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豊臣氏所縁の城巡りの伏見城紹介の締め括りです。かつての遺構の水を讃えた堀跡や土塁跡も目にすることができました。(ウィキペディア)

2018早春、豊臣氏所縁の城(5/7):伏見城(2):模擬天守、模擬小天守、模擬大手門、土塁

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2018/02/17 - 2018/02/17

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

豊臣氏所縁の城巡りの伏見城紹介の締め括りです。かつての遺構の水を讃えた堀跡や土塁跡も目にすることができました。(ウィキペディア)

交通手段
観光バス

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  • 『伏見城北堀』のタイトルがあった説明看板の光景です。明治中期以降、昭和30年まで貯水池として使用されていた『E』型に造られた『北堀』の紹介でした。発掘調査で石垣跡などが確認され、また、南堀とも繋がっていたことが紹介されていました。一段ないし二段の武者走りも残っているようです。(同上)

    『伏見城北堀』のタイトルがあった説明看板の光景です。明治中期以降、昭和30年まで貯水池として使用されていた『E』型に造られた『北堀』の紹介でした。発掘調査で石垣跡などが確認され、また、南堀とも繋がっていたことが紹介されていました。一段ないし二段の武者走りも残っているようです。(同上)

  • 出土した伏見城の石垣の石材を集めた場所の光景です。『伏見城北堀』は発掘調査されましたが、保存のために埋め戻されたようです。これらの石材は、埋め戻す必要がなかったもののようでした。(同上)

    出土した伏見城の石垣の石材を集めた場所の光景です。『伏見城北堀』は発掘調査されましたが、保存のために埋め戻されたようです。これらの石材は、埋め戻す必要がなかったもののようでした。(同上)

  • 今回見学した伏見城址で、最も北側付近の光景です。広い通りが区分線になっていました。前方が西側、左手が北側になります。通りの左側(南側)が、藤城小学校、右手(北側)に尼寺の『清涼院』がありました。『清涼院』の前身の庵には、側室に入ったお亀の方が住み、尾張徳川家の初代藩主、家康公9男の義直公が誕生した場所です。(同上)

    今回見学した伏見城址で、最も北側付近の光景です。広い通りが区分線になっていました。前方が西側、左手が北側になります。通りの左側(南側)が、藤城小学校、右手(北側)に尼寺の『清涼院』がありました。『清涼院』の前身の庵には、側室に入ったお亀の方が住み、尾張徳川家の初代藩主、家康公9男の義直公が誕生した場所です。(同上)

  • 場所は代わって、『伏見北堀公園・地域体育館』の脇の光景です。右手に見えてるのが体育館の建物です。次に向かったのは今も水を湛えている堀跡です。その途中に、堀を掘った土で出来たような土塁跡も目にしました。(同上)

    場所は代わって、『伏見北堀公園・地域体育館』の脇の光景です。右手に見えてるのが体育館の建物です。次に向かったのは今も水を湛えている堀跡です。その途中に、堀を掘った土で出来たような土塁跡も目にしました。(同上)

  • 現地ガイドさんが案内してくれた、水を湛えたかつての堀跡の光景です。縄張図を参照しますと、右手は『松丸』を介して、『本丸』方面になるようでした。更に奥の方は明治天皇の御陵となりましたので、『本丸』付近に立ち入ることは出来ません。この辺りは、すべて京都市立の『伏見城北堀公園』の敷地内になります。(同上)

    現地ガイドさんが案内してくれた、水を湛えたかつての堀跡の光景です。縄張図を参照しますと、右手は『松丸』を介して、『本丸』方面になるようでした。更に奥の方は明治天皇の御陵となりましたので、『本丸』付近に立ち入ることは出来ません。この辺りは、すべて京都市立の『伏見城北堀公園』の敷地内になります。(同上)

  • 同じく、水を湛えた堀跡の光景です。護岸の石垣は、建設当初からの遺跡になるようです。地図を参照しますと、この辺りから明治天皇御陵の『伏見桃山御陵』までは、直線距離で500メートル強ありました。(同上)

    イチオシ

    同じく、水を湛えた堀跡の光景です。護岸の石垣は、建設当初からの遺跡になるようです。地図を参照しますと、この辺りから明治天皇御陵の『伏見桃山御陵』までは、直線距離で500メートル強ありました。(同上)

  • 水堀の西側を南側に回り込む途中での撮影です。豊臣秀吉が築いた『木幡山伏見城』時代からの遺跡になるようです。徳川家康は翌慶長5年(1600年)6月、会津征伐に動き出しました。この間隙を縫って、小早川秀秋、島津義弘連合軍は鳥居元忠が城代となっていた伏見城を4万の兵で攻め、同年8月1日、秀吉が築いた伏見城は落城、炎上しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。(同上)

    水堀の西側を南側に回り込む途中での撮影です。豊臣秀吉が築いた『木幡山伏見城』時代からの遺跡になるようです。徳川家康は翌慶長5年(1600年)6月、会津征伐に動き出しました。この間隙を縫って、小早川秀秋、島津義弘連合軍は鳥居元忠が城代となっていた伏見城を4万の兵で攻め、同年8月1日、秀吉が築いた伏見城は落城、炎上しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。(同上)

  • 遺蹟の水堀の南側に回り込みました、右手(南側)には土塁跡のような斜面がありました。縄張図を参照しますと、『松丸』の北側斜面になるようでした。斜面の裾には、土留めが目的らしい、高くない石垣がありました。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、翌慶長6年(1601年)3月に、伏見城の再建を開始しました。再建は『木幡山伏見城』を踏襲しましたが、北西部の曲輪群や堀などは放棄されました。(同上)

    遺蹟の水堀の南側に回り込みました、右手(南側)には土塁跡のような斜面がありました。縄張図を参照しますと、『松丸』の北側斜面になるようでした。斜面の裾には、土留めが目的らしい、高くない石垣がありました。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、翌慶長6年(1601年)3月に、伏見城の再建を開始しました。再建は『木幡山伏見城』を踏襲しましたが、北西部の曲輪群や堀などは放棄されました。(同上)

  • 『ヒノキ』の名札が付いていた高木の根元光景です。ヒノキ(檜、桧)は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹で、建材として有名で、人工林として多く植栽されています。ヒノキは日本と台湾にのみ分布します。日本では本州中部(福島県)以南から九州まで分布します。(同上)

    『ヒノキ』の名札が付いていた高木の根元光景です。ヒノキ(檜、桧)は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹で、建材として有名で、人工林として多く植栽されています。ヒノキは日本と台湾にのみ分布します。日本では本州中部(福島県)以南から九州まで分布します。(同上)

  • 『ヒノキ』の名札が付いていた高木の頭上の光景です。日本では木曽に樹齢450年のヒノキが生息しているのが最高樹齢ですが、台湾では樹齢2000年のヒノキが生息しています。台湾本島には変種タイワンヒノキ(台湾扁柏)が分布しています。(同上)

    『ヒノキ』の名札が付いていた高木の頭上の光景です。日本では木曽に樹齢450年のヒノキが生息しているのが最高樹齢ですが、台湾では樹齢2000年のヒノキが生息しています。台湾本島には変種タイワンヒノキ(台湾扁柏)が分布しています。(同上)

  • 冬木立の傍らにあった白い標識です。地元のライオンズクラブが平成6年(1994年)』に寄贈した桜の樹でした。その背後にも寄贈されたらしい若木が立ち並んでいました。(同上)

    冬木立の傍らにあった白い標識です。地元のライオンズクラブが平成6年(1994年)』に寄贈した桜の樹でした。その背後にも寄贈されたらしい若木が立ち並んでいました。(同上)

  • 『松丸』の東面になるようです。斜面に長い石段が築かれていました。中央の5列は、お子さん用の滑り台のようです。推測ですが、観光用に設けられた通路の一部にもなっているようでした。この辺りもまだ、明治天皇御陵の敷地内ではないようです。(同上)

    『松丸』の東面になるようです。斜面に長い石段が築かれていました。中央の5列は、お子さん用の滑り台のようです。推測ですが、観光用に設けられた通路の一部にもなっているようでした。この辺りもまだ、明治天皇御陵の敷地内ではないようです。(同上)

  • サザンカ(山茶花)の赤い花の光景です。椿と違って、花柄ごとではなく、花弁を散らしていました。赤色のサザンカの花言葉は、『謙譲』、『あなたがもっとも美しい』とされます。この後は、駐車場に戻る帰り道での撮影になります。(同上)

    サザンカ(山茶花)の赤い花の光景です。椿と違って、花柄ごとではなく、花弁を散らしていました。赤色のサザンカの花言葉は、『謙譲』、『あなたがもっとも美しい』とされます。この後は、駐車場に戻る帰り道での撮影になります。(同上)

  • 往きにも横を通った、公園内の運動場です。そのネット越しに眺めた『模擬天守』の光景です。赤色のユニホーム姿は、野球ではなくサッカーの練習でした。(同上)

    往きにも横を通った、公園内の運動場です。そのネット越しに眺めた『模擬天守』の光景です。赤色のユニホーム姿は、野球ではなくサッカーの練習でした。(同上)

  • 同じ場所からズームアップした、『模擬天守』の光景です。『模擬小天守』もその左側に見えていました。(同上)

    同じ場所からズームアップした、『模擬天守』の光景です。『模擬小天守』もその左側に見えていました。(同上)

  • ほぼ北側から眺めた『模擬天守』の光景です。文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子(ね)の刻に、現在の京都・伏見付近で発生した『慶長伏見地震』では、1000名余りの犠牲者が出ましたが、その過半数の600名が、『指月山伏見城』の城内で圧死したとされます。それがきっかけで建設された『木幡山伏見城』です。(同上)

    ほぼ北側から眺めた『模擬天守』の光景です。文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子(ね)の刻に、現在の京都・伏見付近で発生した『慶長伏見地震』では、1000名余りの犠牲者が出ましたが、その過半数の600名が、『指月山伏見城』の城内で圧死したとされます。それがきっかけで建設された『木幡山伏見城』です。(同上)

  • ほぼ北側から眺めた『模擬天守』のズームアップ光景です。五層五階の最上階に望楼が設けてありましたが、史実に忠実な再建の建築物ではなく、あくまでも模擬天守です。ネットで公開されていたブラタモリの番組では、望楼からの四方の見晴らしを紹介していました。その日はあいにくの雨模様でしたから、予め用意された晴天時の写真パネルで景色が紹介されていました。(同上)

    ほぼ北側から眺めた『模擬天守』のズームアップ光景です。五層五階の最上階に望楼が設けてありましたが、史実に忠実な再建の建築物ではなく、あくまでも模擬天守です。ネットで公開されていたブラタモリの番組では、望楼からの四方の見晴らしを紹介していました。その日はあいにくの雨模様でしたから、予め用意された晴天時の写真パネルで景色が紹介されていました。(同上)

  • 『京都一周トレイル東山コース案内図』のタイトルがあった看板光景です。右側にコース使用時の9項目の注意が、左側にコースが赤線で表示してありました。『京都一周トレイル会』のホームページには、京都一周トレイルは、京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、苔寺に至る全長約83.3キロのコースと、京北地域を巡る全長約48.7キロのコースと紹介されていました。(同上)

    『京都一周トレイル東山コース案内図』のタイトルがあった看板光景です。右側にコース使用時の9項目の注意が、左側にコースが赤線で表示してありました。『京都一周トレイル会』のホームページには、京都一周トレイルは、京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、苔寺に至る全長約83.3キロのコースと、京北地域を巡る全長約48.7キロのコースと紹介されていました。(同上)

  • 右手に見えている甍は、模擬天守ではなく、模擬小天守の方だったようです。左上に直視できる太陽の光景がありました。粉雪は舞っていましたが、子の時間帯では傘がいるような降り方ではありませんでした。(同上)

    イチオシ

    右手に見えている甍は、模擬天守ではなく、模擬小天守の方だったようです。左上に直視できる太陽の光景がありました。粉雪は舞っていましたが、子の時間帯では傘がいるような降り方ではありませんでした。(同上)

  • 東側から眺めた『模擬天守』と、その手前にある付櫓らしい建物の光景です。手前の石垣は、切込み接ぎの排水を考慮したように、意図的な隙間や、小石が詰められた場所がありました。(同上)

    東側から眺めた『模擬天守』と、その手前にある付櫓らしい建物の光景です。手前の石垣は、切込み接ぎの排水を考慮したように、意図的な隙間や、小石が詰められた場所がありました。(同上)

  • 『樹霊碑』と名付けられた引野収の歌碑と、その説明立札の光景です。『永遠とおもえるながき時のなか 樫立てり黄なるあやぐもの果て』の和歌が刻んでありました。引野収(1918~1988年)は、この北西の桃山町正宗で40年の絶対安静の寝たきりの生活をしながら、歌人の妻とともに、いのちや平和の尊さを詠い続け、『昭和の子規』と称えられた歌人と紹介されていました。(同上)

    『樹霊碑』と名付けられた引野収の歌碑と、その説明立札の光景です。『永遠とおもえるながき時のなか 樫立てり黄なるあやぐもの果て』の和歌が刻んでありました。引野収(1918~1988年)は、この北西の桃山町正宗で40年の絶対安静の寝たきりの生活をしながら、歌人の妻とともに、いのちや平和の尊さを詠い続け、『昭和の子規』と称えられた歌人と紹介されていました。(同上)

  • 模擬天守と、その前に築かれた虎口らしい石積みの光景です。本格的な虎口の規模ではなく、虎口のイメージを表す高さの石垣にも見えました。綺麗に細工された切込み接ぎでした。(同上)

    イチオシ

    模擬天守と、その前に築かれた虎口らしい石積みの光景です。本格的な虎口の規模ではなく、虎口のイメージを表す高さの石垣にも見えました。綺麗に細工された切込み接ぎでした。(同上)

  • 石垣を含めて『模擬小天守』を撮影する予定でしたが、庭木に半ば隠れてしまいました。見える範囲で確認した石垣は、切込み接ぎの石積でした。(同上)

    石垣を含めて『模擬小天守』を撮影する予定でしたが、庭木に半ば隠れてしまいました。見える範囲で確認した石垣は、切込み接ぎの石積でした。(同上)

  • 城内の北側から眺めた、『模擬大手門』の光景です。秀吉時代の『木幡山伏見城』の推定縄張図を見ますと、かつての大手門は、もっと南側の『石田治部小輔郭』の南に記されていました。また、現在の『模擬天守』や『模擬大手門』が建つ場所は、『長末大蔵郭』と表示されていました。『石田治部少輔』は『石田三成』のことですが、秀吉が重用したことが屋敷の場所からも分かります。(同上)

    城内の北側から眺めた、『模擬大手門』の光景です。秀吉時代の『木幡山伏見城』の推定縄張図を見ますと、かつての大手門は、もっと南側の『石田治部小輔郭』の南に記されていました。また、現在の『模擬天守』や『模擬大手門』が建つ場所は、『長末大蔵郭』と表示されていました。『石田治部少輔』は『石田三成』のことですが、秀吉が重用したことが屋敷の場所からも分かります。(同上)

  • 城内の南側から眺めた、左が模擬小天守、右が小木天守の光景です。江戸時代に描かれた『洛中洛外図屏風』には、五層の天守を取り巻く隅櫓は二層に描かれていますから、三層の小天守はなかったようです。『模擬天守』と『模擬小天守』を築いて見栄えを優先したのかも知れません。(同上)

    城内の南側から眺めた、左が模擬小天守、右が小木天守の光景です。江戸時代に描かれた『洛中洛外図屏風』には、五層の天守を取り巻く隅櫓は二層に描かれていますから、三層の小天守はなかったようです。『模擬天守』と『模擬小天守』を築いて見栄えを優先したのかも知れません。(同上)

  • 『模擬大手門』の甍に乗っていた『シャチ(鯱)』飾りのズームアップ光景です。城内側から眺めた右手のシャチです。(同上)

    『模擬大手門』の甍に乗っていた『シャチ(鯱)』飾りのズームアップ光景です。城内側から眺めた右手のシャチです。(同上)

  • 同じ場所からの撮影ですが、右上付近に見えるのは、厚くない雪雲を通して浮かび上がった太陽の光景です。太陽が月のような明かりになり、目に支障なく直視できました。(同上)

    同じ場所からの撮影ですが、右上付近に見えるのは、厚くない雪雲を通して浮かび上がった太陽の光景です。太陽が月のような明かりになり、目に支障なく直視できました。(同上)

  • 『模擬大手門』の甍に乗っていた『シャチ(鯱)』飾りのズームアップ光景です。城内側から眺めた左手のシャチです。鯱飾にも雌雄があり、大きさも少し異なるようです。(同上)

    『模擬大手門』の甍に乗っていた『シャチ(鯱)』飾りのズームアップ光景です。城内側から眺めた左手のシャチです。鯱飾にも雌雄があり、大きさも少し異なるようです。(同上)

  • 『模擬大手門』の金属飾りのズームアップ光景です。この部分の家紋は、正規の五七桐の文様でした。桐紋は、元々は菊紋章とともに皇室専用の家紋でしたが、後に皇室以外の戦国大名などの諸侯も用いるようになりました。足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜り、このため、五七桐は『政権担当者の紋章』という認識が定着しました。因みに家康は拝領を辞退しています。(同上)

    『模擬大手門』の金属飾りのズームアップ光景です。この部分の家紋は、正規の五七桐の文様でした。桐紋は、元々は菊紋章とともに皇室専用の家紋でしたが、後に皇室以外の戦国大名などの諸侯も用いるようになりました。足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜り、このため、五七桐は『政権担当者の紋章』という認識が定着しました。因みに家康は拝領を辞退しています。(同上)

  • 同じく、『模擬大手門』の金地億飾りのズームアップ光景です。垂木の先端にも、『五七桐』の文様がありました。天皇家では『五七桐』紋を使うことはなくなり、専ら『十六八重表菊』紋が使われるようになりました。現在は『五七桐』は、日本国憲法憲政下の日本政府(内閣総理大臣・内閣)は桐紋章を用いています。パスポートの写真頁にも表示されています。(同上)

    同じく、『模擬大手門』の金地億飾りのズームアップ光景です。垂木の先端にも、『五七桐』の文様がありました。天皇家では『五七桐』紋を使うことはなくなり、専ら『十六八重表菊』紋が使われるようになりました。現在は『五七桐』は、日本国憲法憲政下の日本政府(内閣総理大臣・内閣)は桐紋章を用いています。パスポートの写真頁にも表示されています。(同上)

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