラ古墳と高松塚古墳の間の距離は、直線距離でわずか1.2キロほどですが、ツアーに参加の全員が揃ったところで、観光バスでの移動です。キトラ古墳の駐車場に向かいました。(同上)
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キトラ古墳の見学を終え、次は高松塚古墳の見学です。閑話休題、この2つの古墳の近くで撮影した季節の花を紹介します。赤い花を咲かせたサザンカ(山茶花)です。(同上)
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同じく、明日香の地で咲いていた、サザンカ(山茶花)の赤い花の光景です。ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹です。サザンカの栽培品種は、サザンカ群、カンツバキ群とハルサザンカ群に大別されますが、サザンカ群以外は、ツバキとの交雑種です。(同上)
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少し離れた場所からの撮影でしたから、樹種の特定はできませんでした。桜や桃ではなく、緋梅系の梅の花のようでした。写真をズームアップしましたら、八重咲でした。(同上)
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