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甲府城紹介の続きです。甲府は、「甲斐の府中」の略とされます。永正16年(1519年)、武田信虎が躑躅ヶ崎(現在の武田神社境内)に居館を移し、城下町を造った時に名付けたとされます。府中とは、国の政治・経済・文化の中心地という意味です。「甲府」の呼び名が定着したのは、近世になってからです。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

2017初秋、甲府城と武田氏館(5/9):甲府城(5):稲荷曲輪門、長塀、水溜、石切場

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2017/09/09 - 2017/09/09

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旅行記グループ 2017秋、甲府の百名城巡り

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旅人のくまさん

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甲府城紹介の続きです。甲府は、「甲斐の府中」の略とされます。永正16年(1519年)、武田信虎が躑躅ヶ崎(現在の武田神社境内)に居館を移し、城下町を造った時に名付けたとされます。府中とは、国の政治・経済・文化の中心地という意味です。「甲府」の呼び名が定着したのは、近世になってからです。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

交通手段
JR特急
  • 関東方面の方の甲府城見学のブログの紹介です。『JR中央線に乗って甲府駅に到着する直前、左手の車窓に壮大な石垣と白亜の櫓を眺めることができる。(中略)中央線は甲府城を分断しており、甲府駅はかつての甲府城内に敷設されている』、また『甲府城は、本丸を中心に南方の鍛冶曲輪、東方の稲荷曲輪や数寄屋曲輪など、(中略)石垣がよく残り、整備も行き届いている』、とも紹介されていました。(同上)

    関東方面の方の甲府城見学のブログの紹介です。『JR中央線に乗って甲府駅に到着する直前、左手の車窓に壮大な石垣と白亜の櫓を眺めることができる。(中略)中央線は甲府城を分断しており、甲府駅はかつての甲府城内に敷設されている』、また『甲府城は、本丸を中心に南方の鍛冶曲輪、東方の稲荷曲輪や数寄屋曲輪など、(中略)石垣がよく残り、整備も行き届いている』、とも紹介されていました。(同上)

  • 紹介が続きます。『とくに平成元年(1989)までに舞鶴城公園整備計画が策定されてから、石垣の補修、櫓や門、土塀の復元が積極的に進められ、すぐれた景観がたもたれている』、『その景観には、2つの見どころがある。ひとつは関ケ原合戦以前に築かれた、古いスタイルの石垣によって構成され、もうひとつは復元事業でよみがえった徳川の城としての景観である』、と続いていました。(同上)

    イチオシ

    紹介が続きます。『とくに平成元年(1989)までに舞鶴城公園整備計画が策定されてから、石垣の補修、櫓や門、土塀の復元が積極的に進められ、すぐれた景観がたもたれている』、『その景観には、2つの見どころがある。ひとつは関ケ原合戦以前に築かれた、古いスタイルの石垣によって構成され、もうひとつは復元事業でよみがえった徳川の城としての景観である』、と続いていました。(同上)

  • 『ひとつめの見どころ、すなわち関ヶ原以前の石垣は、本丸やその東の稲荷曲輪や数寄屋曲輪に広範囲に残っている。事実、甲府城は広島城や岡山城、熊本城と並んで、関ヶ原以前の石垣がもっともよく残る』、と石垣の特徴を紹介されていました。さらに、『整形した石をそろえて積んだ石垣にはない凛とした美しさがあり、甲府城はそれが累々と築かれていて壮観だ』、とも紹介されていました。(同上)

    『ひとつめの見どころ、すなわち関ヶ原以前の石垣は、本丸やその東の稲荷曲輪や数寄屋曲輪に広範囲に残っている。事実、甲府城は広島城や岡山城、熊本城と並んで、関ヶ原以前の石垣がもっともよく残る』、と石垣の特徴を紹介されていました。さらに、『整形した石をそろえて積んだ石垣にはない凛とした美しさがあり、甲府城はそれが累々と築かれていて壮観だ』、とも紹介されていました。(同上)

  • 『秀吉の時代、五重天守を建てることが許されたのは、広島城を築いた毛利輝元や岡山城を築いた宇喜多秀家ら五大老までで、浅野長政はそれに続く五奉行の一人だったので、甲府城天守は4重5階だった可能性が高い』、との広島大学名誉教授の『三浦正幸(1954~)』氏の見解も紹介されていました。日本建築史・城郭史および文化財学が専門の先生です。(同上)

    『秀吉の時代、五重天守を建てることが許されたのは、広島城を築いた毛利輝元や岡山城を築いた宇喜多秀家ら五大老までで、浅野長政はそれに続く五奉行の一人だったので、甲府城天守は4重5階だった可能性が高い』、との広島大学名誉教授の『三浦正幸(1954~)』氏の見解も紹介されていました。日本建築史・城郭史および文化財学が専門の先生です。(同上)

  • ネット情報では、建物の名前が確認できませんでした。随分と立派な本瓦の屋根と高床風の造りの建物ですが、吹き抜けになった『四阿(あずまや)』にも見えました。休憩所にしては、いささか凝り過ぎているようにも見受けました。説明文が見つかりませんでしたから、勝手なことばかり書いて、申し訳ありません。(同上)

    ネット情報では、建物の名前が確認できませんでした。随分と立派な本瓦の屋根と高床風の造りの建物ですが、吹き抜けになった『四阿(あずまや)』にも見えました。休憩所にしては、いささか凝り過ぎているようにも見受けました。説明文が見つかりませんでしたから、勝手なことばかり書いて、申し訳ありません。(同上)

  • 『稲荷曲輪門(いなりくるわもん)』のタイトルの説明パネルの紹介です。『稲荷曲輪と鍛冶曲輪を繋ぐ門』と紹介されていました。享保(きょうほう)の火事でも焼けず、明治初年まで残っていた門とされます。甲府城の大火は、1727年(享保12年)に起き、本丸御殿、銅門などを焼失しています。(同上)

    『稲荷曲輪門(いなりくるわもん)』のタイトルの説明パネルの紹介です。『稲荷曲輪と鍛冶曲輪を繋ぐ門』と紹介されていました。享保(きょうほう)の火事でも焼けず、明治初年まで残っていた門とされます。甲府城の大火は、1727年(享保12年)に起き、本丸御殿、銅門などを焼失しています。(同上)

  • 『稲荷曲輪門』の光景です。発掘調査により基礎部分が確認され、平成11年(1999年)に再建されました。単層門で、瓦葺の入母屋造り、東側に土塀が付属しています。門の規模は、間口2.7メートル、控え1.9メートルです。推定になりますが、この写真の右側が東側かも知れません。(同上)

    『稲荷曲輪門』の光景です。発掘調査により基礎部分が確認され、平成11年(1999年)に再建されました。単層門で、瓦葺の入母屋造り、東側に土塀が付属しています。門の規模は、間口2.7メートル、控え1.9メートルです。推定になりますが、この写真の右側が東側かも知れません。(同上)

  • 推測になりますが、『稲荷曲輪門』の東側に付属している土塀になるかも知れません。目測ですが、石垣部分だけでも3メートルほどの高さがあり、本瓦で葺かれた白い土塀を含めると4メートルはありそうです。石垣は打ち込み接ぎでした。礎石の大きさはまちまちでしたが、表面が平らに加工されていました。(同上)

    推測になりますが、『稲荷曲輪門』の東側に付属している土塀になるかも知れません。目測ですが、石垣部分だけでも3メートルほどの高さがあり、本瓦で葺かれた白い土塀を含めると4メートルはありそうです。石垣は打ち込み接ぎでした。礎石の大きさはまちまちでしたが、表面が平らに加工されていました。(同上)

  • 甲府城の説明の間を縫って、明治天皇の父である孝明天皇の紹介です。第121代の『孝明天皇(1831年7月22日:天保2年6月14日~1867年1月30日:慶応2年12月25日)』は、在位:1846年3月10日(弘化3年2月13日)~1867年1月30日(慶応2年12月25日)、諱は『統仁(おさひと)』、称号は『煕宮(ひろのみや)』でした。生涯を平安京内で過ごした最後の天皇とも言われます。(同上)<br /><br /><br />

    甲府城の説明の間を縫って、明治天皇の父である孝明天皇の紹介です。第121代の『孝明天皇(1831年7月22日:天保2年6月14日~1867年1月30日:慶応2年12月25日)』は、在位:1846年3月10日(弘化3年2月13日)~1867年1月30日(慶応2年12月25日)、諱は『統仁(おさひと)』、称号は『煕宮(ひろのみや)』でした。生涯を平安京内で過ごした最後の天皇とも言われます。(同上)


  • 孝明天皇は、第120代の仁孝天皇の第四皇子として誕生し、実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)です。傳役(養育係)には近衛忠煕が就きました。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となり、1840年4月16日(天保11年3月14日)、皇太子となりました。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、父の仁孝天皇が崩御し、3月10日(弘化3年2月13日)に践祚しました。(同上)

    孝明天皇は、第120代の仁孝天皇の第四皇子として誕生し、実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)です。傳役(養育係)には近衛忠煕が就きました。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となり、1840年4月16日(天保11年3月14日)、皇太子となりました。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、父の仁孝天皇が崩御し、3月10日(弘化3年2月13日)に践祚しました。(同上)

  • 1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととしました。この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は変りませんでした。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、批判が噴出し多様です。(同上)

    1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととしました。この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は変りませんでした。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、批判が噴出し多様です。(同上)

  • 1867年1月30日(慶応2年12月25日)、在位21年にして崩御しました。宝算37(満35歳没)でした。死因は天然痘と診断されましたが、他殺説も存在します。京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われ、その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続け、『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されています。(同上)

    1867年1月30日(慶応2年12月25日)、在位21年にして崩御しました。宝算37(満35歳没)でした。死因は天然痘と診断されましたが、他殺説も存在します。京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われ、その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続け、『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されています。(同上)

  • 『水溜跡』のタイトルの説明パネルの紹介です。甲府市の公式サイトには、『水溜(みずだめ):絵図にも描かれていない秘密の水溜』、と紹介されていました。また、山梨県の埋蔵文化財センターの公式サイトには、『水溜(みずだめ):石切場の北側で、鍛冶曲輪から稲荷曲輪門に行く途中にあります。発掘調査で見つかったもので、絵図にも描かれていません』、と紹介されていました。(同上)

    『水溜跡』のタイトルの説明パネルの紹介です。甲府市の公式サイトには、『水溜(みずだめ):絵図にも描かれていない秘密の水溜』、と紹介されていました。また、山梨県の埋蔵文化財センターの公式サイトには、『水溜(みずだめ):石切場の北側で、鍛冶曲輪から稲荷曲輪門に行く途中にあります。発掘調査で見つかったもので、絵図にも描かれていません』、と紹介されていました。(同上)

  • 甲府城址の古木の光景です。幹の左側の下部に名札がありましたが、この写真では読み取ることが出来ませんでした。幹の低い場所で、二つに枝分かれして、更にそのすぐ上で、それぞれ三つに枝分かれしてこの樹木のある場所は、『鶴舞城公園』のエリアになるようでしたが、公園内の樹木などについての解説は見当たりませんでした。(同上)

    甲府城址の古木の光景です。幹の左側の下部に名札がありましたが、この写真では読み取ることが出来ませんでした。幹の低い場所で、二つに枝分かれして、更にそのすぐ上で、それぞれ三つに枝分かれしてこの樹木のある場所は、『鶴舞城公園』のエリアになるようでしたが、公園内の樹木などについての解説は見当たりませんでした。(同上)

  • 名前が特定できなかった古木の上部の光景です。地上付近で、それぞれ3本に分かれた幹は、6本の幹となって高く伸びていました。大木になる楠(くすのき)ではないようですが、欅(けやき)や、榎(えのき)、椋木(むくのき)等とも特定できませんでした。(同上)

    名前が特定できなかった古木の上部の光景です。地上付近で、それぞれ3本に分かれた幹は、6本の幹となって高く伸びていました。大木になる楠(くすのき)ではないようですが、欅(けやき)や、榎(えのき)、椋木(むくのき)等とも特定できませんでした。(同上)

  • 『舞鶴城公園』として整備されている甲府城跡の南側の光景になるようです。JR線路を挟んだ北側は、『歴史公園』と呼ばれています。本丸や天守など、甲府城跡の主な施設は、『舞鶴城公園』にありますが、『歴史公園』にも『山手御門(山手門と山手渡櫓門)』が再建されています。(同上)

    『舞鶴城公園』として整備されている甲府城跡の南側の光景になるようです。JR線路を挟んだ北側は、『歴史公園』と呼ばれています。本丸や天守など、甲府城跡の主な施設は、『舞鶴城公園』にありますが、『歴史公園』にも『山手御門(山手門と山手渡櫓門)』が再建されています。(同上)

  • 『舞鶴城公園』の平面図を参照しますと、『鍛冶曲輪跡』の中央から西側部分は、『日本庭園』として整備されているようでした。その日本庭園部分は、この後に紹介します。この辺りは、まだその周辺部分です。庭木らしく剪定された木々の姿はありません。(同上)

    『舞鶴城公園』の平面図を参照しますと、『鍛冶曲輪跡』の中央から西側部分は、『日本庭園』として整備されているようでした。その日本庭園部分は、この後に紹介します。この辺りは、まだその周辺部分です。庭木らしく剪定された木々の姿はありません。(同上)

  • 『石切場跡』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。説明文は、『甲府城の石垣の石材は、このような岩山からも切り出しました。岩盤の表面には、石を切り出すための、古い楔(くさび)の跡が残っています』、と記されていました。(同上)<br />(追記)国の文化審議会は2021年12月、「甲府城跡」に含まれる「愛宕山石切場跡」に隣接する地点を国の史跡に追加指定するよう答申しました。

    『石切場跡』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。説明文は、『甲府城の石垣の石材は、このような岩山からも切り出しました。岩盤の表面には、石を切り出すための、古い楔(くさび)の跡が残っています』、と記されていました。(同上)
    (追記)国の文化審議会は2021年12月、「甲府城跡」に含まれる「愛宕山石切場跡」に隣接する地点を国の史跡に追加指定するよう答申しました。

  • 明治天皇の和歌が刻まれた石碑の光景です。『明治天皇御製 えびかつら色津支そ免ぬ山梨の 里乃阿き風佐むくなる羅し 御歌所寄人 入江為守謹書』と刻まれています。この歌碑は、甲府市柳町の上甚こと村松甚蔵(1870~1945年)により、大正13年(1924年)11月に建碑されました。実業家で、政治家だった人です。『エビカツラ』は山葡萄のことで、『エビカツラ色つし染めぬ山梨の 里の秋風寒くなるらし』と読むのでしょうか。(同上)

    明治天皇の和歌が刻まれた石碑の光景です。『明治天皇御製 えびかつら色津支そ免ぬ山梨の 里乃阿き風佐むくなる羅し 御歌所寄人 入江為守謹書』と刻まれています。この歌碑は、甲府市柳町の上甚こと村松甚蔵(1870~1945年)により、大正13年(1924年)11月に建碑されました。実業家で、政治家だった人です。『エビカツラ』は山葡萄のことで、『エビカツラ色つし染めぬ山梨の 里の秋風寒くなるらし』と読むのでしょうか。(同上)

  • 「石切場」の光景です。『明治13年6月16日に御巡幸に向け皇居を出発された明治天皇は、19日の16:30に甲府の行在所である錦町の師範学校に着御され、20日は山梨県庁、静岡裁判所甲府支庁、勧業製糸場に臨幸、21日は甲府城内の勧業試験場において葡萄酒の醸造を御覧になった後、甲府城の天守台跡に臨幸され、その場所に設けられた御仮屋で暫時御休息』、と紹介されていました。(同上)

    「石切場」の光景です。『明治13年6月16日に御巡幸に向け皇居を出発された明治天皇は、19日の16:30に甲府の行在所である錦町の師範学校に着御され、20日は山梨県庁、静岡裁判所甲府支庁、勧業製糸場に臨幸、21日は甲府城内の勧業試験場において葡萄酒の醸造を御覧になった後、甲府城の天守台跡に臨幸され、その場所に設けられた御仮屋で暫時御休息』、と紹介されていました。(同上)

  • 同じく、「石切場」付近の光景です。中央奥に見えるのが、先ほど紹介した明治天皇の歌碑だったようです。明治天皇は、その生涯で約9万3千首の和歌を詠まれました。嘉永5年(1852年)生まれの明治天皇は、維新前には父の孝明天皇の手ほどきで和歌を詠まれたようです。慶応2年(1867年)に孝明天皇が崩御されると、和歌の指導者は、翌年から有栖川宮威仁(たるひと)親王になられたようです。(同上)

    同じく、「石切場」付近の光景です。中央奥に見えるのが、先ほど紹介した明治天皇の歌碑だったようです。明治天皇は、その生涯で約9万3千首の和歌を詠まれました。嘉永5年(1852年)生まれの明治天皇は、維新前には父の孝明天皇の手ほどきで和歌を詠まれたようです。慶応2年(1867年)に孝明天皇が崩御されると、和歌の指導者は、翌年から有栖川宮威仁(たるひと)親王になられたようです。(同上)

  • 『数寄屋櫓台跡』方面の光景です。甲府城の南東を守る櫓があった櫓台は、右手方面の石垣になるようです。城の南東に位置することから、『巽(たつみ)櫓』とも呼ばれました。明治初年までは櫓が建っていましたが、現在は跡が残るのみです。遺構は埋設保存されています。(同上)

    『数寄屋櫓台跡』方面の光景です。甲府城の南東を守る櫓があった櫓台は、右手方面の石垣になるようです。城の南東に位置することから、『巽(たつみ)櫓』とも呼ばれました。明治初年までは櫓が建っていましたが、現在は跡が残るのみです。遺構は埋設保存されています。(同上)

  • 狭間が施された土塀で囲まれた一角の光景です。石垣や石段などは、補修がされたかも知れませんが、甲府城の遺構のようでした。白い土塀は、全面的に補修、もしくは再建されたもののようです。石段は、『雁木(がんぎ)』と呼ばれる施設のようでした。雁木とは、階段あるいはそれに似た形状を持つ構造物で、鳥の雁が斜めに並んで飛ぶ様子に似ているための呼び名です。(同上)

    狭間が施された土塀で囲まれた一角の光景です。石垣や石段などは、補修がされたかも知れませんが、甲府城の遺構のようでした。白い土塀は、全面的に補修、もしくは再建されたもののようです。石段は、『雁木(がんぎ)』と呼ばれる施設のようでした。雁木とは、階段あるいはそれに似た形状を持つ構造物で、鳥の雁が斜めに並んで飛ぶ様子に似ているための呼び名です。(同上)

  • 中央、やや右手に見えいているのは、既に紹介した『稲荷櫓』になるようです。平成2年(1990年)に、舞鶴城公園整備事業が着手され、最初に再建された建物とされます。発掘調査で確認された場所に、平成16年(2004年)に再建されました。藩政時代には、武具蔵として使われていました。(同上)

    イチオシ

    中央、やや右手に見えいているのは、既に紹介した『稲荷櫓』になるようです。平成2年(1990年)に、舞鶴城公園整備事業が着手され、最初に再建された建物とされます。発掘調査で確認された場所に、平成16年(2004年)に再建されました。藩政時代には、武具蔵として使われていました。(同上)

  • 『天守台』方面の光景です。中央奥の一番高い石垣が、本丸にある『天守台』になります。豊臣系の築城技術で造られた天守台のようです。穴蔵がある、平面が不整形の天守台です。天守閣の有無については、結論が出されていないようですが、石垣遺跡だけでも十分な歴史的・技術的価値があります。(同上)

    『天守台』方面の光景です。中央奥の一番高い石垣が、本丸にある『天守台』になります。豊臣系の築城技術で造られた天守台のようです。穴蔵がある、平面が不整形の天守台です。天守閣の有無については、結論が出されていないようですが、石垣遺跡だけでも十分な歴史的・技術的価値があります。(同上)

  • 同じく、『天守台』方面の光景です。やや右寄りに天守台が見えています。甲府城で一番の高台である本丸に位置するのが天守台です。天守台は台形状で、1590年代に築城された当時のままの『野面積(のづらづみ』の石垣が現存しています。山梨県教育委員会が近年、「天守閣等の復元の可能性の検討」、「甲府城の天守閣および歴史的建造物に関し必要となる史料収集と検討」を行いました。(同上)

    同じく、『天守台』方面の光景です。やや右寄りに天守台が見えています。甲府城で一番の高台である本丸に位置するのが天守台です。天守台は台形状で、1590年代に築城された当時のままの『野面積(のづらづみ』の石垣が現存しています。山梨県教育委員会が近年、「天守閣等の復元の可能性の検討」、「甲府城の天守閣および歴史的建造物に関し必要となる史料収集と検討」を行いました。(同上)

  • 山梨県教育委員会の調査の結果、天守閣復元に関する史料は確認できなかったようです。しかし、天守閣の存在を完全に否定するものではないようです。1664年(寛文4年)の大改修時点ではすでに天守はなく、それ以降も建築された記録はありません。もし天守があったとしても、織豊時代の後期か、江戸時代初期までとなり、その存続期間も短かいものだったようです。(同上)

    山梨県教育委員会の調査の結果、天守閣復元に関する史料は確認できなかったようです。しかし、天守閣の存在を完全に否定するものではないようです。1664年(寛文4年)の大改修時点ではすでに天守はなく、それ以降も建築された記録はありません。もし天守があったとしても、織豊時代の後期か、江戸時代初期までとなり、その存続期間も短かいものだったようです。(同上)

  • 天守閣がない甲府城跡ですから、一番目立つ建物が、この報恩碑です。『塩山市(現甲州市)内の恩賜林から産出した花崗岩を碑身とし、3年余りを費やし大正9(1920)年12月に完成(舞鶴城公園公式サイト)』、と紹介されていました。甲府城址の建造物を凌ぐ存在感がありました。(同上)

    天守閣がない甲府城跡ですから、一番目立つ建物が、この報恩碑です。『塩山市(現甲州市)内の恩賜林から産出した花崗岩を碑身とし、3年余りを費やし大正9(1920)年12月に完成(舞鶴城公園公式サイト)』、と紹介されていました。甲府城址の建造物を凌ぐ存在感がありました。(同上)

  • 『鍛冶曲輪跡』付近から眺めた、北側方面の光景です。『鍛冶曲輪跡』は、芝生が養生された『自由広場』と命名されているようです。その先に見える少し高い石垣が、『天守曲輪』の長石垣です。その背後には、本丸の高石垣も見えていました。先ほど紹介した『謝恩碑』も左端付近に見えています。(同上)

    イチオシ

    『鍛冶曲輪跡』付近から眺めた、北側方面の光景です。『鍛冶曲輪跡』は、芝生が養生された『自由広場』と命名されているようです。その先に見える少し高い石垣が、『天守曲輪』の長石垣です。その背後には、本丸の高石垣も見えていました。先ほど紹介した『謝恩碑』も左端付近に見えています。(同上)

  • 中央に見えるのは、内堀に架かる『遊亀橋(ゆうきばし)』です。甲府城の遺構ではなく、平成12年(2001年)9月に竣工した現代の木製橋です。甲府城跡では、唯一の橋とされます。橋の北詰(手前側)の左手(東側)が、『鍛冶曲輪跡』になり、右手(西側)に甲府城公園管理事務所の建物があります。(同上)

    中央に見えるのは、内堀に架かる『遊亀橋(ゆうきばし)』です。甲府城の遺構ではなく、平成12年(2001年)9月に竣工した現代の木製橋です。甲府城跡では、唯一の橋とされます。橋の北詰(手前側)の左手(東側)が、『鍛冶曲輪跡』になり、右手(西側)に甲府城公園管理事務所の建物があります。(同上)

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