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甲府城の紹介が続きます。甲府城は、かつては20ヘクタールほどの広大な城郭でした。現在は、その城跡の一部が『舞鶴城公園』、『甲府市歴史公園』とし公開されています。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)<br />

2017初秋、甲府城と武田氏館(2/9):甲府城(2):本丸、鉄門、鉄門の展示品、甲府市眺望

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2017/09/09 - 2017/09/09

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旅行記グループ 2017秋、甲府の百名城巡り

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旅人のくまさん

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甲府城の紹介が続きます。甲府城は、かつては20ヘクタールほどの広大な城郭でした。現在は、その城跡の一部が『舞鶴城公園』、『甲府市歴史公園』とし公開されています。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

交通手段
JR特急
  • 舞鶴城の雅号を持ち、国の史跡に指定されている甲府城の歴史の紹介です。甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された、中世から近世にかけての平山城です。甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されましたが、武田氏滅亡後に徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配しました。写真は、高石垣からの甲府市街の光景が続きます。(同上)

    舞鶴城の雅号を持ち、国の史跡に指定されている甲府城の歴史の紹介です。甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された、中世から近世にかけての平山城です。甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されましたが、武田氏滅亡後に徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配しました。写真は、高石垣からの甲府市街の光景が続きます。(同上)

  • 豊臣政権時代には、徳川家康を牽制する要所となり、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の居城となりました。天守台はありますが、天守が建てられていたかどうかとされます。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となりました。(同上)

    イチオシ

    豊臣政権時代には、徳川家康を牽制する要所となり、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の居城となりました。天守台はありますが、天守が建てられていたかどうかとされます。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となりました。(同上)

  • 明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも、甲府は政治的・経済的中心地として機能しました。甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化されました。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と、甲府駅(甲府城清水曲輪跡に当たります)の開業により、甲府城跡は分断されました。(同上)

    明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも、甲府は政治的・経済的中心地として機能しました。甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化されました。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と、甲府駅(甲府城清水曲輪跡に当たります)の開業により、甲府城跡は分断されました。(同上)

  • 第二次大戦後には、城跡の発掘調査や史跡の整備が進みました。現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっています。また、出土遺物のうち鯱瓦(甲府城跡出土金箔鯱瓦)と、飾瓦(甲府城跡出土飾瓦)は、山梨県の県指定文化財となっています。続いて、歴史や沿革について、もう少し詳しく紹介します。(同上)

    第二次大戦後には、城跡の発掘調査や史跡の整備が進みました。現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっています。また、出土遺物のうち鯱瓦(甲府城跡出土金箔鯱瓦)と、飾瓦(甲府城跡出土飾瓦)は、山梨県の県指定文化財となっています。続いて、歴史や沿革について、もう少し詳しく紹介します。(同上)

  • 甲府城が築城された一条小山は、甲斐国山梨郡板垣郷に当たり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があったようです。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となりました。(同上)<br />*写真は、再建されたばかりの『鉄門(くろがねもん)』の内部光景です。

    イチオシ

    甲府城が築城された一条小山は、甲斐国山梨郡板垣郷に当たり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があったようです。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となりました。(同上)
    *写真は、再建されたばかりの『鉄門(くろがねもん)』の内部光景です。

  • 戦国時代には、守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、『躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)』を中心とする武田城下町が整備されました。一条小山は、武田城下町の南端に位置しています。武田氏は、信虎・晴信(信玄)期に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、甲府・躑躅ヶ崎館は勝頼期に至るまで、領国経営の中心でした。勝頼期には、盆地西部の穴山郷に『新府城(韮崎市中田町中條)』が築城され、府中の移転が試みられましたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻があり、武田氏の滅亡により途上に終わりました。(同上)<br />*写真は、『鉄門』内に掲示されていた『甲府城の歴史』説明パネルです。

    戦国時代には、守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、『躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)』を中心とする武田城下町が整備されました。一条小山は、武田城下町の南端に位置しています。武田氏は、信虎・晴信(信玄)期に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、甲府・躑躅ヶ崎館は勝頼期に至るまで、領国経営の中心でした。勝頼期には、盆地西部の穴山郷に『新府城(韮崎市中田町中條)』が築城され、府中の移転が試みられましたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻があり、武田氏の滅亡により途上に終わりました。(同上)
    *写真は、『鉄門』内に掲示されていた『甲府城の歴史』説明パネルです。

  • 武田氏滅亡後の甲斐仕置において、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が領し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としました。天正10年6月に本能寺の変により秀隆は一揆勢に殺害され、無主状態となった甲斐・武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生しました。(同上)<br />*写真は、幕末期から明治初期にかけて撮影された甲府城の光景です。

    武田氏滅亡後の甲斐仕置において、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が領し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としました。天正10年6月に本能寺の変により秀隆は一揆勢に殺害され、無主状態となった甲斐・武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生しました。(同上)
    *写真は、幕末期から明治初期にかけて撮影された甲府城の光景です。

  • 1582年の『天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)』において、甲斐は三河国の徳川家康と相模国の後北条氏が争い、家康は甲府城下の尊躰寺・一条信龍屋敷に布陣して、やがて新府城へ移り北条氏と対峙しました。同年には徳川・北条同盟が成立し、武田遺領のうち甲斐・駿河は徳川家康が領し、家康は五カ国を領し東国に台頭しました。(同上)

    1582年の『天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)』において、甲斐は三河国の徳川家康と相模国の後北条氏が争い、家康は甲府城下の尊躰寺・一条信龍屋敷に布陣して、やがて新府城へ移り北条氏と対峙しました。同年には徳川・北条同盟が成立し、武田遺領のうち甲斐・駿河は徳川家康が領し、家康は五カ国を領し東国に台頭しました。(同上)

  • 家康は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを経て豊臣政権に臣従しました。天正壬午の乱後に残された、上野国の沼田領問題において豊臣政権と後北条氏との関係が緊張しますと、後北条氏の領国と接する甲斐においても政治情勢が緊迫化しました。なお、天正壬午の乱においては後北条氏は郡内領を制圧し、秩父往還沿いの浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)を本拠とする大村党が北条方に帰属する事態が発生しました。家康は、天正17年にはこの浄居寺城の大修築を命じています。(同上)<br />*写真は、甲府城追手門礎石の検出場所と、古絵図重ね合わせ図です。

    家康は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを経て豊臣政権に臣従しました。天正壬午の乱後に残された、上野国の沼田領問題において豊臣政権と後北条氏との関係が緊張しますと、後北条氏の領国と接する甲斐においても政治情勢が緊迫化しました。なお、天正壬午の乱においては後北条氏は郡内領を制圧し、秩父往還沿いの浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)を本拠とする大村党が北条方に帰属する事態が発生しました。家康は、天正17年にはこの浄居寺城の大修築を命じています。(同上)
    *写真は、甲府城追手門礎石の検出場所と、古絵図重ね合わせ図です。

  • 豊臣時代の天正18年(1590年)、小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は、秀吉により旧後北条領国の関東へ移封されます。甲斐は豊臣大名に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化しました。家康は、甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配拠点としていましたが、1583年(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われます。<br />*写真は、鉄門の礎石出土図(下図)と、櫓門の再建図(上図)です。

    豊臣時代の天正18年(1590年)、小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は、秀吉により旧後北条領国の関東へ移封されます。甲斐は豊臣大名に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化しました。家康は、甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配拠点としていましたが、1583年(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われます。
    *写真は、鉄門の礎石出土図(下図)と、櫓門の再建図(上図)です。

  • 甲府城の築城主を徳川家康とする説は古くからあり、江戸後期に編纂された『甲斐国志』では築城主を家康・年代を天正13年(1585年)としています。昭和戦後期には、1969年(昭和44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城主を家康・年代を天正11年としています。(同上)<br />*写真は、鉄門復元工事の流れ図です。写真入りで説明されていました。植え方「石工事」、「木工事」、「屋根工事」と「左官工事」の四工程です。

    甲府城の築城主を徳川家康とする説は古くからあり、江戸後期に編纂された『甲斐国志』では築城主を家康・年代を天正13年(1585年)としています。昭和戦後期には、1969年(昭和44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城主を家康・年代を天正11年としています。(同上)
    *写真は、鉄門復元工事の流れ図です。写真入りで説明されていました。植え方「石工事」、「木工事」、「屋根工事」と「左官工事」の四工程です。

  • 築城主を家康・年代を天正10年・13年とする説の根拠となる史料には、年未詳徳川家奉行人連署状写、享保年間の『甲斐国歴代譜』、「愛宕山宝蔵院」『甲斐国志』仏寺部があります。いずれも家康による築城を確定する史料ではなく、この時期に甲斐国内において大規模な動員がかけられた形跡もないことが指摘されています。(同上)<br />*写真は、『鉄門の復元整備』のタイトルの説明パネルです。資料調査の段階から、復元整備計画の立案と、発掘調査結果の写真が紹介されていました。

    築城主を家康・年代を天正10年・13年とする説の根拠となる史料には、年未詳徳川家奉行人連署状写、享保年間の『甲斐国歴代譜』、「愛宕山宝蔵院」『甲斐国志』仏寺部があります。いずれも家康による築城を確定する史料ではなく、この時期に甲斐国内において大規模な動員がかけられた形跡もないことが指摘されています。(同上)
    *写真は、『鉄門の復元整備』のタイトルの説明パネルです。資料調査の段階から、復元整備計画の立案と、発掘調査結果の写真が紹介されていました。

  • 天正11年築城説の根拠となる、年未詳正月27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の平岩に対して一条小山における築城の準備を命じていて、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣を行っています。言わる、穴太衆のようです。(同上)<br />*写真は、『甲府城追手門の発掘調査』のタイトルの説明パネルです。左下の『甲府城追手門礎石の検出場所と古絵図重ね合わせ図』と、右下の『鉄門の礎石出土図と櫓門の再建図』は、拡大図で先に紹介しました。

    天正11年築城説の根拠となる、年未詳正月27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の平岩に対して一条小山における築城の準備を命じていて、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣を行っています。言わる、穴太衆のようです。(同上)
    *写真は、『甲府城追手門の発掘調査』のタイトルの説明パネルです。左下の『甲府城追手門礎石の検出場所と古絵図重ね合わせ図』と、右下の『鉄門の礎石出土図と櫓門の再建図』は、拡大図で先に紹介しました。

  • 石垣積は、「穴太積」とも呼ばれる西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉に引き継がれたとされます。戦国期の甲斐や武田領国、家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城において初めて用いられています。現在の甲府城の石垣遺構は、技術的な中断の形跡が無く、同一の技術水準によるものであることが指摘され、豊臣大名時代の築造と考えられています。(同上)<br />*写真は、『鉄門の構造』のタイトルの説明パネルです。この後、図面を拡大して紹介します。

    石垣積は、「穴太積」とも呼ばれる西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉に引き継がれたとされます。戦国期の甲斐や武田領国、家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城において初めて用いられています。現在の甲府城の石垣遺構は、技術的な中断の形跡が無く、同一の技術水準によるものであることが指摘され、豊臣大名時代の築造と考えられています。(同上)
    *写真は、『鉄門の構造』のタイトルの説明パネルです。この後、図面を拡大して紹介します。

  • 『鉄門(くろがねもん)』の側面図と正面図です。先ほどの説明パネルの上段にあった図です。『史実と伝統工法に基づいて、幕末の姿かたちを復元した』と紹介されていました。左が南側立面図、右が梁間断面図です。公式サイトでは、『よみがえる鉄門(くろがねもん)』のPDF資料で詳細が解説されていました。(同上)

    『鉄門(くろがねもん)』の側面図と正面図です。先ほどの説明パネルの上段にあった図です。『史実と伝統工法に基づいて、幕末の姿かたちを復元した』と紹介されていました。左が南側立面図、右が梁間断面図です。公式サイトでは、『よみがえる鉄門(くろがねもん)』のPDF資料で詳細が解説されていました。(同上)

  • 左側の表が『鉄門の構造』、右側の表が『主要材料原産地一覧』でした。先ほど紹介したPDF資料からの紹介です。鉄門の正式構造名称は『三間一戸潜戸付渡櫓門』で、木造、入母屋造、本瓦葺、正背面庇付と補足されていて、各部の寸法が記されていました。(同上)<br />

    左側の表が『鉄門の構造』、右側の表が『主要材料原産地一覧』でした。先ほど紹介したPDF資料からの紹介です。鉄門の正式構造名称は『三間一戸潜戸付渡櫓門』で、木造、入母屋造、本瓦葺、正背面庇付と補足されていて、各部の寸法が記されていました。(同上)

  • 約140年ぶりに復元整備され、平成25年(2013年)1月10日から公開されている『鉄門(くりおがねもん)』の内部光景です。まだ新しい材木の香りが漂っていた記憶があります。『史実と伝統工法に基づいて復元された』との解説が、十分に実感できました。(同上)

    約140年ぶりに復元整備され、平成25年(2013年)1月10日から公開されている『鉄門(くりおがねもん)』の内部光景です。まだ新しい材木の香りが漂っていた記憶があります。『史実と伝統工法に基づいて復元された』との解説が、十分に実感できました。(同上)

  • 櫓門は、城門の上に櫓を乗せ、二階建てにしその二階部分に窓や狭間を設け、監視や攻撃ができる門のことです。重要な場所(入口、本丸)に設けられました。『鉄門』もこの様式で、その二階部分のズームアップ光景です。敵の侵入を阻む機能を有した門とされ、石落としの施設もあります。火矢に対応するため、城漆喰で塗り固められていました。(同上)

    櫓門は、城門の上に櫓を乗せ、二階建てにしその二階部分に窓や狭間を設け、監視や攻撃ができる門のことです。重要な場所(入口、本丸)に設けられました。『鉄門』もこの様式で、その二階部分のズームアップ光景です。敵の侵入を阻む機能を有した門とされ、石落としの施設もあります。火矢に対応するため、城漆喰で塗り固められていました。(同上)

  • 『鉄門(くろがねもん)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。甲府城の『鉄門』について、復元工事を主体に紹介されていました。門扉などの飾り金具の種類により、鉄を使った『鉄門(くろがねもん)』、銅を使った『銅門(赤金門)』の呼び名が使われています。伝統的な金属色の呼び名には、次のもの等があります。<br />〇白銅色(はくどういろ):僅かに青みを含んだ明るい灰色、明治以降。<br />〇赤銅色(しゃくどういろ:艶のある暗い赤色で、銅色(あかがねいろ)とは別。<br />〇錫色(すずいろ):銀色に近い明るい鼠色で、銀鼠(ぎんねず)色の別名も。<br />〇銀色(ぎんいろ):美しい金属光沢のある灰色で、金色と並び称されました。<br />〇鉛色(なまりいろ):少し青みを帯びた灰色で、アオガネとも呼ばれます。

    『鉄門(くろがねもん)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。甲府城の『鉄門』について、復元工事を主体に紹介されていました。門扉などの飾り金具の種類により、鉄を使った『鉄門(くろがねもん)』、銅を使った『銅門(赤金門)』の呼び名が使われています。伝統的な金属色の呼び名には、次のもの等があります。
    〇白銅色(はくどういろ):僅かに青みを含んだ明るい灰色、明治以降。
    〇赤銅色(しゃくどういろ:艶のある暗い赤色で、銅色(あかがねいろ)とは別。
    〇錫色(すずいろ):銀色に近い明るい鼠色で、銀鼠(ぎんねず)色の別名も。
    〇銀色(ぎんいろ):美しい金属光沢のある灰色で、金色と並び称されました。
    〇鉛色(なまりいろ):少し青みを帯びた灰色で、アオガネとも呼ばれます。

  • 選りすぐりの木材などを使って再建された、鉄門の内部光景です。開いている扉は、1階部分になるようです。開かれた扉の各部に黒く見えているのが、『鉄門(くろがねもん)』の名前の元になる、鉄製の金具部分です。資材が厳選され、工法も現代工法ではなく伝統工法が用いられた貴重な建物です。(同上)

    イチオシ

    選りすぐりの木材などを使って再建された、鉄門の内部光景です。開いている扉は、1階部分になるようです。開かれた扉の各部に黒く見えているのが、『鉄門(くろがねもん)』の名前の元になる、鉄製の金具部分です。資材が厳選され、工法も現代工法ではなく伝統工法が用いられた貴重な建物です。(同上)

  • 『鉄門(くろがねもん)』の呼び名の元になった、黒っぽく見える留め金具の光景です。使われているのは鉄材です。鉄材とその応用技術は、紀元前からの歴史を左右したとされる貴重な材料でした。素材の鉄だけでなく、精錬するための火力の元になる木材が素材にもまして重要でした。木を使い果たして滅びた文明は、ギリシャだけにはとどまりません。日本は森林再生では恵まれた国でした。(同上)

    『鉄門(くろがねもん)』の呼び名の元になった、黒っぽく見える留め金具の光景です。使われているのは鉄材です。鉄材とその応用技術は、紀元前からの歴史を左右したとされる貴重な材料でした。素材の鉄だけでなく、精錬するための火力の元になる木材が素材にもまして重要でした。木を使い果たして滅びた文明は、ギリシャだけにはとどまりません。日本は森林再生では恵まれた国でした。(同上)

  • 伝統工具の『手斧(ちょうな)』で加工されたらしい柱のズームアップ光景です。手斧は、『鍬(クワ)に似た形状をした斧の一種で、斧としては横斧に分類されます。鉋が普及する以前は木材の荒削り用として世界各国で使われていました。石器時代から存在する歴史のある工具とされます。 使用者が材の上に立ち、足元に釿を振り下ろしながら後ずさりして、材木を荒削りします』(同上)

    伝統工具の『手斧(ちょうな)』で加工されたらしい柱のズームアップ光景です。手斧は、『鍬(クワ)に似た形状をした斧の一種で、斧としては横斧に分類されます。鉋が普及する以前は木材の荒削り用として世界各国で使われていました。石器時代から存在する歴史のある工具とされます。 使用者が材の上に立ち、足元に釿を振り下ろしながら後ずさりして、材木を荒削りします』(同上)

  • 『謝恩碑』のタイトルがあった説明パネルですが、細かい文字は読み取ることが出来ませんでした。『鉄門』の見学を終えて、次は屋外主体の見学です。『謝恩碑』は、後ほど細かいことは紹介しますが、正式名称は『恩賜林謝恩碑(おんしりん・しゃおんひ)』です。1922年(大正11年)、甲府市中央の舞鶴城公園( 甲府城跡)に建てられました。この場所です。(同上)

    『謝恩碑』のタイトルがあった説明パネルですが、細かい文字は読み取ることが出来ませんでした。『鉄門』の見学を終えて、次は屋外主体の見学です。『謝恩碑』は、後ほど細かいことは紹介しますが、正式名称は『恩賜林謝恩碑(おんしりん・しゃおんひ)』です。1922年(大正11年)、甲府市中央の舞鶴城公園( 甲府城跡)に建てられました。この場所です。(同上)

  • 『謝恩碑』の場所からの眺望です。この後は、『社団法人・山梨県恩賜林保護組合連合会』の公開資料からの紹介です。『明治の末、本県では大水害が相次ぎ、このため県民は、大変苦しい生活を余儀なくされていました。この様子を知った明治天皇は、明治44年3月11日、県下の御料地のうち16万4千ヘクタール(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜されました』(同上)<br /><br />これが県有林の基となっており、一般には恩賜林と呼ばれています。

    『謝恩碑』の場所からの眺望です。この後は、『社団法人・山梨県恩賜林保護組合連合会』の公開資料からの紹介です。『明治の末、本県では大水害が相次ぎ、このため県民は、大変苦しい生活を余儀なくされていました。この様子を知った明治天皇は、明治44年3月11日、県下の御料地のうち16万4千ヘクタール(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜されました』(同上)

    これが県有林の基となっており、一般には恩賜林と呼ばれています。

  • 『枢密院議長元帥陸軍(大将?)・勲一等公爵山縣有朋』の文字で始まり、『謝恩塔』建立のいきさつが記されているようでした。『山縣有朋(やまがた・ありとも:1838~1922年)』は、長州藩の下級武士の家に生まれ、後に松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事しています。日清・日露戦争に従事し、軍人・政治家として最高位に昇り、死後は国葬で送られました。(同上)

    『枢密院議長元帥陸軍(大将?)・勲一等公爵山縣有朋』の文字で始まり、『謝恩塔』建立のいきさつが記されているようでした。『山縣有朋(やまがた・ありとも:1838~1922年)』は、長州藩の下級武士の家に生まれ、後に松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事しています。日清・日露戦争に従事し、軍人・政治家として最高位に昇り、死後は国葬で送られました。(同上)

  • 『県土の約1/3を占める恩賜林は、先人達のたゆまぬ努力により守り育てられ、県土の保全や、林産物の供給を通じて、本県の発展に大きく貢献してきました。さらに近年では、森林の有する安定した水資源の確保や人々に潤いと安らぎを与える効果など様々な機能も重視されています。舞鶴城公園の中央部に高くそびえる尖塔型の石柱が謝恩碑です。(続く)』(同上)

    『県土の約1/3を占める恩賜林は、先人達のたゆまぬ努力により守り育てられ、県土の保全や、林産物の供給を通じて、本県の発展に大きく貢献してきました。さらに近年では、森林の有する安定した水資源の確保や人々に潤いと安らぎを与える効果など様々な機能も重視されています。舞鶴城公園の中央部に高くそびえる尖塔型の石柱が謝恩碑です。(続く)』(同上)

  • 『これは明治44年3月11日県内にあった御料地を、明治天皇から大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるよう、御下賜になったことを記念して建てられたものであります。碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年12月から9年まで3ヵ年、当時の金額でおおよそ10万円を費やして行われました。(続く)』(同上)

    『これは明治44年3月11日県内にあった御料地を、明治天皇から大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるよう、御下賜になったことを記念して建てられたものであります。碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年12月から9年まで3ヵ年、当時の金額でおおよそ10万円を費やして行われました。(続く)』(同上)

  • 『使用されている石材は甲州市(旧神金村荻原山)の恩賜林内から切り出されたものです。その採掘、運搬、組み立てには大変な苦労があったといわれていますが、大正9年御下賜10周年を迎える年に碑身が完成しました。碑の高さ約18.2メートルで、謝恩碑はオベリスク型と呼ばれる古代エジプトに記念碑を、碑台は高さ7.4メートルのバイロン形と呼ばれるこれも古代エジプトに神殿の入り口に設けられた塔状の門の形を模したものであります。(以上)』(同上)<br />*写真は、『謝恩碑』のパネルがあった場所から見上げた『恩賜林謝恩碑』の光景です。戦後の昭和憲法下では、使うことが少なくなった『恩賜(おんし)』の文字ですが、大相撲では、『賜杯(しはい)』の表現が、今も使われています。

    『使用されている石材は甲州市(旧神金村荻原山)の恩賜林内から切り出されたものです。その採掘、運搬、組み立てには大変な苦労があったといわれていますが、大正9年御下賜10周年を迎える年に碑身が完成しました。碑の高さ約18.2メートルで、謝恩碑はオベリスク型と呼ばれる古代エジプトに記念碑を、碑台は高さ7.4メートルのバイロン形と呼ばれるこれも古代エジプトに神殿の入り口に設けられた塔状の門の形を模したものであります。(以上)』(同上)
    *写真は、『謝恩碑』のパネルがあった場所から見上げた『恩賜林謝恩碑』の光景です。戦後の昭和憲法下では、使うことが少なくなった『恩賜(おんし)』の文字ですが、大相撲では、『賜杯(しはい)』の表現が、今も使われています。

  • 再度紹介する、『謝恩碑』のパネルです。山梨県は、県下の入会御料地が本県に御下賜されたことを末永く記念するため、明治44年3月11日御沙汰書を頂いた日を恩賜林記念日と定めました。当時は小・中学校の行事でしたが、現在では、県の行事として毎年3月11日謝恩碑前広場で記念式典が挙行されています。(同上)

    再度紹介する、『謝恩碑』のパネルです。山梨県は、県下の入会御料地が本県に御下賜されたことを末永く記念するため、明治44年3月11日御沙汰書を頂いた日を恩賜林記念日と定めました。当時は小・中学校の行事でしたが、現在では、県の行事として毎年3月11日謝恩碑前広場で記念式典が挙行されています。(同上)

  • 恩賜林保護団体が御下賜40周年記念事業として昭和26年に企画し、同28年に『恩賜林記念館』を完成させました。その記念館は、舞鶴城公園の南西端、お堀の北側にある緑色の屋根、石を使った丸い柱の建物です。(同上)

    恩賜林保護団体が御下賜40周年記念事業として昭和26年に企画し、同28年に『恩賜林記念館』を完成させました。その記念館は、舞鶴城公園の南西端、お堀の北側にある緑色の屋根、石を使った丸い柱の建物です。(同上)

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2017秋、甲府の百名城巡り

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