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山崎城址の近くにある、熊野三社の紹介です。元々は、山崎城にあった神社を、廃城になった後にこちらに遷したようです。最後の城主は信長の重臣、佐久間信盛でした。

2015秋、呼続の熊野三社(1/2):鳥居、楠・公孫樹、狛犬、本殿、松巨嶋、山崎稲荷社、末社

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2015/11/21 - 2015/11/21

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

山崎城址の近くにある、熊野三社の紹介です。元々は、山崎城にあった神社を、廃城になった後にこちらに遷したようです。最後の城主は信長の重臣、佐久間信盛でした。

  • 呼続の熊野三社は、山崎城主の佐久間信盛が永禄年間(1558〜1570年)に守護神とした社が始まりとされます。山崎城が廃城になった後、山崎村の氏神として寛永4年(1627年)にこの地に移されました。佐久間信盛は、天正8年(1580年)信長の勘気を被り、高野山へ流され、最後は吉野の十津川で亡くなりました。

    呼続の熊野三社は、山崎城主の佐久間信盛が永禄年間(1558〜1570年)に守護神とした社が始まりとされます。山崎城が廃城になった後、山崎村の氏神として寛永4年(1627年)にこの地に移されました。佐久間信盛は、天正8年(1580年)信長の勘気を被り、高野山へ流され、最後は吉野の十津川で亡くなりました。

  • 現在の南区呼続にある、熊野三社の鳥居の光景です。この鳥居が二の鳥居だったようです。熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称です。この熊野三山を総本社とする神社です。

    現在の南区呼続にある、熊野三社の鳥居の光景です。この鳥居が二の鳥居だったようです。熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称です。この熊野三山を総本社とする神社です。

  • 熊野神社の『御由緒』の題目があった立看板です。ご祭神が記されていました。伊邪那?岐伊邪那美尊(いさなきいざなみのみこと)、事解之男神(ことさかのをのかみ)と、熊野速玉命(くまのはやたまのみこと)が記されていました。

    熊野神社の『御由緒』の題目があった立看板です。ご祭神が記されていました。伊邪那?岐伊邪那美尊(いさなきいざなみのみこと)、事解之男神(ことさかのをのかみ)と、熊野速玉命(くまのはやたまのみこと)が記されていました。

  • 熊の三社の境内の、鎮守の杜の大木です。ヤドリギ(寄生木)が生えたクスノキ(楠)です。

    熊の三社の境内の、鎮守の杜の大木です。ヤドリギ(寄生木)が生えたクスノキ(楠)です。

  • 同じく、神社の社格を著わすような大木の光景です。最後の山崎城主の佐久間信盛は、信長を社長に喩えれば、副社長とも例えられる重臣で、信長には20年以上仕えました。当時の重臣には、柴田勝家(1522〜1583年)などがいます。

    同じく、神社の社格を著わすような大木の光景です。最後の山崎城主の佐久間信盛は、信長を社長に喩えれば、副社長とも例えられる重臣で、信長には20年以上仕えました。当時の重臣には、柴田勝家(1522〜1583年)などがいます。

  • こちらは境内の公孫樹の大木です。佐久間信盛(1528〜1582年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。織田氏の重臣で、佐久間氏の当主でした。『信長公記』では、天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受けました。その際、信盛は涙を流しながら弁明したものの、かえって信長の怒りに油を注いだ結果となったようです。

    こちらは境内の公孫樹の大木です。佐久間信盛(1528〜1582年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。織田氏の重臣で、佐久間氏の当主でした。『信長公記』では、天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受けました。その際、信盛は涙を流しながら弁明したものの、かえって信長の怒りに油を注いだ結果となったようです。

  • 熊野三社の境内の紹介が続きます。地元の氏神様のような神社ですが、江戸時代には東海道の至近距離にあることから、多くの旅人達もお参りされたに違いありません。

    熊野三社の境内の紹介が続きます。地元の氏神様のような神社ですが、江戸時代には東海道の至近距離にあることから、多くの旅人達もお参りされたに違いありません。

  • 『定』の題目があった熊野三山名の立看板です。現代用の六項目の注意事項などが記されていました。

    『定』の題目があった熊野三山名の立看板です。現代用の六項目の注意事項などが記されていました。

  • 随分と頭が大きな狛犬の光景です。こちらが吽形の雌獅子です。

    随分と頭が大きな狛犬の光景です。こちらが吽形の雌獅子です。

  • 口を開けた阿形の雄獅子です。雌獅子と同じ大きさの頭かも知れませんが、こちらはそれほど大きくは感じません。

    口を開けた阿形の雄獅子です。雌獅子と同じ大きさの頭かも知れませんが、こちらはそれほど大きくは感じません。

  • 境内入口の鳥居の手前から眺めた熊野三社の社殿光景です。舗装された参道がまっすぐ伸びていました。

    境内入口の鳥居の手前から眺めた熊野三社の社殿光景です。舗装された参道がまっすぐ伸びていました。

  • 日本神教(神道)の神社には不可欠な施設の手水舎(てみずや/ちょうずや)の光景です。ヒンズゥ教、キリスト教、イスラム教でも水は宗教儀礼に欠かせないものになっています。

    日本神教(神道)の神社には不可欠な施設の手水舎(てみずや/ちょうずや)の光景です。ヒンズゥ教、キリスト教、イスラム教でも水は宗教儀礼に欠かせないものになっています。

  • 『松巨嶋(まつこしま)』の文字が記された立看板です。かつてこの辺りは川と海に囲まれ、大きな松が生い茂っていました。そのため遠くから見ると、陸の浮島に見えたことから、『松巨嶋』の呼名となりました。

    『松巨嶋(まつこしま)』の文字が記された立看板です。かつてこの辺りは川と海に囲まれ、大きな松が生い茂っていました。そのため遠くから見ると、陸の浮島に見えたことから、『松巨嶋』の呼名となりました。

  • 小振りな熊野三社の『本殿』の光景です。起源は、永禄年間(1558〜1570年)に山崎城主の佐久間信盛が城中の守護神として祀ったことに始まります。その後、寛永4年(1627年)に山崎村並びに付近一帯の鎮守社として現在地に再建されました。

    小振りな熊野三社の『本殿』の光景です。起源は、永禄年間(1558〜1570年)に山崎城主の佐久間信盛が城中の守護神として祀ったことに始まります。その後、寛永4年(1627年)に山崎村並びに付近一帯の鎮守社として現在地に再建されました。

  • 小振りな熊野三社の『本殿』のズームアップ光景です。熊野三山の祭神である神々は、熊野権現とも呼ばれます。主祭神は熊野三所権現とも呼ばれ、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現とも呼ばれます。

    小振りな熊野三社の『本殿』のズームアップ光景です。熊野三山の祭神である神々は、熊野権現とも呼ばれます。主祭神は熊野三所権現とも呼ばれ、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現とも呼ばれます。

  • 同じく、小振りな熊野三社の『本殿』のズームアップ光景です。東海道53次の尾張の宿は、40番の鳴海宿と41番の熱田宿(宮宿)の2箇所です。呼続の熊野三社は、熱田宿に近い場所に位置します。熱田宿から桑名宿までは海路です。

    同じく、小振りな熊野三社の『本殿』のズームアップ光景です。東海道53次の尾張の宿は、40番の鳴海宿と41番の熱田宿(宮宿)の2箇所です。呼続の熊野三社は、熱田宿に近い場所に位置します。熱田宿から桑名宿までは海路です。

  • 稲荷社の赤い鳥居と、境内の楠の大樹の光景です。境内には、名古屋市の保存樹が複数あり、鎮守の杜となっていました。

    稲荷社の赤い鳥居と、境内の楠の大樹の光景です。境内には、名古屋市の保存樹が複数あり、鎮守の杜となっていました。

  • 赤鳥居の入口の光景です。生地が赤色の『山崎稲荷』の扁額が懸っていました。

    赤鳥居の入口の光景です。生地が赤色の『山崎稲荷』の扁額が懸っていました。

  • 赤鳥居の最前部からの光景です。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされています。

    赤鳥居の最前部からの光景です。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社とされています。

  • 稲荷社に付き物の狐さんです。左右に、それぞれ2体が置かれていました。伏見稲荷のQ&Aからの引用です。『稲荷大神様」のお使い(眷族)はきつねとされています。但し野山に居る狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます。』と解説されていました。

    稲荷社に付き物の狐さんです。左右に、それぞれ2体が置かれていました。伏見稲荷のQ&Aからの引用です。『稲荷大神様」のお使い(眷族)はきつねとされています。但し野山に居る狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます。』と解説されていました。

  • こちらは社に向かって左側の狐さんです。左が白い前掛け、右奥が赤い前掛け姿でした。

    こちらは社に向かって左側の狐さんです。左が白い前掛け、右奥が赤い前掛け姿でした。

  • 『山崎稲荷社』の社の光景です。日本全国の稲荷神社は、2万社とも3万社とも言われています。屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものを含めますと、無数と言って良いほどの数になります。

    『山崎稲荷社』の社の光景です。日本全国の稲荷神社は、2万社とも3万社とも言われています。屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものを含めますと、無数と言って良いほどの数になります。

  • 横から眺めた赤鳥居の列の光景です。その背後の右に見えるのが熊野三社の社殿です。

    横から眺めた赤鳥居の列の光景です。その背後の右に見えるのが熊野三社の社殿です。

  • 熊野三社の境内光景です。柵で囲われた中に末社が祀られていました。その背後の北側の景色から、この場所が高台であることが分かります。

    熊野三社の境内光景です。柵で囲われた中に末社が祀られていました。その背後の北側の景色から、この場所が高台であることが分かります。

  • 三本揃って大木になった木々です。幼木の時から、同じ場所で育ったような雰囲気がありました。樹種は分かりませんが、常緑樹のようです。

    三本揃って大木になった木々です。幼木の時から、同じ場所で育ったような雰囲気がありました。樹種は分かりませんが、常緑樹のようです。

  • 同じような樹種の樹は、他にも複数ありました。江戸時代には、『松巨嶋』に相応しい松林があったようです。

    同じような樹種の樹は、他にも複数ありました。江戸時代には、『松巨嶋』に相応しい松林があったようです。

  • 熊野三社の境内から見下ろした名鉄電車の名古屋本線の線路です。熊野三社は線路の西側に、山崎城址は線路の東側に位置します。

    熊野三社の境内から見下ろした名鉄電車の名古屋本線の線路です。熊野三社は線路の西側に、山崎城址は線路の東側に位置します。

  • 同じく、熊野三社の境内から見下ろした名鉄電車の線路です。右奥に見えるのは山崎城址の樹木です。線路は、山崎城のお堀址を通過します。

    同じく、熊野三社の境内から見下ろした名鉄電車の線路です。右奥に見えるのは山崎城址の樹木です。線路は、山崎城のお堀址を通過します。

  • 石垣の上に築かれた境内末社です。右が浅間社、左が津島社です。注連縄が張られ、榊が奉納されていました。

    石垣の上に築かれた境内末社です。右が浅間社、左が津島社です。注連縄が張られ、榊が奉納されていました。

  • 境内末社です。右が八王子社、左が八幡社です。二社は、昭和42年(1967年)に遷宮されたことが記されていました。

    境内末社です。右が八王子社、左が八幡社です。二社は、昭和42年(1967年)に遷宮されたことが記されていました。

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