2018/02/28 - 2018/02/28
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奈良県の明日香地区にある4箇所の古墳遺跡巡りです。最初は蘇我馬子の父の曽我稲目が被葬者との説が強まった『都塚古墳』の紹介です。蘇我馬子が被葬者とされる『石舞台古墳』からも近い場所です。(ウィキペディア)
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名古屋駅からバスで出発し、到着した奈良県の『飛鳥』です。『明日香』とも表記されます。『アスカ』の呼び方は、日本に文字がなかった時代からの呼び名とされ、万葉仮名では、『阿須加』や『阿須可』の表記があります。『飛鳥乃(とぶとりの)』は枕詞で、『飛ぶ鳥のように早く帰ってくるように』との意味で、『明日香』や『早御来』にかかりました。(同上)
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『李寧煕(イ・ヨンヒ:1931~)』さんによる、万葉集の枕詞に始まる古代韓国語の解読によれば、『飛鳥』の真の意味は『夜が明ける』または、『早い』の意味とされます。古代韓国語では『飛』は『ナル』、『鳥』は『セ』と読み、『飛鳥乃』は『ナルセネ』で、『ナルセ』と同義と解読されています。写真は『飛鳥観光周辺案内図』です。(同上)
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『国営飛鳥歴史公園・石舞台地区』の文字が刻まれた石標の光景です。古代には、『阿須加』や『阿須可』だったものが、見た目がよい『明日香』の表記に代わっていったようです。現在は、地名や自治体名を表すときは『明日香』を用い、時代などでは『飛鳥』が使われています。『明日香村』や、『飛鳥時代』の使い分けです。(同上)
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なぜか、北が下向きに表示された観光案内地図です。右向き(西向き)の矢印には、橘寺、川原寺跡や甘粕岡が記されていましたが、残念ながら今回の旅行の見学行程には入っていません。目的地の『石舞台古墳』は、赤い現在地の表示の左上(東南)近くに、『都塚古墳』は少し離れた左上(東南)方角に記されていました。(同上)
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同じく、観光案内標識の光景です。左向きの矢印で、石舞台古墳までが110メートル、石舞台古墳展望台までが200メートル、都塚古墳までが500メートルと表示されていました。最初の見学地は、『都塚古墳』です。最近の発掘調査結果などによれば、階段状の石積の古墳であることが分かり、曽我稲目の墓であるとの説が有力になってきました。(同上)
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最初の見学地の『都塚古墳』に向かう途中の光景です。かなりの段差があった川を渡る時の光景です。大和川水系の飛鳥川の支流の冬野川になるようです。堺市付近で大阪湾に注ぎます。(同上)
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飛鳥川の支流の冬野川に架かる橋の光景です。平仮名表記で『みやこはし』の文字がありました。飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を『飛鳥時代』と呼び、狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指します。(同上)
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『都塚古墳』が近付いてきたようです。左向きの矢印は、バスが駐車した『石舞台古墳』の方面、その反対方向が『坂田寺跡』の方面です。『都塚古墳』に向かって、その中間の道を南側に向かいました。『坂田寺』は、継体16年(522年)に渡来した司馬達止が造った尼寺とされ、飛鳥五大寺の一つとされました。(同上)
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『都塚古墳』に到着しました、その近くに置かれていた、『都塚古墳』のタイトルがあった説明プレートの光景です。『都塚古墳』は、正月元旦に金鳥が啼く伝説があり、『金鳥塚』と呼ばれていたことから説明が始まっていました。平成26年(2014年)の発掘調査を踏まえた説明文のようでした。国の史跡に指定されています。(同上)
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『都塚古墳』のタイトルがあった説明プレートのズームアップ光景です。説明文の右下に、石積の階段状の古墳の推定図が、左側に発掘作業中の写真と石室内部の写真が表示されていました。(同上)
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イチオシ
『復元イメージ図』と題された階段状の『都塚古墳』の図面です。2014年の発掘調査によれば、『都塚古墳』は1辺約41~42メートルの大型方墳で、階段状に土を盛って高さ4.5メートル以上の墳丘を築いたと分かりました。日本で初めて見つかった古墳の形とされ、6世紀後半の築造と推定されています。(同上)
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右側の二枚が、発掘作業で見付かった階段状の石積の光景です。右上が墳墓のコーナー部分、右下が墳墓の辺の途中の光景です。左には石棺が置かれた現在の石室内部の写真が紹介されていました。(同上)
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被葬者と目されている曽我馬目(506?~570年)は、古墳時代の豪族で、蘇我高麗の子、蘇我馬子(生年不詳~626年)ら4男3女の父です。稲目の妻は葛城氏の出と推測され、娘三人を天皇に嫁がせ、その子の内の三人(用明天皇、推古天皇、崇峻天皇)が天皇として即位しています。(同上)
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『都塚古墳』の入口左脇の石組の光景です。石舞台古墳が蘇我馬子の墓であることは異論が少ないようですが、『都塚古墳』が、その南側に位置することから、父の曽我稲目ではなく、稲目の妻であるとの説もあるようです。発掘調査の前には、 被葬者は欽明天皇と妃の堅塩媛(きたしひめ:稲目の娘)との見方や、稲目説もありました。(同上)
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『都塚古墳』の入口右脇の石組の光景です。どちらも、かなりの大きさの石が用いられていました。都塚古墳の被葬者が稲目だった可能性が高まり、五条野丸山古墳の被葬者は、欽明天皇と堅塩媛との見方が一層強まりました。五条野丸山古墳は全長310メートルと奈良県最大の前方後円墳です。平成4年(1992年)の調査で、長さ約28メートルの国内最大の横穴式石室と、二つの石棺が確認されました。(同上)
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更に奥に進んだ、『都塚古墳』の入口左脇の石組の光景です。墳丘周囲には周濠が巡らされていて、この周濠は幅1.0~1.5メートル、深さ0.4メートルとされます。埋葬施設は両袖式横穴式石室で、南西方に開口し、石室長は約12メートルです。(同上)
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更に奥に進んだ、『都塚古墳』の入口右脇の石組の光景です。石室内部には家形石棺が据えられたほか、木棺(非現存)の追葬が推定されています。盗掘に遭っているため、副葬品のほとんどは散逸しました。曽我馬目の墓である可能性が高まりましたが、木棺(非現存)の追葬は指摘されているものの、馬目の妻の追葬についての調査は進んでいないようです。(同上)
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入口は開放されていますが、頑丈な金属柵と扉がありました。順番待ちをしながらの石質内部の見学です。『稲目の墓説』の根拠はいくつかあ利ます。①築造の年代が合っていること。②この一帯が蘇我氏と所縁の深い土地であること。?階段状の墳墓は高句麗の様式と思われ、蘇我稲目の二人の妻は、高句麗から渡来したこと。などです。ただし、稲目の妻は、曽我氏との説もあります。(同上)
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石室内部の光景です。蓋付きの石棺が据えられていました。蓋が家形をした、『家形石棺』です。残念ながら、鎌倉時代当たりに盗掘にあったようですが、いくつかの出土品も確認されています。出土品は、土師器、須恵器、鉄製品(刀子・鉄鏃・鉄釘・小札)と瓦器です。(同上)
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イチオシ
『家形石棺』とその周りの石室光景です。『都塚古墳』の築造には、延3万人が関わったと推計されています。この地に住んだ権力者でなければ建設できない規模の古墳です。発掘調査報告書によれば、石棺に残る赤色顔料は鉄系赤色顔料とされます。元素分析によって鉄を確認されましたが、ベンガラ(赤鉄鉱)とは断定できないものの、鉄系赤色顔料が塗られていることが分かりました。(同上)
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石室内部の光景です。石室の左横付近の光景です。石英質の貫入が入った石材のようでした。埋葬施設には、石英閃緑岩(飛鳥石)による両袖式横穴式石室が使用されています。石英閃緑岩は、石英を多く(20%以下)含む閃緑岩です。(同上)
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石室内部の光景が続きます。石室の右横付近の光景です。墳丘と石室では、後世の地震によると見られる地割れや石室の亀裂も認められています。その地震は、宝永地震または安政東海・安政南海地震のようです。宝永地震は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震で、記録に残る日本最大級の地震です。(同上)
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次は石室上部の光景です。緩いカーブを描き、その中央部に大きな石が揃えられていました。アーチ型に準じた強度が得られているようにも見えました。玄室の大きさは、長さ5.3メートル、幅2.8メートル、高さ3.55メートルと公表されていました。東海地震・東南海地震・南海地震は100年前後の周期で繰返し発生し、それらの地震が連動することが知られています。(同上)
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イチオシ
まだ順番待ちの人がいた、玄室の入口付近の光景です。羨道の規模は、長さ6.9メートル、幅1.9~2.0メートル、高さ約2メートルと公表されています、石室部分を含めた全長は12.2メートルです。地震によるとみられる亀裂は、古墳の石室計7カ所で確認されました。多くは南東~北西方向の亀裂で、1カ所では石材が上下2つに割れ、上部が北西方向(墳丘がある斜面の下方向)にずれていました。(同上)
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『都塚古墳』の前から眺めた、周りの明日香村の光景です。石室に使われている石材は、『飛鳥石』と呼ばれる堅い火成岩です。経年劣化しにくいことや、亀裂の分布状況から、『急激かつ巨大な荷重が短時間に石材群を揺するように加わった』とされ、地震が原因の可能性が高いと判断されました。(同上)
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『都塚古墳』の上に登って眺めた周りの光景です。『都塚古墳』では、石材と同じ方向の亀裂が、墳丘でも確認されています。また、巨大地震の亀裂は、近距離に位置する高松塚古墳でも見つかっています。(同上)
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同じく、『都塚古墳』の上に登って眺めた周りの光景です。明日香村教委は、築造にかかった労働量の計算を行っています。土による墳丘の築造には、人1人の1日の作業量を3.3立方メートルとして、延べ約1500人が工事に当たったと推測しています。(同上)
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『都塚古墳』の上に登って眺めた周りの光景が続きます。石室石材(約485トン)や墳丘石材(約64トン)の運搬には、1人が1日約20キロ運ぶとして、延べ約2万8千人が必要になるとし、石材の切り出しなどの人員を含めて、『築造には延べ約3万人が従事』したと推計しています。(同上)
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『都塚古墳』の最上部から降りて、振り返って眺めた頂上部の光景です。石を積んだ階段ピラミッドの構造が確認された後、綺麗に埋め戻されてようです。発掘調査の現地説明会は、2014年に行われています。(同上)
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『都塚古墳』の上から降りる途中に眺めた、石室入口付近の光景です。墳丘の築造は、5段階(9工程)で行われ、粘性度の高い土と砂質土を交互に盛る版築(はんちく)工法で強度を確保していることも確認されました。(同上)
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