2015/09/26 - 2015/10/09
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旅人のくまさんさん
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白鳥山・法持寺と白鳥古墳の紹介です。法持寺は、天長年間、空海が熱田神宮に参詣した際に日本武尊を敬い、延命地蔵菩薩像を彫って小祠を建立したのが始まりとされます。白鳥古墳は、日本武尊に因む古墳です。
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- 私鉄 徒歩
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イチオシ
白鳥山・法持寺の仁王門の光景です。白鳥陵の宝物を護持する寺であることから、当時は宝持寺と称してい増した。宝徳元年(1449年)、あるいは文明年間(1469 ~1486年)に圓通寺2世・明谷義光によって曹洞宗の寺院として再興され、承応年間(1652~1654年)に現在の寺号の法持寺に改称されました。
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『尾張名所図会・白鳥山・法持寺』のタイトルがあった説明パネルです。説明文の紹介です。『法持寺は、本堂、僧堂、塔頭などがあり、石垣や土塁で囲まれ城のようでした。南は熱田の海原を見下ろし、西は御船蔵などを望むことができ、実に景色のよいところでした』と描写されていました。
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『白鳥山・総持寺』の文字が刻まれた石標の光景です。古くは熱田神宮大宮司・千秋氏の菩提所でもあったと伝わります。戦国時代、織田信長が桶狭間の戦いに向かう途中立ち寄り、必勝祈願をしたと寺伝に伝わります。
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仁王門の中の金剛力士像です。仁王門に向かって右側の阿形の像です。金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)の天部の一つで、サンスクリットでは『ヴァジュラダラ』と呼ばれます。『金剛杵』と呼ばれる、仏敵を退散させる武器を持つもの』を意味します。
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仁王門の中の金剛力士像です。仁王門に向かって左側の吽形の像です。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置されます。
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境内での酒と煙草を禁じた石碑です。禅宗のお寺では多く見かけるようです。法持寺も禅宗の曹洞宗に属するお寺です。釈迦牟尼仏を本尊とします。
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仁王門を潜って、境内側から眺めた仁王門方向の光景です。金剛力士は、仁王や二王とも呼ばれます。
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立派な造りの手水舎の光景です。本瓦を葺いた四方転びの建物の中に緑色を帯びた自然石の水盤が置かれていました。
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法持寺は、名古屋場所開催時の三保ヶ関部屋の宿舎として使われた時代が長かったようです。境内には、全盛時代の北の湖を偲ばせる石碑や像などが残されています。
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境内に残された、全盛時代の北の湖を偲ばせる石碑や像などの光景です。小さな像の左右にある石碑は、左が現役の横綱時代、右が引退後の言葉を刻んだものです。
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『三保ヶ関部屋・土俵の跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『北の湖』の落款がありました。北の湖敏満(1953~2015年)は第55代横綱で、本名は小畑敏満(おばた・としみつ)です。二度に亘って相撲協会の理事長を務めました。亡くなったのは、理事長在任中の62歳の時でした。見事な筆跡の石碑でした。
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法持寺の境内の一部は、かつての白鳥古墳の一部のようです。その境付近にある石垣の光景です。林に見える部分は白鳥古墳です。赤い幟が立っている場所は、弘法堂です。白鳥古墳は、かつては法持寺が管理していましたが、明治9年(1876年)からは熱田神宮に、戦後は名古屋市に管理が移されました。
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白鳥古墳を背景にした弘法堂の光景です。白鳥古墳(しろとりこふん、しらとりこふん)は、名古屋市熱田区にある前方後円墳です。熱田神宮では、白鳥御陵と呼んでいるようです。
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斜面に立つ石碑と座像の光景です。その背後に見えている金網が、現在の白鳥山古墳と法持寺の区域境になるようです。白鳥古墳は、尾張氏の首長墓と考えられてい増すが、熱田神宮社伝では、日本武尊の陵としています。
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法持寺の境内とその先に見える本堂などの建物の光景です。撮影している場所近くは広い駐車場になっていました。尾張名所図会によれば、石段を登ると門脇に高見薬師、子安観音、洗月院、月笑軒、梅萼院、 高岩院、大虚院、開山堂、僧堂、衆寮、庫裏と山門塔頭が並ぶ大寺院として紹介されています。
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蓮座の上に立つ合掌姿の立像です。写実的な顔の造りでしたから、地蔵尊ではないようです。手には数珠がありました。あとから建物が造られた雰囲気もありました。
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ずらりと並んだ地蔵尊群の光景です。四段に造られた石段の上に祀られていました。お揃いの赤い前掛け姿でした。
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『心の大師・由緒』と題された説明看板の光景です。白鳥山の弘法堂は、今から約1150年前に弘法大師が、この地に錫を留めた時に創建されたものとせつめいされていました。
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中央に『弘法堂』の扁額が懸かっていた、弘法堂の正面光景です。木製の立派な祭壇が設けられ、その前に焼香台が置かれていました。
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弘法堂とその背後の白鳥古墳の光景です。白鳥山古墳の遺物は、法持寺の僧侶の手によって一旦取り出されましたが、寺社官への言上・評議の結果、石室へ戻され、墳丘も旧状へと復したと伝わっています。その際に形状や数などが記録されました。この後、法持寺に隣接する白鳥古墳を一回りすることにしました。
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白鳥山古墳から一旦取り出された遺物の一覧です。
①鏡類:銅鏡 六鈴鏡
②馬具:楕円形鏡板、f字形鏡板、劍菱形杏葉、鐘形杏葉、辻金具
③その他:双魚形腰佩
?武器:直刀、鉾、小刀 -
白鳥山古墳から一旦取り出された遺物の続きです。
?玉類:勾玉、切子玉、管玉
?須恵器:器台付三連坩、子坩四個脚付短頸壷、蓋付小坩、高坏、蓋類、器台 -
反時計回りに移動して、白鳥山古墳が直接見える場所までやって来ました。昭和26年(1951年)に名古屋大学が調査測量を行った際の古墳の規模の紹介です。
①墳丘全長:70メートル
②後円部規模:直径45メートル、高さ6.5メートル
③前方部規模:長さ30メートル、幅55メートル、高さ7メートル -
白鳥古墳への立入りは出来ませんので、外からの写真紹介になります。先程の測定数値は、前方部南端は道路建設で、後円部の東側は鳥居の建設などで、また西側も法持寺の移転改築などに伴って墳裾部が掘削されている大きさとされます。前方部が削平されている可能性があるほか、墳丘東側に幅5メートルほどの平坦面があったことから、2段築成の可能性もあると指摘されています。
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白鳥古墳の側面光景が続きます。次は白鳥古墳の埴輪と周濠の紹介です。墳丘には須恵質の円筒埴輪が巡らされていたことが確認されています。また、かつては墳丘の東側から北西側にかけて幅10メートルほどの周濠があったと推定されています。しかし、現在では確認できない状態となりました。
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白鳥古墳の中央部付近にやって来ました。次は石室の紹介です。天保8年(1837年)の台風の際、陵上の樹が倒れて内部の石室が露出しました。江戸時代に記された『尾張名所図会附録』によれば、石室は全長約3.7メートル、全幅1.2~1.5メートル、深さ1.5~1.8メートルの石垣組みとされ、5枚の蓋石によって覆われていたとされます。先に紹介した遺物は、この石室からの出土のようです。
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『白鳥古墳(白鳥御陵)』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の立札の光景です。主な内容は、6世紀初めの頃の築造で、全長約74メートルと建設時期と規模が記されていました。名古屋大学の昭和26年(1951年)の調査測量より4メートルがプラスされた値です。日本武尊(ヤマトタケル)との関連で、白鳥御陵の呼び名も説明されていました。能褒野に葬られてのち白鳥となった日本武尊が、当地に降り立ったという伝承によるものです。個人的には史実は別として、日本武尊妃の宮簀媛に対する思いやりが感じられる伝承です。
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白鳥古墳の中央部付近の光景です。この場所にだけ、施錠をされた出入口があるようでした。日本武尊(ヤマトタケル)がこの地に来た時に娶ったのが、宮簀媛(みやずひめ)です。熱田神宮社伝では、白鳥古墳を日本武尊の陵とし、北方約300メートルにある断夫山古墳を『陀武夫御墓』と称して日本武尊妃の宮簀媛の墓として、今も御陵墓祭を行っているようです。
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イチオシ
白鳥古墳の中央部付近のズームアップ光景です。本居宣長が当地を訪れた際の和歌の紹介です。『しきしまの やまとこひしみ 白とりの かけりいましし あとところこれ』と詠んでいます。写真紹介は出来ませんでしたが、歌碑が公園の堀川側の入口横に建立されているようです。
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これで白鳥古墳の紹介はおしまいです。振り返って眺めた白鳥古墳方面の光景です。引き続いて、反時計回りで法持寺の入り口方面に向かうことにしました。
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振り返って眺めた、白鳥古墳に登る石段の光景です。その石段の脇に細長い石碑がありました。
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『白鳥御陵』のタイトルがあった石碑の光景です。『尾張名古屋』で始まるらしい冒頭部分だけは読めましたが、あとは読み取れませんでした。タイトルから判断して、熱田神宮が管理していた時代の石碑のようでした。
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もう一度振り返って眺めた、白鳥古墳方面の光景です。狭い道が先ほど紹介した石段に向かって伸びていました。左側で咲いていたピンク色の花は、フヨウ(芙蓉)です。
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本通りに出ました。沢山の名所案内の表示の中には、先ほど見学した『白鳥古墳』のほか、『本居宣長歌碑』、『断夫山古墳』、『貯木場・藩船蔵跡』等の案内がありました。
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表通りのの光景です。法持寺と白鳥古墳を見学している内に、火が西に傾いて来ましたが、相変わらずの秋日和の一日でした。
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法持寺と白鳥古墳の周回見学の西南角付近になるようです。欝蒼とした林は白鳥古墳エリアになるようです。その橋は、ふぉうろ工事のために切り取られ、石垣が積まれているようでした。
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表通りから眺めた白鳥古墳の森の光景です。この辺りの石垣も古墳の裾が切り取られ、石垣にされたものに見えました。
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石垣の上に築かれた白塀の光景です。この塀は『白鳥山・法持寺』を取り囲む塀の一部のようでした。江戸時代に編集された『尾張名所図会』では、高石垣が積まれていた法持寺です。
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左手に法持寺の仁王門と本堂が見える場所までやって来ました。これで、法持寺と白鳥古墳の周回見学はおしまいです。ここからの帰り道は、別の通りを歩くことにしました。
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先程、左手に法持寺の仁王門と本堂が見えていた場所を振り返っての撮影です。揃い塀は更に続いていましたが、大伽藍を擁した法持寺時代の名残のように見えた石垣と塀でした。
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旅行記グループ 2015年、尾張の寺社巡り(その5)
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