2018/02/17 - 2018/02/17
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旅人のくまさんさん
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豊臣家所縁のお城巡りの締め括りです。日本百名城や続百名城には選ばれていない、『淀城』、『伏見城』と『長浜城』ですが、歴史的価値などから言えば、全く遜色のない三つのお城でした。(ウィキペディア)
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これで秀吉所縁の長浜城の紹介はおしまいです。振り返って眺めた、『長浜城歴史博物館』の受付光景です。天正元年(1573年)に秀吉により築城され、慶長20年(1615年 )には廃城になった寿命の短いお城です。秀吉に始まり、柴田勝家の甥の勝豊、山内一豊や、徳川譜代大名の内藤信成・信正が城主だったお城です。(同上)
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再集合時間まで、もう少し余裕がありましたから、模擬天守ですが、周りも見学しました。左の建物が博物館への入場口、右が『模擬天守』です。長浜城は、琵琶湖湖畔に建っていたお城ですから、近年は水中考古学の分野での調査で大きな成果が出てきました。その一つが、沖合100メートル程の水中で見付かった、建物跡です。日本の水中遺跡から建物跡が見付かったのは初めてとされます。(同上)
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『模擬天守』の北面と野面積の石垣光景です。滋賀県長浜市の長浜城近くの琵琶湖湖底で、江戸時代の祠の建物跡とみられる遺構が見つかり、同県立大琵琶湖水中考古学研究会が2015年11月4日に発表しました。水深1.8メートルの湖底で見つかったのは、柱8本や石積みです。19世紀初頭に建てられ、文政2年(1819年)の『文政近江地震』で沈んだと推定されています。(同上)
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周りとは、石質の違う石材で算木積にされた天守台の角部分のズームアップ光景です。水中遺跡となったのは、液状化現象で土地が地滑りしたか、沈没したのが原因と考えられています。文政2年6月12日(1819年8月2日)に起きた『文政近江地震』は、M 7.25 ±0.25、またはM 6.9と推定されています。伊勢、美濃、近江を襲った地震で、死者多数と記録されています。(同上)
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同じ場所から眺めた、『長浜城歴史博物館』の玄関方面の光景です。長浜城の沖合には、15世紀の室町時代や、16世紀後半の『天正大地震』で、地滑りが起きて沈んだ西浜千軒遺跡など複数の遺跡が残ります。『天正大地震』は、天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部で発生した巨大地震です。被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ、歴史上例のない大地震です。(同上)
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『模擬天守』の北側にあった出入口の光景です。推測ですが、現代の建築基準法や、消防法などを満たすための出入口のように見えました。火災などで室内が袋小路にならないよう、複数の出入口の設置が義務つけられているようです。『2方向避難の原則』の概念です。(同上)
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イチオシ
北側から見上げた『模擬天守』の光景です。すべて白漆喰の塗込め風の外観でしたが、最下部は、『下見板張り』に黒い塗装が施されていました。『下見板張り』の上には、跳ね上げ式の窓が付いていました。(同上)
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黒と白の石材を使った石垣のズームアップ光景です。白い石材を使った角の部分は切込み接ぎともいえる綺麗な算木積になっていました。オセロゲームに例えるなら、白が断然有利です。(同上)
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『野面積(のずらずみ)』の天守台の石垣のズームアップ光景です。『模擬天守』ですから、天守台も昭和になってから積まれたものです。『野面積』らしく、様々な形や石質のものが使われていました。戦国時代には穴太衆をはじめ、全国各地に越前衆、尾張衆、長袖衆などの石工集団が現れました。(同上)
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『長浜城歴史博物館』の掲示板の光景です。右側のポスターは、この博物館で開催される『三成の関ヶ原合戦』と『湖北の日本遺産・竹生島と菅浦』、左側が観光協会が取り扱っているらしい、『長浜盆梅パスポート2018』の販売案内でした。長浜盆梅展は、何度も見学しましたが、銘樹の数々は見飽きません。(同上)
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『模擬天守』の周りの見学を終えて、出入口の石段に向かう途中の光景です。写真には写っていませんが、右手が博物館の玄関口です。出入口がある東側方面には、至近距離にJRの長浜駅があります。(同上)
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天守台がある、本丸址と想定された場所から眺めた、周りの雪景色光景です。右手が南側になります。この付近一帯が秀吉公に因む名前の『豊公園』になります。お城と駐車場の中間辺りに、国民宿舎の『豊公荘』がありますが、盆梅展見学の折に、鴨鍋を食べに幾度か立寄りました。(同上)
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長浜城の正面入口になる石段の光景です。一段の段差が高く、雪が積もっていますから、帰りは要注意です。左端に、高さを二分の一に緩和した通路がありましたから、往きと同様、そちらを利用しました。(同上)
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イチオシ
石段を下りる前に、もう一度振り返って撮影した長浜城の『模擬天守』の光景です。雪はほぼ止んだようです。天正3年(1575年)に『長浜城』が完成すると、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582年)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として、北陸攻めや中国攻めへと出陣しました。(同上)
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入城する時にも、少し左側から撮影した光景ですが、お礼のご挨拶に、振り返っての撮影です。石段の下に、『長浜盆梅展』の案内標識がありました。この場所から580メートルです。場所は記してありませんでしたが、『慶雲館』です。庭園が国の名勝に指定されている歴史的建造物です。明治時代に著名な小川治兵衛氏により池泉回遊式庭園が作庭されました。(同上)
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雪化粧の庭木と、観光案内標識の光景です。左向きの矢印が『黒壁スクエア』、右向きの矢印が『駐車場」と『噴水広場』でした。『黒壁スクエア』は、3度ほど散策したことがありますが、次の機会には再訪してみたいレトロな町並です。(同上)
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『市立長岡城歴史博物館』のタイトルがあった説明看板の光景です。長浜は、12万石の羽柴秀吉が初めて自分の城を築いた地であることから始まり、城郭形式の博物館が、城郭建築の権威だった藤岡道夫博士の設計で造られたことなどが解説されていました。『藤岡道夫博士(1908~1988年)』は、東京工大の名誉教授で、日本工業大学の学長を務めた斯界の権威でした。(同上)
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雪化粧の木々の間から顔を覗かせた『模擬天守』の光景です。藤岡道夫博士が手掛けられた、外観復元の設計の日本の城郭では、熊本城、和歌山城、小倉城、岩国城、大多喜城や中津城等があります。私のお城巡りでも、既に紹介済みの方です。ネパールやカンボジアの王宮建築の研究にも携わられました。(同上)
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少し離れた場所から撮影した、雪化粧の長浜城の『模擬天守』の光景です。望楼から西向きの写真を撮ろうと思いましたが、強烈な雪と風で、撮影するのは諦めました。琵琶湖を正面にした方角でした。(同上)
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再度紹介する、庭木の雪吊りの光景です。雪吊りでは、金沢の兼六園が有名ですが、長浜でも飾だけではなく、雪対策として十分な効果がありそうでした。旧長浜市・旧浅井町・旧木之本町・旧西浅井町は豪雪地帯に指定され、特に旧余呉町は特別豪雪地帯に指定されています。信長亡き後に、豊臣秀吉と柴田勝家が覇権を争った、『賤ケ岳合戦』の所縁の地の一つです。(同上)
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同じく、別の庭木の雪吊りの光景です。右の庭木は、常緑樹の松の木のようでしたが、左の庭木は、冬木立にも似た、僅かばかりの葉を持った細長い庭木でした。『賤ケ岳合戦』の紹介です。天正10年(1582年)、信長亡きあとの清洲会議で長浜城は柴田勝家の甥の勝豊が城主となりました。 早くもその年の11月、秀吉は長浜城を取り返し、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳合戦の拠点としました。(同上)
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灌木の街路樹の雪化粧の光景です。降り積もった雪を平等に分担して幹や枝が折れないように全体を縄で縛ってありました。殊に、端の方の枝に負担がかかり過ぎないように配慮された縄のようです。(同上)
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灌木の街路樹の雪化粧のズームアップ光景です。今日降った新雪だけが綿帽子になっているようでした。好天になれば、一日で溶けてしまいそうな積もり方でした。(同上)
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琵琶湖が見える、西方面の光景です。船の姿は全く見ることはありませんでしたが、長浜港からの出入港は本数が少ないようでした。長浜市の公式HPには、長浜港は琵琶湖汽船による長浜~竹生島航路と、大津港へのクルーズの二つが記載されていました。(同上)
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車止めのステンレス製の歩道施設の光景です。雪を被って、寒そうな姿の四羽の鳥のモニュメントが置かれていました。雀さん当たりがモデルのようでした。つい、振り返っての撮影になりました。(同上)
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イチオシ
先に紹介した道案内標識に『噴水広場』と記載されていた場所から眺めた、長浜城の『模擬天守』の光景です。真南からの『模擬天守』の光景になるようです。最上階が小さな「模擬天守」ですが、一階の大きな破風が全体のバランスをうまく取っているようでした。(同上)
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『噴水広場』の噴水の場所までやって来ました。この噴水を過ぎた辺りで左に曲がれば、再集合場所のバスの駐車場になります。前方中央に高層ホテルが見えていましたが、その屋上に『長浜ロイヤルホテル』の文字が見えました。長浜港に隣接した、琵琶湖に面した場所に建つホテルです。(同上)
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『噴水広場』の中から振り返って眺めた、長浜城の『模擬天守』の光景です。『独立式望楼型3重5階』の構造の平城です。最後での紹介になりましたが、以前の地名から、『今浜城』の別名を持ちます。(同上)
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噴水広場の中心施設、噴水越しに眺めた琵琶湖の光景です。薄氷程度は張っていたかも知れませんが、完全な凍結はしていないようでした。琵琶湖の対岸に見えているのは、高島市当たりのようです。竹生島は、もっと北(右手方向)ですから、この場所からは見えませんでした。(同上)
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再集合場所のバスに向かう途中に眺めた、噴水広場の時計塔の光景です。ただいまの時刻は17時20分頃、バスの駐車場の再集合時刻の17時30分に調度ぴったりでした。これで、三つのお城を巡った、豊臣氏所縁のお城の紹介はおしまいです。(同上)
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