甲府旅行記(ブログ) 一覧に戻る
甲府城の紹介が続きます。発掘調査によれば、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、豊臣家の家紋瓦が出土しています。豊臣時代の加藤光泰と、次代の浅野長政・幸長時代に築城は継続されたようです。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

2017初秋、甲府城と武田氏館(3/9):甲府城(3):本丸、天守台、暗渠、石積、天守台の眺望

13いいね!

2017/09/09 - 2017/09/09

448位(同エリア1175件中)

旅行記グループ 2017秋、甲府の百名城巡り

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

甲府城の紹介が続きます。発掘調査によれば、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、豊臣家の家紋瓦が出土しています。豊臣時代の加藤光泰と、次代の浅野長政・幸長時代に築城は継続されたようです。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)

交通手段
JR特急

PR

  • 江戸時代以降の甲府城の歴史の紹介です。江戸時代に、甲府藩が設置されました。宝永元年(1704年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人だった『柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす:1659~1714年)』は甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられました。(同上)<br />*写真は、まだ新しい城内の観光案内標識です。

    江戸時代以降の甲府城の歴史の紹介です。江戸時代に、甲府藩が設置されました。宝永元年(1704年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人だった『柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす:1659~1714年)』は甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられました。(同上)
    *写真は、まだ新しい城内の観光案内標識です。

  • 柳沢吉保は、翌宝永2年(1705年)4月には駿河国の知行地が替えられ、甲斐国国中三郡を支配しました。江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名でした。第5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導しました。王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもあり、江戸に六義園を造営しました。(同上)<br />*写真は、城内の高石垣の光景です。天守閣があったかどうかは不明です。

    イチオシ

    柳沢吉保は、翌宝永2年(1705年)4月には駿河国の知行地が替えられ、甲斐国国中三郡を支配しました。江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名でした。第5代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導しました。王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもあり、江戸に六義園を造営しました。(同上)
    *写真は、城内の高石垣の光景です。天守閣があったかどうかは不明です。

  • 柳沢氏は、清和源氏の流れを引く河内源氏の支流で、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属しました。武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、吉保の祖父にあたる『柳沢信俊(のぶとし:1548~1614年)』が家康に仕官しました。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られます。(同上)

    柳沢氏は、清和源氏の流れを引く河内源氏の支流で、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属しました。武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、吉保の祖父にあたる『柳沢信俊(のぶとし:1548~1614年)』が家康に仕官しました。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られます。(同上)

  • 信俊は、天文17年(1548年)、武川衆・青木信立の三男として誕生、初め青木源七郎長俊と名乗りました。武川衆は、甲斐源氏・武田氏の一族である一条時信を祖とする辺境武士集団であり、武田家家臣団に組み込まれていました。青木氏は当時、武川衆の頭領の立場にありました。(同上)<br />*写真は、打ち込み接ぎの高石垣のズームアップ光景です。

    信俊は、天文17年(1548年)、武川衆・青木信立の三男として誕生、初め青木源七郎長俊と名乗りました。武川衆は、甲斐源氏・武田氏の一族である一条時信を祖とする辺境武士集団であり、武田家家臣団に組み込まれていました。青木氏は当時、武川衆の頭領の立場にありました。(同上)
    *写真は、打ち込み接ぎの高石垣のズームアップ光景です。

  • 『暗渠(あんきょ)』のタイトルがあった説明パネルです。その説明文の紹介です。『雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣は不安定になるので、効果的に排水する必要があります。暗渠はそのための施設です』、と写真入りで紹介されていました。『暗渠』の呼び名は、オープンタイプの『開渠』に対し、地下式のものとして広く使われています。(同上)

    『暗渠(あんきょ)』のタイトルがあった説明パネルです。その説明文の紹介です。『雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣は不安定になるので、効果的に排水する必要があります。暗渠はそのための施設です』、と写真入りで紹介されていました。『暗渠』の呼び名は、オープンタイプの『開渠』に対し、地下式のものとして広く使われています。(同上)

  • 『暗渠』が施された、長石垣の光景です。本丸内の石垣になるようでした。石垣の表面が平らに加工してありますから、野面積みではないようです。沢柳信俊の紹介に戻ります。元亀元年(1570年)1月、名門横手氏を継いでいた実兄・横手信国が駿河国花沢城攻めで討死すると、長俊は武田晴信(信玄)の命令で、後嗣がいなかった横手家の名跡を継ぎ、併せて、晴信より偏諱を受けて『信俊』と改めました。(同上)

    『暗渠』が施された、長石垣の光景です。本丸内の石垣になるようでした。石垣の表面が平らに加工してありますから、野面積みではないようです。沢柳信俊の紹介に戻ります。元亀元年(1570年)1月、名門横手氏を継いでいた実兄・横手信国が駿河国花沢城攻めで討死すると、長俊は武田晴信(信玄)の命令で、後嗣がいなかった横手家の名跡を継ぎ、併せて、晴信より偏諱を受けて『信俊』と改めました。(同上)

  • 長俊は、元亀3年(1572年)、『三方ヶ原の戦い』に参戦し、山県昌景の下で戦功を挙げました。この戦いは、武田信玄と徳川家康・織田信長の連合軍との戦いでした。長俊は、その生涯で、武田晴信(信玄)に始まり、武田勝頼、最後は徳川家康に仕え、名前も青木長俊、横手信俊、柳沢信俊と変わりました。別名は源七郎、通称は、兵部丞でした。その孫が、徳川幕府の要職を務めた柳沢吉保です。(同上)

    長俊は、元亀3年(1572年)、『三方ヶ原の戦い』に参戦し、山県昌景の下で戦功を挙げました。この戦いは、武田信玄と徳川家康・織田信長の連合軍との戦いでした。長俊は、その生涯で、武田晴信(信玄)に始まり、武田勝頼、最後は徳川家康に仕え、名前も青木長俊、横手信俊、柳沢信俊と変わりました。別名は源七郎、通称は、兵部丞でした。その孫が、徳川幕府の要職を務めた柳沢吉保です。(同上)

  • 長俊は、天正3年(1575年)5月に起きた『長篠の戦い』に従軍しています。敗戦に終わるものの、武田勝頼の下で本陣を守り、何度も敵兵を押し返す働きをしました。この戦いは、信玄の子の武田勝頼と、徳川家康・織田信長の連合軍との間で行われました。天正8年(1580年)10月、上野国膳城素肌攻めの際に、武川衆の柳沢信兼が軍令違反のため勝頼より切腹を命じられました。(同上)

    長俊は、天正3年(1575年)5月に起きた『長篠の戦い』に従軍しています。敗戦に終わるものの、武田勝頼の下で本陣を守り、何度も敵兵を押し返す働きをしました。この戦いは、信玄の子の武田勝頼と、徳川家康・織田信長の連合軍との間で行われました。天正8年(1580年)10月、上野国膳城素肌攻めの際に、武川衆の柳沢信兼が軍令違反のため勝頼より切腹を命じられました。(同上)

  • 柳沢信兼の死後、勝頼は切腹を命じたことが行き過ぎだったと後悔し、柳沢家が途絶えることを惜しんで、この戦いで功績のあった信俊に恩賞として柳沢家の名跡が与えられたとも言われます。天正10年(1582年)2月から3月にかけて、織田信長は甲州征伐を行い,武田氏を滅ぼしました。その最後の戦いが、『天目山の戦い』でした。天目山は、現在の甲州市大和町の木賊野山になります。(同上)

    柳沢信兼の死後、勝頼は切腹を命じたことが行き過ぎだったと後悔し、柳沢家が途絶えることを惜しんで、この戦いで功績のあった信俊に恩賞として柳沢家の名跡が与えられたとも言われます。天正10年(1582年)2月から3月にかけて、織田信長は甲州征伐を行い,武田氏を滅ぼしました。その最後の戦いが、『天目山の戦い』でした。天目山は、現在の甲州市大和町の木賊野山になります。(同上)

  • 甲斐武田家が滅亡した後は、他の武川衆一同と共に徳川家康に仕えました。同じ頃、し北条氏直が武川衆を味方にするため使者を送りましたが、信俊は米倉忠継、折井次昌らと共に使者を討ち取って家康に献上するなどし、また、北条側の小屋(砦)を攻め破っています。<br />*写真は、『天守台』のタイトルがあった説明パネルです。

    甲斐武田家が滅亡した後は、他の武川衆一同と共に徳川家康に仕えました。同じ頃、し北条氏直が武川衆を味方にするため使者を送りましたが、信俊は米倉忠継、折井次昌らと共に使者を討ち取って家康に献上するなどし、また、北条側の小屋(砦)を攻め破っています。
    *写真は、『天守台』のタイトルがあった説明パネルです。

  • ここで、江戸時代以降の甲府城の歴史について、箇条書きで紹介しておきます。<br />〇1603年(慶長8年):徳川義直(家康の九男)が城主となる。<br />〇1607年(慶長12年):義直が清洲へ転封。甲府城番が布かれる。<br />〇1616年(元和2年):徳川忠長(秀忠の三男、駿府城主)の支城となる。<br />〇1632年(寛永9年):忠長死去。城番制が布かれる。(同上)

    ここで、江戸時代以降の甲府城の歴史について、箇条書きで紹介しておきます。
    〇1603年(慶長8年):徳川義直(家康の九男)が城主となる。
    〇1607年(慶長12年):義直が清洲へ転封。甲府城番が布かれる。
    〇1616年(元和2年):徳川忠長(秀忠の三男、駿府城主)の支城となる。
    〇1632年(寛永9年):忠長死去。城番制が布かれる。(同上)

  • 〇1661年(寛文元年):徳川綱重(家光の三男)が城主となる。<br />〇1678年(延宝6年):徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる。<br />〇1704年(宝永元年):綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名する。<br />〇1705年(宝永2年):柳沢吉保が城主となる。初めて親藩以外の領地となる。<br />〇1724年(享保9年):柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山へ転封される。(同上)

    〇1661年(寛文元年):徳川綱重(家光の三男)が城主となる。
    〇1678年(延宝6年):徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる。
    〇1704年(宝永元年):綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名する。
    〇1705年(宝永2年):柳沢吉保が城主となる。初めて親藩以外の領地となる。
    〇1724年(享保9年):柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山へ転封される。(同上)

  • 〇1724年(享保9年):甲斐一国が幕府領となる。甲府勤番が設置される。<br />〇1727年(享保12年):甲府城大火が発生する。<br />〇1734年(享保19年):城内に盗賊が侵入し1400両の公金が盗難される。<br />〇1742年(寛保2年):高畑村の百姓次郎兵衛が捕縛され、甲府城御金蔵事件解決。<br />〇1866年(慶応2年):勤番制を廃止し、城代を設置。(同上)

    〇1724年(享保9年):甲斐一国が幕府領となる。甲府勤番が設置される。
    〇1727年(享保12年):甲府城大火が発生する。
    〇1734年(享保19年):城内に盗賊が侵入し1400両の公金が盗難される。
    〇1742年(寛保2年):高畑村の百姓次郎兵衛が捕縛され、甲府城御金蔵事件解決。
    〇1866年(慶応2年):勤番制を廃止し、城代を設置。(同上)

  • 〇1866年(慶応2年):松平輝照が城代になる。(上野高崎藩)<br />〇1867年(慶応3年):大久保忠礼が城代になる。(相模小田原藩)<br />〇1868年(慶応4年):真田幸民が城代になる。(信濃松代藩、新政府に恭順)<br />〇1868年(慶応4年):堀田正倫が城代に赴任せず。(下総佐倉藩、新政府に恭順)<br />〇1868年(明治元年):明治維新。板垣退助らが無血入城する。(同上)

    〇1866年(慶応2年):松平輝照が城代になる。(上野高崎藩)
    〇1867年(慶応3年):大久保忠礼が城代になる。(相模小田原藩)
    〇1868年(慶応4年):真田幸民が城代になる。(信濃松代藩、新政府に恭順)
    〇1868年(慶応4年):堀田正倫が城代に赴任せず。(下総佐倉藩、新政府に恭順)
    〇1868年(明治元年):明治維新。板垣退助らが無血入城する。(同上)

  • 〇明治初期:県令・藤村紫朗のもと甲府城郭内の建物の多くが撤去される。<br />〇1873年(明治6年):廃城となる。<br />〇1880年(明治13年):明治天皇の山梨県巡幸、天守台を臨幸される。<br />〇1938年(昭和13年):天守台跡に「明治天皇御登臨之址」が建設される。(同上)

    〇明治初期:県令・藤村紫朗のもと甲府城郭内の建物の多くが撤去される。
    〇1873年(明治6年):廃城となる。
    〇1880年(明治13年):明治天皇の山梨県巡幸、天守台を臨幸される。
    〇1938年(昭和13年):天守台跡に「明治天皇御登臨之址」が建設される。(同上)

  • 次は、『甲府城』の構造と建築物等についての紹介です。最初に構造について、箇条書での紹介です。<br />〇内堀・二ノ堀・三の堀で各領域が囲まれています。<br />〇内城部分、内郭部分、町人地が堀で囲郭されています。<br />〇内城部分には天守台、本丸、諸曲輪があります。(同上)

    次は、『甲府城』の構造と建築物等についての紹介です。最初に構造について、箇条書での紹介です。
    〇内堀・二ノ堀・三の堀で各領域が囲まれています。
    〇内城部分、内郭部分、町人地が堀で囲郭されています。
    〇内城部分には天守台、本丸、諸曲輪があります。(同上)

  • 〇内堀部分は、北側に山手門、南側には追手門、西側には柳門が出入口です。<br />〇二の堀は、役宅や勤番士の屋敷、米蔵等の武家地の内郭部分を囲みます。<br />〇三ノ堀は町人地で、甲府城下町を形成します。<br />〇稲荷曲輪の西側には硝石・火薬を貯蔵する焔硝蔵がありました。明治時代に撮影された甲府城の古写真にも焔硝蔵の建物が写っています。(同上)<br />

    イチオシ

    〇内堀部分は、北側に山手門、南側には追手門、西側には柳門が出入口です。
    〇二の堀は、役宅や勤番士の屋敷、米蔵等の武家地の内郭部分を囲みます。
    〇三ノ堀は町人地で、甲府城下町を形成します。
    〇稲荷曲輪の西側には硝石・火薬を貯蔵する焔硝蔵がありました。明治時代に撮影された甲府城の古写真にも焔硝蔵の建物が写っています。(同上)

  • 甲府城の建築物についての紹介です。<br />〇大手門(追手門):甲府城南側に位置し、古写真が発見されました。<br />〇山手門:甲府城北側に位置し、右折れの枡形で、番所がありました。(復元)<br />〇柳門:甲府城西側に位置し、喰い違い形式で内部に番所がありました。<br />〇本丸櫓:本丸天守台付近にあった4×5間の二重櫓。古写真有。(同上)

    甲府城の建築物についての紹介です。
    〇大手門(追手門):甲府城南側に位置し、古写真が発見されました。
    〇山手門:甲府城北側に位置し、右折れの枡形で、番所がありました。(復元)
    〇柳門:甲府城西側に位置し、喰い違い形式で内部に番所がありました。
    〇本丸櫓:本丸天守台付近にあった4×5間の二重櫓。古写真有。(同上)

  • 〇月見櫓:二の丸南西部にあった三重櫓。西面二階に千鳥破風。<br />〇数寄屋櫓:数寄屋曲輪南東にあった三重櫓、のち二重櫓に改変。古写真有。<br />〇稲荷櫓:稲荷曲輪北東にあった二重櫓で、再建されました。古写真有。<br />〇清水櫓:清水曲輪北西にあった二重櫓で、二階に千鳥破風。別名戌亥櫓。<br />〇太鼓櫓:柳門内にありました、井楼だったようです。(同上)

    イチオシ

    〇月見櫓:二の丸南西部にあった三重櫓。西面二階に千鳥破風。
    〇数寄屋櫓:数寄屋曲輪南東にあった三重櫓、のち二重櫓に改変。古写真有。
    〇稲荷櫓:稲荷曲輪北東にあった二重櫓で、再建されました。古写真有。
    〇清水櫓:清水曲輪北西にあった二重櫓で、二階に千鳥破風。別名戌亥櫓。
    〇太鼓櫓:柳門内にありました、井楼だったようです。(同上)

  • 〇八方正面櫓:旧記に台所曲輪南東にあったとされますが、詳細は不明。<br />〇銅門:本丸大手門にあたります。創建当初は櫓門だったようです。(復元計画有)<br />〇鉄門:本丸搦手門にあたります。櫓門が復元されました。<br />〇松陰門:内門、外門からなる薬医門です。復元されました。<br />〇天守穴蔵門:天守穴蔵入り口の薬医門です。(同上)

    〇八方正面櫓:旧記に台所曲輪南東にあったとされますが、詳細は不明。
    〇銅門:本丸大手門にあたります。創建当初は櫓門だったようです。(復元計画有)
    〇鉄門:本丸搦手門にあたります。櫓門が復元されました。
    〇松陰門:内門、外門からなる薬医門です。復元されました。
    〇天守穴蔵門:天守穴蔵入り口の薬医門です。(同上)

  • 〇山之井門:松陰門の奥、二の丸入り口にあった薬医門です。<br />〇中仕切門:柳門奥にあった薬医門です。<br />〇屋形門:屋形曲輪入口にありました。櫓門の可能性がある門です。<br />〇屋形裏門:屋形曲輪西にあった薬医門です。<br />〇楽屋曲輪門:楽屋曲輪書院の表門になる長屋門です。(同上)

    〇山之井門:松陰門の奥、二の丸入り口にあった薬医門です。
    〇中仕切門:柳門奥にあった薬医門です。
    〇屋形門:屋形曲輪入口にありました。櫓門の可能性がある門です。
    〇屋形裏門:屋形曲輪西にあった薬医門です。
    〇楽屋曲輪門:楽屋曲輪書院の表門になる長屋門です。(同上)

  • 〇楽屋曲輪裏門:楽屋曲輪書院の裏門になる薬医門です。         <br />〇坂下門:台所曲輪入口にあった薬医門です。<br />〇台所門:坂下門奥にあった薬医門です。<br />〇梅林門:稲荷曲輪西にあった薬医門です。<br />〇竹林門:山手門南にあった薬医門です。(同上)

    〇楽屋曲輪裏門:楽屋曲輪書院の裏門になる薬医門です。         
    〇坂下門:台所曲輪入口にあった薬医門です。
    〇台所門:坂下門奥にあった薬医門です。
    〇梅林門:稲荷曲輪西にあった薬医門です。
    〇竹林門:山手門南にあった薬医門です。(同上)

  • 〇稲荷門:稲荷曲輪南西部にあった薬医門です。復元されました。<br />〇数寄屋門(表門):表門は数寄屋曲輪南にありました。<br />〇数寄屋門(裏門):裏門は数寄屋曲輪西にありました。<br />〇鍛冶門:鍛冶曲輪入口の薬医門です。別名は四ツ足門、復元されました。<br />〇毘沙門堂:柳沢氏時代に本丸にありました。唯一現存する建物です。(同上)

    〇稲荷門:稲荷曲輪南西部にあった薬医門です。復元されました。
    〇数寄屋門(表門):表門は数寄屋曲輪南にありました。
    〇数寄屋門(裏門):裏門は数寄屋曲輪西にありました。
    〇鍛冶門:鍛冶曲輪入口の薬医門です。別名は四ツ足門、復元されました。
    〇毘沙門堂:柳沢氏時代に本丸にありました。唯一現存する建物です。(同上)

  • 再掲を含めて、復元された建造物の一覧です。<br />〇稲荷櫓:2004年(平成16年)に復元、北東に位置し、艮櫓の別名。<br />〇鍛冶曲輪門:1996年(平成8年)に復元、鍛冶曲輪と楽屋曲輪を結ぶ門です。<br />〇内松陰門:1999年(平成11年)に復元、屋形曲輪と二ノ丸を結ぶ門です。<br />〇山手門:本丸北側に位置します。遺構は残っていません。(続く)(同上)

    再掲を含めて、復元された建造物の一覧です。
    〇稲荷櫓:2004年(平成16年)に復元、北東に位置し、艮櫓の別名。
    〇鍛冶曲輪門:1996年(平成8年)に復元、鍛冶曲輪と楽屋曲輪を結ぶ門です。
    〇内松陰門:1999年(平成11年)に復元、屋形曲輪と二ノ丸を結ぶ門です。
    〇山手門:本丸北側に位置します。遺構は残っていません。(続く)(同上)

  • 〇山手門(続き):現存する絵図や、明治時代の測量図、古写真などから、低い石垣の上に土塀を設けた追手枡形の塀を持つ、高麗門の形式をとっていたものと見られます。2007年(平成19年)に復元されました。<br />〇鉄門:鉄門(くろがねもん)は、本丸南側に位置します。左右に石垣を有した2階建ての櫓門です。創建当初は「南門」と呼称されました。(続く)(同上)

    〇山手門(続き):現存する絵図や、明治時代の測量図、古写真などから、低い石垣の上に土塀を設けた追手枡形の塀を持つ、高麗門の形式をとっていたものと見られます。2007年(平成19年)に復元されました。
    〇鉄門:鉄門(くろがねもん)は、本丸南側に位置します。左右に石垣を有した2階建ての櫓門です。創建当初は「南門」と呼称されました。(続く)(同上)

  • 〇鉄門(続き):宝永2年(1705年)の『楽只堂年録』に拠れば、柳沢氏時代に改称され「鉄門」と呼ばれるようになりました。両側の石垣の状態は良好と評価され、解体修理は行われず補修工事のみが行われました。復元工事・石垣の補修は基本的に伝統工法に基いて行われ、構造計算上必要とされた補強材は取り入れられました。建材は国産材を用いて復元が行われ、2013年(平成25年)に完成しました。(同上)

    〇鉄門(続き):宝永2年(1705年)の『楽只堂年録』に拠れば、柳沢氏時代に改称され「鉄門」と呼ばれるようになりました。両側の石垣の状態は良好と評価され、解体修理は行われず補修工事のみが行われました。復元工事・石垣の補修は基本的に伝統工法に基いて行われ、構造計算上必要とされた補強材は取り入れられました。建材は国産材を用いて復元が行われ、2013年(平成25年)に完成しました。(同上)

  • 〇『天守閣』の有無(その1):文献史料においては、宝永3年(1706年)に甲斐国を訪れた荻生徂徠が、『峡中紀行』において甲府城天守は存在しなかったとする証言を残しています。総合学術調査団などの見解では、天守の存在は否定的でしたが、考古学方面では、出土した金箔瓦や鯱瓦などにより、天守を持つ城郭を築造した豊臣系大名特有のものとし、天守が存在していた可能性を指摘しています。(同上)

    〇『天守閣』の有無(その1):文献史料においては、宝永3年(1706年)に甲斐国を訪れた荻生徂徠が、『峡中紀行』において甲府城天守は存在しなかったとする証言を残しています。総合学術調査団などの見解では、天守の存在は否定的でしたが、考古学方面では、出土した金箔瓦や鯱瓦などにより、天守を持つ城郭を築造した豊臣系大名特有のものとし、天守が存在していた可能性を指摘しています。(同上)

  • 〇『天守閣』の有無(その2):2008年に、文献史学・考古両面の調査委員会により発掘調査で鯱瓦などが出土したことや新出絵図類の検討から、新たな門の存在や松本城に匹敵する天守の可能性のある近世初期の高層建築遺構の存在が指摘されています。一方、調査委員会の報告書では、天守の存否に関しては文献・考古両面からも確定的な判断を下せる資料を見いだせないと、否定的見解です。(同上)

    〇『天守閣』の有無(その2):2008年に、文献史学・考古両面の調査委員会により発掘調査で鯱瓦などが出土したことや新出絵図類の検討から、新たな門の存在や松本城に匹敵する天守の可能性のある近世初期の高層建築遺構の存在が指摘されています。一方、調査委員会の報告書では、天守の存否に関しては文献・考古両面からも確定的な判断を下せる資料を見いだせないと、否定的見解です。(同上)

  • 〇『天守閣』の有無(その3):2015年より外部有識者からなる「甲府城跡総合調査検討委員会」が発足しました。2017年3月27日に山梨県教育委員会が2年間かけて調査した結果でも「天守閣の存在を示す直接的な資料は見当たらない」となりました。なお、山梨県庁舎防災新館の工事中に内堀の石垣が出土され、この石垣は同館地下1階で遺構を復元し展示されています。(同上)

    〇『天守閣』の有無(その3):2015年より外部有識者からなる「甲府城跡総合調査検討委員会」が発足しました。2017年3月27日に山梨県教育委員会が2年間かけて調査した結果でも「天守閣の存在を示す直接的な資料は見当たらない」となりました。なお、山梨県庁舎防災新館の工事中に内堀の石垣が出土され、この石垣は同館地下1階で遺構を復元し展示されています。(同上)

  • 『明治天皇御登臨之趾・山梨県』の文字が刻まれた石標の光景です。『明治天皇(1852年11月3日(嘉永5年9月22日)~1912年(明治45年/大正元年)7月30日』は、日本の第122代天皇(在位: 1867~1912年)です。諱(いみな)は『睦仁(むつひと)』、御称号は『祐宮(さちのみや)』です。倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれました。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇です。(同上)

    『明治天皇御登臨之趾・山梨県』の文字が刻まれた石標の光景です。『明治天皇(1852年11月3日(嘉永5年9月22日)~1912年(明治45年/大正元年)7月30日』は、日本の第122代天皇(在位: 1867~1912年)です。諱(いみな)は『睦仁(むつひと)』、御称号は『祐宮(さちのみや)』です。倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれました。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇です。(同上)

この旅行記のタグ

関連タグ

13いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

2017秋、甲府の百名城巡り

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP