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日本百名城に制定されている『甲府城(25番)と、『武田氏館(24番)』の紹介です。いずれも山梨県にあります。武田氏館は、武田信虎・信玄と勝頼の3代約60年の居城でした。甲府城は秀吉が築城させ、家康が拡充させたお城です。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

2017初秋、甲府城と武田氏館(1/9):甲府城(1):塩尻経由甲府へ、甲府駅、鶴舞城公園

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2017/09/09 - 2017/09/09

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旅行記グループ 2017秋、甲府の百名城巡り

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旅人のくまさん

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日本百名城に制定されている『甲府城(25番)と、『武田氏館(24番)』の紹介です。いずれも山梨県にあります。武田氏館は、武田信虎・信玄と勝頼の3代約60年の居城でした。甲府城は秀吉が築城させ、家康が拡充させたお城です。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

交通手段
JR特急

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  • 名古屋駅から甲府駅までは、長野の塩尻市経由のワイドビューシナノにしました。8:00名古屋駅発~9:53塩尻着・10:02塩尻発(あずさ号)~11:05甲府着の予定です。スムーズに乗り換えが出来て、約3時間で目的地の甲府駅に到着しました。写真は、塩尻駅への到着時の撮影だったようです。(同上)

    イチオシ

    名古屋駅から甲府駅までは、長野の塩尻市経由のワイドビューシナノにしました。8:00名古屋駅発~9:53塩尻着・10:02塩尻発(あずさ号)~11:05甲府着の予定です。スムーズに乗り換えが出来て、約3時間で目的地の甲府駅に到着しました。写真は、塩尻駅への到着時の撮影だったようです。(同上)

  • 塩尻駅では、名古屋から乗車したシナノ号から、あずさ号への乗り換えです。予め調べておいた時刻表では、10分弱の乗り換え時間でした。塩尻は長野方面の旅行でよく利用しますが、近年は葡萄畑が増えてきたようです。ワイン生産も増えているらしく、名古屋でもよく見かけるようになりました。(同上)<br />

    塩尻駅では、名古屋から乗車したシナノ号から、あずさ号への乗り換えです。予め調べておいた時刻表では、10分弱の乗り換え時間でした。塩尻は長野方面の旅行でよく利用しますが、近年は葡萄畑が増えてきたようです。ワイン生産も増えているらしく、名古屋でもよく見かけるようになりました。(同上)

  • 塩尻駅で乗り換えたあずさ号だったようです。塩尻から甲府までは、約1時間の乗車になります。白地にカラフルな模様が描かれた車体でした。列車名は、長野県松本市の上高地を流れる『梓川(あずさがわ)』に因んでいます。梓川は、『犀川(さいかわ)』の上流域になります。(同上)

    塩尻駅で乗り換えたあずさ号だったようです。塩尻から甲府までは、約1時間の乗車になります。白地にカラフルな模様が描かれた車体でした。列車名は、長野県松本市の上高地を流れる『梓川(あずさがわ)』に因んでいます。梓川は、『犀川(さいかわ)』の上流域になります。(同上)

  • 『あずさ号』の車内光景です。塩尻駅から甲府駅までは8駅です。途中、下諏訪駅、上諏訪駅や茅野駅を通過し、韮崎駅の次が甲府駅になります。甲府駅の先は、八王子駅、新宿駅に繋がります。東京駅は通過する列車と、停車する列車の両方があります。(同上)

    『あずさ号』の車内光景です。塩尻駅から甲府駅までは8駅です。途中、下諏訪駅、上諏訪駅や茅野駅を通過し、韮崎駅の次が甲府駅になります。甲府駅の先は、八王子駅、新宿駅に繋がります。東京駅は通過する列車と、停車する列車の両方があります。(同上)

  • ほぼ1時間の乗車で甲府駅に到着しました。名古屋から甲府駅までは、東海道新幹線を利用して、新富士駅から身延線で甲府駅に向かうこともできますが、まだ利用したことがありません。身延線は駅の数が多く、時間がかかりそうです。参考に所要時間を調べましたら、甲府市~新美延間は2時間55分でした。(同上)

    ほぼ1時間の乗車で甲府駅に到着しました。名古屋から甲府駅までは、東海道新幹線を利用して、新富士駅から身延線で甲府駅に向かうこともできますが、まだ利用したことがありません。身延線は駅の数が多く、時間がかかりそうです。参考に所要時間を調べましたら、甲府市~新美延間は2時間55分でした。(同上)

  • 昼食の時間には、まだ早過ぎますので、早速、甲府城に向かいました。甲府駅前に位置済ますので、歩いて5分ほどのようです。甲府城の歴史の紹介です。甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。日本百名城巡りのガイドブックには、1590年頃、浅野長政・幸長築城と紹介されていました。長政は、豊臣政権の五奉行の内の1人です。(同上)

    昼食の時間には、まだ早過ぎますので、早速、甲府城に向かいました。甲府駅前に位置済ますので、歩いて5分ほどのようです。甲府城の歴史の紹介です。甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。日本百名城巡りのガイドブックには、1590年頃、浅野長政・幸長築城と紹介されていました。長政は、豊臣政権の五奉行の内の1人です。(同上)

  • 甲府城の歴史紹介が続きます。長政は上方に詰めていることが多く、甲斐支配は嫡男・幸長が在国して行いました。浅野氏は近世に確立した地域区分である九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整えました。さらに甲斐における太閤検地の実施や甲府城の修築を行い、甲斐支配を進めました。石塔が見える方向が甲府城です。(同上)

    甲府城の歴史紹介が続きます。長政は上方に詰めていることが多く、甲斐支配は嫡男・幸長が在国して行いました。浅野氏は近世に確立した地域区分である九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整えました。さらに甲斐における太閤検地の実施や甲府城の修築を行い、甲斐支配を進めました。石塔が見える方向が甲府城です。(同上)

  • 甲府城の入り口付近にあった案内看板の光景です。『浅野長政(1547~1611年)』は、浅野家14代当主で、常陸国真壁藩初代藩主を務めています。長政は晩年の改名で、初名の『長吉(ながよし)』を名乗っていた時期が長いとされます。尾張国春日井郡北野に宮後城主・安井重継の子として生まれました。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなく、娘・やや(彌々)の婿養子となりました。(同上)

    甲府城の入り口付近にあった案内看板の光景です。『浅野長政(1547~1611年)』は、浅野家14代当主で、常陸国真壁藩初代藩主を務めています。長政は晩年の改名で、初名の『長吉(ながよし)』を名乗っていた時期が長いとされます。尾張国春日井郡北野に宮後城主・安井重継の子として生まれました。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなく、娘・やや(彌々)の婿養子となりました。(同上)

  • 先程の掲示板の絵図のズームアップ光景です。甲府城の縄張図でした。長政は、浅野家に婿養子に迎えられ、のちに家督を相続しました。同じく長勝の養女となっていた『ねね(寧々、のちの北政所、高台院)』が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚(舅を同じくする義理の相婿)として、信長の命で秀吉の与力となりました。(同上)

    先程の掲示板の絵図のズームアップ光景です。甲府城の縄張図でした。長政は、浅野家に婿養子に迎えられ、のちに家督を相続しました。同じく長勝の養女となっていた『ねね(寧々、のちの北政所、高台院)』が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚(舅を同じくする義理の相婿)として、信長の命で秀吉の与力となりました。(同上)

  • 『舞鶴城公園案内図』の紹介です。公式サイトの紹介文です。『舞鶴城公園は、16世紀末に築城された甲府城跡の一部で、現在は公園として開放されています。甲府駅から徒歩約3分の位置にあります。舞鶴城とは白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味で呼ばれた、甲府城の別名の1つです。公園内には、築城当時の石垣、復元された門や稲荷櫓、さまざまなイベントが行われる自由広場などがあります。桜の名所としても有名で、約160本の桜が甲府城の石垣を囲むように咲き誇り、遠方に見える富士山と共に観賞しながら、のんびりと散歩ができる憩いの場ともなっています。天守台からは東西南北360度の景色が広がり、四季折々の甲府の風景を一望できます』(同上)

    『舞鶴城公園案内図』の紹介です。公式サイトの紹介文です。『舞鶴城公園は、16世紀末に築城された甲府城跡の一部で、現在は公園として開放されています。甲府駅から徒歩約3分の位置にあります。舞鶴城とは白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味で呼ばれた、甲府城の別名の1つです。公園内には、築城当時の石垣、復元された門や稲荷櫓、さまざまなイベントが行われる自由広場などがあります。桜の名所としても有名で、約160本の桜が甲府城の石垣を囲むように咲き誇り、遠方に見える富士山と共に観賞しながら、のんびりと散歩ができる憩いの場ともなっています。天守台からは東西南北360度の景色が広がり、四季折々の甲府の風景を一望できます』(同上)

  • 甲府城の紹介に戻ります。浅野長政は天正元年(1573年)、『浅井長政(あざい・ながまさ)』攻めで活躍し、秀吉が小谷(おだに)城主となると、近江国内に120石を与えられました。信長の死後は秀吉に仕え、天正11年(1583年)の『賤ヶ岳の戦い』で戦功を挙げて、近江国大津2万石を与えられました。(同上)<br />*写真は、再建された甲府城の石垣と、狭間がある白塀です。

    甲府城の紹介に戻ります。浅野長政は天正元年(1573年)、『浅井長政(あざい・ながまさ)』攻めで活躍し、秀吉が小谷(おだに)城主となると、近江国内に120石を与えられました。信長の死後は秀吉に仕え、天正11年(1583年)の『賤ヶ岳の戦い』で戦功を挙げて、近江国大津2万石を与えられました。(同上)
    *写真は、再建された甲府城の石垣と、狭間がある白塀です。

  • 浅野長政は、天正12年(1584年)、京都奉行職となり、のちに豊臣政権下の五奉行となりました。長政は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施しました。また、東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていました。(同上)<br />*写真は、再建された甲府城の『山手門』の光景です。

    イチオシ

    浅野長政は、天正12年(1584年)、京都奉行職となり、のちに豊臣政権下の五奉行となりました。長政は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施しました。また、東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていました。(同上)
    *写真は、再建された甲府城の『山手門』の光景です。

  • 天正14年(1586年)、秀吉の妹・朝日姫が徳川家康の正室として迎えられた際、長政は、浜松まで赴きました。天正15年(1587年)、九州平定などにも従軍して活躍し、同年9月、若狭国小浜8万石の国持ち大名となりました。関東平定では『忍城(おしじょう)』の戦いに参加し、攻城戦終盤や戦後処理では石田三成に代わって、長政が主導的な役割を果たしました。(同上)

    天正14年(1586年)、秀吉の妹・朝日姫が徳川家康の正室として迎えられた際、長政は、浜松まで赴きました。天正15年(1587年)、九州平定などにも従軍して活躍し、同年9月、若狭国小浜8万石の国持ち大名となりました。関東平定では『忍城(おしじょう)』の戦いに参加し、攻城戦終盤や戦後処理では石田三成に代わって、長政が主導的な役割を果たしました。(同上)

  • 長政は、天正18年(1590年)の『奥州仕置』では、実行役として中心的役割を担いました。『奥州仕置(おうしゅうしおき)』は、天正18年7月から8月にかけて行われた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置です。『奥羽仕置(おううしおき)』とも呼ばれます。取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処しました。天正20年(1592年)、豊臣姓を下賜されました。(同上)

    長政は、天正18年(1590年)の『奥州仕置』では、実行役として中心的役割を担いました。『奥州仕置(おうしゅうしおき)』は、天正18年7月から8月にかけて行われた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置です。『奥羽仕置(おううしおき)』とも呼ばれます。取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処しました。天正20年(1592年)、豊臣姓を下賜されました。(同上)

  • 奉行・浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。秀吉の天下統一はここに完了した。

    奉行・浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。秀吉の天下統一はここに完了した。

  • 『奥州仕置』紹介の締め括りです。奉行・浅野長政が諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧しました。浅野長政の家臣が代官として進駐し、新体制への移行が進められました。検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げました。『秀吉の天下統一』は、ここに完了しました。(同上)

    イチオシ

    『奥州仕置』紹介の締め括りです。奉行・浅野長政が諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧しました。浅野長政の家臣が代官として進駐し、新体制への移行が進められました。検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げました。『秀吉の天下統一』は、ここに完了しました。(同上)

  • 長政は、文禄2年(1593年)の朝鮮出兵でも功績があり、加藤光泰の死後に収公されていた甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入りました。東国大名の取次役を命じられ、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らを与力としますが、その職務実施状況に不満を持った『伊達政宗(1567~1636年)』からは、絶縁状を突きつけられました。(同上)<br />

    長政は、文禄2年(1593年)の朝鮮出兵でも功績があり、加藤光泰の死後に収公されていた甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入りました。東国大名の取次役を命じられ、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らを与力としますが、その職務実施状況に不満を持った『伊達政宗(1567~1636年)』からは、絶縁状を突きつけられました。(同上)

  • 長政は、豊臣時代の五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係だったようです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、嫡男の浅野幸長は、東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍しました。戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封されました。(同上)

    長政は、豊臣時代の五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係だったようです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、嫡男の浅野幸長は、東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍しました。戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封されました。(同上)

  • 長政自身は、江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移りました。慶長11年(1606年)、幸長の所領とは別に、常陸国真壁5万石を隠居料として与えられました。慶長16年(1611年)4月7日(4月6日とも)、長政は真壁陣屋にて死去しました。享年65、没後は高野山悉地院に遺体が納められました。真壁5万石は三男・長重が継いでいます。『浅野長政誕生地碑』は、北名古屋市の霊松寺にあります。(同上)

    長政自身は、江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移りました。慶長11年(1606年)、幸長の所領とは別に、常陸国真壁5万石を隠居料として与えられました。慶長16年(1611年)4月7日(4月6日とも)、長政は真壁陣屋にて死去しました。享年65、没後は高野山悉地院に遺体が納められました。真壁5万石は三男・長重が継いでいます。『浅野長政誕生地碑』は、北名古屋市の霊松寺にあります。(同上)

  • 江戸時代中期に記された『『常山紀談』殻のエピソードの紹介です。『秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉(長政)は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜きました。』(続く)

    江戸時代中期に記された『『常山紀談』殻のエピソードの紹介です。『秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉(長政)は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜きました。』(続く)

  • 『長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したといいます。(常山紀談)』

    『長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したといいます。(常山紀談)』

  • 『銅門(あかがねもん)跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『本丸大手門』に当たります。創建当初は、櫓門の様式だったと考えられ、今後の復元計画があるようです。(同上)

    『銅門(あかがねもん)跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『本丸大手門』に当たります。創建当初は、櫓門の様式だったと考えられ、今後の復元計画があるようです。(同上)

  • 長政のエピソードの紹介の続きです。『小田原征伐において、秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次が舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという』(大道寺友山の『異本落穂集』)、友山は、江戸時代初期~中期の武士で兵法家です。(同上)

    長政のエピソードの紹介の続きです。『小田原征伐において、秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次が舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという』(大道寺友山の『異本落穂集』)、友山は、江戸時代初期~中期の武士で兵法家です。(同上)

  • 長政のエピソードの紹介の締め括りは、その後裔になる『浅野内匠頭』に関することです。長政の正室の長生院の三男の『浅野長重(1588~1632年)』が先祖になります。長重は、母の姉・ねねが豊臣秀吉に嫁いでいる関係で、浅野家は豊臣時代に優遇されました。慶長4年(1599年)、徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男秀忠の小姓として仕えるようになりました。(同上)

    長政のエピソードの紹介の締め括りは、その後裔になる『浅野内匠頭』に関することです。長政の正室の長生院の三男の『浅野長重(1588~1632年)』が先祖になります。長重は、母の姉・ねねが豊臣秀吉に嫁いでいる関係で、浅野家は豊臣時代に優遇されました。慶長4年(1599年)、徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男秀忠の小姓として仕えるようになりました。(同上)

  • 長政の隠居領の真壁5万石は、三男・長重が継ぎました。浅野内匠頭長矩は、長政の子・長直(赤穂浅野氏初代):長友に次ぐ赤穂浅野氏三代藩主でした。勅使接待役を拝命中に江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、赤穂浅野家は改易されました。この事件が端緒となり日本三大仇討ちの一つ赤穂事件が起きました。辞世の句は、『風さそふ花よりもなほ我は亦 春の名残をいかにとやせん』でした。同上)

    長政の隠居領の真壁5万石は、三男・長重が継ぎました。浅野内匠頭長矩は、長政の子・長直(赤穂浅野氏初代):長友に次ぐ赤穂浅野氏三代藩主でした。勅使接待役を拝命中に江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、赤穂浅野家は改易されました。この事件が端緒となり日本三大仇討ちの一つ赤穂事件が起きました。辞世の句は、『風さそふ花よりもなほ我は亦 春の名残をいかにとやせん』でした。同上)

  • 右手に見える立て札には、『甲府城跡・鉄門』の文字がありました。公式サイトには、『鉄門は甲府城本丸の南側に建築された2階建ての櫓門であり、鉄門は少なくとも江戸時代初期に建てられ、明治初年に取り壊されました』、と紹介されていました。本丸南西に位置しています。(同上)

    右手に見える立て札には、『甲府城跡・鉄門』の文字がありました。公式サイトには、『鉄門は甲府城本丸の南側に建築された2階建ての櫓門であり、鉄門は少なくとも江戸時代初期に建てられ、明治初年に取り壊されました』、と紹介されていました。本丸南西に位置しています。(同上)

  • 先程の立て札で紹介されていた『鉄門(くろがねもん)』の光景です。約140年ぶりに復元整備され、平成25年(2013年)1月10日から公開されています。鉄門は、本丸の南西、本丸と天守曲輪の境にあった櫓門です。柳沢吉保の記録『楽只堂年録(らくしどうねんろく)』には、宝永2年(1705年)に城内の建物などの名前を変えたという記録があり、その中に鉄門の名前があります。(同上)

    先程の立て札で紹介されていた『鉄門(くろがねもん)』の光景です。約140年ぶりに復元整備され、平成25年(2013年)1月10日から公開されています。鉄門は、本丸の南西、本丸と天守曲輪の境にあった櫓門です。柳沢吉保の記録『楽只堂年録(らくしどうねんろく)』には、宝永2年(1705年)に城内の建物などの名前を変えたという記録があり、その中に鉄門の名前があります。(同上)

  • 甲府城跡がある甲府城公園の中で、最も巨大で目立つ石塔の光景です。ネット情報には、『恩賜林謝恩碑(オンシリンシャオンヒ)』と紹介されていました。山梨県内にあった皇室林が、明治44年3月11日に山梨県に下賜されたことによる記念碑です。山梨県HPからの紹介です。『明治の末、本県では大水害が相次ぎ、このため県民は、大変苦しい生活を余儀なくされていました。この様子を知った明治天皇は、明治44年3月11日、県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜されました。 これが県有林の基となっており、一般には『恩賜林(おんしりん)』と呼ばれています。(続く)』(同上)

    甲府城跡がある甲府城公園の中で、最も巨大で目立つ石塔の光景です。ネット情報には、『恩賜林謝恩碑(オンシリンシャオンヒ)』と紹介されていました。山梨県内にあった皇室林が、明治44年3月11日に山梨県に下賜されたことによる記念碑です。山梨県HPからの紹介です。『明治の末、本県では大水害が相次ぎ、このため県民は、大変苦しい生活を余儀なくされていました。この様子を知った明治天皇は、明治44年3月11日、県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜されました。 これが県有林の基となっており、一般には『恩賜林(おんしりん)』と呼ばれています。(続く)』(同上)

  • 同じく、『恩賜林謝恩碑』の光景です。山梨県HPからの紹介の続きです。『県土の約3分の1を占める恩賜林は、先人達のたゆまぬ努力により守り育てられ、県土の保全や、林産物の供給を通じて、本県の発展に大きく貢献してきました。さらに近年では、森林の有する安定した水資源の確保や人々に潤いと安らぎを与える効果など様々な機能も重視されています。また、令和3年3月11日に御下賜110周年を迎えたことから、これまで恩賜林の果たしてきた役割や歴史を再認識するとともに、多様な公益的機能を有する森林を県民全体で守り育て、次の世代に引き継ぐための契機となるよう、「恩賜林御下賜110周年記念事業」を実施しました』(同上)

    同じく、『恩賜林謝恩碑』の光景です。山梨県HPからの紹介の続きです。『県土の約3分の1を占める恩賜林は、先人達のたゆまぬ努力により守り育てられ、県土の保全や、林産物の供給を通じて、本県の発展に大きく貢献してきました。さらに近年では、森林の有する安定した水資源の確保や人々に潤いと安らぎを与える効果など様々な機能も重視されています。また、令和3年3月11日に御下賜110周年を迎えたことから、これまで恩賜林の果たしてきた役割や歴史を再認識するとともに、多様な公益的機能を有する森林を県民全体で守り育て、次の世代に引き継ぐための契機となるよう、「恩賜林御下賜110周年記念事業」を実施しました』(同上)

  • 個人的な感想では、『天守台』と思われる石垣が一番の見どころでした。無理して天守などの建物を再建する必要はないとも思われました。『謝恩碑』に関する補足情報です。『碑の高さ約18.2メートルで、碑身はオベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を、また、碑台はバイロンと呼ばれるこれも古代エジプトの神殿の入口に設けられた搭状の門を形どっているものです』(同上)

    個人的な感想では、『天守台』と思われる石垣が一番の見どころでした。無理して天守などの建物を再建する必要はないとも思われました。『謝恩碑』に関する補足情報です。『碑の高さ約18.2メートルで、碑身はオベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を、また、碑台はバイロンと呼ばれるこれも古代エジプトの神殿の入口に設けられた搭状の門を形どっているものです』(同上)

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