2026/02/05 - 2026/02/14
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しにあの旅人さん
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写真はかぎろひの丘です。
日本書紀に出てくる「兎田の安騎」現在の奈良県宇陀市にあります。
草壁皇子少年時代の思い出の場所です。
天武元年6月24日吉野を脱出した大海人皇子、菟野皇女の一行は、
★その日に兎田の安騎に着いた。★
(現代語訳日本書紀上P216)
この時10歳の草壁皇子も一緒でした。
参考資料は「六国史の旅 草壁皇子1 束明神古墳」をご覧下さい。
僭越ながら引用では敬称を略させていただきます。
俯瞰写真がありますが、これはドローンではありません。この地域はドローン禁止かもしれません。
5mの伸縮する一脚に据えたカメラをiPhoneでリモートしたものです。
投稿日:2026/02/10
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- じゃらん
-
「兎田の安騎」が厳密にはどこかは分かりませんが、現在もその名を引き継ぐ阿紀神社の近くと言われております。
-
阿紀神社から数分坂を上り切った左がかぎろひの丘です。
-
万葉集で有名な柿本人麻呂の「かぎろひ」の歌が詠まれた場所ということになっています。
-
書紀元年24日続き、
★このとき屯田司の舎人土師連馬手は、天皇の従者の人々の食事をたてまつった。★
両親は命がけ、イチかバチかの脱出行でした。護衛の大人たちの必死の形相は怖かったでしょうが、10歳の少年にとってはあんがい楽しいピクニックだったのではないか。
女嬬(めのわらわ)10人余が一緒でした。これは菟野皇女を護衛する女性兵士だったと思います。現代でも女性VIPのSPは女性です。
草壁くんは、きれいな若いおねえさんにちやほやされて、ご機嫌だったはず。
一書に曰く、
10歳にもなって、草壁の皇子は、あほみたいにはしゃいでいたと、by夫さん、そりゃあ あんまりではないですか。
いくら過保護の坊ちゃんでも、あほぼんちゃいますよ。
この人、生まれたときから、白村江の戦いという国難のさなか。
苦労続きの人生ですわ。
きりりと、眉を上げて、「父上、母上、わたくしのことは、ご心配なく。」
と、きっぱりと言ったに違いない。
苦しい日々でも、たまには息抜きもあったよね。って言いたいわけでしょうけど。
あまい!あまいあまい!
この後を考えても、彼の人生、そんなにあまいもんちゃいまっせー。
By妻 -
このあと大野に着きます。
24日続き、
★大野に至って日が暮れた。★
大野は現在の近鉄大阪線大野駅あたりだそうです。
駅を下ると大野寺があります。伝承でも681年創建ですから、このころはまだありません。しかし古代より兎田から名張にぬける幹線ですから、このあたりを通過したのは間違いない。 -
一書に曰く、
宇田川の岩の川原がひろがり、休憩するにはいい場所です。 -
美しい川でした。
渇水していましたから、岩が現れておりました。
その岩伝いに、川中の島まで、この私でも行けそうな澄み切った穏やかな流れでした。
こんな雪が降るような冬でなかったら、流れを渡って、対岸の摩崖仏に近づきたかったです。 -
摩崖仏の前の道は、普通に自動車が通っていましたから、行こうと思えば行けたのですが、昔の人は、そうはしなかったでしょう。
きっと、この川で、禊をして、それから、お参りをしたに違いない。
摩崖仏さえないそのまた昔も、流れは清らかで、草壁皇子は、この流れを見ながら、山道を歩いたに違いない。
By妻 -
有名な摩崖仏は13世紀に彫られたものですから、まだありません。
-
新暦7月の酷暑でありました。日本書紀の記録でこの日は雨が降っていません。路面温度40度越え、途中休憩には最適です。
草壁くんはここで調子にのって水遊びをしておぼれかけたかも。
両親にこっぴどく怒られたのであります。 -
これはそのとき建てられたものです。
-
ホントだってば。
ウソだと思う人、手を上げて!
いずれにしても草壁少年にとっては、楽しいアドベンチャーだったはず。
つぎに草壁皇子が登場するのは万葉集。
巻一45
柿本人麻呂の長歌で、草壁の子、軽皇子(かるの・みこ)が安騎の平野で狩りをしたときを詠いあげます。
その後半に、
★(軽皇子が)穂薄や篠などを押し別けて、其處で旅の宿りをなされることだ。以前、日竝知(ひなのし)皇子(草壁皇子の別称)が度々比處へお狩りに来られた時分の事を思ひながら。★
(折口信夫口約万葉集P26)
親子で安騎が好きでした。草壁皇子は何度も来ていました。
反歌。 -
46
★安騎の野に宿る旅人。うち靡(なび)き寝(い)も寝(ぬ)らめやも。古(いにしえ)おもふに★
△安騎野で宿る、旅人なる珂瑠の皇子さまよ。其方(そのかた)は、比處が昔、父皇子の、常に遊ばれた處だから、昔のことを思ふと、のびのびと、寝るにも寝てゐられないことであろう。△ -
47
★み草刈る荒野はあれど、もみじばの過ぎにし君がかたみとぞ来し★
△荒れ果てた野は荒野として、御承知の上で比處へ来られたのは、おかくれになった方が、よくお出でになった、其記念だと思うて、尋ねて来られたことだ。△ -
48
★東の野に陽光の立つ見えて、かへりみすれば、月傾きぬ★
△東の野を見ると、朝日のほのめきのさすのが見えてゐるので、ふりかえって見ると、月は最早、西の方に傾いてしまった。(これは朝猟の後の歌とみればよい。)△ -
49
★日竝知ノ皇子の尊の、馬竝めて御狩たたし時は来むかふ★
△お懐かしい日竝知ノ皇子様が、比處まで馬を竝べて来て、御狩りを挙行遊ばした時節は、ちょうどこれからで、さういう時候が、今来かかっている。お懐かしいことだ。△
軽皇子にささげるべき歌が、全編草壁皇子が主人公です。
安騎というと、人麻呂の心は草壁でいっぱいだったのです。
挽歌とはなっていませんが、草壁皇子死後の作品です。
安騎の狩りは、人麻呂の歌だけではなく、皇子に仕えた舎人の歌にもあります。
巻第二
191
★けごろもを春冬かたまけて、出でましし宇陀の大野は、思ほえむかも★
△冬から春にかけて、度々御猟にお出でになった所の、宇陀の大原のことは、何時々々までも思ひ出されることことだろう。△
安騎野の狩りは、朝廷の公式行事ではなく、皇子のプライベイトな遊びだったのでしょう。
随行したのは、たぶん人麻呂と舎人数人ではないですかね。
日本書紀では影の薄い草壁皇子ですが、続日本紀には文武天皇の父として下記の記述があります。
巻第一 文武天皇記冒頭
★(草壁皇子は)天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。★
草壁皇子というと、ひ弱な、軟弱なイメージですが、続紀だとそうでもない。弓を射るのが好きですから、案外スポーティな面もあった。
温厚で、部下思いの人物だった。
知識人だったようです。
身分の差を気にせず、臣下の舎人達とも気楽に付き合っていました。
不幸なことに母親が持統天皇という、政治家としては極めて優秀な人物だったことです。この人が、一人の母親としては、わが子かわいいだけの、まったく平凡な女でした。
母の期待に押しつぶされてしまったのです。
一書に曰く、
草壁皇子は、常に大津皇子と比べられます。
文武両道、さわやか青年の大津皇子ってことは、決まりですから、草壁皇子は、青びょうたんのひょろひょろ男って感じになってます。
でも、狩りが好き、乗馬が好きみたいです。
これは、なかなかの武人だったのではないでしょうかね。
今と違って、写真も動画もなかった時代、故人を偲ぶよすがは、なにだったのでしょうか。
はかない記憶を頼りに見る、今、眼前の若き皇子は、自分の若き時代とともにあった皇子そのものだったことでしょう。
軽皇子の馬を乗り回す姿に、笑い声に、激しい息遣いに、、、
人麻呂は、目を離せなかったに違いありません。
草壁皇子への哀惜の情は、また自身の若き日への深い慈しみだったのです。
草壁皇子は、青びょうたんではなかった。
文武両道の美丈夫だった。
なのに!
あ~あ、猛烈ママ。
ひいきの引き倒し。
草壁皇子は、その人生のエネルギーの四分の三は、母親対策に費やしたと思う。
つらいねえ。
By妻 -
かぎろひの丘より安騎の野。
-
写真は阿騎野人麻呂公園近くの田園風景です。おそらくこのあたりが舞台でしょう。
「安騎の野」「荒野(あれの)」などと短歌にあるので、当時は何もない平地、荒れ野だったはずです。
191の舎人の歌から、狩りは「冬から春にかけて」ですから、こんな感じの田園だったと思います。 -
公園からはかぎろひの丘がよく見えます。
-
人麻呂騎馬像。
-
一書に曰く、
人麻呂さん。
もっとしょぼくれた男だと思っていました。
勝手な思い込みです。
★東の野に陽光の立つ見えて、かへりみすれば、月傾きぬ★
かえり見たところですね。
こういう顔で、かえりみたんだ。
「かぎろい」という言葉がよく分からなくて、なんとなくカゲロウみたいに、ぼや~としたものかと思ったりしておりましたら、かぎろいは、めったに現れない気象現象だそうです。
何でも、霧だか靄だかがかかった夜明け、日の出の太陽に、その霧が、真っ赤に染まる様子だそうです。
東の空一面が真っ赤に染まって、ふりかえれば、西の空に月。
壮大なる景色です。
まるで、シンフォニー。
その荘厳な朝日を、若く将来ある軽皇子として、西空に、静かに沈みゆく月を、その麗しさを、亡き草壁皇子になぞらえたのでしょう。
昇りゆく太陽への期待と賛美、そして去りゆくものへの愛惜。
そう思っているお顔なんですよ。
By妻 -
ふと、思いつきました。
草壁皇子、人麻呂、大来皇女は兎田で出会った可能性はないか。
人麻呂 生没年不明ですが、680年ごろから700年ごろまでの歌がある。
草壁皇子 662年-689年
大来皇女 661年-702年、686年に伊勢より帰り在飛鳥。
大来皇女は694年に名張、当時の隠(なばり)に昌福寺を建立しています。このあたりに縁があります。飛鳥から隠まで古代初瀬街道が走り、兎田の安騎はその途中です。
大来皇女はその歌にもあるとおり乗馬が巧みです。
大来皇女が飛鳥―隠往復の途中、偶然狩りの最中の草壁皇子、人麻呂に邂逅する可能性は、686年~689年にあります。
仮に邂逅があったとして、大来皇女は礼儀として下馬、草壁皇子に礼を尽くしたでありましょう。しかしその目は憎悪に燃えていたのは間違いない。
最愛の弟、大津皇子を謀殺した持統天皇の息子なのです。
草壁皇子は大来の視線をそのまま受ける気力はなかったでしょうね。
その場で人麻呂はどうしたか。
まったくの想像で、根拠はありません。
可能性が年代的にはありえるだけです。
一書に曰く、
ついでに、by夫に、のっちゃいますと、
草壁皇子は、幼き頃より、苦労を共にした、この腹違いの姉に心ひそかに憧れていた。
大来もまた、この弟を、憎からず思っていた。
この時代、腹違いなら、結婚は認められましたから。
しかし、政治は冷酷です。
彼女の実の弟の死の後、草壁皇子と大来皇女の境遇は一変してしまいます。
誇り高い皇女は、礼儀ただしいふるまいをしたことでしょう。心は出さずに。
それを、草壁皇子は、いたたまれない思いで、目を伏せ、身をすくませて通り過ぎたのではないか。
かつての淡い恋が、踏みにじられたときでした。
、、、なんてね。
By妻 -
2026年2月の雪の束明神古墳です。
-
万葉集巻第二、人麻呂の挽歌です。
その詞書き。引用は折口訳万葉集です。
2-167
★竝知(ひなめし)の皇子の尊を殯の宮に移し奉った時、柿本人麻呂が作った歌、並びに短歌★
長歌は後半半分。現代語訳だけにします。
★其で其御世嗣なる、私どもがお仕へ申して居る皇子さまが、世の中をお治めになる様になれば、春咲く花のように、立派にあらうと思ひ、十五夜の月のように、十分であらう、と世の中の凡ての人たちが、大舟に乗ったような気分で、たよりにし、干魃に雨を待つように、早く御位に即いて下さるやうに、と待って居るのに、どんな風に御考へなさったのか、あの寂しい檀(まゆみ)の岡に御所の太い柱を御立てになり、御殿を高く御造りになって、其處におちつき遊ばされ、以前は朝になれば、御側つきの者に、物を仰つしやつたが、比御所に御出でになってからは、何も仰つしやらずに、日數が澤山たったことのその為に、御側仕への人は、用もなくなって、皆何處へ行ってよいか、訣らずに迷うてゐることだ。★
反歌
2-168
★ひさかたの天みる如く、仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しくも★
△御在世の時は、天を見るように尊み、ふり仰いで見た、皇子の御所の、荒れていくのが残り多いことだ△
2-169
★あかねさす日は照せれど、ぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも★
△太陽にも譬えるべき天子は御出でになるが、其代りにおなりなさる皇子様が、月のように隠れておしまひなさったのが、残り多いことだ。△
異本の歌、
2-170
★島の宮、勾りの池の放ち鳥、人目に戀ひて池にかづかず★(2-170)
△皇子の居られた時分には、勾りの池に水鳥を放ってご覧になったが、今では誰も見る人がいない。今自分が見てゐると、水鳥は、人の見るのを懐かしがって、池にも潜らずに、悲しげに浮いている△
殯の宮は佐田(さだ)に造られました。
このあとに主人を失った皇子の舎人たちの歌23首がつづきますが、みなどうしていいか、うろうろするばかりです。
人麻呂も放心状態で、島の宮と佐田とをさ迷い歩く舎人と同じです。
彼らしいスケールのおおきさ、雄渾さまったくなし。
皇子と少なくとも晩年の数年間は個人的にも親しかったようです。
兎田の安騎では狩りの合間に、吉野脱出行の冒険談を聞き、何事にも秀でた一つ年下の大津皇子と比較されるつらさを語ったでありましょう。
気が弱くて、天皇になんか全然向いてないのを自覚していました。
それなのに母親は期待している。
大津皇子があとをつげばよかった。自分は出家すればいい。
大来皇女でもいい。自分だって女の天皇なのだから、だれも文句言わないはずだ。
とか語ったのではないか。
人麻呂も菟野皇女が競争相手大津皇子を謀殺したことは、当然知っておりました。
それを悔やむ草壁をどうやって慰めたのでしょう。
二人は身分の差を乗り越えた親友だったのです。
人麻呂の涙が見えるようです。
2-169の「あかねさす日は照せれど」「太陽にも譬えるべき天子は御出でになるが」となんだか持統天皇が無事なのが不満そうなくちぶりです。
いやいや、これは私のただの万葉集いけずよみでありましょう。
一書に曰く、
彼に仕える人々に慕われる草壁皇子は、やさしい常識的な人だったのでしょうか。
おとーさんが、天武で、おかーさんが、あの持統さんなんですよ。相当、相当な家庭です。家庭があるならですが。
彼は、そういう育ち方をした割には、常識的な人だったのではないでしょうかね。
それゆえに、仕える人皆に愛され、尊ばれた。
それゆえにこそ、親子に軋轢におしつぶされた。
ライオンと虎の子供、ライガー。ライオンと豹のこども、レオポンみたいなもんですかね。
ライガーもレオポンも、親より強くなっていないみたいですよね。
そういう草壁さんを、みんなは慕っていたのです.
なればこその、哀切なる挽歌だったのでしょう。
By妻
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旅行記グループ 六国史の旅 草壁皇子
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