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甥の秀次が秀吉の養子となり、関白となりましたが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、秀次は切腹させられました。家老で『淀古城』の城主だった木村重茲も連座、文禄4年(1595年)に廃城となりました。その後、伏見城の廃城により元和9年(1623年)に築城されたのが『淀城』です。 (ウィキペディア)

2018早春、豊臣氏所縁の城(3/7):淀城(3):本丸、内堀、淀城跡公園、稲葉神社、与杼神社

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2018/02/17 - 2018/02/17

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旅人のくまさん

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甥の秀次が秀吉の養子となり、関白となりましたが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、秀次は切腹させられました。家老で『淀古城』の城主だった木村重茲も連座、文禄4年(1595年)に廃城となりました。その後、伏見城の廃城により元和9年(1623年)に築城されたのが『淀城』です。 (ウィキペディア)

交通手段
観光バス
  • 現在は『淀城址公園』となった、かつての『淀城』の本丸址の光景です。話は遡って、『淀殿』所縁の『淀古城』は、京都市伏見区納所(のうそ)にあり、古くから商業地『淀』の中核都市でした。文禄4年(1595年)に廃城となり、その資材の多くは『伏見城』建築に使用されたようです。一国一城令で『伏見城』が廃城となると、その資材が『淀城』の築城に使われました。(同上)

    現在は『淀城址公園』となった、かつての『淀城』の本丸址の光景です。話は遡って、『淀殿』所縁の『淀古城』は、京都市伏見区納所(のうそ)にあり、古くから商業地『淀』の中核都市でした。文禄4年(1595年)に廃城となり、その資材の多くは『伏見城』建築に使用されたようです。一国一城令で『伏見城』が廃城となると、その資材が『淀城』の築城に使われました。(同上)

  • 同じく、かつての『淀城』の本丸跡の光景です。白塀の内側に建つのは、『与杼(よど)神社』と『稲葉神社』です。この後に、詳しく説明します。(同上)

    同じく、かつての『淀城』の本丸跡の光景です。白塀の内側に建つのは、『与杼(よど)神社』と『稲葉神社』です。この後に、詳しく説明します。(同上)

  • 始めに少し紹介した、大きな石碑が並んだ場所の光景です。この付近一帯も、本丸址になります。もう一度立寄ることができました。(同上)

    始めに少し紹介した、大きな石碑が並んだ場所の光景です。この付近一帯も、本丸址になります。もう一度立寄ることができました。(同上)

  • 『淀城址碑』のズームアップ光景です。既に紹介しましたが、この碑の揮毫には、『子爵・稲葉正凱書』の落款がありました。『稲葉正凱(1906~1963年)』は、淀藩の藩主の子孫で、子爵だった人です。この石碑は、1923年(大正12年)に『稲葉侯御移封二百年記念会』が建てたものです。(同上)

    『淀城址碑』のズームアップ光景です。既に紹介しましたが、この碑の揮毫には、『子爵・稲葉正凱書』の落款がありました。『稲葉正凱(1906~1963年)』は、淀藩の藩主の子孫で、子爵だった人です。この石碑は、1923年(大正12年)に『稲葉侯御移封二百年記念会』が建てたものです。(同上)

  • 『淀町出身戦没者・慰霊碑』の文字だ刻まれた石碑の光景です。『淀城址碑』と同じくらいの大きさでした。新しい日のようですから、第二次世界大戦での戦没者碑かも知れません。(同上)

    『淀町出身戦没者・慰霊碑』の文字だ刻まれた石碑の光景です。『淀城址碑』と同じくらいの大きさでした。新しい日のようですから、第二次世界大戦での戦没者碑かも知れません。(同上)

  • 『稲葉神社』の拝殿光景です。祭神は淀藩稲葉家の祖、『稲葉正成公(1571~1628)』です。既に紹介しましたように、春日局の夫君だった人です。稲葉正成は秀吉に仕え、その命により、小早川秀秋の家老となり、秀吉の没後、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で家康側につき、合戦の功により家康より感状を受け、後に松平忠昌に仕えました。(同上)

    イチオシ

    『稲葉神社』の拝殿光景です。祭神は淀藩稲葉家の祖、『稲葉正成公(1571~1628)』です。既に紹介しましたように、春日局の夫君だった人です。稲葉正成は秀吉に仕え、その命により、小早川秀秋の家老となり、秀吉の没後、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で家康側につき、合戦の功により家康より感状を受け、後に松平忠昌に仕えました。(同上)

  • 稲葉正成公を祀る『稲葉神社』の前の狛犬の紹介です。正成公はその後、下野(栃木)真岡の城主となり、2万石を領し増した。寛永5年(1628年)江戸で没し、上野の現龍院に葬られました。(同上)

    稲葉正成公を祀る『稲葉神社』の前の狛犬の紹介です。正成公はその後、下野(栃木)真岡の城主となり、2万石を領し増した。寛永5年(1628年)江戸で没し、上野の現龍院に葬られました。(同上)

  • 一対で置かれた狛犬の左側の石像です。先程は阿形の雄獅子、こちらが吽形の雌獅子です。稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて5代目の正知の時でした。享保8年(1723年)下総佐倉(千葉)より、10万2千石で入封しました。その後明治4年(1871年)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家12代、148年間に亘り城主を務めました。(同上)

    一対で置かれた狛犬の左側の石像です。先程は阿形の雄獅子、こちらが吽形の雌獅子です。稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて5代目の正知の時でした。享保8年(1723年)下総佐倉(千葉)より、10万2千石で入封しました。その後明治4年(1871年)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家12代、148年間に亘り城主を務めました。(同上)

  • 『稲葉神社』のものらしい手水舎の光景です。水を遣った跡がなく、現在は使用されていないようでした。四方転びの建物も弱ったらしく、補強の支柱が支えていました。(同上)

    『稲葉神社』のものらしい手水舎の光景です。水を遣った跡がなく、現在は使用されていないようでした。四方転びの建物も弱ったらしく、補強の支柱が支えていました。(同上)

  • 裏側から眺めた、『与杼(よど)神社』の提灯架けの光景です。その表面に、神社の境内か、参道があるようでした。早速そちらへの移動です。(同上)

    裏側から眺めた、『与杼(よど)神社』の提灯架けの光景です。その表面に、神社の境内か、参道があるようでした。早速そちらへの移動です。(同上)

  • こちらは、『与杼(よど)神社』の手水舎になるようです。現在も多くの人が使われているようでした。『与』の文字は『與』の文字も使われるようです。(同上)

    こちらは、『与杼(よど)神社』の手水舎になるようです。現在も多くの人が使われているようでした。『与』の文字は『與』の文字も使われるようです。(同上)

  • 『与杼(よど)神社』の参道光景です。この神社の境内にある古松が、棟方志功さんが名付けた『松音嵐(しょうせきらん)』かも知れません。中部地区を代表する俳句誌に『松藾(しょうらい)』がありますが、『松藾』は、松の梢に吹く音、松風の音とお聞きしたことがあります。旅行でご一緒した、俳号が陽苑の松藾会の常任幹事の方でした。(同上)

    『与杼(よど)神社』の参道光景です。この神社の境内にある古松が、棟方志功さんが名付けた『松音嵐(しょうせきらん)』かも知れません。中部地区を代表する俳句誌に『松藾(しょうらい)』がありますが、『松藾』は、松の梢に吹く音、松風の音とお聞きしたことがあります。旅行でご一緒した、俳号が陽苑の松藾会の常任幹事の方でした。(同上)

  • 最初は裏側から眺めた光景でしたが、今度は表から眺めた提灯架けの光景です。寄進をした人の名前が記されているようでした。赤いマークは、三つ巴の社紋のようです。(同上)

    最初は裏側から眺めた光景でしたが、今度は表から眺めた提灯架けの光景です。寄進をした人の名前が記されているようでした。赤いマークは、三つ巴の社紋のようです。(同上)

  • 参道の両脇に狛犬が並んだ光景です。その先に拝殿らしい建物光景がありましたが、違う建物かもしれません。入母屋の破風が正面になった、檜皮葺の屋根を持った建物です。(同上)

    参道の両脇に狛犬が並んだ光景です。その先に拝殿らしい建物光景がありましたが、違う建物かもしれません。入母屋の破風が正面になった、檜皮葺の屋根を持った建物です。(同上)

  • 拝殿らしい建物に向かって右手の獅子像の光景です。阿形の雄獅子です。獅子像が置かれた台座には『奉献』の文字と草花文様が刻まれていましたが、その下の二文字は読み取れませんでした。(同上)

    拝殿らしい建物に向かって右手の獅子像の光景です。阿形の雄獅子です。獅子像が置かれた台座には『奉献』の文字と草花文様が刻まれていましたが、その下の二文字は読み取れませんでした。(同上)

  • 同じく、拝殿らしい建物に向かって左手の獅子像の光景です。吽形の雌獅子です。こちらの台座にも同じ二文字がありました。左は『第』の文字のようですが、別字かも知れません。うまく読み取れませんでした。(同上)

    同じく、拝殿らしい建物に向かって左手の獅子像の光景です。吽形の雌獅子です。こちらの台座にも同じ二文字がありました。左は『第』の文字のようですが、別字かも知れません。うまく読み取れませんでした。(同上)

  • 参道の左手に見えていた、境内社の光景です。三社ともに、それぞれに赤い鳥居が並んで建っていました。個人旅行ではありませんから、立寄って撮影する時間はありませんでした。同時期に、揃って建てられたようです。(同上)

    参道の左手に見えていた、境内社の光景です。三社ともに、それぞれに赤い鳥居が並んで建っていました。個人旅行ではありませんから、立寄って撮影する時間はありませんでした。同時期に、揃って建てられたようです。(同上)

  • 先程、拝殿らしい建物と紹介した建物の内部光景です。吹き抜けになった神楽殿らしい建物の中に、ご神体らしい石が置かれていました。右側に『与杼神社石碑』のタイトルの説明文、左側に『洛外図屏風(淀部分)』の写真が置かれていました。その先に見えるのが、『与杼神社』の拝殿でした。(同上)

    先程、拝殿らしい建物と紹介した建物の内部光景です。吹き抜けになった神楽殿らしい建物の中に、ご神体らしい石が置かれていました。右側に『与杼神社石碑』のタイトルの説明文、左側に『洛外図屏風(淀部分)』の写真が置かれていました。その先に見えるのが、『与杼神社』の拝殿でした。(同上)

  • 神楽殿らしい建物の中に祀られていた、ご神体らしい石のズームアップ光景です。大小三つの石が祀られ、注連縄が張ってありました。『洛外図屏風(淀部分)』から判断しますと、江戸時代初期頃の『淀城』時代の礎石のようです。『与杼神社』創建以来、約千年振りに戻った礎石は、京都市文化財保護課の支援があったことが紹介されていました。(同上)

    神楽殿らしい建物の中に祀られていた、ご神体らしい石のズームアップ光景です。大小三つの石が祀られ、注連縄が張ってありました。『洛外図屏風(淀部分)』から判断しますと、江戸時代初期頃の『淀城』時代の礎石のようです。『与杼神社』創建以来、約千年振りに戻った礎石は、京都市文化財保護課の支援があったことが紹介されていました。(同上)

  • 神楽殿らしい建物の横から眺めた、『与杼神社』の拝殿光景です。先ほど紹介した、『与杼神社石碑』の説明文には、西暦960年頃、千勧内供と呼ばれる学問僧が、佐賀県川上村の『与杼日女神社』から勧請したのが始まりと紹介されていました。祭神の『與止日女命(よどひめのみこと)』は、神功皇后の妹とされます。また一説には、豊玉姫であるとも伝えます。『水の神』とされるようです。(同上)

    イチオシ

    神楽殿らしい建物の横から眺めた、『与杼神社』の拝殿光景です。先ほど紹介した、『与杼神社石碑』の説明文には、西暦960年頃、千勧内供と呼ばれる学問僧が、佐賀県川上村の『与杼日女神社』から勧請したのが始まりと紹介されていました。祭神の『與止日女命(よどひめのみこと)』は、神功皇后の妹とされます。また一説には、豊玉姫であるとも伝えます。『水の神』とされるようです。(同上)

  • 次は、外から眺めた天守台の撮影ですが、撮影ポイントまで移動するには、時間がぎりぎりでした。前方に見えるのが天守台を含めた本丸石垣の光景です。明治維新にはいじょうになった『淀城』ですから、本丸の石垣の保存状態は上々でした。(同上)

    次は、外から眺めた天守台の撮影ですが、撮影ポイントまで移動するには、時間がぎりぎりでした。前方に見えるのが天守台を含めた本丸石垣の光景です。明治維新にはいじょうになった『淀城』ですから、本丸の石垣の保存状態は上々でした。(同上)

  • 振り返って眺めた、『与杼神社』の参道とその先に見える鳥居の光景です。宇治川や桂川などの三川に守られた淀城と、その城下町ですから、水の神を祀る『与杼神社』が江戸時代を通じて守られてきたのかも知れません。(同上)

    振り返って眺めた、『与杼神社』の参道とその先に見える鳥居の光景です。宇治川や桂川などの三川に守られた淀城と、その城下町ですから、水の神を祀る『与杼神社』が江戸時代を通じて守られてきたのかも知れません。(同上)

  • 東北方面の外側から眺めた、天守台の光景です。天守台の東側と南側は、内堀に面していますが、そちら側からの撮影の時間はありませんでした。少し中途半端になった、外から眺めた天守台の光景です。図面が残されていますので、連立式の天守閣の再建も可能かも知れません。(同上)

    イチオシ

    東北方面の外側から眺めた、天守台の光景です。天守台の東側と南側は、内堀に面していますが、そちら側からの撮影の時間はありませんでした。少し中途半端になった、外から眺めた天守台の光景です。図面が残されていますので、連立式の天守閣の再建も可能かも知れません。(同上)

  • 同じく、外側から眺めた本丸の周りの石垣光景です。打込み接ぎの石積でした。建物は破却されましたが、本丸石垣の保存状態の良い『淀城址』でした。ただし、遺跡保存への取り組みが遅れてしまったお城かも知れません。(同上)

    同じく、外側から眺めた本丸の周りの石垣光景です。打込み接ぎの石積でした。建物は破却されましたが、本丸石垣の保存状態の良い『淀城址』でした。ただし、遺跡保存への取り組みが遅れてしまったお城かも知れません。(同上)

  • 右側の説明文のタイトルが『稲葉神社の祭神と淀藩について』、左側の絵図面のタイトルが「稲葉氏時代の淀城』でした。絵図で見る淀城は、まるで三川の中のに浮かぶ『浮城』のようでした。また、宇治川に架かる小橋により、北側の『淀古城』の跡の城下町に繋がっていました。(同上)

    右側の説明文のタイトルが『稲葉神社の祭神と淀藩について』、左側の絵図面のタイトルが「稲葉氏時代の淀城』でした。絵図で見る淀城は、まるで三川の中のに浮かぶ『浮城』のようでした。また、宇治川に架かる小橋により、北側の『淀古城』の跡の城下町に繋がっていました。(同上)

  • 既に紹介した3柱の石碑の光景です。左から『淀城之故址』、『淀小橋旧趾』、『唐人雁木旧趾』です。いずれも別の場所から、この地に移されたものです。ここからは再集合場所に向かう、帰り道での撮影です。(同上)

    既に紹介した3柱の石碑の光景です。左から『淀城之故址』、『淀小橋旧趾』、『唐人雁木旧趾』です。いずれも別の場所から、この地に移されたものです。ここからは再集合場所に向かう、帰り道での撮影です。(同上)

  • この神社も、既に紹介しました。大提灯には、稲荷大明神、日吉大明神や熊野大神宮の文字がありました。(同上)

    この神社も、既に紹介しました。大提灯には、稲荷大明神、日吉大明神や熊野大神宮の文字がありました。(同上)

  • 本丸址に面した内堀の光景です。かつての縄張り図を見ますと、『淀城』は、堀にに囲まれた堅城だったようです。また、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城でした。(同上)

    本丸址に面した内堀の光景です。かつての縄張り図を見ますと、『淀城』は、堀にに囲まれた堅城だったようです。また、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城でした。(同上)

  • 逆光での撮影になりましたが、内堀址で泳いでいた鴨さんの光景です。『カルガモ(軽鴨)』さんのようでした。嘴の黄色の部分と親羽の白い部分が見えました。(同上)

    逆光での撮影になりましたが、内堀址で泳いでいた鴨さんの光景です。『カルガモ(軽鴨)』さんのようでした。嘴の黄色の部分と親羽の白い部分が見えました。(同上)

  • 最後での紹介になりましたが、『淀城址公園』の石標光景です。京都市の公式HPによれば、現在の公園面積は1.7ヘクタール、本丸南東部を走る京阪電気鉄道の高架化計画に伴い、倍の面積に公園を拡張する計画書が、2007年に作成されたことが公表されていました。既に10年経ちましたが、長期での取り組みになりそうです。(同上)

    最後での紹介になりましたが、『淀城址公園』の石標光景です。京都市の公式HPによれば、現在の公園面積は1.7ヘクタール、本丸南東部を走る京阪電気鉄道の高架化計画に伴い、倍の面積に公園を拡張する計画書が、2007年に作成されたことが公表されていました。既に10年経ちましたが、長期での取り組みになりそうです。(同上)

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