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豊臣氏所縁の城巡りです。秀吉の天下となった1589年(天正17年)3月、秀吉の弟の秀長が『淀古城』を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所としました。これにより茶々は『淀殿』と呼ばれました。(ウィキペディア)

2018早春、豊臣氏所縁の城(2/7):淀城(2):本丸、天守台、堀.打込み接ぎの石垣

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2018/02/17 - 2018/02/17

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旅人のくまさん

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豊臣氏所縁の城巡りです。秀吉の天下となった1589年(天正17年)3月、秀吉の弟の秀長が『淀古城』を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所としました。これにより茶々は『淀殿』と呼ばれました。(ウィキペディア)

交通手段
観光バス

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  • 本丸エリアにあった、あまり使われていないようだった手水舎の光景です。淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島に位置し、淀の古名は『与渡津』、『淀の港』の意味とされます。古代には、諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地だったとされます。(同上)

    本丸エリアにあった、あまり使われていないようだった手水舎の光景です。淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島に位置し、淀の古名は『与渡津』、『淀の港』の意味とされます。古代には、諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地だったとされます。(同上)

  • 普段は無人のように見えた社務所の光景です。淀の地は、河内国、摂津国方面や大和国方面から山城国、京洛に入る交通の要衝でもありました。『淀古城』は、室町時代中期に畠山政長 により築城されたようです。『淀古城』は、『淀城』から500メートルほど北の木津・桂・宇治の三川が合流する北岸にあったとされます。(同上)

    普段は無人のように見えた社務所の光景です。淀の地は、河内国、摂津国方面や大和国方面から山城国、京洛に入る交通の要衝でもありました。『淀古城』は、室町時代中期に畠山政長 により築城されたようです。『淀古城』は、『淀城』から500メートルほど北の木津・桂・宇治の三川が合流する北岸にあったとされます。(同上)

  • 中央よりやや右側に見える神社は『稲葉神社』です。祭神は『稲葉正成公』です。『稲葉正成(1571~1628年)』は、淀藩稲葉家の祖です。初代正成より数えて5代目の正知の時に初代淀藩主となりました。正成は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母だった、春日局の夫でもあります。(同上)

    中央よりやや右側に見える神社は『稲葉神社』です。祭神は『稲葉正成公』です。『稲葉正成(1571~1628年)』は、淀藩稲葉家の祖です。初代正成より数えて5代目の正知の時に初代淀藩主となりました。正成は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母だった、春日局の夫でもあります。(同上)

  • 天守台近くの石垣と、その通路から掻き出された落葉の光景です。稲葉正成公について、もう少し説明します。元亀2年(1571年)に美濃国(岐阜県)本巣郡の城主の林家に生まれ、長じて稲葉重通の娘婿となりました。以後、稲葉を称しましたが、妻の死去により、代わりに迎えられたのが、明智光秀の重臣、斉藤利三の娘『福』、後の春日局です。『福』は稲葉重通の養女、稲葉正成の妻となりました。(同上)

    天守台近くの石垣と、その通路から掻き出された落葉の光景です。稲葉正成公について、もう少し説明します。元亀2年(1571年)に美濃国(岐阜県)本巣郡の城主の林家に生まれ、長じて稲葉重通の娘婿となりました。以後、稲葉を称しましたが、妻の死去により、代わりに迎えられたのが、明智光秀の重臣、斉藤利三の娘『福』、後の春日局です。『福』は稲葉重通の養女、稲葉正成の妻となりました。(同上)

  • 下部の方は、かなり歪んでいた天守台近くの石垣光景です。話の成り行き、『春日局(1579~1643年)』の呼び名は、朝廷から賜った称号です。江戸城大奥の礎を築いた人物です。松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた『鼎の脚』の一人に数えられました。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与しました。(同上)

    下部の方は、かなり歪んでいた天守台近くの石垣光景です。話の成り行き、『春日局(1579~1643年)』の呼び名は、朝廷から賜った称号です。江戸城大奥の礎を築いた人物です。松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた『鼎の脚』の一人に数えられました。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与しました。(同上)

  • 天守台の石垣と、その脇の石段光景です。この石段を登って、天守台を見学しました。福は、父・斎藤利三の所領の丹波国の黒井城下館で生まれ、姫として幼少時代を過ごしました。父は仕えた光秀に従い、本能寺の変で織田信長を討ちましたが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑されました。福は、母方の実家である稲葉家に引取られました。(同上)

    天守台の石垣と、その脇の石段光景です。この石段を登って、天守台を見学しました。福は、父・斎藤利三の所領の丹波国の黒井城下館で生まれ、姫として幼少時代を過ごしました。父は仕えた光秀に従い、本能寺の変で織田信長を討ちましたが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑されました。福は、母方の実家である稲葉家に引取られました。(同上)

  • 『天守台』の石垣付近から眺めた、西側方面の光景です。かつての本丸跡とされ、その先には『西の丸』があったようです。『本丸』の北側が『二の丸』、東側が『三の丸』とされます。話は戻って、福は成人するまで美濃の清水城で過ごしたようです。母方の親戚に当たる三条西公国に養育されました。この時に、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身に付けました。(同上)

    『天守台』の石垣付近から眺めた、西側方面の光景です。かつての本丸跡とされ、その先には『西の丸』があったようです。『本丸』の北側が『二の丸』、東側が『三の丸』とされます。話は戻って、福は成人するまで美濃の清水城で過ごしたようです。母方の親戚に当たる三条西公国に養育されました。この時に、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身に付けました。(同上)

  • 天守台近くの石垣光景です。保存状態は悪くないようです。稲葉正成の後妻になった福は、将軍家の乳母へ上がるため、夫の正成と離婚する形をとりました。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命されました。この時の選考では、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれています。(同上)

    イチオシ

    天守台近くの石垣光景です。保存状態は悪くないようです。稲葉正成の後妻になった福は、将軍家の乳母へ上がるため、夫の正成と離婚する形をとりました。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命されました。この時の選考では、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれています。(同上)

  • 天守台近くの石垣の上から眺めた、西側方面の光景です。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となりました。福は、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握ったとされます。『春日局』が下賜されたのは、寛永6年(1629年)でした。その後、従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となりました。(同上)

    天守台近くの石垣の上から眺めた、西側方面の光景です。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となりました。福は、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握ったとされます。『春日局』が下賜されたのは、寛永6年(1629年)でした。その後、従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となりました。(同上)

  • 天守台の内部光景です。かつての天守は、二重の大入母屋屋根の上に、三重櫓を乗せた五重五階の望楼型だったようです。外壁は白漆喰総塗籠だったと見られています江戸時代初期の『春日局』について紹介しましたから、少しだけ時代を遡って、『淀古城』に所縁の『淀殿』についても紹介しておきます。浅井三姉妹で有名な長女の『浅井茶々(1569?~1615年)』です。(同上)

    天守台の内部光景です。かつての天守は、二重の大入母屋屋根の上に、三重櫓を乗せた五重五階の望楼型だったようです。外壁は白漆喰総塗籠だったと見られています江戸時代初期の『春日局』について紹介しましたから、少しだけ時代を遡って、『淀古城』に所縁の『淀殿』についても紹介しておきます。浅井三姉妹で有名な長女の『浅井茶々(1569?~1615年)』です。(同上)

  • 天守台の内部から眺めた、1箇所だけだった出入口光景です。後に『淀殿』の呼び名で知られる浅井茶々は、豊臣秀吉の側室でした。浅井菊子の呼び名もあります。父は、近江国の戦国大名の浅井長政で、母は織田信長の妹のお市の方です。妹に初(常高院、京極高次正室)と、江(ごう:崇源院、徳川秀忠正室)がいます。(同上)

    天守台の内部から眺めた、1箇所だけだった出入口光景です。後に『淀殿』の呼び名で知られる浅井茶々は、豊臣秀吉の側室でした。浅井菊子の呼び名もあります。父は、近江国の戦国大名の浅井長政で、母は織田信長の妹のお市の方です。妹に初(常高院、京極高次正室)と、江(ごう:崇源院、徳川秀忠正室)がいます。(同上)

  • 地階倉庫のように造られた、天守台中央の光景です。建物礎石が並んでいました。『淀殿』の紹介に戻ります。信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城に移りました。清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まりました。(同上)

    地階倉庫のように造られた、天守台中央の光景です。建物礎石が並んでいました。『淀殿』の紹介に戻ります。信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城に移りました。清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まりました。(同上)

  • 非常に保存状態の良い、天守台の石垣のズームアップ光景です。天正11年(1583年)、秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄城でお市とともに自害しました。市は自害しましたが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けました。秀吉ではなく、信長の二男の織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたとする説などもあります。茶々は、天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となりました。(同上)

    非常に保存状態の良い、天守台の石垣のズームアップ光景です。天正11年(1583年)、秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄城でお市とともに自害しました。市は自害しましたが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けました。秀吉ではなく、信長の二男の織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたとする説などもあります。茶々は、天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となりました。(同上)

  • 今度は、石垣の上に上がって眺めた、天守台の地下蔵の光景です。茶々の懐妊を喜んだ秀吉から淀城(淀古城)を賜り、天正17年(1589年)、長男の捨(鶴松)が生まれました。この頃から、『淀殿』と呼ばれるようになりました、鶴松は天正19年(1591年)に亡くなり、文禄2年(1593年)に二男の拾(秀頼)が誕生しました。秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入し、豊臣家の実権を握りました。(同上)

    今度は、石垣の上に上がって眺めた、天守台の地下蔵の光景です。茶々の懐妊を喜んだ秀吉から淀城(淀古城)を賜り、天正17年(1589年)、長男の捨(鶴松)が生まれました。この頃から、『淀殿』と呼ばれるようになりました、鶴松は天正19年(1591年)に亡くなり、文禄2年(1593年)に二男の拾(秀頼)が誕生しました。秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入し、豊臣家の実権を握りました。(同上)

  • 草取りもされて、綺麗に清掃されていた天守台跡でしたが、地元の方達のボランティア活動が支えていました。毎年夏の恒例行事になっている、地元ライオンズクラブ主催の清掃活動です。例えば2016年8月の清掃活動のネット情報では、地元住民の方々、学校、企業関係の方と地元病院の職員の方と病院関連らしい、さんせん奨学生さんを含めた約20名の方々でした。(同上)

    草取りもされて、綺麗に清掃されていた天守台跡でしたが、地元の方達のボランティア活動が支えていました。毎年夏の恒例行事になっている、地元ライオンズクラブ主催の清掃活動です。例えば2016年8月の清掃活動のネット情報では、地元住民の方々、学校、企業関係の方と地元病院の職員の方と病院関連らしい、さんせん奨学生さんを含めた約20名の方々でした。(同上)

  • 天守閣の土台跡らしい礎石が残る地階倉庫のような場所の光景です。遺跡が残る『淀城』は、江戸時代に徳川氏の伏見城の廃城により、その代わりとして江戸幕府が松平定綱に命じて新たに築かせた城です。以降、山城国唯一の大名家の居城として明治維新を迎えました。19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録によれば、元和9年(1623年)8月、2代将軍徳川秀忠からの築城命でした。(同上)

    イチオシ

    天守閣の土台跡らしい礎石が残る地階倉庫のような場所の光景です。遺跡が残る『淀城』は、江戸時代に徳川氏の伏見城の廃城により、その代わりとして江戸幕府が松平定綱に命じて新たに築かせた城です。以降、山城国唯一の大名家の居城として明治維新を迎えました。19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録によれば、元和9年(1623年)8月、2代将軍徳川秀忠からの築城命でした。(同上)

  • 石垣の上から眺めた、地階倉庫のような場所の入口光景です。秀忠からの命を受けた松平定綱の所領は3万5千石でした。淀藩の初代城主です。廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築して築かれたと伝えられています。地元誌の『淀下津町記録』によれば、河村右衛門の屋敷跡に江戸幕府の援助により築城されました。城郭は、寛永2年(1625年)にほぼ完成しました。(同上)

    石垣の上から眺めた、地階倉庫のような場所の入口光景です。秀忠からの命を受けた松平定綱の所領は3万5千石でした。淀藩の初代城主です。廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築して築かれたと伝えられています。地元誌の『淀下津町記録』によれば、河村右衛門の屋敷跡に江戸幕府の援助により築城されました。城郭は、寛永2年(1625年)にほぼ完成しました。(同上)

  • 隙間が出来ていた、石垣のズームアップ光景です。角の算木積の部分は、積み直されたようです。寛永3年(1626年)6月には二代将軍の徳川秀忠が、また同年8月には家光が淀城の縄張りを調べに来城したようです。本丸には、伏見城から殿舎の一部が移築されました。しかし、この殿舎は三代将軍の家光が上洛の際に宿泊したことから、以後、城主はこの殿舎に住居を構えるのを憚ったようです。(同上)

    隙間が出来ていた、石垣のズームアップ光景です。角の算木積の部分は、積み直されたようです。寛永3年(1626年)6月には二代将軍の徳川秀忠が、また同年8月には家光が淀城の縄張りを調べに来城したようです。本丸には、伏見城から殿舎の一部が移築されました。しかし、この殿舎は三代将軍の家光が上洛の際に宿泊したことから、以後、城主はこの殿舎に住居を構えるのを憚ったようです。(同上)

  • 城内から眺めた、天守台の周りの石垣光景です。外から眺めた天守台は、壮大な高石垣です。当初は伏見城の天守を移築する計画でした。それに合せて天守台が普請亜sれていましたが、急遽、伏見城の天守は二条城に移され、替わりに二条城の天守が移築されることになりました。二条城の天守は、淀城の天守台に比べると小ぶりで周囲に余白ができました。(同上)

    城内から眺めた、天守台の周りの石垣光景です。外から眺めた天守台は、壮大な高石垣です。当初は伏見城の天守を移築する計画でした。それに合せて天守台が普請亜sれていましたが、急遽、伏見城の天守は二条城に移され、替わりに二条城の天守が移築されることになりました。二条城の天守は、淀城の天守台に比べると小ぶりで周囲に余白ができました。(同上)

  • 天守台から眺めた、西南方面の光景です。二条城の天守が使われたことにより生じた空白には、四隅に二重櫓が配され、その間を多聞櫓または多聞塀で連結されました。この四隅に置かれた隅櫓は、姫路城からの移築であるという伝承があり、『姫路櫓』と呼ばれていたようです。この時に東面から描かれた絵図が、『山城国淀天守之図(個人蔵)』として残されています。ただし、天守だけは南面です。(同上)

    天守台から眺めた、西南方面の光景です。二条城の天守が使われたことにより生じた空白には、四隅に二重櫓が配され、その間を多聞櫓または多聞塀で連結されました。この四隅に置かれた隅櫓は、姫路城からの移築であるという伝承があり、『姫路櫓』と呼ばれていたようです。この時に東面から描かれた絵図が、『山城国淀天守之図(個人蔵)』として残されています。ただし、天守だけは南面です。(同上)

  • 同じく、天守台から眺めた、眼下のお堀の光景です。淀城の南面の光景になります。淀城には、天守以外にも多くの櫓と門があ利ました。その数は、本丸の櫓が15基、二の丸が8基、三の丸が9基、西の丸が3基、東曲輪が3基の合計38基です。また、門の数は、本丸が3門、二の丸が5門、三の丸が6門、西の丸が1門、東曲輪が3門の合計18門です。これ以外にも内高嶋曲輪もありました。(同上)

    同じく、天守台から眺めた、眼下のお堀の光景です。淀城の南面の光景になります。淀城には、天守以外にも多くの櫓と門があ利ました。その数は、本丸の櫓が15基、二の丸が8基、三の丸が9基、西の丸が3基、東曲輪が3基の合計38基です。また、門の数は、本丸が3門、二の丸が5門、三の丸が6門、西の丸が1門、東曲輪が3門の合計18門です。これ以外にも内高嶋曲輪もありました。(同上)

  • 城内の光景に戻ります。かつての本丸には、外壁部分に多門櫓と塀が設けられていたようです。遺跡整備のために切られたらしい大木の切り株があった石垣中段の光景です。淀城は城郭の再建造物はありませんが、本丸や石垣を中心にした京都市立の淀城跡公園が昭和43年(1968年)に開園しました。(同上)

    城内の光景に戻ります。かつての本丸には、外壁部分に多門櫓と塀が設けられていたようです。遺跡整備のために切られたらしい大木の切り株があった石垣中段の光景です。淀城は城郭の再建造物はありませんが、本丸や石垣を中心にした京都市立の淀城跡公園が昭和43年(1968年)に開園しました。(同上)

  • 上から眺めた、天守台に登って来た石段光景です。もう少し天守台付近を散策することにしました。天守台の周りや、高石垣に沿った多聞櫓や土塀跡などです。(同上)

    上から眺めた、天守台に登って来た石段光景です。もう少し天守台付近を散策することにしました。天守台の周りや、高石垣に沿った多聞櫓や土塀跡などです。(同上)

  • 天守台の北側方面の光景になるようです。伏見城の天守を移築するため、大きく造られた、天守台の四方には、天書を取り巻く隅櫓が建てられ、連立式望楼型5重5階地下1階の天守だったとされます。全体としては、梯郭式の平城です。(同上)

    天守台の北側方面の光景になるようです。伏見城の天守を移築するため、大きく造られた、天守台の四方には、天書を取り巻く隅櫓が建てられ、連立式望楼型5重5階地下1階の天守だったとされます。全体としては、梯郭式の平城です。(同上)

  • 天守台北面の石垣光景です。城内側ですから、随分と低い石垣のようにも見えます。(同上)

    天守台北面の石垣光景です。城内側ですから、随分と低い石垣のようにも見えます。(同上)

  • 天守台北面の石垣のズームアップ光景です。打込み接ぎの石積でした。部分的には、乱積がありましたが、横の線を揃えた布積でした。(同上)

    天守台北面の石垣のズームアップ光景です。打込み接ぎの石積でした。部分的には、乱積がありましたが、横の線を揃えた布積でした。(同上)

  • 西方向に移動する途中に眺めた、城内側の光景です。公園施設のブランコなどが見えていました。その後ろに見えているのが、先に紹介した『淀城の由来』の題字があった説明看板です。(同上)

    西方向に移動する途中に眺めた、城内側の光景です。公園施設のブランコなどが見えていました。その後ろに見えているのが、先に紹介した『淀城の由来』の題字があった説明看板です。(同上)

  • 西側から振り返って眺めた天守台方面の光景です。正面奥に、天守台の地階倉庫への出入口が見えていました。この後、外からの石垣光景も少しだけ紹介します。(同上)

    イチオシ

    西側から振り返って眺めた天守台方面の光景です。正面奥に、天守台の地階倉庫への出入口が見えていました。この後、外からの石垣光景も少しだけ紹介します。(同上)

  • 多聞櫓や土塀が築かれていた石垣の上の光景です。中々厳しい通り道でした。その先に石垣が出っ張った場所には、南側を守る櫓が置かれていたようです。この狭いスペース部分は、無理すれば多聞櫓も可能だったかもしれませんが、土塀が築かれていたのでしょう。(同上)

    多聞櫓や土塀が築かれていた石垣の上の光景です。中々厳しい通り道でした。その先に石垣が出っ張った場所には、南側を守る櫓が置かれていたようです。この狭いスペース部分は、無理すれば多聞櫓も可能だったかもしれませんが、土塀が築かれていたのでしょう。(同上)

  • 無理をするのは止めて、ここで、天守台と、その周りの石垣から下に下りることにしました。最初に登った石段ではなく、少し西側にあった別の石段です。(同上)

    無理をするのは止めて、ここで、天守台と、その周りの石垣から下に下りることにしました。最初に登った石段ではなく、少し西側にあった別の石段です。(同上)

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