2017/09/09 - 2017/09/09
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甲府城紹介の続きです。甲斐国では、戦国期から甲府が政治的中心地となり、『躑躅ヶ崎館(武田氏居館)』を中心とする武田城下町が造成されましたが、武田氏滅亡後は、甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲府城を築城して、新たに城下町が整備されました。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)
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甲府城の古絵図に、現在の施設を重ね合わせた説明図の紹介です。中心部付近に、甲府城の本丸が記されているようです。左上には、現在の甲府駅(JR中央本線、身延線)が記されています。左下方面には、現在の山梨県庁が記されていました。甲府城は、 『舞鶴城』の雅号を持ち、国の史跡に指定されています。なお、甲府駅の場所は、府城清水曲輪跡に当たります。(同上)
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甲府城址の石垣光景です。甲府城の石垣遺構は、技術的な中断の形跡が無く、同一の技術水準によるものであると指摘され、豊臣大名時代の築造と考えられています。少し時代を遡りますと、戦国時代には守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、『躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)』を中心とする武田城下町が整備されました。甲府城がある一条小山は、武田城下町の南端に位置します。(同上)
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武田氏は、信虎・晴信(信玄)期に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、甲府・躑躅ヶ崎館は勝頼期に至るまで領国経営の中心でした。勝頼期には盆地西部の穴山郷に『新府城(韮崎市中田町中條)』が築城され、府中の移転が試みられましたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻による武田氏の滅亡で、途上に終わりました。(同上)
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武田氏滅亡後の『甲斐仕置』において、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の『河尻秀隆(1527~1582年)』が領し、秀隆は『岩窪館(甲府市岩窪町)』を本拠としました。天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起き、秀隆は一揆勢に殺害されました。黒母衣衆筆頭で、美濃岩村城主を務め、甲斐国主にまで昇りました。無主状態となった甲斐・武田遺領を巡り、『天正壬午の乱』が発生しました。(同上)
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天正11年築城説の根拠となる年未詳正月27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の平岩に対して一条小山における築城の準備を命じていて、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣を行っています。石垣積は『穴太積(あのうづみ)』とも呼ばれる西国系の技術です。織田信長が天正4年(1576年)の安土城築城で本格的に使用し、豊臣秀吉に引き継がれたと言われます。(同上)
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『穴太積(あのうづみ)』の石垣の光景です。『穴太積(あのうづみ)』は、『野面積(のづらつみ)』を指して 昭和初期以降に用いられるようになった俗称とされます。『穴太衆(あのうしゅう)』が手がけた野面積の石垣のことを言います。穴太衆は、 近江の比叡山山麓にある『穴太(あのう)』、あるいは『穴太ノ里(あのうのさと)』とも呼ばれる、現在の滋賀県大津市坂本穴太出身の技術者集団です。(同上)
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同じく、『穴太積(あのうづみ)』の石垣のズームアップ光景です。穴太衆は、延暦寺 と日吉大社の門前町の出身で、 古墳築造などを行っていた石工の末裔であるとも言われています。穴太衆は、寺院の石工を任されていましたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになりました。(同上)
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それ以降、江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が、穴太衆の指揮のもとで作られました。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになりました。現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ『里坊(さとぼう)』と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みの特徴となっています。(同上)
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穴太衆の石積技法は、現代の建築技術にも伝承されています。その伝承例です。『穴太衆積は自然の石を自然の形に積み重ねていくところに特徴があり、石の心がわかり石の声が聞こえてはじめて一人前といわれます。弊社ではこの伝承された「技」という財産を何よりも大切にすると同時に、更に一歩進めて現代建築の中にも、その「技」を生かせるよう努力研鑽を重ねています。株式会社粟田建設』(同上)
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栗田家は、江戸時代初期の阿波屋喜兵衛が祖で、さきほど紹介したように、会社組織として存続しています。1964年(昭和39年)に十三代目が粟田建設を商号とし、1972年(昭和47年)に有限会社化と十四代目継承、2005年(平成17年)に株式会社化しました。2017年(平成29年)時点では、粟田純徳(すみのり)社長が「第十五代目穴太衆頭」として活動を行っています。(同上)
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粟田家は、坂本を門前町とする比叡山延暦寺の石積みの仕事を代々請け負ってきたほか、第二次世界大戦後は兵庫県の竹田城や篠山城、滋賀県の安土城や彦根城、さらに高知城、洲本城などの石垣修復を手掛けています。2010年にアメリカで実施したワークショップで野面積の頑丈さと芸術性が評価され、ダラスのロレックス支社などでも施工するようになりました。TV番組も目にしたことがあります。(同上)
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栗田家15代の純徳の話しの紹介です。『今は、石垣を家の前に積もうという方はなかなかいないですし、そもそも新築の日本家屋自体が減ってきているので難しいです。お城や寺院の修復については、無くなりはしないでしょうが、一度修復すると長持ちしてしまうので、需要自体が増えてきません』、国内の需要拡大を待っていては埒が明かないと、粟田建設では海外での施工に活路を見出そうとしています。(同上)
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これまでに何度か紹介しましたが、石積みの基本形の四種類についての紹介です。
〇『野面積み(のづらつみ)』:自然石を加工せず、しかも大小取り混ぜたまま積み上げるもので、戦国時代の城壁は、ほとんどこの様式です。穴太衆が得意とし、見た目には乱雑な石積みですが、地震などには最も強く、雨にも強い、簡単には崩れない評価があります。(同上) -
〇『割り石積み:別名は打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』:石垣の表に出る面や角を割って平たくした石を使ったものをいいます。残った隙間には、「詰め石」と呼ばれる小さな石を打ち込んで埋めています。野面積みに比べ、高く、しかも急こう配に積むことができます。1600年(慶長5年)の「関が原の戦い」以降に、急速に普及しました。(同上)
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〇『切り石積み:別名は切込み接ぎ(きりこみはぎ)』:表に出る部分だけではなく、奥の面まで長方形や正方形、多角形などに削り、ほとんどブロックのようにしてから積んだものです。見た目には最も整然としていますが、排水口を設ける必要がありますし、地震にも弱いようです。大坂冬の陣・夏の陣以降に広まったところから、「実戦よりも見栄えを重視」の積み方と言えます。(同上)
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〇『算木積み(さんぎつみ)』:石垣の隅に限定して使われることの多かった積み方です。「算木」とは和算で使った計算用具で、短めの角材のような形をしています。この算木のような細長くて四角い石材を井げた状にし、角は揃えて積み上げていきます。切り石積みはもちろん、野面積みや割石積みでも併用されることが珍しくありません。(同上)
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〇『熊本地震で証明された野面積みの強度』:熊本城は戦国期から江戸時代にかけて整備されたため、4種類の石垣がすべてが見られます。昨年(2016年)の熊本地震では、熊本城の石垣全体の約3割が崩れました。築城当初の石垣に大きな崩落はなく、1889年(明治22年)に陸軍が主導し修復した部分が崩れ、大きな被害が出ました。『築城当時の石垣』とは、加藤清正時代の『野面積み』を指します。(同上)
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『稲荷櫓(いなりやぐら)』の光景です。甲府城(舞鶴城)の北辺の稲荷曲輪(いなりくるわ)の復元櫓です。『稲荷曲輪御櫓(いなりくるわおんやぐら)』が正式名称です。城内の鬼門の北東に位置することから『御艮櫓(おんうしとらやぐら)』とも呼ばれ、藩政時代には武具蔵として使われました。発掘調査で判明した遺構の場所に、絵図や史料をなどをもとに平成16年(004年)に復元されました。(同上)
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〇『一旦途絶えた渡来の石積み技法』:城の石垣の歴史は古く、7世紀後半に築城された大野城(福岡)、屋島城(香川)などでも見られます。これらの城の石垣や築城技術は朝鮮半島の影響が強く、「朝鮮式山城」と呼ばれます。しかし、この技術は一度は失われ、その後の防御壁は土塁が中心になりました。再び城に石垣が使われるのは戦国期からです。(同上)
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〇『大野城:古代の城1』:大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市にまたがる大城山に築かれた、日本屈指の古代山城です。城門は太宰府口城門など9か所が開き、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などがあります。天智天皇4年(665年)、白村江の戦いで大敗した大和朝廷が、大宰府防衛のために築きました。(同上)
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〇『基肄城:古代の城2』:基肄城(きいじょう/きいのき)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山に築かれた古代山城です。築城は、大野城と同じ天智天皇4年(665年)とされ、目的も同じく大宰府防衛です。大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されています。城郭の建設を担当したのは、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と、四比福夫(しひふくぶ)とされます。(同上)
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〇『鞠智城:古代の城3』:鞠智城(きくちじょう/くくちのき)は、熊本県山鹿市と菊池市にまたがる台地状の丘陵に築かれた日本の古代山城です。『続日本紀』に記載された文武天皇2年(698年)の城の修復記事が初見であり、築城年は不明です。しかし、発掘調査により、少なくとも7世紀後半~10世紀中頃まで約300年存続したことが判明し、大野城、鞠智城と同時期の建設と推定されています。(同上)
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〇『屋嶋城:古代の城4』:屋嶋城(やしまじょう/やしまのき)は、香川県高松市の屋島に築かれた日本の古代山城です。白村江の戦いで大敗した大和朝廷は、日本防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築きました。瀬戸内海の島に築かれた古代の屋嶋城は、667年(天智天皇6年)、高安城(奈良県と大阪府の境)・金田城(対馬)とともに築かれました。(同上)
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〇『金田城:古代の城5』:金田城(かねだじょう/かなたのき/かねたのき)は、対馬国下県郡の城山(じょうやま)にあった日本の古代山城です。飛鳥時代の天智天皇6年(667年)に築城された朝鮮式山城です。一連の古代山城のうちでは、朝鮮半島への最前線に位置します。城山の東斜面に、城壁とともに城門・水門・掘立柱建物跡の構築が認められ、城壁として約2.8キロメートルに及ぶ石塁が全周しています。(同上)
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〇『鬼ノ城:古代の城6』:鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた日本の古代山城(神籠石式山城)です。鬼ノ城は、史書に記載が無く、築城年は不明ですが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされます。標高397メートルの鬼城山の山頂部に位置し、山の7~9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロ巡り、城壁で囲まれた面積は、約30ヘクタールです。(同上)
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『二重の石垣』のタイトルがあった説明パネルです。説明文は、『石垣の解体調査をしたところ、その背後から石垣が現れ、積み直しをしていることが分かりました』、と解説されていました。全国のお城廻で何度か目にしましたが、石垣を撤去するより、『埋め殺し(残置)』の方が合理的・効率的な場合に用いられる工法のようでした。(同上)
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『二重の石垣』部分のズームアップ光景です。この部分を見学できるよう、敢えて手前の石垣部分を施工未了にしているように見受けました。推測になりますが、旧石垣と、手前の石垣は、同じような石材が使われているようにも見えました。石積みとしては、どちらも『打ち込み接ぎ』になるようです。(同上)
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同じく、『二重の石垣』部分の光景です。先に紹介した『穴太衆』の説明では省略しましたが、豪傑で知られる『後藤又兵衛(基次:もとつぐ)』も穴太衆との関係があるようです。又兵衛は腹違いの弟である彦八(後の初代後藤杢兵衛)に対し、自分の最期が近づいたのを悟り、これまで学んだ成果を『石垣根元抄』として、元和元年(1615年)4月に伝授しています。(同上)
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後藤又兵衛は、城造りの名人としても知られる肥後熊本藩・初代藩主の『加藤清正(1562~1612年)』から、しばしば伝授を受けてきました。夏の陣の前に又兵衛は腹違いの弟である『彦八(後の初代後藤杢兵衛)』に対し、『石垣根元抄』として、元和元年(1615年)4月に伝授しています。この資料は、後藤家の家宝として代々伝えられました。なお、又兵衛は大坂夏の陣で討ち死(1615年5月)しました。(同上)
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加賀藩では3代藩主前田利常公の頃より、後藤家の人々が金沢城の石垣の技術者として多くの古文書を残しています。初代の後藤杢兵衛は、寛永4年(1627年)の加賀藩の侍帳に70石として記載されています。加賀藩に仕えた石工技術者・穴太衆は、後藤家より古く前田利家公が越前府中(現在の越前市武生地区)で始めて大名になった時、穴太出身の穴太源介、小川長右衛門が召し抱えられています。(同上)
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