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現存の天守閣が残る、丸岡城の紹介です。旧法では国宝の天守閣でしたが、現在の文化財保護法では重要文化財です。このため地元では、『日本一古い様式の天守閣』として国宝指定を目指しているようです。

2016春、福井県の名城(4/15):丸岡城(4):丸岡町、現存の天守閣、野面積の石垣、石棺

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2016/05/18 - 2016/05/18

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旅行記グループ 2016春、福井の名城巡り

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旅人のくまさん

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現存の天守閣が残る、丸岡城の紹介です。旧法では国宝の天守閣でしたが、現在の文化財保護法では重要文化財です。このため地元では、『日本一古い様式の天守閣』として国宝指定を目指しているようです。

交通手段
観光バス

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  • 内部の見学を終えて戻ってきた、一階の出入口光景です。ここでスリッパに履き替えての見学でした。先に紹介した、丸岡城のセピア写真が見えています。

    内部の見学を終えて戻ってきた、一階の出入口光景です。ここでスリッパに履き替えての見学でした。先に紹介した、丸岡城のセピア写真が見えています。

  • 一階の出入口付近から眺めた、丸岡城天守の内部光景です。武具などを置く必要がなくなったスペースには、ガラスケースに収まった展示品が置かれていました。

    一階の出入口付近から眺めた、丸岡城天守の内部光景です。武具などを置く必要がなくなったスペースには、ガラスケースに収まった展示品が置かれていました。

  • 東側にあった石段の最上部から眺めた、北側方面の光景です。1階部分の下部は、下見板張、さらにその下の天守台との隙間には、スカートの様な板張が配されていました。

    イチオシ

    東側にあった石段の最上部から眺めた、北側方面の光景です。1階部分の下部は、下見板張、さらにその下の天守台との隙間には、スカートの様な板張が配されていました。

  • 東側から眺めた、丸岡城天守の光景です。天守の正面光景になるようです。昭和23年(1948年)6月28日午後に起きた福井大震災で倒壊しましたが、できるかぎりの古材が活用され、昭和30年(1955年)に再建された天守です。

    東側から眺めた、丸岡城天守の光景です。天守の正面光景になるようです。昭和23年(1948年)6月28日午後に起きた福井大震災で倒壊しましたが、できるかぎりの古材が活用され、昭和30年(1955年)に再建された天守です。

  • 南東側から見上げた、丸岡城天守の光景です。福井地震は、福井平野を震源とするマグニチュード7.1の地震でした。地震動は強烈で、震源近傍では住家の全壊率100%の集落が多数出現し、3年前の福井空襲から復興途上にあった福井市でも全壊率は80%を超えたとされます。

    南東側から見上げた、丸岡城天守の光景です。福井地震は、福井平野を震源とするマグニチュード7.1の地震でした。地震動は強烈で、震源近傍では住家の全壊率100%の集落が多数出現し、3年前の福井空襲から復興途上にあった福井市でも全壊率は80%を超えたとされます。

  • 同じく、南東側から見上げた、丸岡城天守の光景です。昭和23年(1948年)の福井地震では、住家の全壊3万4千棟を超え、死者も3,769人に及びました。福井地震の教訓は10項目が報告書に整理されましたが、私なりに表現すれば、その中の三項目から選んだ次の四項目が重要と考えます。<br />①日本では、地震はどこにでも発生する。<br />②地震の予知はまだ出来ない、地震は不意打ちに発生する。<br />③過去の地震災害に学び、その教訓を共有することが重要。<br />④地震対策の基本は、建造物の耐震対策。

    同じく、南東側から見上げた、丸岡城天守の光景です。昭和23年(1948年)の福井地震では、住家の全壊3万4千棟を超え、死者も3,769人に及びました。福井地震の教訓は10項目が報告書に整理されましたが、私なりに表現すれば、その中の三項目から選んだ次の四項目が重要と考えます。
    ①日本では、地震はどこにでも発生する。
    ②地震の予知はまだ出来ない、地震は不意打ちに発生する。
    ③過去の地震災害に学び、その教訓を共有することが重要。
    ④地震対策の基本は、建造物の耐震対策。

  • 南側から見上げた、丸岡城天守の光景です。一階部分に設けられた『石落し』と『狭間』、二階部分の千鳥破風、三階部分の望楼が見えています。

    南側から見上げた、丸岡城天守の光景です。一階部分に設けられた『石落し』と『狭間』、二階部分の千鳥破風、三階部分の望楼が見えています。

  • 天守台のコーナー部分の光景です。右に突き出た部分は、1階の入り口部分です。苦労して積み上げられた風に見えました。

    天守台のコーナー部分の光景です。右に突き出た部分は、1階の入り口部分です。苦労して積み上げられた風に見えました。

  • 『雲井龍神』の題字があった古い石碑の光景です。文書の前の方を紹介しますと、『古老伝えて曰く 丸岡城の巽の隅に雲の井あり 傍に小祠あり 城主有馬候勝利の守神として祀られし所なりしと』、と記されていました。荒れてしまっていたのを嘆き、地元の人が昭和40年(1965年)初秋に再建したことも綴られていました。写真を撮り損ねましたが、チアックに屋根を設けた井戸址があるようです。

    『雲井龍神』の題字があった古い石碑の光景です。文書の前の方を紹介しますと、『古老伝えて曰く 丸岡城の巽の隅に雲の井あり 傍に小祠あり 城主有馬候勝利の守神として祀られし所なりしと』、と記されていました。荒れてしまっていたのを嘆き、地元の人が昭和40年(1965年)初秋に再建したことも綴られていました。写真を撮り損ねましたが、チアックに屋根を設けた井戸址があるようです。

  • 先に解説碑を紹介した、『雲の井』に関連する『雲井龍神』の小さな社かと思って撮影しましたが、社には何も表示がありませんでした。

    先に解説碑を紹介した、『雲の井』に関連する『雲井龍神』の小さな社かと思って撮影しましたが、社には何も表示がありませんでした。

  • 少し離れた南側から見上げた、丸岡城天守の光景です。三階に設けられた望楼は、『見掛けだけのもので、外に出ることはできない』とのネット情報もありました。『回縁(まわりえん)』と呼ばれているようです。

    少し離れた南側から見上げた、丸岡城天守の光景です。三階に設けられた望楼は、『見掛けだけのもので、外に出ることはできない』とのネット情報もありました。『回縁(まわりえん)』と呼ばれているようです。

  • 現地でも考えてみましたが、目的が分からなかった三角形の石標の光景です。こちらから見た先端が、南を指しているようにも見えました。

    現地でも考えてみましたが、目的が分からなかった三角形の石標の光景です。こちらから見た先端が、南を指しているようにも見えました。

  • 『野面積(のづらずみ)』の天守台石垣の西面の光景です。城郭の石垣としては、比較的初期の時代(戦国~安土桃山時代)に積まれたものが多い石垣です。一見、雑に見える積み方ですが、『控え(奥行き)』が充分ある長い石を、バランスよく積んだものは、長い年月に耐えることができます。

    『野面積(のづらずみ)』の天守台石垣の西面の光景です。城郭の石垣としては、比較的初期の時代(戦国~安土桃山時代)に積まれたものが多い石垣です。一見、雑に見える積み方ですが、『控え(奥行き)』が充分ある長い石を、バランスよく積んだものは、長い年月に耐えることができます。

  • 南西門の石積のズームアップ光景です。短編と長編を工具に組み合わせた算木罪になっていました。その周りは、自然石をそのまま積んだ野面積です。

    南西門の石積のズームアップ光景です。短編と長編を工具に組み合わせた算木罪になっていました。その周りは、自然石をそのまま積んだ野面積です。

  • 東側から眺めた丸岡城の天守光景です。天守台と同じ高さの石段が、1階の出入口まで向かっていました。天守台の中になる、地階は設けられていないようでしたから、籠城に適した造りではないようです。

    イチオシ

    東側から眺めた丸岡城の天守光景です。天守台と同じ高さの石段が、1階の出入口まで向かっていました。天守台の中になる、地階は設けられていないようでしたから、籠城に適した造りではないようです。

  • 『天守閣紀念碑』の題字があった記念碑です。有志から資金一千円あまりの寄贈を受け、天守閣の外廻りの修理をした時の寄付者の四名(中野吉平、南部治平、吉川勘助、長侶市郎左エ門)が、土生彰に碑文を頼み、明治43年(1910年)9月に建立された碑です。また、裏側は昭和18年(1943年)に解体修理が完成した記念碑にも併用されています。

    『天守閣紀念碑』の題字があった記念碑です。有志から資金一千円あまりの寄贈を受け、天守閣の外廻りの修理をした時の寄付者の四名(中野吉平、南部治平、吉川勘助、長侶市郎左エ門)が、土生彰に碑文を頼み、明治43年(1910年)9月に建立された碑です。また、裏側は昭和18年(1943年)に解体修理が完成した記念碑にも併用されています。

  • 天守の1階の出入口が見える、東北側から見上げた天守の光景です。下部中央に見えている石碑は、先ほど紹介した明治43年(1910年)に建立された、『天守閣紀念碑』です。

    天守の1階の出入口が見える、東北側から見上げた天守の光景です。下部中央に見えている石碑は、先ほど紹介した明治43年(1910年)に建立された、『天守閣紀念碑』です。

  • 『算木積(さんぎづみ)』が施された、石垣の東北のコーナー部分の光景です。『算木積』は、天正年間(1573~92)にはすでに見られますが、関ヶ原の戦い以後の全国的な築城大盛況期に急速に発展し、慶長10(1605)年頃に完成した積み方とされます。

    『算木積(さんぎづみ)』が施された、石垣の東北のコーナー部分の光景です。『算木積』は、天正年間(1573~92)にはすでに見られますが、関ヶ原の戦い以後の全国的な築城大盛況期に急速に発展し、慶長10(1605)年頃に完成した積み方とされます。

  • 野面積の石垣から顔を出した草の光景です。自然に生えたものではなく、石垣には悪影響のない草花を選んで植え付けたもののようでした。

    野面積の石垣から顔を出した草の光景です。自然に生えたものではなく、石垣には悪影響のない草花を選んで植え付けたもののようでした。

  • 斜めから見上げた丸岡城の天守の光景です。新緑が周りを飾って切れました。南西側方面からの光景になります。

    斜めから見上げた丸岡城の天守の光景です。新緑が周りを飾って切れました。南西側方面からの光景になります。

  • 明治17年(1884年)に建立された、『瓦石合屋文仲』の碑です。合屋文仲の60才の還暦を祝い建てられた碑です。合屋文仲は藩医として伝染病の予防規則を作など、伝染病制度に貢献しました。また、明治維新後は医師組合の長などを務める傍ら、俳諧や茶道などに通じ、多才に町民を指導した人です。蓑笠社の10世大全庵瓦石を務めました。

    明治17年(1884年)に建立された、『瓦石合屋文仲』の碑です。合屋文仲の60才の還暦を祝い建てられた碑です。合屋文仲は藩医として伝染病の予防規則を作など、伝染病制度に貢献しました。また、明治維新後は医師組合の長などを務める傍ら、俳諧や茶道などに通じ、多才に町民を指導した人です。蓑笠社の10世大全庵瓦石を務めました。

  • おにぎり型の句碑の光景です。『耕や城より望む五万石』の句は、丸岡町出身の俳人であり天守閣を町へ寄贈した一人、中野吉平の養子である中野信次郎(水明渓)が詠んだ句です。『天守にのぼり坂井平野の見れば殿様の気持ちがわかる』の意のようです。昭和41年(1966年)7月の建立です。

    おにぎり型の句碑の光景です。『耕や城より望む五万石』の句は、丸岡町出身の俳人であり天守閣を町へ寄贈した一人、中野吉平の養子である中野信次郎(水明渓)が詠んだ句です。『天守にのぼり坂井平野の見れば殿様の気持ちがわかる』の意のようです。昭和41年(1966年)7月の建立です。

  • 本丸址より一段低くなった、石畳の周回道路の光景です。左手には、それほど高くない石垣が積まれていました。江戸時代の縄張り図を参照しますと、本丸内に設けられた段差のようでした。

    本丸址より一段低くなった、石畳の周回道路の光景です。左手には、それほど高くない石垣が積まれていました。江戸時代の縄張り図を参照しますと、本丸内に設けられた段差のようでした。

  • 松の木の根元の左側にあるのが、『一筆啓上の碑』です。『一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ』は、本多富正が妻に送った日本一短い手紙とされています。また、これを基に、『一筆啓上賞』が創設されました。その左にある小さな碑には、『お仙は成重の幼名であること及び本多四代の業績』について注釈が書かれています。

    松の木の根元の左側にあるのが、『一筆啓上の碑』です。『一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ』は、本多富正が妻に送った日本一短い手紙とされています。また、これを基に、『一筆啓上賞』が創設されました。その左にある小さな碑には、『お仙は成重の幼名であること及び本多四代の業績』について注釈が書かれています。

  • 『丸岡城』の天守閣周りの庭園光景です。かつて、江戸時代の縄張り図を見ますと、本丸御殿が置かれていた場所のようです。

    『丸岡城』の天守閣周りの庭園光景です。かつて、江戸時代の縄張り図を見ますと、本丸御殿が置かれていた場所のようです。

  • 『丸岡城天守閣(重要文化財・別名霞ヶ城)』のタイトルがあった大きな石碑の光景です。天正3年(1575年)、織田信長が北陸の一向一揆の平定を目的に、柴田勝家の甥・勝豊に命じて豊岡城を築かせたのが始まりで、翌1676年に現在地に移されたことなどが紹介されていました。

    『丸岡城天守閣(重要文化財・別名霞ヶ城)』のタイトルがあった大きな石碑の光景です。天正3年(1575年)、織田信長が北陸の一向一揆の平定を目的に、柴田勝家の甥・勝豊に命じて豊岡城を築かせたのが始まりで、翌1676年に現在地に移されたことなどが紹介されていました。

  • 丸岡城の茶室、『霞城庵』の建物光景です。ボランティアガイドさんの詰所を兼ねているようでした。入場はしませんでした。

    丸岡城の茶室、『霞城庵』の建物光景です。ボランティアガイドさんの詰所を兼ねているようでした。入場はしませんでした。

  • 『丸に二つ雁金』の紋です。清和源氏系の足利氏流斯波氏族の紋とされ、柴田家家紋に使われている紋です。『丸に立ち葵』が本多家城主時代、『五瓜に唐花』の紋が、有馬家城主時代の門になるようです。

    『丸に二つ雁金』の紋です。清和源氏系の足利氏流斯波氏族の紋とされ、柴田家家紋に使われている紋です。『丸に立ち葵』が本多家城主時代、『五瓜に唐花』の紋が、有馬家城主時代の門になるようです。

  • 丸岡町牛ヶ島地区の御野山古墳(元の白山神社)から出土した石棺です。神社の杉林の中にあった円墳の西側から出土しました。古墳時代(3世紀半ば過ぎ頃~7世紀末頃)中期後半のものと推定されています。

    丸岡町牛ヶ島地区の御野山古墳(元の白山神社)から出土した石棺です。神社の杉林の中にあった円墳の西側から出土しました。古墳時代(3世紀半ば過ぎ頃~7世紀末頃)中期後半のものと推定されています。

  • 同じく、御野山古墳(元の白山神社)から出土した石棺の光景です。5世紀半ばには、各地に巨大な古墳が出現し、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなりました。5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が増えてきました。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあり、この頃大阪南部では須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れました。

    イチオシ

    同じく、御野山古墳(元の白山神社)から出土した石棺の光景です。5世紀半ばには、各地に巨大な古墳が出現し、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなりました。5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が増えてきました。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあり、この頃大阪南部では須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れました。

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2016春、福井の名城巡り

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