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豊臣氏所縁の城巡りの最後は、琵琶湖東岸に位置する長浜城です。信長から浅井氏攻めの戦功として与えられた、浅井氏の旧領に築かれた城です。その後の経緯から、『秀吉の出世城』とも呼ばれています。(ウィキペディア)

2018早春、豊臣氏所縁の城(6/7):長浜城(1):模擬天守からの眺望、琵琶湖、長浜市街

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2018/02/17 - 2018/02/17

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旅人のくまさん

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豊臣氏所縁の城巡りの最後は、琵琶湖東岸に位置する長浜城です。信長から浅井氏攻めの戦功として与えられた、浅井氏の旧領に築かれた城です。その後の経緯から、『秀吉の出世城』とも呼ばれています。(ウィキペディア)

交通手段
観光バス

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  • 長浜城の紹介はすべて雪景色になりますので、その前に伏見で撮影しておいた花木や草花などの紹介です。真っ赤なサザンカ(山茶花)の花です。淀城付近での撮影です。(同上)

    長浜城の紹介はすべて雪景色になりますので、その前に伏見で撮影しておいた花木や草花などの紹介です。真っ赤なサザンカ(山茶花)の花です。淀城付近での撮影です。(同上)

  • 同じく、満開のサザンカ(山茶花)の花の光景です。よく似たツバキ(椿)は、初春に花を咲かせますが、サザンカは秋~冬に花を咲かせます。こちらも、淀城付近での撮影です。(同上)

    同じく、満開のサザンカ(山茶花)の花の光景です。よく似たツバキ(椿)は、初春に花を咲かせますが、サザンカは秋~冬に花を咲かせます。こちらも、淀城付近での撮影です。(同上)

  • ヤツデ(八つ手)の花の光景です。ウコギ科ヤツデ属の常緑低木です。葉が大型で独特の形をしていますので、テングノウチワ(天狗の団扇)等の愛称があります。(同上)

    ヤツデ(八つ手)の花の光景です。ウコギ科ヤツデ属の常緑低木です。葉が大型で独特の形をしていますので、テングノウチワ(天狗の団扇)等の愛称があります。(同上)

  • 一重咲のサザンカ(山茶花)の花の光景です。野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白色とされますが、園芸品種の花の色は、赤色や白色やピンクなど様々です。ここまでが、淀城付近での撮影です。(同上)

    一重咲のサザンカ(山茶花)の花の光景です。野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白色とされますが、園芸品種の花の色は、赤色や白色やピンクなど様々です。ここまでが、淀城付近での撮影です。(同上)

  • 伏見城で撮影したニホンズイセン(日本水仙)の花の光景です。模擬天守などがあった郭の北部で、北堀跡の近くです。(同上)

    伏見城で撮影したニホンズイセン(日本水仙)の花の光景です。模擬天守などがあった郭の北部で、北堀跡の近くです。(同上)

  • 同じく、北堀跡の近くの土塁跡らしい場所に群生していた、ニホンズイセン(日本水仙)の花の光景です。(同上)

    同じく、北堀跡の近くの土塁跡らしい場所に群生していた、ニホンズイセン(日本水仙)の花の光景です。(同上)

  • 少し膨らみ始めていた、ハクモクレン(白木蓮)の蕾の光景です。伏見城址の北部になる、水を湛えた堀跡近くでの撮影です。(同上)

    少し膨らみ始めていた、ハクモクレン(白木蓮)の蕾の光景です。伏見城址の北部になる、水を湛えた堀跡近くでの撮影です。(同上)

  • 琵琶湖の東を北上するあたりから、京都での天候とは一変し、フキ景色になりました。途中、視界が悪くなるほどの雪に見舞われましたが、長浜に着いた頃には、小降りになっていました。長浜城の模擬天守の光景です。天正元年(1573年)に羽柴(豊臣)秀吉が、浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した時に築いた城です。(同上)

    琵琶湖の東を北上するあたりから、京都での天候とは一変し、フキ景色になりました。途中、視界が悪くなるほどの雪に見舞われましたが、長浜に着いた頃には、小降りになっていました。長浜城の模擬天守の光景です。天正元年(1573年)に羽柴(豊臣)秀吉が、浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した時に築いた城です。(同上)

  • 雪景色の長浜城模擬天守のズームアップ光景です。小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用して築城を開始したとされる長浜城です。城内の水門から琵琶湖からの船の出入りができる縄張りだったようです。秀吉による築城は天正元年(1573年)でしたが、大坂の陣後の元和元年(1615年)に廃城となりました。(同上)

    雪景色の長浜城模擬天守のズームアップ光景です。小谷城で使われていた資材や、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用して築城を開始したとされる長浜城です。城内の水門から琵琶湖からの船の出入りができる縄張りだったようです。秀吉による築城は天正元年(1573年)でしたが、大坂の陣後の元和元年(1615年)に廃城となりました。(同上)

  • 雪景色の中の『長浜城本丸跡』の石標光景です。城下町は、滅びた浅井長政の小谷城下が、そっくりこの地に移されました。このため、現在でも城下町には当時の面影や名残があります。秀吉が築城した最初の城で、その後の経緯から、『秀吉の出世城』とも呼ばれます。因みに、信長の出世城は『清州城』、家康は『浜松城』です。信長の出世城には、『小牧山城』と『岐阜城』も挙げたいところです。(同上)

    雪景色の中の『長浜城本丸跡』の石標光景です。城下町は、滅びた浅井長政の小谷城下が、そっくりこの地に移されました。このため、現在でも城下町には当時の面影や名残があります。秀吉が築城した最初の城で、その後の経緯から、『秀吉の出世城』とも呼ばれます。因みに、信長の出世城は『清州城』、家康は『浜松城』です。信長の出世城には、『小牧山城』と『岐阜城』も挙げたいところです。(同上)

  • 長浜城本丸跡の庭木の雪吊り光景です。先程の『長浜城本丸跡』の石標が右端に見えています。雪吊りされている庭木は、松の木当たりのようでした。江戸時代の職に廃城となった長浜城の遺構は、彦根城や大通寺に移築されました。彦根城では、重要文化財の『天秤櫓』が長浜城からの移築のようです。また、大通寺の『脇門(台所門)』が、長浜城の大手門を移築したものとされます。(同上)

    長浜城本丸跡の庭木の雪吊り光景です。先程の『長浜城本丸跡』の石標が右端に見えています。雪吊りされている庭木は、松の木当たりのようでした。江戸時代の職に廃城となった長浜城の遺構は、彦根城や大通寺に移築されました。彦根城では、重要文化財の『天秤櫓』が長浜城からの移築のようです。また、大通寺の『脇門(台所門)』が、長浜城の大手門を移築したものとされます。(同上)

  • 三本の柱が建った、雪吊り光景です。雪もほとんど病んで、空には青い部分も見えてきました。長浜城の始まりは、『バサラ大名』として有名な、京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に築いた出城と伝わります。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれています。長浜はもとの名前は今浜、秀吉の時代に信長から一字を貰い『長浜』と改めました。(同上)

    三本の柱が建った、雪吊り光景です。雪もほとんど病んで、空には青い部分も見えてきました。長浜城の始まりは、『バサラ大名』として有名な、京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に築いた出城と伝わります。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれています。長浜はもとの名前は今浜、秀吉の時代に信長から一字を貰い『長浜』と改めました。(同上)

  • 長浜城の雪景色の光景です。廃城となった葉が浜城址には、僅かな石垣と井戸だけが残されていました。現在の『模擬天守』は、昭和58年(1983年)に安土桃山時代の城郭を模して造られた建物です。『犬山城』などがモデルとされたようです。歴史博物館として内部公開されています。(同上)

    長浜城の雪景色の光景です。廃城となった葉が浜城址には、僅かな石垣と井戸だけが残されていました。現在の『模擬天守』は、昭和58年(1983年)に安土桃山時代の城郭を模して造られた建物です。『犬山城』などがモデルとされたようです。歴史博物館として内部公開されています。(同上)

  • 石段や石垣なども、発掘調査などで確認された上での再建ではないようです。その石段の先に見える『模擬天守』の光景です。古絵図などを基にした長浜城の推定復元図によれば、2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・東西約0.7キロの大きさであったと推定されています。(同上)

    石段や石垣なども、発掘調査などで確認された上での再建ではないようです。その石段の先に見える『模擬天守』の光景です。古絵図などを基にした長浜城の推定復元図によれば、2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・東西約0.7キロの大きさであったと推定されています。(同上)

  • 案内立札が二本建てられた、石段の袂の光景です。長浜城の『推定復元図』によれば、『本丸』と南接した『二の丸』が内堀と琵琶湖に囲われ、その周りを『三の丸』が囲い、その外側を内外堀と外外堀が囲う縄張りだったと想定されています。『三の丸』の北部には家臣団の屋敷が並び、城下町は外外堀の外を囲っていたようです。(同上)

    案内立札が二本建てられた、石段の袂の光景です。長浜城の『推定復元図』によれば、『本丸』と南接した『二の丸』が内堀と琵琶湖に囲われ、その周りを『三の丸』が囲い、その外側を内外堀と外外堀が囲う縄張りだったと想定されています。『三の丸』の北部には家臣団の屋敷が並び、城下町は外外堀の外を囲っていたようです。(同上)

  • 野面積の石垣のコーナー部分のズームアップ光景です。遺跡の石垣ではなく、『模擬石垣』かも知れませんが、野面積を強く意識した石積みでした。角の部分に横長ではなく、縦長に大石が使われているのが少し気になるところです。(同上)

    野面積の石垣のコーナー部分のズームアップ光景です。遺跡の石垣ではなく、『模擬石垣』かも知れませんが、野面積を強く意識した石積みでした。角の部分に横長ではなく、縦長に大石が使われているのが少し気になるところです。(同上)

  • 正面の石段を登り終えた場所から眺めた、西方向の光景です。『模擬天守』とその手前の多門櫓のような建物が見えました。この背後には、琵琶湖が控えています。粉雪でしたから、薄っすらとした雪化粧でした。(同上)

    正面の石段を登り終えた場所から眺めた、西方向の光景です。『模擬天守』とその手前の多門櫓のような建物が見えました。この背後には、琵琶湖が控えています。粉雪でしたから、薄っすらとした雪化粧でした。(同上)

  • 多聞櫓のような造りの建物のズームアップ光景です。外壁には、『長浜城歴史博物館』の紹介パネルがありました。その博物館を含めた、『浅井歴史民族資料館』と『高月観音の里・歴史民俗資料館』の、湖北を紹介する三つのミュージアムのPRでした。(同上)

    多聞櫓のような造りの建物のズームアップ光景です。外壁には、『長浜城歴史博物館』の紹介パネルがありました。その博物館を含めた、『浅井歴史民族資料館』と『高月観音の里・歴史民俗資料館』の、湖北を紹介する三つのミュージアムのPRでした。(同上)

  • 東側から眺めた、長浜城の『模擬天守』の光景です。1階と二階が展示室になっていましたから、大きな構造でしたが、最上階は望楼がメインのためか、極端に小さくなっていました。『模擬天守』を含めた施設の正式名称は、『市立長浜城歴史博物館』です。(同上)

    イチオシ

    東側から眺めた、長浜城の『模擬天守』の光景です。1階と二階が展示室になっていましたから、大きな構造でしたが、最上階は望楼がメインのためか、極端に小さくなっていました。『模擬天守』を含めた施設の正式名称は、『市立長浜城歴史博物館』です。(同上)

  • 城内の展示物は撮影禁止ですから、現地ガイドさんの案内で見学した博物館の紹介は省略して、最上階の望楼からの眺望を紹介します。雪景色の長浜城址と、長浜市街光景です。手前に、唐破風の屋根が見えていますから、東側方面の光景になります。長浜城址は、『豊公園』の中心部分として整備されています。(同上)

    城内の展示物は撮影禁止ですから、現地ガイドさんの案内で見学した博物館の紹介は省略して、最上階の望楼からの眺望を紹介します。雪景色の長浜城址と、長浜市街光景です。手前に、唐破風の屋根が見えていますから、東側方面の光景になります。長浜城址は、『豊公園』の中心部分として整備されています。(同上)

  • 雪景色の豊公園と長浜市街光景が続きます。長浜市は、滋賀県の北東部(湖北地方)に位置する市です。中心市街は羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備して以来、湖北地方の中心地として栄えてきました。長浜城廃城後は、大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展しました。近世に国内有数の鉄砲生産拠点となった『国友』も城下町でした。(同上)

    イチオシ

    雪景色の豊公園と長浜市街光景が続きます。長浜市は、滋賀県の北東部(湖北地方)に位置する市です。中心市街は羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備して以来、湖北地方の中心地として栄えてきました。長浜城廃城後は、大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展しました。近世に国内有数の鉄砲生産拠点となった『国友』も城下町でした。(同上)

  • 唐破風の屋根の縁取りをした雪景色と、その先に見える長浜城址の光景です。長浜城の『大手門』は、大通寺の『脇門(台所門)』として移築されたことを粗油買いしましたが、『搦手門』の方は、天台真盛宗のお寺、知善院の『山門』として移築されたと伝わります。元々は、小谷城下にあったお寺ですが、長浜城の鬼門方角に移されたようです。(同上)

    唐破風の屋根の縁取りをした雪景色と、その先に見える長浜城址の光景です。長浜城の『大手門』は、大通寺の『脇門(台所門)』として移築されたことを粗油買いしましたが、『搦手門』の方は、天台真盛宗のお寺、知善院の『山門』として移築されたと伝わります。元々は、小谷城下にあったお寺ですが、長浜城の鬼門方角に移されたようです。(同上)

  • 先程より時計回りに90度ほど移動した場所からの長浜市内の眺めです。南側方面になります。東側よりは、強く風を感じました。現在の長浜市は、東西約25キロ、南北約40キロと市域は東西に短く南北に長い市域です。概ね東端を伊吹山地、北端を野坂山地、西端を琵琶湖で区切られています。(同上)

    先程より時計回りに90度ほど移動した場所からの長浜市内の眺めです。南側方面になります。東側よりは、強く風を感じました。現在の長浜市は、東西約25キロ、南北約40キロと市域は東西に短く南北に長い市域です。概ね東端を伊吹山地、北端を野坂山地、西端を琵琶湖で区切られています。(同上)

  • 『模擬天守』から眺めた、琵琶湖と長浜港方面の光景です。西南方向の光景になります。西北側から強い風が吹き、遠くの景色は霞んでしまいました。『琵琶湖周航の歌』の三番の歌詞には、『波のまにまに漂えば 赤い泊火懐かしみ 行方定めぬ波枕 今日は今津か長浜か』と、『長浜』が詠み込まれています。大正6年(1917年)に成立しました。(作詞:小口太郎、作曲:吉田千秋)(同上)

    イチオシ

    『模擬天守』から眺めた、琵琶湖と長浜港方面の光景です。西南方向の光景になります。西北側から強い風が吹き、遠くの景色は霞んでしまいました。『琵琶湖周航の歌』の三番の歌詞には、『波のまにまに漂えば 赤い泊火懐かしみ 行方定めぬ波枕 今日は今津か長浜か』と、『長浜』が詠み込まれています。大正6年(1917年)に成立しました。(作詞:小口太郎、作曲:吉田千秋)(同上)

  • 『模擬天守』から眺めた、琵琶湖と長浜港方面のズームアップ光景です。お城からは西南の方角になります。長浜城にバスでやってくる途中、水鳥さんが湖岸近くに集まっている光景を目にしましたが、大きな波と雪に苦労しているように見えました。

    『模擬天守』から眺めた、琵琶湖と長浜港方面のズームアップ光景です。お城からは西南の方角になります。長浜城にバスでやってくる途中、水鳥さんが湖岸近くに集まっている光景を目にしましたが、大きな波と雪に苦労しているように見えました。

  • 『模擬天守』から眺めた琵琶湖方面のズームアップ光景です。手前には雪化粧の冬木立と、その先に松らしい常緑樹の林が見えました。先ほど紹介した、『琵琶湖周航の歌』の歌詞の著作権は、1954年に消滅しています。作詞の小口太郎は、長野県諏訪郡湊村(現在の岡谷市)出身、三高卒業後に東京帝大に進学しましたが、26歳で早世しました。(同上)

    『模擬天守』から眺めた琵琶湖方面のズームアップ光景です。手前には雪化粧の冬木立と、その先に松らしい常緑樹の林が見えました。先ほど紹介した、『琵琶湖周航の歌』の歌詞の著作権は、1954年に消滅しています。作詞の小口太郎は、長野県諏訪郡湊村(現在の岡谷市)出身、三高卒業後に東京帝大に進学しましたが、26歳で早世しました。(同上)

  • 小口太郎は、1916年(大正5年)に三高予科に入学、水上部に入部しました。小口は1917年(大正6年)6月の周航中に、この歌詞を思いついたとされ、周航2日目の6月28日夜、今津の宿で披露されました。当時三高生の間で流行していた『ひつじぐさ』のメロディに当てて合唱し、これが定着するきっかけになりました。『琵琶湖周航の歌』の作曲が吉田千秋とされる所以です。(同上)

    小口太郎は、1916年(大正5年)に三高予科に入学、水上部に入部しました。小口は1917年(大正6年)6月の周航中に、この歌詞を思いついたとされ、周航2日目の6月28日夜、今津の宿で披露されました。当時三高生の間で流行していた『ひつじぐさ』のメロディに当てて合唱し、これが定着するきっかけになりました。『琵琶湖周航の歌』の作曲が吉田千秋とされる所以です。(同上)

  • 雪景色の長浜市街の光景です。現在の長浜市は、竹生島や長浜城、戦国時代の史跡をはじめとする歴史的文化遺産と、1980年代以降『黒壁スクエア』を核とした旧市街再生が進められ、滋賀県内最大の観光都市です。『ひつじぐさ』の作曲家の吉田千秋(1895~1919年)は、新潟県の出身、『大日本地名辞書』を著した歴史地理学者の吉田東伍の次男です。肺結核のため、24歳で永眠しました。(同上)

    雪景色の長浜市街の光景です。現在の長浜市は、竹生島や長浜城、戦国時代の史跡をはじめとする歴史的文化遺産と、1980年代以降『黒壁スクエア』を核とした旧市街再生が進められ、滋賀県内最大の観光都市です。『ひつじぐさ』の作曲家の吉田千秋(1895~1919年)は、新潟県の出身、『大日本地名辞書』を著した歴史地理学者の吉田東伍の次男です。肺結核のため、24歳で永眠しました。(同上)

  • 雪景色の長浜市街の光景の紹介が続きます。『琵琶湖周航の歌』は、口伝えで継承され、現在知られているメロディは原曲の『ひつじぐさ』とはかなり異なっているようです。第二次世界大戦後は歌謡曲として、多くの歌手に歌われました。1961年(昭和36年)のボニージャックスを皮切りに、ペギー葉山や小林旭、倍賞千恵子など、60組以上(1999年時点)の歌手です。(同上)

    雪景色の長浜市街の光景の紹介が続きます。『琵琶湖周航の歌』は、口伝えで継承され、現在知られているメロディは原曲の『ひつじぐさ』とはかなり異なっているようです。第二次世界大戦後は歌謡曲として、多くの歌手に歌われました。1961年(昭和36年)のボニージャックスを皮切りに、ペギー葉山や小林旭、倍賞千恵子など、60組以上(1999年時点)の歌手です。(同上)

  • 雪景色の長浜市街の光景です。右手の交差点の近くの建物が、『湖北農協会館』のようですから、東北側方面の光景になります。『琵琶湖周航の歌』は、1971年(昭和46年)に加藤登紀子がカバーしたレコードが、70万枚の大ヒットになりました。若くして亡くなった作詞の小口さんと作曲の吉田さんは、生涯、一度も顔を合わせることがなかったとされます。(同上)

    雪景色の長浜市街の光景です。右手の交差点の近くの建物が、『湖北農協会館』のようですから、東北側方面の光景になります。『琵琶湖周航の歌』は、1971年(昭和46年)に加藤登紀子がカバーしたレコードが、70万枚の大ヒットになりました。若くして亡くなった作詞の小口さんと作曲の吉田さんは、生涯、一度も顔を合わせることがなかったとされます。(同上)

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