2015/09/03 - 2015/09/04
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たびたびさん
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一日目は、長野県の未踏エリア、奥穂高・乗鞍・白骨温泉を巡る前に、真田の郷、松代町を探訪する旅。松代は3回目ではあるんですが、これまでは表面的になぜた程度。今回は、自転車で丸一日をかけてじっくり回り、その魅力を改めて確認してみることにしました。
ところで、松代は真田信之を初代とする真田家松代藩10万石の城下町。この10万石というのは信州では最大の規模であるのですが、その前に真田家と松代の関係をおさらいしておきたいと思います。
真田家がはっきりと全国区の知名度となったのは、武田信玄の家臣からその後の武田家滅亡後の混乱期を乗り切った真田昌幸辺りでしょう。武田家が滅亡し信長に臣従した後も、本能寺の変で事態は再び流動化。北条、上杉、徳川といった有力武将のはざ間にあって、丁々発止。新たな天下人、秀吉に所領を安堵されるまでには、徳川家康軍との間では第一次上田合戦の大勝利を収め、天下に真田の名前を轟かせています。
当時の真田の根拠地は上田城。この間、昌幸は上州の沼田に進出し、新たな沼田城という拠点を設けることにも成功しています。そして、この沼田城には、昌幸の長男、信之を配すのですが、その後、関が原の戦いにおいて東軍についた信之の沼田城は、西軍方についた上田城の昌幸方につくことはなく、真田家のある意味、両天秤作戦に一役買うこととなっています。
そして、真田家でもっとも有名な武将は、昌幸の次男、真田信繁(幸村)。関が原の戦いでは、父、昌幸とともに西軍につき、関が原に向かう徳川軍の主力、秀忠率いる3万8000人の軍勢を第二次上田合戦において足止めし関が原の戦いに遅参させるという大活躍をみせています。また、大阪の陣での幸村の戦いはご案内の通りです。
関が原の戦いの後は、昌幸、幸村は九度山へ。信之は上田城に入り、その後、松代へ国替となるのです。松代への国替は、9万5千石から沼田領の3万石を加えた13万石だったので、大幅な加増ではあるのですが、真田に煮え湯を飲まされた秀忠の嫌がらせという説もあり、信之も大きな不満をもっていたと伝えられます。
真田家の昌幸、信之、幸村と上田、沼田、松代の関係を概観すると以上のようなことかと思います。
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朝一番の新幹線で東京から長野駅に到着。1月に来たときは工事中だったのですが、とうとう完成したんですね。木をふんだんに使ったデザインが見事です。
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駅前からすぐの曇り時々晴れの喫茶店です。長野市内では評判が良いようなので、モーニングを食べようと寄りました。しかし、ここはモーニングがないんですかあ。逆に、そんな喫茶店ってあるんですね。
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仕方がないので、ワッフルドックと珈琲。ワッフルドッグが珍しかったのですが、中のウインナーとワッフルの固さが違うので、噛んだ時に中のウインナーだけが噛みきれずに残ってしまう。ちょっと食べにくいように思いました。
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今日は仕事でやってきたのですが、まだ時間があるので長野駅周辺を少し散策します、
二線路通りは、長野電鉄長野駅前と中央通りとを結ぶ何でもない街路なんですが、どうしてこれが観光スポットなのかというと、長野駅開業と合わせて駅前から放射状に建設された道路のうちの一つであったという長野市の都市整備の名残だったから。
一線路は末広通り、三線路は千歳町通りと呼ばれていて、二線路通りの名前が残っているのはここだけ。一方の一線路や三線路の名前は、地元の人にもほとんど知られていないと思います。 -
そのまま、しまんりょ小路へ。善光寺表参道である中央通りから分かれて、黄梅山裁松院の脇を通って南千歳町交差点に抜ける約200mほどの小さな通りです。善光寺からの帰りに、長野駅まで向かうには近道になっているのですが、長野市は門前町であり、戦災にも遭わなかったことでこうした路地が残っているのだそうです。
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栽松院は、曹洞宗の寺で、通称は「しまんりょう」。長野市街を流れていた旧裾花川の中州にあった「島の寮(=お堂)」というような意味のようです。脇を通る小路のしまんりょう小路も、この寺の名前に由来しています。境内には、不動さんや大黒さんのお堂も建っています。
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中央通に出ました。まだ、人通りはほとんどありません。
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こちらの十念寺は、源頼朝を開基とする寺。源頼朝の行列がこちらにさしかかると、にわかに紫の雲がたなびき、一光三尊の阿弥陀如来が影現し、頼朝に直接十遍のお念仏を授けたというのです。
善光寺の駒返り橋では、橋の穴に頼朝の馬の蹄がはさまってしまい、駒を返したという、ちょっと不名誉な話が伝わっていますが、こちらの自伝は頼朝の面目躍如といったところかと思います。本堂の中を少し覗いて見ましたが、欄間の極彩色が印象的でした。 -
権堂商店街の入口に狭い参道があって、
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その奥に本堂が建っているのが往生院。入口付近に寺暦が紹介されていて、弘法大師が善光寺を訪れた際に創建したのだそうです。
ただ、本堂の横にお稲荷さんのような祠もありますが、それ以外は特に見どころはないように思います。 -
中央通に戻って。表参道に面した中澤時計本店は、同じ通りの藤屋旅館と並んで国の登録有形文化財。大正13年の道路拡幅工事の際に建て替えられたもの。外観は鉄筋コンクリートなのですが、木造二階建て寄棟造り。角が隅切りとなっていて、落ち着いた意匠となっています。
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この善光寺郵便局は、昭和初期の木造建築で、かつて営業していた五明館という旅館の旧館を借りているのだそう。そう聞けば、二階部分に赤い欄干が巡っているのはまさしくそれを示しているように思います。
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善光寺の仁王門は、何度も火災で焼失していて、現在の仁王門は、大正7年に再建されたもの。
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高さは13.6m、間口13m、奥行き7m。
左右に立つ阿吽の仁王像は、高さ5mの檜造り。 -
高村光雲と弟子の米原雲海が手掛けた傑作です。
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仲見世通りを進んで、
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これは、善光寺の三門。
五間三戸二階二重門、入母屋造という堂々とした構えで、少し反りの入った屋根のラインもきれいです。建てられたのは、本堂に遅れること43年後の1750年。二階には、文殊菩薩と四天王像を安置しています。 -
その脇にある善光寺放生池は、大勧進から善光寺を望む位置。亀の池とも呼ばれるくらい、大賀ハスの池には亀が多いです。
池は大勧進の外堀といった感じですが、天明大飢餓で大勧進が蔵米を放出した時、関係者によって築造されたということです。 -
善光寺の奥の日本忠霊殿にある善光寺史料館。なぜか今日は、無料の日。経蔵特別展というのをやっていましたが、点数は限られていて、ちょっと微妙ですね。
ということで、もう時間がなくなりました。ではこれで、仕事に向かいます。 -
仕事を終え、翌日はフリー。
松代ロイヤルホテルから、松代町の散策に向かいます。 -
朝早いので、まずは歩きで。
赤い鳥居がかわいらしい御船屋稲荷は、松代藩の御船屋跡に建つ小さな神社です。
この御船屋辺りには水路が走っていて、鮒沢川、関谷川を伝って千曲川まで至っていたということ。領内七ヵ所の渡船場を支配する役所だったということです。今と違って、鉄道のない時代。水運の重要性は山国にあっても同じだったのではないかと思います。 -
そして、旧松代駅へ。
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ここは、平成24年4月に廃止された長野電鉄屋代線の廃駅。まだ廃駅になる前に来ているんですが、その時はそんな風になるとも思わず、思い出そうとしてもぼんやりした記憶しかありません。廃止されるとも知らなかったし、特に感慨はなかったのだと思います。
その次にきた時も、廃線を決めるためかどうかは分かりませんが、戸倉上山田温泉に行く途中の列車内で利用者アンケートのようなことをしていたのでそれに答えたこともあったりして、そんなことも思い出してしまいました。 -
松代城跡は、松代駅の目と鼻の先。すぐ隣にありますし、、こじんまりとまとまっているので、どうかすると時代劇のセットのよう。
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しかし、戦国期には武田信玄が信濃侵攻を開始し、越後の上杉謙信との抗争が始まると、川中島にほど近いこの城は、上杉への最前線として、非常に重要な位置を占めることとなります。当時の名前は、海津城。海津城の方が名前は通っているかもしれません。江戸期は、上田から移った真田氏の居城。明治期まで続くことになりますが、その時はもう松代城へと名前を変えています。
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改めて、市街中心部へ。
小山田家は、代々、松代藩の次席家老などを歴任した名家であり、真田昌幸の長女を正室に迎えたりもしています。
しかし、小山田といえば、信玄の二十四将であったのに、最後は勝頼を裏切った小山田信茂を思い出しますね。しかし、調べてみるとこちらの小山田家の祖は小山田備中守といわれる小山田昌辰。両者に血縁関係はないようです。
黒塗の門が古風な面影をとどめていました。 -
矢沢家の表門は、寛政4年(1792年)に再建されたという長屋門。長屋門は、門の両側に同心部屋を備えています。門は長野市指定有形文化財ですが、表から見ることしかできません。
ちなみに、矢沢家は石高1400石で藩中最高の家格。代々筆頭家老を務めたということです。 -
松代町には広い範囲に観光スポットが点在している印象ですが、中心部にも小さな観光スポットがたくさんあります。観光パンフレットにはそれを巡る散策ルートが紹介されていて、その中にこの松代活動館跡というのも入っています。
駒札が建っていて、「松代活動館」という名の映画館が大正時代から昭和40年代までここにあったということ。一階が桝席だったと言いますから、各地で時々残っている芝居小屋みたいに、松代の文化を育んだ施設だったのかもしれません。 -
旧松代藩鐘楼は、真田信之が松代に入った直後に建てられ、火の見櫓も兼ねていたそうです。
川越に時の鐘というのがあって有名ですが、この鐘楼もそれに匹敵するくらい立派ですねえ。
なお、この鐘楼で佐久間象山が電信実験をしたということもあって、その記念碑も建っていました。 -
夏目商店は、松代まんじゅうとありましたが、これは酒饅頭なんですね。
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一般住宅のような玄関で注文すると奥から商品を持ってきてくれました。これは、正統派の酒饅頭。地元の常連さんがポツポツ訪ねてきます。観光客にはあまり知られていないようですが、これはすばらしい。価値ある酒饅頭だと思います。もっと、有名になってもいいでしょう。
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長国寺は、松代藩真田家の菩提寺。松代では、もっとも有名なお寺です。
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イチオシ
山門を入ってすぐに本堂屋根のシャチホコが目に飛び込んできて、けっこうなインパクト。これも記憶に残る個性的なポイントでしょう。
天文16年(1547年)に真田正之の祖父にあたる真田幸隆が開基となって、今の上田市に建立された長谷寺が始まり。その後、真田正之が松代に入るとこの寺が建てられました。
真田信之(松代藩初代藩主)、真田幸道(3代藩主)、真田信弘(4代藩主)の霊屋3棟が残っていますが、そのエリアは有料。お寺の人に声を掛けると鍵を開けてくれます。 -
梅翁院は、真田信之の側室、玉川右京とその両親を弔うために建立された寺。
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これが本堂ですが、
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見どころは、手前の「魚濫観音像」。入口脇の建物に安置されていて、硝子越しに拝むことができます。松代藩では養鯉が奨励されていたそうで、この観音は鯉に乗る姿。体をひねった姿も印象的ですが、鯉つながりで、特に料理人に信奉されてきたようです。
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西念寺の境内には、
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門を入ってすぐの場所に、江戸時代の相撲力士、君ヶ嶽助三郎の碑があります。最高位は前頭筆頭で、小兵ながら大関や小結を倒す活躍。境川の養子となり、四代目境川という年寄となり、現役力士と年寄を兼ねた人物だったということです。
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祝神社は、通称「お諏訪さん」。松代町方の総鎮守神であり、産土神としても親しまれてきた神社。1000年以上の歴史があるということです。
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鳥居からは、ちょっといかめしい感じの本殿が見える眺め。本殿表の龍の彫り物なども拝見しました。
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そろそろいい時間になってきたので、松代まち歩きセンターへ。ネットでここがレンタサイクルをやっているのを調べておきました。
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レンタサイクルは電動自転車もあったので、それを利用。松代大本営地下壕から川中島の古戦場跡へも行く予定なので、やっぱりそれが正解でしょう。
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さて、ここからは自転車を使って回ります。
前島家は、禄高300石から最後は200石だったという中級武士の武家屋敷。 -
屋敷は真田家の松代入封の際に拝領したというのですが、
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そうした歴史というよりも、
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少し細めの柱によって、開放感のある軽快なスペースが生まれています。縁から池のある庭を眺めて、今の感覚からしても住みやすそうに感じました。
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イチオシ
戸袋の絵が当時のままだそうで、見どころの一つとなっています。
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蓮乗寺は日蓮宗の寺院で、本堂は明治の再建によるもののようですが、真田家の菩提寺である長国寺の屋根の六文銭とシャチホコと同じようなデザインですね。
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見どころは、この佐久間象山の墓。境内の一番目立つ場所に石の囲いがあって、すぐにわかりました。
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黄色っぽい土壁の住宅は、傍らに説明板があって、かいこ種商、倉石定吉が大正後期に蚕種保管場・養蚕場として建てたものだそうです。
長屋門と旧真田男爵家が営業する「松真舎牛乳店」の経営を引き継いだ牛乳処理工場があって、登録文化財となっているようでしたが、そっちの方はよく分かりませんでした。 -
大林寺は、真田昌幸の妻、山之手殿の墓所。初代松代藩主、真田信之が松代へ移封となった際に上田の大輪寺から分霊して松代に建立したそうです。
山寺常山、矢沢頼道、鎌原桐山といった地元の名士の墓もあるようで、入口にそれぞれの功績を紹介する駒札がありました。 -
寺町商家は、最近整備された施設のようですが、これはいいです。
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もともとは、江戸末期から昭和初期まで質屋等を営んでいた金箱家の旧宅なのですが、
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イチオシ
門を入った敷地は真ん中の池のある庭を取り囲んで、
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母屋や蔵が建つ個性的な空間。そしてそれぞれの建物がレストランやちょっとした展示室になっている商業施設なんですが、あくまで歴史的な建物としての価値がまったく損なわれていないところがいいでしょう。
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大英寺は、松代藩の藩主、真田信之の正室、小松姫の菩提寺。ちなみに、小松姫は徳川氏譜代家臣の本多忠勝の長女で、徳川家康の養女となって、真田家に輿入れした姫。徳川にとって真田は憎い相手だったはずですが、その仲を取り持つために重要な役割を果たします。
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この寺の本堂がもともと小松姫の霊屋だったもので、真田氏の霊屋の中では最も古く最大級のものだということです。修理のためかと思いますが、けっこうな工事をしていました。
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この表門と合わせて長野県宝となっています。
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本誓寺は、真宗大谷派。親鸞聖人が倉科の自證院を再興して本誓寺と改め、弟子の是信坊を開基とした古寺。その後、倉科村から現在地へ移ったのは江戸時代の初期です。
本尊は親鸞聖人の作という「瀬踏みの阿弥陀」。正月3日間だけ拝観できるそうです。 -
証蓮寺は、山門前に駒札があって、なんかいろいろ書いてありますねえ。
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親鸞聖人の一番弟子の子供が開基したとか、境内には松代城の土塁が残るとか。
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入ってすぐに蔵造りの太子堂があって、これもちょっと目を引くと思います。
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角屋本店は、松代町の市街からはちょっと外れ。ただ、暖簾の感じとかは十分老舗っぽいですね。
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いただいたのは、真田重宝。
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焼き菓子なんですが、大事に大事に包まれたような包みを開けると、何んともきれいでおいしそうなお菓子が現れる。餡子のしっかりした甘さもあるし、なかなかインパクトのある出来栄えです。
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ここから、今度は古戦場に向かいまして。。
松代まち歩きセンターで川中島の古戦場に行くと言ったら、是非見てきなさいと勧められたのが、この典厩寺。 -
この寺は、第4次川中島の戦いである八幡原の戦いで討ち死にした武田信玄の異母弟、信繁の墓があります。
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イチオシ
境内には、信繁の首を洗ったという「首清め井戸」もあって、かなりリアルなんですが、もうひとつの圧巻は日本一大きいという閻魔堂のこの閻魔大王像でしょう。
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いずれにしても、武田氏の隆盛期を支えた猛将を思うと、その後の武田家の運命が余計に悲しくなるような気がしてしまいました。
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と言っても、この八幡原の戦いは、1561年。桶狭間の戦いは、前年の1560年のこと。今川義元の討ち死にで今川氏が弱体化するのに乗じて、駿河を侵食。西上の際に徳川家康軍を蹴散らした三方が原の戦いは1573年のことです。武田信玄はここで病没して、この辺りが武田氏のピーク。そこからが速くて、その後は、1575年の長篠の戦の敗戦から、天目山の戦いまでの滅亡の運命をたどります。
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記念館には
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信玄・信繁・山本勘助の画像ほか武具、仏画などが展示されていました。
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武田信玄と上杉謙信が5度も戦った川中島の戦いですが、その中で最も激しかった八幡原の戦い。今では、芝生の公園になって、びっくりするくらいきれいに整備されていました。
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これは、象山の像ですね。
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長野市立博物館は、川中島古戦場の八幡原史跡公園内にある博物館。
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八幡原史跡公園は、川中島の戦いでも最大の激戦だった戦場跡ですから、ここに博物館を建てるのは確かに一番ふさわしいかもしれません。
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山本勘助のきつつき戦法で挑む武田軍2万とそれを察知して妻女山をいち早く下った上杉軍1万3千。上杉軍をはさみ討とうと妻女山に向かった武田軍の別働隊は1万2千。その残り8千の本隊を裏をかいた上杉軍1万3千が一気に襲ったのです。それに気づき、何とか救援に駆けつけた別働隊を迎えると、上杉軍はすでに信玄を討ち取る機会が去ったことを悟り、静かに撤退を始めるのでした。
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それにしても、上杉軍が3000余、武田軍が4000余といわれる多大な犠牲者を出した激戦の解説には、改めて胸が熱くなってしまいました。
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イチオシ
そして、ここで見逃してはいけないのは、園内の八幡社にある信玄と謙信の一騎討ちの像。
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真偽のほどは確かではありませんが、それだけ接近戦が展開されたと言うのは事実でしょう。
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傍らには戦いの解説版。この戦いの立案者、山本勘助も、この戦いで討ち死にしています。
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端から眺めた川中島の景色。妻女山は、この眺めの反対側でした。
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再び、松代の街に帰ってきて。
旧横田家住宅は、江戸時代後期に建てられた中級武士の武家屋敷。 -
といっても、なんというか。
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イチオシ
藁ぶきの母屋はけっこうな広さの借景庭園も備えていてどうかすると裕福な隠居所といった佇まい。
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この家からは、その後、最高裁判所長官や鉄道大臣などの人材を輩出したそうで、ただの武家屋敷ではないようにも思いました。
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ここからは、松代象山地下壕の方に向かっての探索です。
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象山記念館は、松代藩士で、幕末の思想家、佐久間象山の資料を展示する博物館。
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佐久間象山が撮った写真を基にして造られた佐久間象山の像や象山自身が実験を行った電信機器なども。
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頭で考えるだけじゃなくて、実際にどうなのかを確かめる。これはその後の日本人に共通する優れた姿勢だと思います。
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松代焼古陶館は、象山記念館の向かい。松代には、かつて松代藩によって開発された松代焼という焼き物があって、それを復刻した作品を置いていました。
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緑釉はないことはないんですが、濃い紫の地にシンプルに掛ける景色はけっこう個性的。実用的な焼き物のように思いました。
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象山神社は、松代藩士で幕末の思想家、佐久間象山を祀る神社。
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イチオシ
幕末の尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、慶喜に公武合体論と開国論を説くなど、開明的な思想の持ち主。鳥居の脇に大きな騎馬像があって、いかにもさっそうとした姿。
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志半ばで倒れた象山に思いを馳せました。
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山寺常山は、江戸後期の松代藩士。老中となった藩主真田幸貫を補佐し、松代では佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山といわれる人物。
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その邸宅が残っていて、山懐に池を中心にした気持ちの良い敷地。
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後々作られたものだと思いますが、近代的な書院も素晴らしい。
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色彩豊かな絵を使った欄間も華美にならないギリギリのところで風流を楽しむ趣味の良さを感じさせる。
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反面、浮世離れしたと言えなくもないですが、一見の価値ありの邸宅です。
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恵明寺は、真田家ゆかりの寺。
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珍しく黄檗宗のいかめしい造りなのですが、屋根にはしっかり真田家家紋の六文銭が入っています。
境内には松代藩三代藩主、真田幸道の正室、豊姫の霊屋。この豊姫は伊予宇和島藩主、伊達宗利の娘。伊達政宗の孫になるのだそうです。 -
さて、これが松代象山地下壕。
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ここは、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために掘られた地下坑道跡。サイパンの陥落で、本土爆撃と本土決戦が現実の問題となったことで計画が実行に移されたという坑道は、意外に大規模。
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イチオシ
一番奥まで行って帰るだけという見学コースですが、一体どこまで続くんだろうというくらい延々と延びる坑道には、正直驚きました。
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こんなところに潜り込んでいて戦争に勝てるはずもないのですが、それだけ追い込まれていた証ではあるのですが、いずれにしても、本土決戦とか一億総玉砕だとか、最悪の事態が避けられたのはせめてもの救いかと思います。
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再び、松代の中心部へ帰りましょう。
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旧白井家の表門は、文武学校の前。白井家は、石高百石の松代藩中級武士。元方御金奉行、御宮奉行などを勤めた家柄だったようです。
間口は広いですが、屋根は低い。威圧感がなくて軽快な印象です。 -
敷地内の家屋は休憩所になっていて、ボランティアガイドの方がいろいろ観光客に説明していました。
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旧松代藩文武学校は、国指定史跡となっています。
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イチオシ
始まりは、松代藩、八代藩主の真田幸貫の着想から。九代藩主、幸教になって完成しますが、開校は安政二年(1855年)と幕末のぎりぎりといった時代です。
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弓術、剣術など武術の道場は、古い床なのに今でも艶々と黒光りしていて、幾多の生徒たちがここで鍛錬したんだろうという歴史を感じさせるもの。お飾りではない本物に触れたような気がしました。
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こちらは、学問所。
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玄関を上がると、
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左手が政務をつかさどるエリアと
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右手の学問所のエリアに分かれます。
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旧樋口家住宅は、旧文武学校の並び。
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この辺りは、上級武士の屋敷が多く集まるエリアで、
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樋口家も藩の目付役なども務めていました。
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母屋から少し離れた
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土蔵では、大阪の陣での真田雪村の戦いを解説する展示をやっていました。真田丸という出城の話とか、家康の本陣に肉薄した話とかは知っていても、冬の陣、夏の陣のそれぞれでどうだったのかというような全体的な解説は私も初めて。興味深く見させてもらいました。
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冬の陣では、鉄壁の大阪城を活かした布陣。しかし、全体として守りの形の中で、真田出丸が突出。敵の攻撃を誘ったうえで敵を痛打する真田の策略がまんまと図にあたりました。
これに対し、夏の陣は大阪城は堀が埋められすでに頼りにならない。茶臼山まで打って出て、積極的な攻撃で活路を見出したいとする悲壮な決意が明らかです。私としては、これに毛利勝永の陣構えに注目したい。真田の働きは目覚しかったのですが、毛利の活躍もこれに勝るとも劣らない。冬の陣では目立たなかったのに、夏の陣では真ん中に陣取って主役級の活躍を見せています。 -
そして、最後は真田邸と宝物館ですね。
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7年前に来た時は真田邸は工事中だったので、庭の一部を見ただけでしたが、今回は、工事が終了して建物の方もじっくり見ますよ〜。
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というか、その前にも来ていて、
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実は今回が三度目だったのですが、10万石大名家らしい華麗な意匠など、改めてその素晴らしいセンスに新鮮な感動がありました。
式台玄関を入って、 -
畳敷きの廊下を奥へ。
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細かな松の文様の襖模様が
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なにげに大名屋敷の風格を感じさせます。
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また、借景庭園の松の緑がとても濃い。
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イチオシ
芝生の緑とよくマッチしていて、
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これも見どころの一つでしょう。
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なんか剪定も独特のような気がするのですが、気のせいかなあ。
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真田宝物館は、真田家の文化財を収蔵する博物館。真田家から譲り受けた武具、刀剣、調度品、絵画、古文書などを悠々としたスペースに展示しています。
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いわゆる大名道具を中心に鑑賞するスタイルなので、真田と徳川の戦いとか、大坂の陣の幸村の活躍とかを期待する向きにはちょっと当てが外れるかもしれません。
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これは、蔦屋本店の名物「大名のおこびれ」。おこびれはおやつと言った意味だそう。かりんとう饅頭のようなお菓子です。
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竹風堂は、栗で有名な小布施のお店だと思いますが、池田満寿夫美術館の敷地内にも支店がありました。店舗は大きな構えで、ゆったりした内部ですね。
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お弁当になった栗の炊き込みご飯をいただきました。栗のコロンとしたのがいくつも入って、上品な味わい。やっぱり、文句なくうまいです。
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池田満寿夫美術館は、以前見た時は、池田満寿夫が時代の寵児といった存在だったこともあって、自分としてはちょっと過大な評価のような気がしていましたし、作品についても、なんか自分勝手にいい気になって作ったような匂いもして、あまりいい印象はありませんでした。
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しかし、今回、改めて作品を拝見すると、なかなかいい。女性のエロチシズムをまっすぐに見つめる視線は確かに芸術性を持っています。さりげなく引いた繊細な線やシンプルな色使いなど、感性の塊りといった作品には思わず引き込まれてしまいました。
これで、松代はおしまい。ここから、松本に移動します。 -
その途中の姨捨駅。ここには日本3大車窓という絶景がありまして、これがそれ。ちょうど晴れてきて、いいタイミングで撮影できました。
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松本駅に到着して、まずは構内にある松本市観光案内所へ。明日から計画している平湯から乗鞍とか新穂高の情報も教えてほしかったのですが、それは岐阜県側だからよく分かりませんとの答え。観光客にとっては、それだって上高地や白骨と同じ一帯で考えているエリア。もうちょっと何とかならないかなあという感じです。
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松本から上高地や平湯方面へは、松本電鉄上高地線でいったん新島々に向かうのが一般的かと思いますが、平湯温泉への最終便は松本バスターミナル17時5分発、平湯着18時30分の濃飛バスです。
ここでアクシデントがあってこれに乗り遅れてしまい、松本電鉄経由で行けると思ったら、このバスがすべての最終便であることが判明。結局、松本で一泊することになってしまいました。 -
ムラタは、松本駅からバスターミナルに向かう途中にある小さなパン屋さん。便利な場所にあります。自然酵母のパンがウリなんですが、それはちょっとお高め。
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まあ、こだわりもないので、普通のパンにしておきました。すみません。
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宿を確保して、晩飯へ。
仕掛け時計を通り過ぎて。 -
この高橋食堂は地元密着の大衆食堂なんですが、地元名物のさくら肉も食べさせてくれる観光客にとってもちょっと面白いお店。
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で、私はもう一つの名物、かつ丼をいただきました。卵でとじたカツ丼なんですが、味付けはソース。これが妙にうまい。ソースの酸味が卵にもカツにも合わないはずはないんですが、やっぱりこのおいしさはかなりの工夫をして辿り着いたものではないかと思います。
バスの乗り遅れてしまいましたが、それでこんないい店を発見してしまう。アクシデントは痛かったのですが、悪いことばかりではなかったようです。 -
松本市内にはいくつもの湧水があるのですが、松本の駅前にも一つありまして、それが深志の湧水。こんな街中ですけど、ガンガン出ていてちゃんと飲めるのもすごいところ。カップが置いてあって、口に含むと冷たい水でした。
これで、ホテルに戻って、やっと一服。
明日は上高地経由で奥穂高に向かいます。
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