2018/02/28 - 2018/02/28
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旅人のくまさんさん
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明日香の遺跡巡りです。蘇我馬子は、敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、4代の天皇に仕え、54年に亘り政治に関与し、蘇我氏の全盛時代を築きました。『日本書紀』等では、悪人であることが強調されていますが、開明性を持った人との評価もあります。(清張通史4、ウィキペディア)
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玄室内の見学の前に、早回りで『石舞台古墳』の外回りを見学しましたが、もう少し時間をかけて、二周り目の見学です。まずは羨道と出入口方面の光景です。昭和8年(1933年)、京都帝大濱田耕作教授(1881~1938年)を中心とする調査団が、奈良県との共同事業として石室の発掘を行いました。その2年後には、埋もれた墳丘裾、周溝、外堤など、石室周辺の遺構が発掘されました。(同上)
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この発掘を記録したガラス乾板と1ミリフィルムとが残され、京都大学文学研究科考古学研究室が保管しています。このコレクションは、これら発掘の記録をデジタル化したものです。これらは京都大学研究資源アーカイブとしてネット公開されていますので、その映像を閲覧することができます。発掘調査時は、この辺りは泥濘になっていました。(同上)
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イチオシ
玄室の出入口に向かって右手になる、石室右側面の光景です。昭和8年の第一次調査の状況は、写真は116枚とされますが、ネットで閲覧できるのはその一部です。昭和8年(1933年)11月5日に行われた慰霊祭にはじまり、測量、棺が納められた玄室への通路である羨道の発掘、玄室内の発掘へと調査が進む様子が記録されています。(同上)
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石室右側面の中央付近に備えてあった、手向けの花の光景です。昭和8年(1933年)11月からの石舞台古墳の発掘では、当時としては最新の、さまざまな試みがなされました。映像で発掘の経過を記録したこともその一つです。ネット公開されているのは、26分の映像を2分のダイジェスト版に編集されたものです。(同上)
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少しだけ、右側に回り込んで撮影した石室右側面と背面の光景です。2分の映像ダイジェスト版では、土砂を掘り上げ、トロッコで運び出す人々やウィンチを設営し、巨石を巻き上げ移動させる様子などです。ガラス乾板が切り取った一コマの背後にあった、さまざまな作業の一部始終は、京都大学研究資源アーカイブ映像ステーションで閲覧できるようです。(同上)
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更に右側に回り込んで撮影した、石室右側面と背面の光景です。松本清張さんの古代史に関する著作集を、今回、改めて手元の蔵書を紐解きました。『古代史疑(中央公論社)』、『火の路』等が清張さんの古代史作品の入口でしたが、今回参考にしたのは、清張通史(講談社、全6巻)、ペルセポリスから飛鳥へ(日本放送出版協会)、古代史記(日本放送出版協会)、古代探求(講談社)等です。(同上)
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石室の背面の光景です。『石舞台古墳』は蘇我馬子の墓であることが定説に近くなって来ましたが、改めて、蘇我氏について紹介しておきます。曽我馬子の父は蘇我稲目、先に紹介した『都塚古墳』の被葬者との説が強まって来ました。それ以前に遡りますと、馬背(または高麗:こま)→韓子(からこ)→満智(まち)→蘇我石川宿禰となり、武内宿禰へと続きます。(同上)
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石室の左側面の光景です。先ほど紹介した蘇我氏の家系は、馬目までは実在する人物とされますが、それ以前の系統については多くの専門家が疑問視しています。ここで、清張通史5からの引用です。『武内宿禰は架空』であり、『百済からの渡来人集団の擬人化』との解釈があります。蘇我氏の祖先は百済からの渡来人で、馬目に始まる大きな権力のカギは、この渡来人集団の新技術活用にあったようです。(同上)
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石室の左側面から出入口にかけての光景です。多くの専門家が疑問視している馬目より前の家系についても清張さんの考察があります。それは、『満智宿禰』が百済記の『木・満智』と一致する説の紹介です。この一致により、5世紀頃に『木満智』が百済から大和盆地に移住して、蘇我氏となった可能性があります。『木満智』は、百済の将軍として権力をふるった人です。(同上)
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羨道(せんどう)の出入口付近の光景です。ここで、横穴式石室の構築手順を箇条書きで紹介しておきます。
①墳丘を掘り下げ、玄室の奥壁・側壁の第1段の石、および玄室と羨道の境となる袖石を据えて玄室のアウトラインを定める。
?遺骸を納めた木棺・石棺・陶棺などを玄室内に安置する。 -
羨道(せんどう)の先端部分と玄室の入口付近の光景です。横穴式石室の構築手順の紹介の続きです。
〇第2段、第3段の石を積み上げながら、並行して羨道にも石を据える。
〇玄室・羨道に天井石を乗せる。
〇封土を積み、入口に握り拳大の石を詰て閉じる(閉塞石)。扉石の場合も。(同上) -
少し離れた場所から眺めた、石室の左側面と出入口付近の光景です。横穴系の埋葬施設は、一方の側面が外部に通じて出入口となっているため、石室入口の開閉が可能で、追葬や合葬に適しています。未盗掘の横穴式石室より大量に出土する多種多様な土器は、黄泉路の糧として供献されたものと考えられています。壺・甕・瓶・鉢・坏・高杯などに貯え、あるいは盛られた食物や酒などが供せられました。(同上)
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少し離れた場所から眺めた、石室の左側面と出入口付近のズームアップ光景です。横穴式石室は、イギリスの古墳(羨道墳)などヨーロッパやインドなどでも普遍的に見られる墳丘墓の内部施設とされます。5世紀頃に、高句麗の影響が百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられています。主に6~7世紀の古墳で盛んに造られました。(同上)
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玄室に収められていた石棺のレプリカが展示された方面の光景です。京都大学研究資源アーカイブの写真と映像資料を閲覧したのは、石棺の出土状況を見たかったのが一番でしたが、その目的は達しませんでした。(同上)
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『特別史跡・石舞台古墳』のタイトルがあった、明日香村教育委員会名の説明看板の光景です。古墳上部の封土が無くなり、昔から『石舞台古墳』と呼ばれていることが紹介されていました。(同上)
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イチオシ
側面から眺めた、石舞台古墳の玄室に収められていた石棺のレプリカの光景です。石舞台古墳は、昭和8年(1933年)の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであったことが分かりました。古墳形状は、上円下方墳と推定され、被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃源墓である可能性が高いとされます。(同上)
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正面から眺めた、石舞台古墳の玄室に収められていた石棺のレプリカの光景です。昭和8年(1933年)の発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平らに加工した凝灰岩の破片が見つかったとされます。この発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして石舞台古墳の石棺を復元したことが解説されていました。(同上)
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石棺のレプリカが置かれた場所の近くから眺めた、石舞台古墳の出入口付近の光景です。外提の北西隅の外には石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚と推測されていました。しかし、その後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、周辺にあった古墳を削平したものと考えられています。アーカイプ写真を見て、一瞬、石舞台古墳の石棺と見間違えました。(同上)
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石舞台古墳は、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠を巡らし、さらに南北約83メートル、東西81メートルの外提を廻らした壮大な方形墳であるとされます。その空堀か、外堀になるようです。(同上)
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同じく、壮大な方形墳の周りの空堀か、外堀の光景です。標識などがないようでしたから、判別がつきませんでした。(同上)
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石舞台古墳に近い場所の桜か桃の樹の光景です。開花まで、もう暫くはかかりそうでしたが、蕾が大きくなりかけていました。どちらにしても、バラ科の植物です。(同上)
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桜か、あるいは桃か迷った樹の幹にあった名札です。『きくもも(菊桃)』の文字がありました。『ゲンジグルマ(源氏車)』の別名を持つ、桃の1品種でした。花弁が細長く、キク(菊)に似ていることに由来する名前です。バラ科サクラ属の落葉小高木です。(同上)
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イチオシ
封土(盛土)の上部がありませんので、その墳形は明確ではありません。2段積の方墳か、上円下方墳とされます。下方八角墳と推測する異説もあります。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰との説がありますが、証明することが難しそうな問題に思えます。石組が終わった後での封土ですから、最後の段階で工事が未完に終わった可能性もあるかも知れません。(同上)
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『特別史跡・石舞台古墳』の文字が刻まれた大きな石標の光景です。国の特別史跡に指定されたのは昭和27年(1952年)3月のことです。奈良県では、現在10箇所が国の特別史跡に指定されています。その内の3箇所を今回見学しました。あとの2箇所は、キトラ古墳と高松塚古墳です。(同上)
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中央奥に見えるのは、『特別史跡・石舞台古墳』の文字が刻まれた大きな石標の側面です。『文化財保護委員会』の文字がありました。通常は、管理する自治体名がその上に記されるようですが、明日香村や奈良県の文字はありませんでした。(同上)
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『石舞台古墳』の周りの広場の光景です。用地買収され、土地開発などが規制された区域のようでした。樹木などはありませんが、元の地形がそのまま保存されているようでした。これからの発掘調査が検討されているエリアも含まれているかも知れません。(同上)
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『石舞台古墳』の周りの光景が続きます。何度か紹介した、『イ・ヨンヒ(1931~)』さんが、古代韓国語を読み解いて明らかにした謎の万葉集の紹介です。25年ほど前に出版された『蘇る万葉集(1993年3月刊、文芸春秋社)』からの紹介です。その当時、本当に驚いてしまった、天智天皇が暗殺された時を読み解いた和歌でした。巻二・148に収められた倭大后の和歌です。(同上)
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(原詩):『青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目乎者雖視 直乎不相香裳』
(従来訓):『青旗の木旗の上を通ふとは 目には見れども ただに逢はぬかも』
(真の読み下しとその大意):青旗乃(ゴラギネ):『青』がそいつだ!、木旗能上乎(ナ?ギヌンウペオ):言い残すお上を拝し、賀欲布跡羽(ガヨプトゥパ):駕籠引き留めて、目乎者雖視(メイジャスイシ):担がせたら直ぐに亡くなられた。(同上) -
直乎不相香裳(ジョギプ?サンコモ):まことに不憫である。
続いて若干の補足説明です。事件の『証言』であり、現場からのルポルタージュの歌とイヨンヒさんは紹介されていました。詠み人の『倭大后』は、天智天皇の皇后です。『青』とは、大海人皇子(のちの天武天皇)のことです。『日本書紀』でも、この時期の記述に異変があります。大海人皇子は宮内に呼ばれ出家しました。(同上) -
イヨンヒさんが読み解いた歌のあらましです。①大海人皇子一味による天智天皇暗殺の計画と実行、天皇は即死ぜず、臣下によって発見、『大海人にやられた』と一言残し、天智天皇が亡くなり、一部始終を見届けたものが、皇后(後の倭大后)に報告、報告を受けた大后が、それを歌に詠んだ。または、報告者が和歌を添えて報告した。(同上)
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