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武田氏館紹介の締め括りです。戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により躑躅ヶ崎館(武田氏館)が築かれ、武田城下町が形成されました。以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代に亘って武田領国の中心地となりました。<br />天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後も、しばらくは政治的中心地でした。(ウィキペディア、武田氏館関連サイト)

2017初秋、甲府城と武田氏館(9/9):武田神社(2):武田神社扁額、鎮守の杜、鳥居、狛犬

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2017/09/09 - 2017/09/09

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旅行記グループ 2017秋、甲府の百名城巡り

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旅人のくまさん

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武田氏館紹介の締め括りです。戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により躑躅ヶ崎館(武田氏館)が築かれ、武田城下町が形成されました。以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代に亘って武田領国の中心地となりました。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後も、しばらくは政治的中心地でした。(ウィキペディア、武田氏館関連サイト)

交通手段
JR特急

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  • 〇『武田晴信(信玄)その19)』:武田信玄と上杉謙信が覇を競った『第二次川中島の戦い』の紹介です。天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠ります。これに対し、謙信は裾花川を挟む対岸に葛山城を築城します。天文24年(1555年)、川中島で200日余、上杉軍と対陣しました。(同上)<br />*写真は、武田神社の社殿光景です。

    〇『武田晴信(信玄)その19)』:武田信玄と上杉謙信が覇を競った『第二次川中島の戦い』の紹介です。天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠ります。これに対し、謙信は裾花川を挟む対岸に葛山城を築城します。天文24年(1555年)、川中島で200日余、上杉軍と対陣しました。(同上)
    *写真は、武田神社の社殿光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その20)』:今川義元の仲介で和睦し、両軍は撤兵しました。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、その条件通り破砕されました。弘治2年(1556年)、長尾(上杉)家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻しますが、撃退されました。(同上)<br />*写真は、同じく武田神社の社殿光景です。

    〇『武田晴信(信玄)その20)』:今川義元の仲介で和睦し、両軍は撤兵しました。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、その条件通り破砕されました。弘治2年(1556年)、長尾(上杉)家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻しますが、撃退されました。(同上)
    *写真は、同じく武田神社の社殿光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その21)』:次は、『第三次川中島の戦い』の紹介です。弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落としました。同じく、弘治3年(1557年)、信玄の北信への勢力伸張に反撃するため、謙信(景虎)は出陣しましたが、信玄は決戦を避け、決着は付きませんでした。この戦いは、『上野原の戦い(場所については、諸説)』とも呼ばれます。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その21)』:次は、『第三次川中島の戦い』の紹介です。弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落としました。同じく、弘治3年(1557年)、信玄の北信への勢力伸張に反撃するため、謙信(景虎)は出陣しましたが、信玄は決戦を避け、決着は付きませんでした。この戦いは、『上野原の戦い(場所については、諸説)』とも呼ばれます。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その22)』:弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下されました。これを受諾した謙信に対し、信玄は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されています。一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大しました。<br />*写真は、入口に『宝物殿』の表札があった建物です。<br /><br />

    〇『武田晴信(信玄)その22)』:弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下されました。これを受諾した謙信に対し、信玄は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されています。一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大しました。
    *写真は、入口に『宝物殿』の表札があった建物です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その23)』:永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家しました。 『甲斐国志』に拠れば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、『徳栄軒信玄』と号したとされます。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっています。出家の背景は、信濃をほぼ平定したことや、信濃守護に補任されたことが契機とされます。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その23)』:永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家しました。 『甲斐国志』に拠れば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、『徳栄軒信玄』と号したとされます。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっています。出家の背景は、信濃をほぼ平定したことや、信濃守護に補任されたことが契機とされます。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その24)』:『第四次川中島の戦い』の紹介です。信玄は北信侵攻を続け、永禄4年(1561年)4月、謙信が、永禄4年(1561年)3月、後北条氏の小田原城を包囲します(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野市松代町)を築城し、割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落としました。参謀の原虎胤が負傷し、代わって、山本勘助が参謀になりました。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その24)』:『第四次川中島の戦い』の紹介です。信玄は北信侵攻を続け、永禄4年(1561年)4月、謙信が、永禄4年(1561年)3月、後北条氏の小田原城を包囲します(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野市松代町)を築城し、割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落としました。参謀の原虎胤が負傷し、代わって、山本勘助が参謀になりました。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その25)』:永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは、一連の戦いで最大規模でした。武田方は信玄の実弟の副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助等の有力家臣を失い、信玄自身も負傷しました。第四次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻を更に進めました。(同上)<br />*写真は、武田神社の拝殿光景です。<br /><br />

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    〇『武田晴信(信玄)その25)』:永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは、一連の戦いで最大規模でした。武田方は信玄の実弟の副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助等の有力家臣を失い、信玄自身も負傷しました。第四次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻を更に進めました。(同上)
    *写真は、武田神社の拝殿光景です。

  • 〇『武田晴信(信玄)その26)』:『第五次川中島の戦い』の紹介です。永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣しましたが、信玄は決戦を避けて、塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わりました。<br /> 話題は代わって、信玄の教養面での紹介です。信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っていて、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残します。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されています。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂されています。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その26)』:『第五次川中島の戦い』の紹介です。永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣しましたが、信玄は決戦を避けて、塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わりました。
     話題は代わって、信玄の教養面での紹介です。信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っていて、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残します。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されています。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂されています。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その27)』:ポルトガル人宣教師の『ルイス・フロイス(1532~1597年)』の『日本史』によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。またフロイスは、書簡(『日本耶蘇会年報』に所収)に、いくつか信玄のことを記している。例えば、『戦争においてはユグルタ(紀元前のヌミディア王)に似たる人』等の記述です。(同上)

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    〇『武田晴信(信玄)その27)』:ポルトガル人宣教師の『ルイス・フロイス(1532~1597年)』の『日本史』によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。またフロイスは、書簡(『日本耶蘇会年報』に所収)に、いくつか信玄のことを記している。例えば、『戦争においてはユグルタ(紀元前のヌミディア王)に似たる人』等の記述です。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その28)』:信玄は野田城を落とした直後から度々喀血するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止しました。このため、信玄は長篠城において療養していましたが、近習・一門衆の合議により4月初旬に甲斐に撤退することになりました。元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去しました。享年53でした。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その28)』:信玄は野田城を落とした直後から度々喀血するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止しました。このため、信玄は長篠城において療養していましたが、近習・一門衆の合議により4月初旬に甲斐に撤退することになりました。元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去しました。享年53でした。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その29)』:『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎(山県昌景のこと)、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したとたとされます。(同上)

    〇『武田晴信(信玄)その29)』:『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎(山県昌景のこと)、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したとたとされます。(同上)

  • 〇『武田晴信(信玄)その30)』:『甲陽軍鑑』では、信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代における蜀の『諸葛孔明』の人物像に仮託されています。『諸葛孔明(181~234年)』は、蜀漢の政治家・武将・軍師で、蜀漢の建国者である劉備の創業を扶けました。甲陽軍鑑では、後代の仮託と考えられていますが、信玄の軍学や人生訓に関する数々の名言が記されています。(同上)<br /><br />

    〇『武田晴信(信玄)その30)』:『甲陽軍鑑』では、信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代における蜀の『諸葛孔明』の人物像に仮託されています。『諸葛孔明(181~234年)』は、蜀漢の政治家・武将・軍師で、蜀漢の建国者である劉備の創業を扶けました。甲陽軍鑑では、後代の仮託と考えられていますが、信玄の軍学や人生訓に関する数々の名言が記されています。(同上)

  • 次は、『武田勝頼(諏訪勝頼:1546~1582年)』の紹介です。<br />『武田勝頼(その1)』:甲斐国の戦国武将で大名の武田勝頼は、武田氏第17代当主で甲斐武田家第20代当主でした。本姓は『源勝頼(みなもと の かつより)』、通称は四郎です。母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、『諏訪四郎勝頼』、あるいは高遠城主だったため、『伊奈四郎勝頼』等とも呼ばれました。(同上)

    次は、『武田勝頼(諏訪勝頼:1546~1582年)』の紹介です。
    『武田勝頼(その1)』:甲斐国の戦国武将で大名の武田勝頼は、武田氏第17代当主で甲斐武田家第20代当主でした。本姓は『源勝頼(みなもと の かつより)』、通称は四郎です。母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、『諏訪四郎勝頼』、あるいは高遠城主だったため、『伊奈四郎勝頼』等とも呼ばれました。(同上)

  • 『武田勝頼(その2)』:「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられています。父・信玄は、足利義昭に官位と偏諱の授与を願いましたが、織田信長の圧力によって実現しなかったようです。このため正式な官位はありません。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となりました。(同上)

    『武田勝頼(その2)』:「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられています。父・信玄は、足利義昭に官位と偏諱の授与を願いましたが、織田信長の圧力によって実現しなかったようです。このため正式な官位はありません。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となりました。(同上)

  • 『武田勝頼(その3)』:勝頼は、永禄6年(1563年)、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣を飾りましたた。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山において組み打ちを行い討ち取ったとされます。その後の箕輪城・倉賀野城攻めなどでも功を挙げました。(同上)<br />*写真は、武田神社の鎮守の杜の光景が続きます。<br />

    『武田勝頼(その3)』:勝頼は、永禄6年(1563年)、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣を飾りましたた。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山において組み打ちを行い討ち取ったとされます。その後の箕輪城・倉賀野城攻めなどでも功を挙げました。(同上)
    *写真は、武田神社の鎮守の杜の光景が続きます。

  • 『武田勝頼(その4)』:その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、永禄12年(1569年)の武蔵国滝山城攻めでは、北条氏照の家老・諸岡山城守と3度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では殿(しんがり)を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされます。(同上)

    『武田勝頼(その4)』:その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、永禄12年(1569年)の武蔵国滝山城攻めでは、北条氏照の家老・諸岡山城守と3度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では殿(しんがり)を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされます。(同上)

  • 『武田勝頼(その5)』:永禄8年(1565年)10月、武田氏の正嫡である長兄・『武田義信(1538~1567年)』が、父・信玄に対する謀反の疑いで廃嫡されたことにより(義信事件)、勝頼は継嗣となりました。勝頼は元亀4年(1573年)、父・信玄の死により家督を相続しました。義信は、甲府東光寺に幽閉され、永禄10年(1567年)10月19日に東光寺で死去しました。写真は、武田氏館の土塁遺跡です。(同上)

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    『武田勝頼(その5)』:永禄8年(1565年)10月、武田氏の正嫡である長兄・『武田義信(1538~1567年)』が、父・信玄に対する謀反の疑いで廃嫡されたことにより(義信事件)、勝頼は継嗣となりました。勝頼は元亀4年(1573年)、父・信玄の死により家督を相続しました。義信は、甲府東光寺に幽閉され、永禄10年(1567年)10月19日に東光寺で死去しました。写真は、武田氏館の土塁遺跡です。(同上)

  • 『武田勝頼(その6)』:永禄10年(1567年)、高遠城で正室・龍勝院との間に嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生しました。元亀2年(1571年)2月、勝頼は甲府へ召還され、高遠城主は叔父・武田信廉となりました。同年9月16日、正室・龍勝院殿が死去しました。勝頼は、稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、龍勝院の供養を行ってます。写真は、同じく武田氏館の土塁遺跡です。(同上)

    『武田勝頼(その6)』:永禄10年(1567年)、高遠城で正室・龍勝院との間に嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生しました。元亀2年(1571年)2月、勝頼は甲府へ召還され、高遠城主は叔父・武田信廉となりました。同年9月16日、正室・龍勝院殿が死去しました。勝頼は、稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、龍勝院の供養を行ってます。写真は、同じく武田氏館の土塁遺跡です。(同上)

  • 『武田勝頼(その7)』:武田氏は相模後北条氏と甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍・足利義昭の信長包囲網に参加し、元亀3年(1572年)には西上作戦を開始しました。勝頼は、武田信豊・穴山信君とともに大将を務め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻略し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦いました。元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主となります。しかし、信玄の遺言により、表向きは信玄の死を隠して隠居とし、勝頼が家督を相続したと発表されていました。(同上)<br />*写真は、三段の基壇の上に据えられた狛犬の光景です。

    『武田勝頼(その7)』:武田氏は相模後北条氏と甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍・足利義昭の信長包囲網に参加し、元亀3年(1572年)には西上作戦を開始しました。勝頼は、武田信豊・穴山信君とともに大将を務め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻略し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦いました。元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主となります。しかし、信玄の遺言により、表向きは信玄の死を隠して隠居とし、勝頼が家督を相続したと発表されていました。(同上)
    *写真は、三段の基壇の上に据えられた狛犬の光景です。

  • 『武田勝頼(その8)』:天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、織田信長をさらに圧迫するため、甲斐・信濃など五箇国の兵力で出発し、4月中旬に東美濃の城や砦(苗木城・阿寺城・千旦林城・阿木城・飯羽間城・串原城・今見砦など)を陥れ、岩村城に進出して明知城を包囲しました。この時、織田信長は6万人を率いたとされますが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の方に進出すると、信長は兵を引いたとされます。(同上)<br />*写真は、同じく三段の基壇の上に据えられた狛犬の光景です。

    『武田勝頼(その8)』:天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、織田信長をさらに圧迫するため、甲斐・信濃など五箇国の兵力で出発し、4月中旬に東美濃の城や砦(苗木城・阿寺城・千旦林城・阿木城・飯羽間城・串原城・今見砦など)を陥れ、岩村城に進出して明知城を包囲しました。この時、織田信長は6万人を率いたとされますが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の方に進出すると、信長は兵を引いたとされます。(同上)
    *写真は、同じく三段の基壇の上に据えられた狛犬の光景です。

  • 『武田勝頼(その9)』:『明知城の戦い』の紹介です。天正2年(1574年)2月、東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落としました。信長は嫡男・織田信忠と共に明知城の後詰(援軍)に出陣しようとしましたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退しました。勝頼は、同年に『飯羽間城の戦い』、『高天神城の戦い』で勝利しています。(同上)

    『武田勝頼(その9)』:『明知城の戦い』の紹介です。天正2年(1574年)2月、東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落としました。信長は嫡男・織田信忠と共に明知城の後詰(援軍)に出陣しようとしましたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退しました。勝頼は、同年に『飯羽間城の戦い』、『高天神城の戦い』で勝利しています。(同上)

  • 『武田勝頼(その10)』:『長篠の戦い』の紹介です。天正3年(1575年)、勝頼は、先年徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000(異説もあります)を兵を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始しました。しかし、長篠城は奥平勢の善戦により持ち堪えました。その間に、織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000の兵が長篠(設楽ヶ原)に到着しました。(同上)

    『武田勝頼(その10)』:『長篠の戦い』の紹介です。天正3年(1575年)、勝頼は、先年徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000(異説もあります)を兵を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始しました。しかし、長篠城は奥平勢の善戦により持ち堪えました。その間に、織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000の兵が長篠(設楽ヶ原)に到着しました。(同上)

  • 『武田勝頼(その11)』:『長篠の戦い』の紹介の続きです。野戦ではなく、攻城戦に近い状況を感じ取った信玄以来の重鎮たちは、勝頼に撤退を進言したと伝わります。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦し、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続きました。武田軍は、多くの武将と兵を失い、伊那に退却しました。武田氏滅亡の始まりともなりました。(同上)

    『武田勝頼(その11)』:『長篠の戦い』の紹介の続きです。野戦ではなく、攻城戦に近い状況を感じ取った信玄以来の重鎮たちは、勝頼に撤退を進言したと伝わります。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦し、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続きました。武田軍は、多くの武将と兵を失い、伊那に退却しました。武田氏滅亡の始まりともなりました。(同上)

  • 『武田勝頼(その12)』:長篠合戦以後、三河国から武田方が締め出されたのを皮切りに、天正3年(1575年)11月には信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした5万の織田軍により、東美濃の岩村城は陥落させられました。織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である秋山虎繁は、岐阜へ連行され長良川河畔で逆磔により処刑されました。(同上)

    『武田勝頼(その12)』:長篠合戦以後、三河国から武田方が締め出されたのを皮切りに、天正3年(1575年)11月には信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした5万の織田軍により、東美濃の岩村城は陥落させられました。織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である秋山虎繁は、岐阜へ連行され長良川河畔で逆磔により処刑されました。(同上)

  • 『勝頼の死と武田氏滅亡(その1)』:織田軍による甲州征伐が始まり、天正10年(1582年)2月14日に浅間山が噴火しました。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられていて、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻と重なったことで、武田軍は大いに動揺しました。甲州征伐に対して、寝返りや逃亡が相次ぎ、武田軍は組織的な抵抗ができませんでした。(同上)

    『勝頼の死と武田氏滅亡(その1)』:織田軍による甲州征伐が始まり、天正10年(1582年)2月14日に浅間山が噴火しました。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられていて、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻と重なったことで、武田軍は大いに動揺しました。甲州征伐に対して、寝返りや逃亡が相次ぎ、武田軍は組織的な抵抗ができませんでした。(同上)

  • 『勝頼の死と武田氏滅亡(その2)』:信濃松尾城主の小笠原信嶺は狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、飯田城の保科正直は高遠城に逃亡しました。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て、甲斐国に敗走し、伊那戦線は崩壊しました。勝頼は、今福筑前守を大将とする木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じましたが、木曾軍に翻弄されて敗走しました。(同上)

    『勝頼の死と武田氏滅亡(その2)』:信濃松尾城主の小笠原信嶺は狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、飯田城の保科正直は高遠城に逃亡しました。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て、甲斐国に敗走し、伊那戦線は崩壊しました。勝頼は、今福筑前守を大将とする木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じましたが、木曾軍に翻弄されて敗走しました。(同上)

  • 『勝頼の死と武田氏滅亡(その3)』:天正10年(1582年)3月3日、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡しました。勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとしましたが、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路を塞がれまし、た。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。(同上)

    『勝頼の死と武田氏滅亡(その3)』:天正10年(1582年)3月3日、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡しました。勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとしましたが、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路を塞がれまし、た。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。(同上)

  • 『勝頼の死と武田氏滅亡(その4)』:同年3月11日、田野の地で滝川一益の追手に捕捉され、巳の刻(午前11時頃)に勝頼は嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しました(田野合戦)。享年37でした。これにより、甲斐武田氏は滅亡しました。 辞世の句は、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴てゆくえの 西の山の端」でした。<br />*写真は、甲府駅に向かう街道、「武田通り」の光景です。

    『勝頼の死と武田氏滅亡(その4)』:同年3月11日、田野の地で滝川一益の追手に捕捉され、巳の刻(午前11時頃)に勝頼は嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しました(田野合戦)。享年37でした。これにより、甲斐武田氏は滅亡しました。 辞世の句は、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴てゆくえの 西の山の端」でした。
    *写真は、甲府駅に向かう街道、「武田通り」の光景です。

  • 『勝頼の死と武田氏滅亡(その5)』:勝頼は、追い詰められた際、跡継ぎの武田信勝が元服を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っています。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められましたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。(同上)<br /><br />

    『勝頼の死と武田氏滅亡(その5)』:勝頼は、追い詰められた際、跡継ぎの武田信勝が元服を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っています。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められましたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。(同上)

  • 『勝頼の死と武田氏滅亡(その6)』:後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祀られました。江戸時代以降に再興した武田家は、勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜です。娘の1人・貞姫は、小山田信茂の娘の香具姫、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘である松姫に連れられ、武蔵国八王子に落ち延びました。(同上)

    『勝頼の死と武田氏滅亡(その6)』:後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祀られました。江戸時代以降に再興した武田家は、勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜です。娘の1人・貞姫は、小山田信茂の娘の香具姫、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘である松姫に連れられ、武蔵国八王子に落ち延びました。(同上)

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2017秋、甲府の百名城巡り

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