2018/02/17 - 2018/02/17
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旅人のくまさんさん
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豊臣氏所縁の城巡りの2箇所目、伏見城の紹介です。『桃山文化』や『安土桃山時代』の時代区分にも使われる、『伏見桃山城』ですが、歴史上の役割は、江戸初期までに終えたようでした。(ウィキペディア)
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淀城の見学を済んだところで、昼食の時間となりました。昼食のお店は京都市内を少し北上し、七条にあるお店でした。その和食のお店は、元は銀行だったらしい建物で、ギリシャ・ローマ風の柱が飾りになっていました。(同上)
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昼食のお店の屋号は、『きょうと和み館』その玄関付近の光景です。ネット検索しましたら、『七条通沿い、堀川と西洞院の間に位置する、100年前の歴史的建物』と紹介されていました。(同上)
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和食のお店でしたから、燗を付けたお酒を注文しましたら、程よい燗のお酒が、遅滞なく運ばれてきました。これだけで、二重丸です。そのレストランの脇の小路の光景です。食事が済んだあと、2箇所目のお城巡りになる『伏見城』に向かいました。(同上)
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渋滞もなく、『伏見城』に到着しました。今見えている大手門、天主や小天守などは、再建されたものではなく、すべて模擬の建物です。京都には二条城があることから、一国一城令により、伏見城は元和9年(1623年)に廃城となりました。伏見城の天守は二条城に、また多くの建物は福山城と淀城に使われ、それ以外にも全国各地に移築されました。(同上)
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イチオシ
正面から眺めた、『模擬大手門』の光景です。廃城になった後、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて、『桃山』と呼ばれるようになりました。後に『伏見城』の通称として『桃山城』と呼ばれる由来です。時代区分の『安土桃山時代』もこの呼び名を基にしたものです。『安土桃山時代(1573~1603年)』は、織田信長と豊臣秀吉の政権時代で、『織豊(しきほう)時代』とも呼ばれます。(同上)
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『伏見桃山城運動公園案内図』のタイトルがあった看板です。現在位置が、この地図の左下付近に駐車場に記されていました。伏見桃山城の模擬天守や、模擬大手門(正門)等が左側の方に記されていました。運動場も、かつての『伏見桃山城』の縄張り内になりますが、南側の本丸址は明治天皇御陵になり、この地図には記されていません。(同上)
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模擬大手門の右前に置かれていた、『伏見桃山城』の文字が刻まれた大きな石標の光景です。『伏見桃山城』の模擬天守などは、伏見城花畑跡に昭和39年(1964年)に遊園地『伏見桃山城キャッスルランド』が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考に、5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が鉄筋コンクリート構造で造られたものです。(同上)
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模擬大手門の前から眺めた、明治天皇の御陵方面の光景です。かつての伏見城跡は、伏見奉行所の管理とされ、幕末まで立入禁止となっていたようです。本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから、現在も無許可での立入りが禁じられています。2009年2月、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の調査が行われました。(同上)
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模擬大手門の右前に置かれている『伏見桃山城』の石標の光景です。日本考古学協会による調査では、敷地内に4~5メートルの盛り土がなされていることが判明しましたが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれています。詳しいことは分かりませんが、場所柄、発掘調査は行われていないようです。(同上)
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斜め前から眺めた、『模擬大手門』の光景です。鉄筋コンクリートで造られた楼門です。遊園地の『伏見桃山城キャッスルランド』は閉鎖されましたが、模擬天守などは京都市に無償譲渡され、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備されました。ただし、模擬天守は耐震強度不足の理由で、現在は内部非公開となっています。(ブラタモリの映像で見ることができます)(同上)
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模擬大手門の中央に掲げられた、『伏見桃山城』の扁額光景です。伏見城は1602年頃に家康によって再建され、1619年に廃城とされました。伏見城の後には元禄時代頃までに桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになりました。やがて伏見城は『桃山城』、あるい『伏見桃山城』と呼ばれるようになりました。(同上)
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大きな五七の桐の文様ですが、一部が剥がれ落ちて、五三の桐の文様になりかけていました。推測ですが、誤って五三の桐の文様にしたことで、二つずつを付け加えたものの、剥がれ落ちてしまったようです。そっくり作り替えるべきでした。(同上)
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イチオシ
左が模擬小天守、右奥が模擬天守の光景です。伏見城は3度に亘って築城されました。1592年に指月山に築かれたものを『指月山伏見城』、後に木幡山に再築されたものを『木幡山伏見城』と呼んで区別され、更に木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に、徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。(同上)
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五階五層の模擬天守のズームアップ光景です。伏見の桃山地区は、東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地でした。最初の伏見城は、朝鮮出兵(文禄の役)開始後の文禄元年(1592年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため、伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めました。後年、『指月山伏見城』と呼ばれたお城です。この伏見城は、築城開始から2年後の文禄3年(1594年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成予定でしたが、完成直前に『慶長伏見地震』によって天守上部が倒壊しました。
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三階三層の模擬小天守のズームアップ光景です。『慶長伏見地震』は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子(ね)の刻に、現在の京都・伏見付近で発生した大地震です。『慶長伏見大地震』とも呼ばれます。京都では伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1000人を超えました。有馬-高槻断層帯、および六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生した、マグニチュード7.25~7.75程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)です。完成間近の伏見城天守もこの地震により上部が倒壊し、城内だけで600人が圧死したと言われています。(同上)
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入城して、振り返って眺めた模擬大手門の光景です。『慶長伏見地震』の4日前には、現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震が、また前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾~日出生断層帯の東部を震源とする慶長豊後地震(共にM7.0と推定)が発生しました。この地震による誘発地震の可能性が指摘されています。これらの天変地異が影響し、『文禄』から『慶長』へ改元されました。(同上)
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振り返って眺めた『模擬大手門』の光景です。兵庫県南部を中心に甚大な被害となった平成7年(1995年)の『兵庫県南部地震(M7.3)』は、この時の地震で破壊された、六甲・淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする新説が発表されました(朝日新聞:2008年11月22日)。京都大学地震予知研究センターの飯尾能久教授による説です。(同上)
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先ほど紹介したした『慶長伏見地震』と『兵庫県南部地震(M7.3)』との間には、実に、400年以上も差があります。しかし、地震周期としては不思議な話ではないようです。近代ヨーロッパを震撼させた1755年11月1日に発生したポルトガルのリスボン大地震にも、200年程の周期があったようです。現地でもしっかりと耳にしました。(同上)
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リスボンの大地震は、若き日のカント(1724~1804年)にも大きな影響を与えました。彼は、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、これらを使って地震の起こる原因に関する理論を構築しました。カントが出版した地震についての書物は、『ドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである(ベンヤミン)』と評価されています。(同上)
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見学路を歩きながら、繰り返し撮影した模擬天守の光景が続きます。『指月伏見城』で地震に見舞われた秀吉でしたが、無事でした。建物としては台所施設が健在だったらしく、そこで一晩を過ごしました。夜が明けて指月伏見城から北東の1キロにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、秀吉もそこで避難生活を送りました。この地が『木幡山伏見城』となりました。(同上)
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東側から眺めた模擬天守の光景です。『指月伏見城』は、大地震に見舞われましたが、火災は起きなかったようです。地震が起きた2日後には、『木幡山伏見城』の作事が着手されています。本丸が完成したのは文禄5年(1596年)10月のことです。早く完成した理由は、建設資材のかなりの部分が再利用されたからと推測されています。(同上)
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イチオシ
地震の話しが長くなりましたが、伏見城の説明に戻ります。豊臣秀吉は、大坂城と伏見城を行き来していましたが、晩年は伏見城で過ごすことが多かったとされます。豊臣秀頼と五大老に後事を託し、慶長3年(1598年)8月に『木幡山伏見城』で亡くなりました。在城期間は僅か4年でした。豊臣秀吉の遺言より、秀頼は慶長4年(1599年)正月に大坂城へ移りました。五大老の一人である前田利家が同年3月に病死、徳川家康は石田三成を同年3月に佐和山城へ追放すると、同年3月13日に留守居役として『木幡山伏見城』に入城しました。その徳川家康も同年9月には大坂城に移りました。伏見にあった大名屋敷もほとんどが大坂に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していきました。(同上)
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小雪が舞い散る寒い日になりました。そんな寒い中で咲いていたソシンロウバイ(素心蝋梅)です。芳香を持つ早春の花木です。原産地は中国で、日本には明治時代に渡来しました。(同上)
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同じく、小雪が舞い散る中で咲いていたソシンロウバイ(素心蝋梅)の黄色の花の光景です。傘を指しながら、片手撮りでしたが、オート撮影でのピントが合いませんでした。(同上)
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後方を振り返って眺めた『模擬天守』の光景です。現地ガイドをして戴いたのは、『淀城』のガイドをして戴いた、地元のお二人のボランティアガイドでした。『淀城』では、最初に『淀古城』と『淀城』の違いと歴史的経緯、『伏見城』でも3回築城されたお城の違いと、4回目の築城に当たる現在の模擬天守の経緯について説明して戴きました。(同上)
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フェンスで仕切られたエリアを超えて、次の見学場所に向かう途中の光景です。ここからも『模擬天守』が見えました。(同上)
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左手に土塁跡、右手に堀跡らしい地形になっていた場所の光景です。ネットで眺めたブラタモリのメンバーも、この通りを歩いていました。タモリ(1945年~)は、日本のお笑いタレント、漫談家で司会者、本名は森田一義(もりた・かずよし)です。ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑いビッグ3とも呼ばれています。(同上)
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現在はテニスコートなどになっているようですが、人気番組のブラタモリの2016年5月7日放送分の『#37 京都・伏見 ~伏見は“日本の首都”だった!?~』では、『最大幅150メートル、深さ15メートルの巨大な堀跡』と紹介されていました。秀吉は、土木マニアとのコメントも入っていました。(同上)
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『最大幅150メートル、深さ15メートルの巨大な堀跡』の光景が続きます。かつての秀吉の『木幡山伏見城』の縄張りの北端付近になるようでした。宇治川により守られる南方部に対し、守りが脆弱な北方については、堀と防塁を設けたとされます。(同上)
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現在の堀跡の東端付近の光景になるようです。かつての『堀』は、現在も『濠川』として伏見の町並みを包むように北から南西に流れています。また、土塁はほとんどが破壊されましたが、僅かに伏見区深草丹下の宗春寺境内に残るようです。(同上)
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