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明日香村にある都塚古墳と石舞台古墳の紹介です。石舞台古墳は蘇我馬子が被葬者、都塚古墳は、父の稲目が被葬者の説が強まりました。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るいました。(ウィキペディア)

2018早春、明日香の遺跡巡り(2/8):曽我稲目と都塚古墳、蘇我馬子と石舞台古墳

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2018/02/28 - 2018/02/28

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旅行記グループ 2018早春、明日香の遺跡巡り

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旅人のくまさん

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明日香村にある都塚古墳と石舞台古墳の紹介です。石舞台古墳は蘇我馬子が被葬者、都塚古墳は、父の稲目が被葬者の説が強まりました。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るいました。(ウィキペディア)

交通手段
観光バス

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  • 『都塚古墳』の近くに建てられていた、『くつな石の由来』のタイトルがあった説明立て看板の光景です。この場所から1キロと表示されていましたので、見学の時間はありませんでした。この辺りでは蛇のことを『くちな』と呼び、そこから『くちな石』になったようです。『血を流す蛇の石』の伝説があります。(同上)

    『都塚古墳』の近くに建てられていた、『くつな石の由来』のタイトルがあった説明立て看板の光景です。この場所から1キロと表示されていましたので、見学の時間はありませんでした。この辺りでは蛇のことを『くちな』と呼び、そこから『くちな石』になったようです。『血を流す蛇の石』の伝説があります。(同上)

  • 順番待ちでの見学が済んだところで、改めて撮影した『都塚古墳』の玄室の出入口光景です。発掘調査を指揮した関西大学の米田文孝教授は、『階段ピラミッドという形は高句麗の皇帝陵に用いられており、それを彷彿とさせる。蘇我氏の力を示し、一族統合の象徴とするためにモニュメントとして築造したと思う』とコメントされています。(同上)

    イチオシ

    順番待ちでの見学が済んだところで、改めて撮影した『都塚古墳』の玄室の出入口光景です。発掘調査を指揮した関西大学の米田文孝教授は、『階段ピラミッドという形は高句麗の皇帝陵に用いられており、それを彷彿とさせる。蘇我氏の力を示し、一族統合の象徴とするためにモニュメントとして築造したと思う』とコメントされています。(同上)

  • 石質の出入口のズームアップ光景です。関西大学の米田文孝教授は、『飛鳥時代には都塚、石舞台という石で覆われた2つのモニュメントが夕日を受け、光彩を放っていたのかも知れない』ともコメントされています。時代区分から言っても、『都塚古墳』が6世紀末から7世紀初頭の建造、『石舞台古墳』が世紀初頭の建造とされ、共に蘇我氏の豪族であることで、無理のない比定に思えます。(同上)

    石質の出入口のズームアップ光景です。関西大学の米田文孝教授は、『飛鳥時代には都塚、石舞台という石で覆われた2つのモニュメントが夕日を受け、光彩を放っていたのかも知れない』ともコメントされています。時代区分から言っても、『都塚古墳』が6世紀末から7世紀初頭の建造、『石舞台古墳』が世紀初頭の建造とされ、共に蘇我氏の豪族であることで、無理のない比定に思えます。(同上)

  • 見学を終えたところで、少し離れた場所から撮影した、『都塚古墳』の光景です。表面に土盛されますと、方墳ではなく、少し歪な円墳のように見えます。蘇我稲目の祖先は、『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰としています。しかし、蘇我氏の祖先については渡来説を含めて諸説があり、判然としない点があります。(同上)

    見学を終えたところで、少し離れた場所から撮影した、『都塚古墳』の光景です。表面に土盛されますと、方墳ではなく、少し歪な円墳のように見えます。蘇我稲目の祖先は、『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰としています。しかし、蘇我氏の祖先については渡来説を含めて諸説があり、判然としない点があります。(同上)

  • 更に離れた場所から眺めた、『都塚古墳』の全景です。既に紹介しましたが、古墳の周りには周濠が巡らされており、この周濠は幅1.0~1.5メートル、深さ0.4メートルとされます。曽我氏は、渡来系の氏族と深い関係にあったとみられ、当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられています。(同上)

    更に離れた場所から眺めた、『都塚古墳』の全景です。既に紹介しましたが、古墳の周りには周濠が巡らされており、この周濠は幅1.0~1.5メートル、深さ0.4メートルとされます。曽我氏は、渡来系の氏族と深い関係にあったとみられ、当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられています。(同上)

  • 『石舞台古墳』が見える場所まで戻って来ました。仏教が伝来した際、それをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされます。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する目的もあったと推察されています。物部氏(もののべうじ)は、大和国山辺郡・河内国渋川郡辺りを本拠地とした有力な豪族です。神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる氏族です。(同上)

    『石舞台古墳』が見える場所まで戻って来ました。仏教が伝来した際、それをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされます。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する目的もあったと推察されています。物部氏(もののべうじ)は、大和国山辺郡・河内国渋川郡辺りを本拠地とした有力な豪族です。神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる氏族です。(同上)

  • 『特別史跡・石舞台古墳』のタイトルがあった説明看板の光景です。蘇我馬子は、飛鳥時代の政治家で貴族です。邸宅に島を浮かべた池があったことから、『嶋大臣』とも呼ばれました。父は蘇我稲目、 姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)など、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、刀自古郎女(聖徳太子妃)などがいます。(同上)

    『特別史跡・石舞台古墳』のタイトルがあった説明看板の光景です。蘇我馬子は、飛鳥時代の政治家で貴族です。邸宅に島を浮かべた池があったことから、『嶋大臣』とも呼ばれました。父は蘇我稲目、 姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)など、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、刀自古郎女(聖徳太子妃)などがいます。(同上)

  • 『特別史跡・石舞台古墳』のタイトルがあった説明看板のズームアップ光景です。昭和8年(1933年)から実施された調査の概要などが紹介されていました。墳丘は現在失われていますが、下部は方形で、20~50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていたとされます。(同上)

    『特別史跡・石舞台古墳』のタイトルがあった説明看板のズームアップ光景です。昭和8年(1933年)から実施された調査の概要などが紹介されていました。墳丘は現在失われていますが、下部は方形で、20~50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていたとされます。(同上)

  • 石舞台古墳の周りの光景です。『石舞台古墳』が文献に記されるのは、江戸時代になってからとされます。延宝9年(1681年)の林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、『石太屋』という陵があることが記されています。前後の文脈から、『天武天皇陵』と思われていたようです。(同上)

    石舞台古墳の周りの光景です。『石舞台古墳』が文献に記されるのは、江戸時代になってからとされます。延宝9年(1681年)の林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、『石太屋』という陵があることが記されています。前後の文脈から、『天武天皇陵』と思われていたようです。(同上)

  • 少し離れた場所から眺めた、『石舞台古墳』の光景です。墳丘の周りに幅5.9~8.4メートルの空堀が廻り、幅約7.0メートルの外堤が設けられています。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルとされます。地元では、『石蓋(いしぶた)』の名前でも呼ばれていたようです。(同上)

    少し離れた場所から眺めた、『石舞台古墳』の光景です。墳丘の周りに幅5.9~8.4メートルの空堀が廻り、幅約7.0メートルの外堤が設けられています。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルとされます。地元では、『石蓋(いしぶた)』の名前でも呼ばれていたようです。(同上)

  • 一回りして見学した、『石舞台古墳』の光景です。左側面から背面にかけての光景です。左側が背面になります。『左側面』は、出入口方面から眺めた左側としました。『石舞台古墳』は、昭和27年(1952年)3月に国の特別史跡に指定されました。大雑把に言えば、国の『史跡』が重要文化財に相当し、『特別史跡』が『国宝』に相当します。(同上)

    イチオシ

    一回りして見学した、『石舞台古墳』の光景です。左側面から背面にかけての光景です。左側が背面になります。『左側面』は、出入口方面から眺めた左側としました。『石舞台古墳』は、昭和27年(1952年)3月に国の特別史跡に指定されました。大雑把に言えば、国の『史跡』が重要文化財に相当し、『特別史跡』が『国宝』に相当します。(同上)

  • 上部から側面を覆った石組の隙間から眺めた、石室内部の光景です。玄室の入口付近が見えました。右手奥が入口です。羨道から玄室内部まで、石畳の通路が続いていました。(同上)

    上部から側面を覆った石組の隙間から眺めた、石室内部の光景です。玄室の入口付近が見えました。右手奥が入口です。羨道から玄室内部まで、石畳の通路が続いていました。(同上)

  • 左側面から出入口にかけての光景です。左側が左背面、右側が出入口になります。出入口の手前には、羨道部があります。『羨道(せんどう)』は、主として遺体を収容しておく玄室から、外部に通じる通路にあたる部分を指します。横穴式石室に多く用いられます。(同上)

    左側面から出入口にかけての光景です。左側が左背面、右側が出入口になります。出入口の手前には、羨道部があります。『羨道(せんどう)』は、主として遺体を収容しておく玄室から、外部に通じる通路にあたる部分を指します。横穴式石室に多く用いられます。(同上)

  • 玄室と羨道の境目付近の光景です。左側が玄室になります。江戸時代の『天武天皇涼』の説は支持されなくなり、明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後、この説が有力になりました。『喜田貞吉(きた・さだきち:1871~1939年)は、考古学、民俗学も取り入れて学問研究を進めた歴史学者で、文学博士です。(同上)

    玄室と羨道の境目付近の光景です。左側が玄室になります。江戸時代の『天武天皇涼』の説は支持されなくなり、明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後、この説が有力になりました。『喜田貞吉(きた・さだきち:1871~1939年)は、考古学、民俗学も取り入れて学問研究を進めた歴史学者で、文学博士です。(同上)

  • 少し離れた場所から眺めた、出入口付近の光景です。昭和8年(1933年)と昭和10年(1935年)に京都帝大の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われました。これより前には前方後円墳とする説もありましたが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明しました。発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことでした。(同上)

    少し離れた場所から眺めた、出入口付近の光景です。昭和8年(1933年)と昭和10年(1935年)に京都帝大の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われました。これより前には前方後円墳とする説もありましたが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明しました。発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことでした。(同上)

  • 玄室入口の二段に積まれた巨石の光景です。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口しています。石組の石質は花崗岩です。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を持ちます。また、石室内部には排水施設が設けられています。巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないとされますが、石室と羨道部はかなり崩れていたようです。現在は修復されています。(同上)

    玄室入口の二段に積まれた巨石の光景です。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口しています。石組の石質は花崗岩です。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を持ちます。また、石室内部には排水施設が設けられています。巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないとされますが、石室と羨道部はかなり崩れていたようです。現在は修復されています。(同上)

  • 玄室内部から見上げた天井光景です。約30の石が積まれ、その総重量は2300トンに達すると推定されています。その石材は、古墳の傍らを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰の麓から運ばれました。国内最大級の方墳です。(同上)

    玄室内部から見上げた天井光景です。約30の石が積まれ、その総重量は2300トンに達すると推定されています。その石材は、古墳の傍らを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰の麓から運ばれました。国内最大級の方墳です。(同上)

  • 玄室内部から見上げた、壁から天井にかけての光景です。古墳を覆っていたとされる土が無くなっていますので、各所から外光が射し込んでいました。(同上)

    玄室内部から見上げた、壁から天井にかけての光景です。古墳を覆っていたとされる土が無くなっていますので、各所から外光が射し込んでいました。(同上)

  • 玄室内部の壁面のズームアップ光景です。玄室の沖に向かって、左手方面の光景になります。排水施設が設けられ、通風もありますから、苔類はほとんどありませんでした。(同上)

    玄室内部の壁面のズームアップ光景です。玄室の沖に向かって、左手方面の光景になります。排水施設が設けられ、通風もありますから、苔類はほとんどありませんでした。(同上)

  • この辺りの石の割れ方は、上からの重力による静荷重ではなく、瞬間的にかかった動荷重により生じたものに見えました。原因は地震以外に考えられないようです。(同上)<br />

    この辺りの石の割れ方は、上からの重力による静荷重ではなく、瞬間的にかかった動荷重により生じたものに見えました。原因は地震以外に考えられないようです。(同上)

  • 地震により割れたのではないかと推測された部分のズームアップ光景です。垂直方向ではなく、水平方向の荷重により生じた剥がれのようにも見えます。(同上)

    地震により割れたのではないかと推測された部分のズームアップ光景です。垂直方向ではなく、水平方向の荷重により生じた剥がれのようにも見えます。(同上)

  • 現室内から眺めた出入口方面の光景です。過去の文献に記された、『石舞台古墳』の紹介です。明和9年(1772年)の本居宣長の『管笠日記』にもその記述があります。それによれば、石舞台古墳は、石舞台古墳の南に位置する都塚古墳と対として意識され、それぞれ推古・用明という各天皇の伝承を持っていたようです。(同上)

    現室内から眺めた出入口方面の光景です。過去の文献に記された、『石舞台古墳』の紹介です。明和9年(1772年)の本居宣長の『管笠日記』にもその記述があります。それによれば、石舞台古墳は、石舞台古墳の南に位置する都塚古墳と対として意識され、それぞれ推古・用明という各天皇の伝承を持っていたようです。(同上)

  • 玄室の最奥部の光景です。日本の古代における巨石文化を目の当たりにしたような光景です。過去の文献に記された、『石舞台古墳』の紹介の続きです。江戸時代末期の文政12年(1829年)、津川長道の『卯花日記』では、蘇我馬子の墓ではないかという考察があります。また、嘉永元年(1848年)の暁鐘成の『西国三十三所名所図会』の中では、イラストとともに高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、『天武天皇を仮に葬り奉った場所と伝えられている』という意味のことが記されています。(同上)

    玄室の最奥部の光景です。日本の古代における巨石文化を目の当たりにしたような光景です。過去の文献に記された、『石舞台古墳』の紹介の続きです。江戸時代末期の文政12年(1829年)、津川長道の『卯花日記』では、蘇我馬子の墓ではないかという考察があります。また、嘉永元年(1848年)の暁鐘成の『西国三十三所名所図会』の中では、イラストとともに高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、『天武天皇を仮に葬り奉った場所と伝えられている』という意味のことが記されています。(同上)

  • 玄室内の同じ場所から眺めた、側壁と天井光景です。これだけの大石を組合せ手造り上げた、当時の土木技術の高さに感心させられます。今からざっと1400年も前のことになります。(同上)

    玄室内の同じ場所から眺めた、側壁と天井光景です。これだけの大石を組合せ手造り上げた、当時の土木技術の高さに感心させられます。今からざっと1400年も前のことになります。(同上)

  • 巨大な天井石のズームアップ光景です。天井石は77トンと推測されています。側壁を立てた後、土を充填した状態で天井石を載せたにしても、感心せざるを得ません。巨石文化では、韓国の世界遺産の支石墓(ドルメン)を連想しました。日本にも伝わった技術ですが、北部九州で留まりました。支石墓遺構は半島のほぼ全域で見られ、その数は4~6万基とされます。世界の支石墓の約半数です。(同上)

    巨大な天井石のズームアップ光景です。天井石は77トンと推測されています。側壁を立てた後、土を充填した状態で天井石を載せたにしても、感心せざるを得ません。巨石文化では、韓国の世界遺産の支石墓(ドルメン)を連想しました。日本にも伝わった技術ですが、北部九州で留まりました。支石墓遺構は半島のほぼ全域で見られ、その数は4~6万基とされます。世界の支石墓の約半数です。(同上)

  • あとで石質を確認するために撮影した、壁面のズームアップ光景です。この光景は、典型的な花崗岩でした。火成岩の一種で、流紋岩に対応する成分の深成岩です。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれます。主成分は石英と長石で、他に10%程度の有色鉱物(黒雲母等)を含みますが、全体的に白っぽく見える石です。(同上)

    あとで石質を確認するために撮影した、壁面のズームアップ光景です。この光景は、典型的な花崗岩でした。火成岩の一種で、流紋岩に対応する成分の深成岩です。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれます。主成分は石英と長石で、他に10%程度の有色鉱物(黒雲母等)を含みますが、全体的に白っぽく見える石です。(同上)

  • 同じく、あとで石質を確認するために撮影した、壁面のズームアップ光景です。この石も花崗岩のようですが、右手に乾燥した苔の跡らしい色彩がありました。この写真では、縦に入った亀裂が気になりましたが、大地震の襲来で生じたものかも知れません。ただし、ネット検索しても、その確認はとれませんでした。(同上)

    同じく、あとで石質を確認するために撮影した、壁面のズームアップ光景です。この石も花崗岩のようですが、右手に乾燥した苔の跡らしい色彩がありました。この写真では、縦に入った亀裂が気になりましたが、大地震の襲来で生じたものかも知れません。ただし、ネット検索しても、その確認はとれませんでした。(同上)

  • 同じく、石質を確認するために撮影した、壁面のズームアップ光景です。花崗岩は造山帯か否かを問わず、大陸地殻の全域にわたって広く分布している。深成岩のために、地表に出ている部分よりも、地下深くに広がっていると考えられています。(同上)

    同じく、石質を確認するために撮影した、壁面のズームアップ光景です。花崗岩は造山帯か否かを問わず、大陸地殻の全域にわたって広く分布している。深成岩のために、地表に出ている部分よりも、地下深くに広がっていると考えられています。(同上)

  • 天井に近い壁石のズームアップ光景です。横に走る亀裂が見られましたが、地震によるものかどうかは、判断が付きませんでした。(同上)

    天井に近い壁石のズームアップ光景です。横に走る亀裂が見られましたが、地震によるものかどうかは、判断が付きませんでした。(同上)

  • 現室内の見学を終え、振り返って眺めた出入口光景です。韓国の世界遺産、支石墓の追加説明です。韓半島を南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りてきました。大韓民国では、高く聳えるもの(テーブル式)を『北方式』、低いもの(碁盤式)を『南方式』と分類しています。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えました。(同上)

    イチオシ

    現室内の見学を終え、振り返って眺めた出入口光景です。韓国の世界遺産、支石墓の追加説明です。韓半島を南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りてきました。大韓民国では、高く聳えるもの(テーブル式)を『北方式』、低いもの(碁盤式)を『南方式』と分類しています。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えました。(同上)

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