2017/09/09 - 2017/09/09
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旅人のくまさんさん
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甲府城の紹介が続きます。稲荷櫓は、明治初年まで残っていたことが古写真で分かっています。発掘調査でも2度に亘り建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための『輪宝(りんぽう:地鎮具)』が6点見つかりました。(ウィキペディア、甲府城関連公式サイト)
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写真はできませんでしたが、『天守台からは甲府盆地が360度見渡せ、富士山や南アルプスなども見ることができます。公園から見える富士山は「関東の富士見百景」にも認定されています。また、眺望だけではなく、石垣、稲荷櫓、山手御門等の多くの歴史的な資産も見どころです。(富士の国やまなし・舞鶴城公園)』(同上)
*写真は、甲府城址の南側に残るお堀の遺構です。 -
同じく、甲府城址の南側に残るお堀と石垣の遺構です。古い縄張り図を参照しますと、本丸を取り囲むお堀をはじめ、複数のお堀があったようですが、現在は、上司の南側に位置するこのお堀のほかにはお堀は目にしませんでした。石垣は築城当時の野面積みでしたから、お堀も同時期の施設のようです。公式サイトでの紹介は見当たりませんでした。(同上)
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『舞鶴城公園管理事務所』の看板があった建物光景です。正式名は『山梨県出先機関中北建設事務所・都市整備課・舞鶴城公園管理事務所』のようですから、山梨県の施設になるようです。本瓦葺きの建物です。甲府城には、日本百名城スタンプが複数箇所に設置してあり、その内の一つです。ほかは、稲荷櫓と恩賜林記念館に設置してあります。(同上)
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次に紹介するのは、『鍛冶曲輪跡』に整備された日本庭園です。この場所には、『舞鶴城公園』を象徴するらしい、『ツル(鶴)』のブロンズ像がありました。背景が、甲府城址の高石垣です。(同上)
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『鍛冶曲輪跡』に整備された日本庭園の紹介が続きます。右手に見える二本の松は、『アカマツ(赤松)』のようです。赤松は、マツ科マツ属の針葉樹で、『女松(メマツ)』の呼び名もあります。左端付近に見えるのは同じ科・属の『クロマツ(黒松)』のようです。こちらは、『オマツ(雄松)』とも呼ばれます。(同上)
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緑一色の日本庭園の光景ですが、秋に撮影された写真を拝見しますと、紅葉の光景もありました。落葉樹の高木は見当たりませんが、低く刈り込まれた、縁取りの庭木が紅葉するようでした。(同上)
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鍛冶曲輪跡にある日本庭園から眺めた、恩賜碑方面の光景です。甲府城址の高石垣とあいまって、素晴らしい借景となっていました。日本庭園の庭木は、落葉樹の姿はなく、松などの常緑樹が主体でした。(同上)
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おなじく、甲府城址の高石垣と鍛冶曲輪跡にある日本庭園の光景です。日本庭園は、池は設けられていない枯山水風の造りのようでした。青空と白い雲が、庭石が置かれた庭の引き立て役になっていました。(同上)
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『恩賜林記念館』の建物光景です。この恩賜林記念館は、舞鶴城公園の南西端、お堀の北側にある緑色の屋根、石を使った丸い柱の建物です。恩賜林保護団体が御下賜40周年記念事業として、昭和26年(1951年)に企画し、同28年(1953年)に完成しました。一見コンクリート建造物に見えますが、恩賜林内から産出した石材・木材を使用し、外壁は人造花崗ブロックからなる2階建の木造建築です。(同上)
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同じく、『恩賜林記念館』の建物光景です。規模は1階、2階合わせて810平方メートルあり、建物に要した工費総約1千万円の財源は、県や林業団体の助成金・寄付金と160余の恩賜林保護団体の拠出金によるものです。建設された当初、この中には県内に分布する動植物の標本を収集展示し、広く一般に公開されていましたが、現在は主に講演会、研修会などの会場に使われています。(同上)
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随分と頑丈に、そして丁寧に加工された案内標識の紹介です。頂部と標識の上部、それに角の部分には金属板が、補強と雨避けに使われていました。上の表示板が、奥方面が東西櫓出口と鍛冶曲輪門、手前方向が管理事務所と自由広場、そして下の表示が、右向きに本丸(天守台)と鉄門でした。(同上)
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紹介が前後しましたが、甲府城公園の歴史紹介です。『宝永元年(1704年)、時の城主徳川綱豊(のちの6代将軍徳川家宣)が5代将軍綱吉の養子になると、綱吉の側用人柳沢吉保が甲府城主となりました。武田氏にゆかりのある柳沢氏は、子の吉里にいたるまで約20年間甲斐国を治めました。この間、それまで城主が在域することのなかった甲府城でしたが、活性化したようです』(同上)
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イチオシ
『甲府城では、御殿の新築や石垣の改修、城下町の再整備が行われ、甲斐国は大いに発展しました。しかし、享保9年(1724年)、柳沢氏が大和郡山へ移封になると、甲府城は幕末に至るまで幕府直轄地として甲府勤番制度のもと管理されました。明治時代にはいると甲府城は廃城となり、明治10年前後には建物はすべて取り壊され、次第に市街化されていきました』(同上)
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イチオシ
『明治時代に入り廃城となった城跡では、内城全体が勧業試験場として利用されるようになりました。さらに大正15年(192年)には現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に新築され、西側部分は市街地へと変貌しました。また、中央線敷設にともなって屋形曲輪と清水曲輪も解体されていきました』(同上)
*写真は、城跡の南側に位置する内堀です。 -
『現在は城跡の一部が「舞鶴城公園」として市民の憩いの場となっています。平成25年(2013年)には本丸南側に2階建ての櫓門「鉄門(くろがねもん)」が復元されました。甲府城にまつわる文化や歴史について、観光ボランティアさんから詳しい説明を受けながら見学することもできます』(同上)
*左手に見える建物は、『恩賜林記念館』です。 -
『先に紹介した、遊亀橋側の入り口に置かれた鶴の像は、かつて謝恩碑東側にあった実際の噴水装置でした。第二次大戦によっていちどは取り壊されていましたが、戦後40年を経たのち、「鶴のいない舞鶴城ではおかしい」と考えた甲府市婦人連合会が『百円玉募金運動」を展開し、市民の協賛を得て現在の場所に再現されました』(同上)
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『このほかにも、調査発掘によって発見された「二重の石垣」や、ひとつの岩を割って石垣に使ったためにまったく同じ切り口を持つことになった「兄弟石」などの見どころがあります。あちこちに再発見の種があり、見慣れた風景もそのいきさつを知ることで、また違った見えかたを楽しめます。(甲府通信・舞鶴城公園)』
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前方に見えるのは、城内から眺めた、狭間が設けられた長塀と石垣の光景です。短い間隔で支柱が設けられた、外部からの攻撃に備えた造りに見えました。その下部は、野面積みの、かなり高い石垣でした。手前左に見える石垣も、年月を経たらしい野面積みでした。(同上)
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『鍛冶曲輪門』のタイトルの説明パネルの紹介です。山梨県埋蔵文化財センターの解説文からの紹介です。『鍛冶曲輪門(かじくるわもん)は、甲府城の楽屋曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門で本丸の南西側に位置します。現在は山梨県庁東門側から甲府城へ向かうところにあります。発掘調査の成果などを踏まえて、平成9年(1997年)に復元されました。(続く)』(同上)
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『(続き)鍛冶曲輪門は薬医門という形式で、前の親柱2本、後ろの控柱2本の上に本瓦葺きの切妻屋根が乗ります。屋根は前側に少しずれて乗るので、前の柱はやや太いものにします。門の横に潜り戸をつけています』、と解説されていました。写真は、立派な柱材が使われた、本瓦葺きの『鍛冶曲輪門』の正面光景です。風格を感じさせました。(同上)
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『鍛冶曲輪門』と、その周りの光景です。左手にみえる石垣は、『打ち込み接ぎ』ですが、随分と綺麗な外観でした。選び抜かれた石材を使って、近年に積み直された石垣のようでした。表面加工も丁寧にされていました、(同上)
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高石垣と、それに付属した石段の光景です。この写真では、材質などがはっきりしませんが、切石ではなく、コンクリートが使用されているようにも見えました。それに合わせて、金属製の手摺りが設けられているように見えました。(同上)
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『野面積み』の石垣のズームアップ光景です。甲府城が築城された、文禄・慶長年間(1590年代)の石垣のようです。その後、補修はされたかもしれませんが、穴太衆が得意とした野面積みのようです。一見、雑なようにも見えますが、石の特性を生かした、現代でも評価されている石積みです。(同上)
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『打ち込み接ぎ』の高石垣の光景です。ネット情報によれば、築城当時からの高石垣は、その高さは、17メートルと紹介されていました。その石垣かどうかは、不確かですが、優に10メートルは超える石垣に見えました。急傾斜の石垣の上には、長い白土塀が続いていました。(同上)
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既に紹介したかも知れませんが、甲府城址の入口付近にあった案内看板の光景です。『舞鶴城公園案内図』のタイトルがありました。JR線路の南側の城址部分です。案内図は、上側が北ではなく、南側で記されていました。(同上)
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『史跡・甲府城跡』の文字が刻まれた標識の光景です。石標ではなく、ステンレス製のような材質に見えました。甲府城跡は、昭和43年(1968年)に山梨県指定の史跡となりました。(同上)
(追記):平成31年(2019年)2月に国指定の史跡となりました。県指定の史跡時代の標識ですが、国の史跡になってもそのまま利用できる表示でした。 -
手前の岩石が、楔(くさび)を打ち込んだままの見本、右奥の岩石が、楔を使って割った状態の見本のようでした。石目は、『岩石中に存在する割れやすい特殊の方向をいい、岩石の中の鉱物の配列を示しています。岩体の流理面に対応し、節理と関係が深いとされます。垂直でもっとも割れやすい面を俗に『一番』、一番に直角な他の垂直面を『二番』と呼ぶようです。(岩石学辞典)』(同上)
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『稲荷櫓』のタイトルの説明パネルの紹介です。先に外観だけ見学した稲荷櫓ですが、見学時間に余裕がありましたので、入場しても見学しました。見所は、出土品などの展示のほか、再現された『稲荷櫓』の建物自体も見所でした。甲府城には、江戸時代に合計で7棟の櫓がありましたが、それぞれには方角・場所・用途などから名前が付けられていました。(同上)
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櫓は、近世城郭の隅部などに防御施設として建築されました。そのため、建物の床の一部を取り外して建物内から外の敵を攻撃する「石落とし」といった防御施設が付随しています。稲荷櫓の北側と東側が高石垣になるようです。(同上)
*写真は、稲荷櫓内の展示光景です。出土品などがガラスケースで展示されていました。壁面には、歴代城主に所縁の紋所の展示です。 -
稲荷櫓の『石落とし』が作られている一角の光景になるようです。推測になりますが、出窓になった北側の面になるようです。危険防止のために立ち入り禁止の柵が設けられていました。文書類から稲荷櫓は、江戸時代には鉄砲や弓矢などの武具庫として利用されていたことが分かっています。(同上)
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