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武田氏館の紹介です。先に紹介した甲府城が近世の城郭であるのに対し、武田氏館は、中世のお城と表現されています。創建は、戦国時代の永正16年(1519年)とされます。創建者は、信玄の父の武田信虎です。(ウィキペディア、武田氏館関連サイト)<br />

2017初秋、甲府城と武田氏館(8/9):武田神社(1):武田通り、神社石標、鳥居、神橋、狛犬

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2017/09/09 - 2017/09/09

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旅行記グループ 2017秋、甲府の百名城巡り

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旅人のくまさん

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武田氏館の紹介です。先に紹介した甲府城が近世の城郭であるのに対し、武田氏館は、中世のお城と表現されています。創建は、戦国時代の永正16年(1519年)とされます。創建者は、信玄の父の武田信虎です。(ウィキペディア、武田氏館関連サイト)

交通手段
JR特急
  • 甲府駅前で昼食の後、駅前からまっすぐ北に延びる街道を、歩いて武田神社に向かいました。その途中の街道光景です。武田神社は、武田氏三代の居館があった『武田氏館』の場所にもなります。武田氏三代は、武田信虎(武田氏第18代当主:1494~1574年)、晴信(信玄:武田氏19代当主:1521~1573年)、と武田勝頼(諏訪勝頼:武田氏第20代当主:1546~1582年)を指すようです。(同上)

    甲府駅前で昼食の後、駅前からまっすぐ北に延びる街道を、歩いて武田神社に向かいました。その途中の街道光景です。武田神社は、武田氏三代の居館があった『武田氏館』の場所にもなります。武田氏三代は、武田信虎(武田氏第18代当主:1494~1574年)、晴信(信玄:武田氏19代当主:1521~1573年)、と武田勝頼(諏訪勝頼:武田氏第20代当主:1546~1582年)を指すようです。(同上)

  • 〇『武田信虎(その1)』:甲斐の守護大名で、戦国大名でした。信玄の父です。生年の「明応3年説」は、江戸時代前期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたものです。江戸後期に編纂された地誌『甲斐国志』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認しています。(同上)

    〇『武田信虎(その1)』:甲斐の守護大名で、戦国大名でした。信玄の父です。生年の「明応3年説」は、江戸時代前期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたものです。江戸後期に編纂された地誌『甲斐国志』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認しています。(同上)

  • 〇『武田信虎(その2)』:甲斐国の守護所は信昌・信縄期には石和館(甲府市川田町・笛吹市石和町)に置かれていましたが、『王代記』によれば、武田信虎は永正15年(1518年)に守護所を相川扇状地の甲府(甲府市古府中町)へ移転しています。『高白斎記』によれば、武田信虎は永正16年(1519年)8月、甲府に居館である躑躅ヶ崎館の建設に着手し、城下町を整備し、有力国衆ら家臣を集住させました。(同上)

    〇『武田信虎(その2)』:甲斐国の守護所は信昌・信縄期には石和館(甲府市川田町・笛吹市石和町)に置かれていましたが、『王代記』によれば、武田信虎は永正15年(1518年)に守護所を相川扇状地の甲府(甲府市古府中町)へ移転しています。『高白斎記』によれば、武田信虎は永正16年(1519年)8月、甲府に居館である躑躅ヶ崎館の建設に着手し、城下町を整備し、有力国衆ら家臣を集住させました。(同上)

  • 〇『武田信虎(その3)』:江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったと記されています。諫言した家臣を度々手打ちにしたと伝えられています。内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したとも言われます。(同上)<br />*写真は、『武田通り』の標識と『武田典厩信繁』の説明パネルです。

    〇『武田信虎(その3)』:江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったと記されています。諫言した家臣を度々手打ちにしたと伝えられています。内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したとも言われます。(同上)
    *写真は、『武田通り』の標識と『武田典厩信繁』の説明パネルです。

  • 〇『武田信虎(その4)』:平成時代になってから、躑躅ケ崎館に居館を移して甲府の町の基礎を作った人物としての観点から再評価の動きがありました。平成31年(令和元年:2019年)の「甲府開府500年」に先立って、前年の平成30年(2018年)に甲府駅北口に武田信虎の青銅像が建立されました。先ほどの説明パネルの『武田典厩信繁(1525~1561年』は、信玄の異母弟です。(同上)

    〇『武田信虎(その4)』:平成時代になってから、躑躅ケ崎館に居館を移して甲府の町の基礎を作った人物としての観点から再評価の動きがありました。平成31年(令和元年:2019年)の「甲府開府500年」に先立って、前年の平成30年(2018年)に甲府駅北口に武田信虎の青銅像が建立されました。先ほどの説明パネルの『武田典厩信繁(1525~1561年』は、信玄の異母弟です。(同上)

  • 〇『武田信虎(その5)』:信虎は、信濃では諏訪氏のほか村上義清とも結び、『高白斎記』によれば、天文10年(1541年)5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行いました。この遠征に信虎は晴信(信玄)とともに出陣し、小県郡(長野県東御市)で起きた海野平の戦いで駆逐された海野棟綱が上野へ亡命して関東管領・上杉憲政を頼ると、憲政は佐久郡へ出兵しました。(同上)

    〇『武田信虎(その5)』:信虎は、信濃では諏訪氏のほか村上義清とも結び、『高白斎記』によれば、天文10年(1541年)5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行いました。この遠征に信虎は晴信(信玄)とともに出陣し、小県郡(長野県東御市)で起きた海野平の戦いで駆逐された海野棟綱が上野へ亡命して関東管領・上杉憲政を頼ると、憲政は佐久郡へ出兵しました。(同上)

  • 〇『武田信虎(その6)』:信虎は、同盟国である山内上杉氏と衝突することを避けて撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国します。帰国した信虎は、6月14日に今川義元訪問のため駿州往還を駿河へ向かいますが、この最中に、嫡男の晴信(信玄)が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発しました。(同上)

    〇『武田信虎(その6)』:信虎は、同盟国である山内上杉氏と衝突することを避けて撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国します。帰国した信虎は、6月14日に今川義元訪問のため駿州往還を駿河へ向かいますが、この最中に、嫡男の晴信(信玄)が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発しました。(同上)

  • 〇『武田信虎(その7)』:天文10年(1541年)6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させます(『勝山記』『高白斎記』)。板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派により河内路を遮られ駿河に追放されました。晴信は武田家家督と守護職を相続しました。(同上)<br /><br />

    〇『武田信虎(その7)』:天文10年(1541年)6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させます(『勝山記』『高白斎記』)。板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派により河内路を遮られ駿河に追放されました。晴信は武田家家督と守護職を相続しました。(同上)

  • 『武田神社』の巨大な石標の光景です。晴信により追放された信虎は、今川義元の元に寓居することになりました。正室・大井夫人は甲斐国に残留していますが、信虎側室は駿河国へ赴いていて、同地で子をもうけています。<br />信虎追放については、同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られますが、「堀江家所蔵文書」の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促しています。晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたようです。信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していました。(同上)

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    『武田神社』の巨大な石標の光景です。晴信により追放された信虎は、今川義元の元に寓居することになりました。正室・大井夫人は甲斐国に残留していますが、信虎側室は駿河国へ赴いていて、同地で子をもうけています。
    信虎追放については、同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られますが、「堀江家所蔵文書」の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促しています。晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたようです。信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していました。(同上)

  • 信虎追放事件の背景には諸説があります。信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男の信繁を偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などです。いずれにしても、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが、原因だったようです。(同上)<br />*写真は、武田氏館を取り巻く水堀と、その堀に架かる赤い橋の光景です。

    信虎追放事件の背景には諸説があります。信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男の信繁を偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などです。いずれにしても、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが、原因だったようです。(同上)
    *写真は、武田氏館を取り巻く水堀と、その堀に架かる赤い橋の光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その1)』:武田信玄(たけだ・しんげん) / 武田晴信(たけだ・はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名で戦国大名です。甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏の第19代当主で、諱は晴信、通称は太郎(たろう)です。正式な姓名は、『源・晴信(みなもとのはるのぶ)』です。「信玄」は、出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄とされます。

    〇『武田晴信(信玄)その1)』:武田信玄(たけだ・しんげん) / 武田晴信(たけだ・はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名で戦国大名です。甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏の第19代当主で、諱は晴信、通称は太郎(たろう)です。正式な姓名は、『源・晴信(みなもとのはるのぶ)』です。「信玄」は、出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄とされます。

  • 〇『武田晴信(信玄)その2)』:甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男です。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しました。戦国時代を代表する屈指の武将です。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その2)』:甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男です。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しました。戦国時代を代表する屈指の武将です。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その3)』:信玄は、信濃をほぼ領国にしました。甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築きました。西上作戦の途上に三河で病を発し、病没しましたが、国を守るために3年は自分の死を伏せるよう遺言しました。(同上)<br /><br />

    〇『武田晴信(信玄)その3)』:信玄は、信濃をほぼ領国にしました。甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築きました。西上作戦の途上に三河で病を発し、病没しましたが、国を守るために3年は自分の死を伏せるよう遺言しました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その4)』:話は遡って、元服の紹介です。天文5年(1536年)3月、太郎(幼名)は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を晴信と改めました。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官されます。元服後に、継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えています。(同上)<br />*写真は、『武田神社全図』のタイトルの絵図です。

    〇『武田晴信(信玄)その4)』:話は遡って、元服の紹介です。天文5年(1536年)3月、太郎(幼名)は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を晴信と改めました。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官されます。元服後に、継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えています。(同上)
    *写真は、『武田神社全図』のタイトルの絵図です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その5)』:この年(天文5年)には、駿河で今川氏輝(1513~1536年)が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しています。この婚姻は、京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされています。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事もあり、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があったようです。(同上)<br />*写真は、『武田氏館』の説明パネルと、その左は『左近の桜』です。

    〇『武田晴信(信玄)その5)』:この年(天文5年)には、駿河で今川氏輝(1513~1536年)が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しています。この婚姻は、京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされています。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事もあり、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があったようです。(同上)
    *写真は、『武田氏館』の説明パネルと、その左は『左近の桜』です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その6)』:父の信虎は、諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めていますが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は、天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めとしています。(同上)<br />*写真は、『右近の橘(たちばな)』です。日本固有の柑橘です。

    〇『武田晴信(信玄)その6)』:父の信虎は、諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めていますが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は、天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めとしています。(同上)
    *写真は、『右近の橘(たちばな)』です。日本固有の柑橘です。

  • 『史跡・武田氏館跡』の文字が刻まれた石標の光景です。甲府市のサイトでは『国史跡である武田氏館跡は、永正16年(1519)に武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅が崎館」(つつじがさきのやかた)の呼び名で親しまれています。大正8年(1919)に武田神社が創建された場所は、信虎、信玄、勝頼の武田氏三代が居住し、政務を執り行った館の中心でした』、と紹介されていました。(同上)

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    『史跡・武田氏館跡』の文字が刻まれた石標の光景です。甲府市のサイトでは『国史跡である武田氏館跡は、永正16年(1519)に武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅が崎館」(つつじがさきのやかた)の呼び名で親しまれています。大正8年(1919)に武田神社が創建された場所は、信虎、信玄、勝頼の武田氏三代が居住し、政務を執り行った館の中心でした』、と紹介されていました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その7)』:晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しました。『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続しました。繰り返しますが、『信虎追放事件』です。この直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られました。(同上)

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    〇『武田晴信(信玄)その7)』:晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しました。『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続しました。繰り返しますが、『信虎追放事件』です。この直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その8)』:信虎期の武田氏は、敵対している勢力は相模後北条氏のみでした。駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていました。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行いました。(同上)<br />*写真は、鳥居の前の狛犬のズームアップ光景です。筋肉系です。

    〇『武田晴信(信玄)その8)』:信虎期の武田氏は、敵対している勢力は相模後北条氏のみでした。駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていました。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行いました。(同上)
    *写真は、鳥居の前の狛犬のズームアップ光景です。筋肉系です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その9)』:天文11年(1542年)6月、晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪領を制圧しました。天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦い(宮川の戦い)、武田方はこれを撃破して諏訪を掌握しました。(同上)<br />*写真は、『武田神社』の扁額が懸かった石の鳥居の光景です。

    〇『武田晴信(信玄)その9)』:天文11年(1542年)6月、晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪領を制圧しました。天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦い(宮川の戦い)、武田方はこれを撃破して諏訪を掌握しました。(同上)
    *写真は、『武田神社』の扁額が懸かった石の鳥居の光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その10)』:天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻め落しました。天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放しました(高遠合戦)。天文13年(1544年)、父・信虎時代には対立していた後北条氏と和睦しました。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その10)』:天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻め落しました。天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放しました(高遠合戦)。天文13年(1544年)、父・信虎時代には対立していた後北条氏と和睦しました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その11)』:その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作りました。それにより、西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていきました。(同上)<br />*写真は、武田神社の境内光景が続きます。

    〇『武田晴信(信玄)その11)』:その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作りました。それにより、西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていきました。(同上)
    *写真は、武田神社の境内光景が続きます。

  • 〇『武田晴信(信玄)その12)』:今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対します。天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝しました。(同上)<br />*写真は、武田神社の手水舎の光景です。

    〇『武田晴信(信玄)その12)』:今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対します。天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝しました。(同上)
    *写真は、武田神社の手水舎の光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その13)』:天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突しました(上田原の戦い)。上田原の戦いでは武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い、甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたとされます。信玄にも負け戦はあります。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その13)』:天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突しました(上田原の戦い)。上田原の戦いでは武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い、甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたとされます。信玄にも負け戦はあります。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その14)』:天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻(林城の戦い)し、松本盆地は武田の支配下に入りました。天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻めます。しかし、この戦いで武田軍は後世に「砥石崩れ」と伝えられる敗戦を喫しました。天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となりました。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その14)』:天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻(林城の戦い)し、松本盆地は武田の支配下に入りました。天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻めます。しかし、この戦いで武田軍は後世に「砥石崩れ」と伝えられる敗戦を喫しました。天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となりました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その15)』:天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略しました。天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れました(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定しました。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その15)』:天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略しました。天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れました(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定しました。(同上)

  • 『つなぐ歴史、かがやく絆・こうふ開府500年』のタイトルがあった紹介パネルの光景です。紋所が24記されていましたので、『武田二十四将』を表しているようです。『武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)』は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称です。中央の武田菱が、武田信玄を現わしているようです。(同上)

    『つなぐ歴史、かがやく絆・こうふ開府500年』のタイトルがあった紹介パネルの光景です。紋所が24記されていましたので、『武田二十四将』を表しているようです。『武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)』は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称です。中央の武田菱が、武田信玄を現わしているようです。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その16)』:『川中島の戦い』の紹介です。天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた『長尾景虎(上杉謙信:1530~1578年)』は、本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となりました。『第1次川中島の戦い』の始まりです。(同上)<br />*写真は、武田神社の二つ目の石の鳥居の光景です。

    〇『武田晴信(信玄)その16)』:『川中島の戦い』の紹介です。天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた『長尾景虎(上杉謙信:1530~1578年)』は、本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となりました。『第1次川中島の戦い』の始まりです。(同上)
    *写真は、武田神社の二つ目の石の鳥居の光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その17)』:武田軍は村上義清の葛尾城を落としますが、この後、武田軍は5月に八幡で村上義清に敗れ葛尾城を奪還されます。9月、武田軍は塩田城を落とします。武田軍の先鋒は布施の戦いで撃破され、上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めましたが信玄は決戦を避けました。その後に両軍は積極的に動かすことなく、撤退しました。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その17)』:武田軍は村上義清の葛尾城を落としますが、この後、武田軍は5月に八幡で村上義清に敗れ葛尾城を奪還されます。9月、武田軍は塩田城を落とします。武田軍の先鋒は布施の戦いで撃破され、上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めましたが信玄は決戦を避けました。その後に両軍は積極的に動かすことなく、撤退しました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その18))』:武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めていて、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化しました。また、娘を北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁がせ、甲相同盟を結びました。(同上)<br /><br />これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。

    〇『武田晴信(信玄)その18))』:武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めていて、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化しました。また、娘を北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁がせ、甲相同盟を結びました。(同上)

    これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。

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2017秋、甲府の百名城巡り

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