2015/05/10 - 2015/05/10
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
サン・タンドレア・デッレ・フラッテ教会は、サン・シルヴェストロ教会の前のメルチェデ通りを北東の方角に200mばかり進んだところにあります。お昼休み前に間に合うかな???
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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サン・タンドレア・デッレ・フラッテとは、日本語に直すと「茂みの中の聖アンデレ教会」。教会が建設されたころはそういう環境だったらしいです。今では想像もつかないですが・・・教会の歴史に関して残されているものが少なく、歴史は古いのですが15世紀に再建されたらしいということしか、文書からはわかっていません。
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教会は常に財政的な問題を抱えていたらしく、二度目の再建の話は17世紀(1604年)に出るのですが、先立つものがな〜い! それから50年後、ボッロミニが後陣、鐘楼とドームの工事を引き受け、彼の死後はマッティア・デ・ロッシが引き継ぎます。しかし、ファサードが完成する前に資金が底をつき、結局次のパトロンが見つかるのを待って、1842年にようやくすべての工事が完了しました。
シンプルな煉瓦造りのファサードは、そんなに特徴的なものではありません。煉瓦の色が1階と2階部分で異なるのは、建築時期の違い。つまり1階より2階の方が100年以上新しいからだと言われています。 -
お目当ての一つはボッロミニの鐘楼にあったのに、教会が閉まってしまうのを懼れて後回しにしたのが悪かった! もう少し足を延ばせばきちんと見ることが出来たのですが・・・いかにもボッロミニらしい歪んだ曲線を多用した円筒形のドームとその横の白い鐘楼の先端(のみ!)をご覧ください!
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この時点で12時45分。いつ閉まってしまうか気が気ではなかったのです。
サン・タンドレア・デッレ・フラッテと教会の名前が書かれた下には、奇跡の聖母の聖域santuario madonna del miracolo と言う文字が!
早速入ってみましょう。 -
おっとー!
いきなり、礼拝堂巡りを始めたようですよ。余程焦っていたようです(って自分のことなんですが、もう忘れています)。
こちらは、祭壇に向かって右側最初の洗礼者サン・ジョヴァンニ礼拝堂です。
キリストの洗礼は、ルドヴィコ・ギミニャーニの作品。キリストの晴れやかな表情、そして雲の中から現れる白いハトが印象に残っています。 -
大天使ミカエルは、私のお気に入りのキャラクターの一人。こちらはミカエルに捧げた礼拝堂です。これも一つ上と同じルドヴィコ・ギミニャーニの作品でした。サン・シルヴェストロやサン・クリソゴノにも彼の作品があったようですが、こちらも記憶にないなあ(泣)・・・
祭壇の上にある楕円形の額縁の人物はカッシャ(ウンブリア州ペルージャ近郊にある小さな町)の聖リタ。15世紀のアウグスティノ会の修道女で、部分的な聖痕(スティグマ)を受けたと伝えられています。 -
聖フランシスコ・サレジオの礼拝堂。フランスのアヌシー近郊生まれの聖人、教会博士です。
イタリア人司祭ジョヴァンニ・ボスコが1859年に、貧しい青少年のための教育活動機関を設立。彼の名前をとって、サレジオ会と名付けました。日本にもサレジオ会の学校がいくつかありますね。
祭壇画にはサレジオと修道女で列聖されているジャンヌ・ド・シャンタルが描かれています。 -
こちらは全く存じ上げない修道会ミニム会の列福された二人の僧ガスパル・デ・ボノとニコラ・サッジオに捧げる礼拝堂。
祭壇前に飾られた額縁の中の彼(何かを必死に探しているような表情をしていますね)は、祭壇画の向かって右側の彼と同一人物のように見えます。ジュゼッペ・カデスの作品。 -
現カラブリア州パオラ出身のフランチェスコ礼拝堂は右翼廊にありました。この方もミニム会の修道士だった方で、91歳で亡くなるまで謙虚と非暴力に徹した人生を送りました。
金ぴかの2人の天使が祭壇画を支えるこの祭壇を設計したのは、フィリッポ・バリニョーニ。ローマのパンテオン前にあるオベリスクを支える基盤部分を制作したことでも名を知られる建築家です。
この教会より古いと言われる祭壇画の中のフランチェスコは大きな杖を持っていますが、彼を描いた絵にはいずれも杖が登場します。一種のシンボルなのでしょうね。 -
左翼廊の礼拝堂は、マリアの母アンナに捧げられています。凹凸のある珍しい形の祭壇はヴァラディエールの作品。列柱基盤部にある長方形の緑色の石が全体を引き締めるのにとても効果的な使われ方をしています。
祭壇画はジュゼッペ・ボッターニによる聖アンナと洗礼者聖ジョヴァンニと共にいる聖母マリア。その下にはキリストが描かれた小さな額縁の「聖心」がありました。 -
この礼拝堂で最も目立つのがこちらのジョヴァンニ・バッティスタ・マイニ作の「死を迎える聖アンナ像」です。
どう見てもこれは、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会にあった、ベルニーニ作「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」を意識していますよね。 -
ルドヴィカより明らかに年を取った女性の像ですが、全体の構図、着衣の乱れ方などがとてもよく似ています。しかし、死にゆくアンナの苦しみは伝わってきても、彼女の表情にルドヴィカのような祝福される喜びは感じられません。
誰もアンナの死の席に隣り合わせた人はいないわけですから、作者が何を思ってこの彫像を作ったのかを知らない以上、イミテーションだなんだと批判されるのは、マイニにとっては不本意なことかもしれません。これはこれで、よくできた作品だと思いますよ。たとえベルニーニの影響を強く受けたにしてもね。
ルドヴィカについてはこちらを参照ください。
http://4travel.jp/travelogue/11028029 -
サン・ジョゼッペに捧げられた礼拝堂。祭壇画の中央で目立つ黄色の衣を身に着けている人がサン・ジュゼッペ。祭壇画はフランチェスコ・コッツィの作品です。
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花が沢山供えられているこちらの祭壇が、入り口にも書いてあった「奇跡の聖母の聖域」です。1842年、ユダヤ系フランス人アルフォンス・ラティスボンヌはこの聖母から思いがけない宗教的幻視を受けます。彼はすぐさまユダヤ教からカトリックに改宗し、その経験を元にユダヤ人の改宗のための組織を設立したのです。
それ以来、この礼拝堂は「奇跡の礼拝堂」と呼ばれるようになりました。ご覧の通りの超満員。たくさんの人々が礼拝に訪れていました。
アーチの両壁柱に沢山ぶら下がって見えるのは聖母への奉納品です。その多くは銀色でハートの形をしていました。祈りが通じたお礼なのかなあ・・・ -
その奇跡のマドンナです。彼女は指先から慈悲の光を発していますね。なんとなくポーズを作っているように見えるのは気のせいかしら?
アルフォンスが受けた幻視を求めて、人々は今日もここに集うのでしょうか?
むむむ。唸るのみ・・・ -
ようやく聖域に辿り着きました。
いつもなら教会に入るとすぐに、後陣に向かって写真を撮るのですが、これが初めての身廊の写真。しかも、入り口側を撮っています。
天井はカーブのあるバレルアーチ型。一廊式で、身廊のアーチの間に礼拝堂が並んでいました。入り口両脇にも小さな礼拝堂が見えますね。
入り口近く、人が大勢集まっているところが、「奇跡の聖母の聖域」です。 -
見上げればボッロミニの作ったドームです。ドームとその周辺部分のフレスコ画は17世紀の画家パスクアーレ・マリーニの作品です。
メインのドームには天のホストによって喝采を浴びる聖母の姿が描かれています。
いつも思うのですが、天は人口密度高すぎ! ここでも、落っこちてきそうな人が沢山見えますよ。 -
ドームの拡大図です。4つの窓の周りの壁が暗い色に塗られているので、中央がより一層明るく輝いています。
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こちらは後陣です。ドームと同じくマリーニの作品で、タイトルは「五千人にパンを配給するキリスト」。ルカ伝9章に書かれた話です。たった5つのパンと2匹の魚をキリスト自ら裂いて、5000人の胃袋を満たしたという話だったと思います。
中央にはキリスト。隣でキリストに話しかけているおじいさんに肩を抱かれた少年がパンを配って歩いています。 -
フレスコ画の下にある3枚の大きな絵は、左から聖アンデレの磔図(ジョヴァンニ・バッティスタ・レオナルディ)、殉教(ラザッロ・バルディ)、埋葬(フランチェスコ・トレヴィサーニ)を描いています。
前回の旅行記で訪れたサン・シルヴェストロでもよい味を出していたフランチェスコ・トレヴィサーニが、ここでも素晴らしい出来栄えを披露しています。 -
そしてこの教会に来た最大の目的は、こちらの天使達です。
サンタンジェロ橋に飾られた10体の天使像。そのうち2体がベルニーニ作(1668年〜1699年)。後はベルニーニの設計により、弟子たちによって作られたと言われています。
そのベルニーニ作のオリジナルを見にやってきたのです。 -
祭壇向かって右側は、INRI(キリストの磔において十字架の上に掲げられた罪状書き)の巻物を持つ天使。日本語では上書き書と呼ぶようです。
体に絡みついた衣服のしなやかさがやはりベルニーニならではです。 -
巻物を持つ天使のアップです。
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そして、向かって左には、茨の冠を持つ天使。
むむむ・・・衣服のひだだけでなく、彼(彼女?)の翼にも注目! 今にも飛び立ちそうな翼をしていますよ。いや〜これって本当に石なのかなあ・・・ -
こちらもアップで。
2体は、1729年に近くに住んでいたベルニーニの家族から寄贈され、この教会にやってきました。 -
2体の天使像は、全く違和感なく、教会の聖域の左右に、まるで守護天使のように立っていました。
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しかし、本当のことを言えば、天使たちのいるに相応しい場所はやはり橋の上なのかな・・・・2001年、大昔に夜のサン・タンジェロ橋で初めて対面した時のことを思い出して、ふと、そんなことを感じました。
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ボッロミニの鐘楼を見るのをすっかり忘れて、サン・シルヴェストロ広場に戻って来てしまいました。サン・シルヴェストロ教会とは広場を挟んで反対側にあったのは、フランスのナショナル・チャーチであるサンティ・クラウディオ・エ・アンドレア・デイ・ボルゴニョーニ(長〜い!)。
ブルゴニョーニとは(フランスの)ブルゴーニュ地方のことです。使徒の一人聖アンデレともう一人ブルゴーニュのサン・クラウディオに捧げられた教会なのですが、ブルゴーニュに該当する聖人がどうもいないみたい・・・
調べてみると、このブルゴーニュは、かつての神聖ローマ帝国の領土で、1493年にスペインに併合され、1678年以降はフランスに併合されたブルゴーニュ公国の一地方でした。複雑でしょ?
しょっちゅう国の名前が変わると言うのは、日本人には考えられないですが、ヨーロッパの歴史では日常茶飯事。思わぬところで、また深追いしてしまいましたよ。フランスのナショナル・チャーチになっているのも、これで納得。 -
バロック後期に建てられた、瀟洒なファサードです。
改めてご紹介しましょう。
ニッチェ左側が聖アンデレ。
右側が聖クラウディオ。フランス風に呼べば、クロードですね。
中は見ないで通り過ぎます。 -
今度は、サンタ・マリア・イン・ヴィア(通りの聖母マリア)というへんてこりんな名前の教会発見。素敵なファサードだと思ったら、やっぱり!
ジャコモ・デッラ・ポルタ(サン・ピエトロのファサードで有名)の設計で、仕上げたのはカルロ・ライアルディ(ローマの教会を多く手掛けています。ポポロ広場の双子教会等)でした。町中が美術品です!
予定にない教会に、いちいち興味を示す私。なんとかならないものか・・・ -
お次はこちらです。大きな通りラルゴ・キージを行くと見えてきましたよ。マルクス・アウレリアスの記念柱が!
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コロンナ広場に到着です。
中央に立つのは、第16代ローマ皇帝(在位161年〜180年)マルクス・アウレリアスの栄誉を称えて建設された高さ29.6mの記念柱です。アウレリアスと彼の妃はこの辺りに居を構えていたので、この柱は、神格化された皇帝の寺院(日本風に言えば神社)だったと考えられています。
10mの台の上に立っているので、全体の高さは39.6m。と思いきや、地下に7m、土台の部分があるそうです。更に柱の上には彫像が立っています。こちらが5.35m。ということは、全部で51.95m! この長さ、4世紀のローマ地域カタログにちゃんと記録が残っているとか。
いつ建造されたかは定かでありませんが、マルクス・アルレリアスが亡くなった180年から13年たった193年には完成したという記録が残されています。
柱は中空で、以前上の展望台(四角く囲んであるところ)」に向けて、内部に螺旋階段が取り付けられていますが、現在は一般公開はしていません。
1588年、教皇シクストゥス5世の命によりドメニコ・フォンターナが復元。頂にはすでに失われていたマルクス・アウレリアスの像に代わってサン・パオロ像が立てられました。 -
らせん状に彫られたレリーフが柱の表面を覆っています。レリーフは高さ130cmで、21枚あります。
レリーフにはドナウ川北部にある帝国の領土をめぐってのマルコマンニ族との戦い(172年〜173年)、サルマタイ人との戦い(174〜175年)が柱の下半分と上半分に分かれて描かれているそうです。
マルコマンニ族というのは、ゲルマン人で今のドイツからチェコにかけて、サルマタイ人というのは、今のウクライナ辺りにそれぞれ暮らしていた民族です。ローマ帝国は、ドナウ川を実質的な国境とみなしていましたが、紀元100年頃から頻繁に国境周辺で異民族との衝突が起こるようになりました。
101年から2回にわたり戦争となったダキアについては、これから見に行くトラヤヌスの記念柱のところで触れます。 -
レリーフは広げると1枚の巻紙のようになります。ローマ文明博物館Museo della Civilità Romanaには、その精巧なレリーフの石膏模型があるそうなので、次回は訪ねてみたいと思っています。
記念柱の向こうに見えるのは、イタリア首相官邸のキージ宮・・・
あれ? 私、クイリナーレ宮殿を首相官邸と書きましたよね。ギョギョギョ・・・と青くなって調べてみたら、ごめんなさい。クイリナーレ宮殿は大統領官邸でした。 早速訂正しておきます。首相と大統領のいる国って紛らわしいです。首相は、大統領が指名し、議会がそれを承認する。各省の大臣は、首相の指名に基づき、大統領が任命するんだそうです。ドイツとイタリアは首相、フランスは大統領が権力を握っているんでした・・・
話しが又脱線・・・と言うわけでキージ宮については、また今度。 -
お腹がすいたので、コロンナ広場前のとても立派なガッレリア・アルベルト・ソルディGalleria alberto Sordiに入ってみます。アルベルト・ソルディというのは、イタリアの喜劇俳優で、彼の名前から付けられた建物なんですって。
中はショッピングセンターになっています。 -
中はご覧の通り、大変豪華な造りです。
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結構混んでいますね。有名なブティークも数多く出店しているガッレリアですが、ちゃんとB級グルメもありましたよ。
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堂々とした造りのガッレリア・アルベルト・ソルディ(以前はガッレリア・コロンナと言う名前でした)を出て、
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もう一度、マルクス・アウレリアスの記念柱を眺めます。
今度は、ちゃんと歴史勉強してきますよ〜 -
今度はローマの目抜き通りの一つ、コルソ通りVia del Corsoを南下します。
しばらく進むと右手に見えてきたのは、パロッツォ チポッラPalazzo Cipollaという名前の美術館。ちょうど、ローマのバロックという展覧会が開かれていました。
いくら時間があっても足りないローマですねえ・・・ -
そろそろメインストリートにも飽きてきたので、上の美術館の向かい側にあるガッレリア・シァッラの先にあった細い路地を左に入ります。やはり、街歩きは路地に限ります。
このガッレリア・シァッラ今回入らなかったのですが、中に巨大な吹き抜けのあるアーケードがあって、写真で見たらとても素敵でした。
こちらは、オラトリオ広場にあった小さなオラトリオSantissimo Crocifisso。この辺りの建物の壁は皆黄土色とベージュに統一されていて、良い雰囲気でした。
バロックの町をルンルン。 -
路地裏を進んでいったら、ありましたよ。私好みの教会が!
12人の使徒に捧げられた、サンティ・アポストリ教会。いかにもローマといった佇まいです。
北側を使徒宮殿、南側をコロンナ宮殿と接しているこの教会は4世紀の創建。 -
特徴はなんといっても、この2階建ての15世紀ルネッサンス様式の長いロッジア。2階部分は以前は1階と同じオープン構造だったそうですが、1665年カルロ・ライナルディ(またこの人出てきましたね!)によってバロック風の窓が嵌め込まれました。彼はまたその上の階の手摺、キリストと使徒たちの像をデザインしました。
建物と同じ色に塗られた鐘楼は5階建てです。 -
教会の広いポルティコです。こちらの教会も、壁は墓石やその断片、レリーフ、碑文などで覆われています。
入口の両脇のライオンは、まるで狛犬のようですね。
床のコズマーティ同様、ヴァッサレットという一族が手掛けた大理石の彫刻は大変特徴的です。12世紀半ばから15世紀にかけ、彼らはコズマーティ一族とともに仕事をし、玄関、回廊、幕屋、祭壇、燭台等の装飾を担当してきました。 -
こちらのライオンは、その創始者ピエトロ・ヴァッサレットが息子と共に作った12世紀の作品です。どことなくユーモラスな表情をしていますね。
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向かって右側のライオンは、骨付き肉を抱えています。
このペアのライオンはかつては玄関わきの壁柱を支えていました。背中に台座がついているのが分かりますね。 -
もうとっくにお昼休みに入る時刻なのに、良いのかなと思いながら入っていきます。
内部は外観とは打って変わって、1714年にカルロとフランチェスコのフォンターナ兄弟が修復を行った結果、後期バロック様式に統一されていました。金色と白を基調の色としているようです。
左下の説教壇は、セバスティアーノ・チプリアーニによる1736年の作品です。 -
この教会も一廊式で、左右に大きなドーム付の礼拝堂が3つずつありました。
さあて、一つずつ見て行こうかなと思ったときに、教会の人に「閉めます」と言われてしまいました。何かの行事があって、たまたまこの時間開いていたんだと思います。はいはい。あと1分だけ時間下さいね。段々図々しくなってきましたよ。 -
勝利の門の中央には、フランシスコ会の「交差する聖痕ある手と腕」の紋章があり、二人の天使が支えています。
主祭壇は後陣の壁に作られたシンプルなもの。祭壇画はローマでも1、2を争う大きなもので、ドメニコ・マリア・ムラトーリ作。12使徒の中のフィリポとヤコブ (アルファイの子)の殉教を描いています。
後陣のアーチには、ジョヴァンニ・オダッツィが描いたフレスコ画「聖ミカエルに敗れた反乱軍の天使達」。ああ〜落っこちてる。落っこちてる!!!
ジョヴァンニ・オダッツィはこれで3回目の登場です。オダッツィ過去はこち。
サンタ・サビーナ教会
http://4travel.jp/travelogue/11030004
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ アントネッリ家の礼拝堂
http://4travel.jp/travelogue/11042088 -
教会の開館時間のプレートが貼ってありました。
確かに、12:00から16:00までは昼休みの時間。食事をするだけでは時間が余ってしまうので、いつもこの間の時間は、昼休みをとらない博物館、美術館や大きな教会の見学にあてています。この調整が結構大変! -
広いプレピシト通りに出てきました。向かい側のビルの隙間から、サンタ・マリア・ディ・ロレート教会の印象的なドームがちらっと見えます。
トラヤヌス帝のフォロに向いて建つ2つのドーム付教会の内の一つです。いよいよ、かつてのローマの繁栄の地に足を踏み入れました。
ドキドキ!! -
ヴェネツィア広場にやってきました。
前回見た時から、どうも好きになれないこのヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂。
この建物単体が、何もないのっ原にあるのならまだ許せるけれど、なぜこのロケーションなの?と疑問です。周りの景色にそぐわないこと夥しい・・・ -
なので、記念堂だけを撮ってみました。
1861年から第二次大戦後まで、たったの85年しか続かなかった王国のために、どうしてこんな馬鹿でかいモニュメントが必要だったのでしょうか? この記念堂のために、どれほど多くの貴重な過去の遺産が消え去ったことでしょう。
更にこの建物の様式が一見してローマ風ではないこと。多分にギリシャ、そしてゲルマンの影響を受けています。 -
1885年から1905年まで20年もかけ、真っ白い大理石を途方もない量輸入して、こんな馬鹿げた役立たずの代物を作った責任者は重罪だと真剣に思っています。一応、第一次大戦その他で亡くなった名もなき戦士の墓という大義名分はありますが。
なので、この建物からローマが一望できます! 何て言われてもなびくことはありません。
待てよ・・・建物の中に入ってしまえば、その建物は見えないわけだから、逆によその建物から見て目障りだと感じるより、精神的には楽かもしれませんね。そうか・・・その手があったか・・・ -
こちらは、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂に向かって右側にあった、ヴェネチア宮殿。1455年から1467年にかけて、当時のヴェネツィア枢機卿ピエトロ・バルボによって建てられました。宮殿を作るのに使った材料は、コロッセオとマルケルス劇場から頂戴した石灰岩だそうですよ。
バルボは後に教皇パウルス2世(在位 1464年〜1471年)になります。15世紀後半と言えば、屈指の海軍力をもつ都市国家ヴェネツィアの全盛期でしたね。バルボはここを教皇の宮殿にし、その後1564年までの100年間、歴代の教皇の公邸となりました。 -
ヴェネツィア宮殿はその後、ヴェネツィア共和国大使館、オーストリア、オーストリア・ハンガリー帝国と次々と持ち主が変わり、1916年にイタリア王国の所有となり、1929年にはムッソリーニがここを迎賓館として使い始めました。彼がこの建物の2階のバルコニーから行った演説はあまりにも有名ですよね。
ヴェネツィア広場と言う名称は、勿論この宮殿から名前が付けられました。現在宮殿は、ラッツィオ州立博物館になっています。 -
ヴェネツィア宮殿の前には、松ぼっくりの形をしたフォンターナ・デッラ・ピーニャがありました。
松ぼっくりと言えばヴァチカンの中庭にあるものが有名ですが、こちらは1927年にピエトロ・ロンバルディが制作した噴水です。
今日も暑いローマ。大勢の人たちが噴水をナゾーネ君(ローマにたくさんある水飲み場です)代わりに使っていました。 -
ヴェネツィア広場の風景をもう少し楽しんでいきましょう。
先ほど建物の隙間から頭をのぞかせていたサンタ・マリア・ディ・ロレート教会とその先のサンティッシモ・ノーメ・ディ・マリア・アル・フォロ・トライアノ教会のドームが仲良く並んでいます。日本語に直すとロレート(マルケ州にある聖地の名前)の聖母教会とトライアヌスのフォロにある聖なる名前のマリア教会。
修復中のシートにあるshinto と言う寿司レストランの看板、よく考えるとおかしいですよね。カトリックの教会に神道って書いてあるんですから・・・
でも日本人がレストランの名前に神道なんてつけるかなあ? とちょっと勘ぐりたくなりました。 -
話を元に戻して、教会の前に立つのが、先ほど見たマルクス・アウレリアスの記念柱に先行すること80年、113年に完成したトラヤヌスの記念柱です。
柱の高さは30m。台座と頂の彫像部分を含めると39.86mとなります。こちらも大理石の内部をくり貫き、内部に螺旋階段を作ってあります。
らせん状に彫られているレリーフには、101年〜102年、105年〜106年と2度にわたったドナウ川北部ダキア人(現ルーマニア)との戦争の様子が描かれています。この時の戦争は全面的にローマの勝利に終わり、ローマはそこにいたダキア人を追い出し、ローマ人の入植を進めました。
それで現在、ルーマニア(ローマ人の国)では、バルカン半島で唯一ラテン語系言語が話されているんですね。
こちらの柱も、1587年にやはりシクストゥス5世の命によりドメニコ・フォンターナが復元。頂にサン・ピエトロ像を設置しています。 -
ここからカンビドーリオの丘に向かいます。
いやでも目に入るのは、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂。どうしてもこのそばを通らないわけにはいきません。 -
ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の騎馬像(エンリコ・キアラディア作)をちらっと横目で見ながらカンビドーリオの丘を目指します。
建物の右ウイングの屋根にのる4頭立ての戦車 Quadriga は 祖国の自由を象徴しています。(パオロ・バルトリーニ作)。今見えませんが、左ウイングにはカルロ・フォンタナ作の民族統一を象徴する戦車が置かれています。やれやれ・・・
長くなりましたので、この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その21 ローマ カピトリーニ美術館(1)で。
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