2015/05/10 - 2015/05/10
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
先ほどカンピドーリオ広場に上っていくときに、サンタ・マリア・イン・アラコエリ教会にそのまま下りて行かれる通路を見たので、そちらに向かったのですが、なんと17時を過ぎたためか、ゲートが閉ざされていました。結局あの結構な階段を下りて、また上らなければならないに羽目になりました。トホホ・・・
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
丘を下ってまた上る。私の人生は下りっぱなし・・・てなこと言ったら罰当たりますかね。
心配した通り、ヴィットリアーノが写真の邪魔をしています。
気を取り直して、今まで訪れた教会の内で、最も地味なファサードの教会に向かうとしますか。 -
創建は7世紀または6世紀とされています。アラコエリの意味については、次のような伝説がまことしやかに伝わっています。
ある日、皇帝アウグストゥスは、ティヴォリのシビュラ(巫女)から「真の支配者は太陽から下りてくる」というお告げを受け取った後、天が真っ二つに割れ、中から若い女性が子供を抱え、光り輝きながら祭壇に立っている夢を見た。その時、「このヴァージンが宿す子供は世界の救世主になろう。そしてこれは、神の子の祭壇(アラ・コエリ)である」という声を聞いた。そこで彼は夢で見た場所に向かい、そこに祭壇を作った。 -
教会はギリシャの僧侶達によって始められ、後にベネディクト会の修道院となり、1294年にはフランシスコ会がローマにおける本拠地として教会を再建しました。1354年、コーラ・ディ・リエンツォが教会の前に階段を作った話は前々回の旅行記で触れました。
http://4travel.jp/travelogue/11047469
ファサードはほぼ13世紀のままで、煉瓦の上にファサードを築こうとした最初の計画通りには未だ出来上がっていません。何とかファサードをという努力は19世紀半ばまで続けられたようです。ということは、今は努力していない ということですね。 -
装飾と言ったら、左右の扉の上の福音記者のレリーフ位です。
左側にはヨハネ、右(上の写真)にはマタイ。 -
中央の入り口の前には、階段が提供されたことに関する記述のある額、そのほかにもどこかから持ってきたのか古い墓用の石板が舗装の一部として使われていました。
カピトリーノの丘に建つ歴史ある教会なのでさぞかし賑わっているという感覚でやってきたのですが、全てがとても質素で地味で観光客も少なく、別の意味で驚きました。 -
内部は三廊式。左右の11本ずつの列柱は、例によって様々な建物からの流用品。床は、上の写真のような墓用石板からの流用品とコズマーティ様式の混合。面白いですね。
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床に比べて、と言っては語弊がありますが、金メッキされた木製格子天井は立派! なんでもレパントの海戦(1571年)で、提督マルカントニオ・コロンナがトルコ軍に勝利したのを記念したものらしいのですが、どれが誰の紋章なのか、私が見てもよくわかりませんでした。
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身廊左側にあった細かい装飾が施された木製の説教壇は、ベルニーニの設計と考えられています。
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身廊内の礼拝堂が左右に二つありました。左側は、15世紀のシエナ派による聖母子のフレスコ画の描かれた祭壇です。この絵にひきつけられる人々が大勢押しかけた結果、ご覧のような石造りのフレームが後付で作られたそうです。
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聖母子の礼拝堂と対面する反対側には、サン・ジャコモ・デッラ・マルカの礼拝堂がありました。フランシスコ会の修道士で、1726年に列聖されています。一目見て、同じ人が外フレームを作ったことが分かりますね。
あまり知られていない聖人なので、聖母と向き合うのには、約不足なのではという声があるそうですよ。誰の礼拝堂にしても役不足になると思いますけれどね。 -
私がこの教会を訪ねた第一の目的が、こちらのサン・ベルナルディーネ礼拝堂。右翼廊最初の礼拝堂です。
四方の壁は、ピントゥリッキオが1485年に描いたフレスコ画で覆われています。物語は、チッタ・ディ・カステッロのブフォリーニ家とペルージャのバリオーニ家の間の確執をサン・ベルナルディーネが平和的に解決したことに関するもので、ベルナルディーネが列聖されるや否や、ニッコロ・ブフォリーニは感謝のしるしとして、この礼拝堂を建設したのです。
ベルナルディーネはピントゥリッキオのパトロンでもあったため、彼の仕事には一段と熱が入りました。 -
ご覧の通り、フレスコ画は色彩豊かで、ピントゥリッキオの本領が発揮されています。
中央のベルナルディーネの左側にはサン・アゴスティーノ。そして右側はパドヴァのサン・アントニオが立っています。ベルネルディーネの持っている本には、「父よ。私はあなたの名前を皆に知らしめました。」と書かれているそうです。 -
祭壇向かって左側の壁には、サン・ベルナルディーネの葬儀の場面。今写真を撮っている位置から見ると、背後の塔に向かって遠近法が使われているのが分かりますか?
一番左隅には、黄色い衣を纏ったニッコロ・ブフォリーニ自身が描かれています。聖人はまさに天に召されるところ。 -
ちょっと暗くなってしまいましたが、向かって右側の壁には、アッシジのフランチェスコの生涯からの場面が三つ描かれていました。左はフランチェスコの世俗からの離脱。右はスティグマ(聖痕)を受けるフランチェスコ。窓の下の中央の絵には2人のフランシスコ会の僧を入れて5人の人物がいますが、誰が誰なのか詳細はわかりませんでした。
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この礼拝堂の床は何度も修復されているそうですが、見かけは伝統的なコズマーティでした。それにしてもひどい写真の撮り方だなあ・・・がっくり!
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そしてヴォールトの天井には、4人の福音記者たちが描かれています。こちらもピントゥリッキオの作品。
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左壁ヴォールトの下の半円形の部分に描かれているのは、若き日のサン・ベルナルディーネの姿。一番右端にいて、歩きながら本を読んでいるのが彼です。山にこもって修行をしていた時代を描いたものです。
どの絵も色遣いが大変美しいですね。 -
次の礼拝堂に向かう床は、墓石が敷き詰められていました。この上歩くの苦手なんですけれど・・・
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途中の礼拝堂をすっ飛ばして、こちらは聖域右側にある御聖体の礼拝堂。主祭壇は「無原罪の御宿り」像。それまでの礼拝堂と比較して豪華な装飾が施されていました。黄金色の天使たちが聖母の左右に2人。燭台を持つのが2人、そして飛んでいるのが2人。
なんといっても驚いたのは、聖母の像の背後の壁の配色。クリーム色と若草色の組み合わせは斬新ですが、肝心の聖母像がなんだかアニメの主人公みたいに私には見えてしまいます。着せ替え人形じゃあるまいしと思うのですが、いかがお感じですか? -
また床です。
なんと、真ん中にある石が〇でない、□のコズマーティを発見しましたよ。不器用な手法で、素人の仕事と言われても否定できないんじゃないかしら? これもご愛嬌・・・ -
元々、教会には最初にご紹介した、アウグストゥスが見たという、アラコエリ(神の祭壇)が描かれたモザイクのある後陣が存在しました。しかし、フランシスコ会が祭壇の背後に合唱隊の席を設けるために1565年、後陣を撤去する工事を行い、現在の姿になりました。沢山ぶら下がったシャンデリアが綺麗ですね。
主祭壇は、柱のないちょっと変わった造作で、中央にはアラコエリのマドンナとして知られている聖母のイコンが置かれていました。 -
こちらがその「アラコエリのマドンナ」像。ブナの木に描かれたもので、10世紀のビザンティン様式と言われていますが、一部の学者は6世紀と主張しているそうです。
伝説によると、ローマをペストが襲った1348年には、教皇グレゴリウス1世がこのイコンを掲げてローマの町を練り歩いたのだそうです。そのおかげでペストの流行は短期間で収まり、人々は感謝の気持ちで教会に多額の寄付を奉げたとか。 -
翼廊左側のサンタ・エレナ礼拝堂は、ご覧のようなドーム状(ロトンダ)の建物で大変珍しい造りをしています。サンタ・エレナとは、キリスト教を初めて公認した皇帝コンスタンティヌスの奥方です。
そしてこちらこそ、皇帝アウグストゥスによって建てられた神の子の祭壇アラ・コエリがある建物なのだそうです。聖フランチェスコは、ローマに来た際に、この礼拝堂で祈ると、体が浮きあがったと言われています。 -
1963年の調査によると、祭壇にはローマ帝国時代の遺跡で使われたらしい痕跡があり、骨壺から発見された12世紀の白檀の箱の中にはサンタ・エレナの聖遺物が納められていたそうです。
八角形をしたドームの中には、真の十字架を見つけたサンタ・エレナの、これまたお人形さんのような像がありました。角度を変えて見れば、アウグストゥスの姿も拝めたらしいのですが、見逃してしまいました。 -
壁には、立派なお墓が並んでいます。しばらくお付き合いください。
可愛いプットが両脇を守っている右側の記念碑。丸く開けれらた窓に見える青年は、随分と若く見えますね。
ルドヴィコ・グラート・マルガーニ。1531年に亡くなった天文学者だそうです。当然のことながらお年を召した方が多い中では、よく目立ちます。 -
こちらはフランスの枢機卿ルイス・ダルブレLouis d'Albretの墓。フランスの名門アルブレ伯シャルル2世の息子です。(1422年〜1465年)
棺の上に二つ並んでいる彫像は、ピエトロとパオロかな? -
こちらは、ピエトロ・マンツィの記念碑。サンソヴィーノとして知られるアンドレア・コントゥッチの作品。1504年。
両側の柱のグロテスク様式を含めて、素晴らしい装飾に溢れていますが、全然有名どころではないようで、調べるのが大変でした。 -
こちらは、チェッキーノ・デ・ブラッチCecchino de' Bracciというわずか16歳で1542年に亡くなった少年の墓。彼はミケランジェロ(・ブオナロッティ)に可愛がられたそうで、彼が亡くなった時、ミケランジェロはその死を悲しみ、彼のためにソネットを書き、この墓のデザインも自ら手掛けたという話です。
ミケランジェロのデザインにしては、少々無骨に見えるのですが・・・、
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墓特集最後は、ジョヴァンニ・コズマーティ作の1302年に亡くなった枢機卿マッテオ・ダックアスパルタMatteo d'Acquasparta の墓です。
作者があの有名なコズマーティ一族の方かどうかは分かりませんでしたが、どうです。横臥像下のドレープの布が波打っている様! 石ですよ! 優雅ですねえ。 -
この教会ならではというものがもう一つ。サンティッシモ・バンビネッロ 聖なるキリストの子供像 という珍妙な(御免なさい)お人形です。バンビーノの礼拝堂は19世紀後半に作られました。それまでの間、この像は特別な行事や病気の人々のための「外出」以外は聖具室に仕舞われていたそうです。
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オリジナルは15、16世紀頃の作。フランシスコ会の僧がゲッセマネの園に植えられていたオリーヴの木で作り、1647年にローマに運んだものでしたが、1994年に盗まれてしまったそうです。
御多分に漏れず、この像も今までに数々の「奇跡」を引き起こしています。御利益があって、病気が治った人数知れず。
1848年ローマの人々は教皇ピウス9世を追放し、共和国を宣言しました。その時人々は教皇の山車をバンビーノのための1台を除いて、全て焼き払ったそうです。
1870年トルローニャ家が新しい山車を寄贈し、彼のための礼拝堂が作られた1897年には、教皇により、なんと「戴冠」しています。人々のバンビーノへの熱烈な愛だけは、少なくとも本物のようです。 -
左側廊6番目は、キリストの昇天に捧げられた礼拝堂。オノーリオ・ロンギが中世ローマの名門オルシーニ家のために、1582年設計しました。祭壇画はジローラモ・ムツィアーノの作品。
彼の作品は、ティヴォリのヴィッラ・デステで沢山見ましたよ。
http://4travel.jp/travelogue/11033158 -
左側廊7番目の大天使ミカエルの礼拝堂。あまりぱっとしないミカエルですねえ。とはいえ、見つけたら撮ることにしていますのでご容赦を。
礼拝堂全体の設計はカルロ・ライナルディ(17世紀)。青が基調の祭壇のデザインは手が込んでいます。 -
サンタ・マリア・イン・アラコエリ最後の写真は、壁に描かれたグロテスク様式のフレスコです。
さりげない壁の装飾も、後でじっくり眺めると意外な発見があったりします。 -
長い長いカピトリーニ見学の後だったので、割合すんなり出てくることが出来ましたが、この教会もなかなかの物でしたねえ。
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丘の上から見下ろすローマの町は、少し日陰の部分が多くなっていました。今日は朝からずっと歩きっぱなし。さすがに疲れました。
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ヴェネツィア広場まで戻ってきました。ここからバスで戻ると言う手もあったのですが、折角なので(いつもこれ! 要は欲張り!)フォーリ・インペリアーレを通って歩いて帰りましょう。
ヴェネツィア宮殿の向かいの損害保険会社は、宮殿を意識したデザインですねえ。ヴェネツィアの紋章羽の生えたライオンの代わりに、ここでは羽の生えた馬のプレートが中央に飾られていました(笑)。 -
この位置からだと確かにウェディングケーキに見えるヴィットリアーノ(ヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂)。ケーキの中央にいるのはローマの女神。馬に跨っているのは勿論マルクス・アウレリアス・・・ではなくてヴィットリオ・エマニュエーレ2世です。
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そのほかいくつかある大きな像の内の一つ「思考」。中央の彼はペンを持って何か書いていますね。
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サンティッシモ・ノーメ・ディ・マリア・アル・フォロ・トライアノ教会とトラヤヌス帝の記念柱が見えてきました。
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記念柱の背後には、トラヤヌスのフォロがありました。中央に列柱が並んでいるのが見えますでしょうか?
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その先には、弧を描いたトラヤヌスの市場が見えます。
でも道を渡る前にこちらも見ておかないと・・・ -
遠くにみえるのはサンティ・ルカ・エ・マルティーナ教会。3本の柱が残っているウェヌスの神殿とその先はカエサルのフォロ。
右側には、何層にも積み重なったアーチが見えるここは、フォロ・ロマーノの一番外れです。
屋根の庇に使われたと思しき大理石の大きな塊が手前に無造作に置かれていました。 -
今度は道を渡って、トラヤヌスのフォロへ向かいます。
正面に見える少々傾いた塔は、「民兵の塔」。クイリナーレの丘に建つローマで最も古い塔です。13世紀初頭、アレティーノ家によって建てられ、その後教皇ボニファティウス8世に売り渡されました。教皇はこの塔を家族(カエターニ家)のために要塞化したそうです。
また話が逸れました。 -
ちょっと怪しげな人たちがうろついているのが気になるけれど、アレッサンドリーナ通りを行くことにしましょう。
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トラヤヌスのフォロは、歴代の皇帝たちが作ったフォロの内、最後に建てられたもので、ダマスカスのアポロドーロスにより112年〜113年に建築されました。ダキアとの戦争から戻った(106年)トラヤヌスは、戦利品を元に、フォロに記念柱、そしてカエサルのフォロとヴィーナス神殿の補修と、立て続けに工事を行いました。
建物の外観は綺麗な弧を描いていて2階建て。3階はテラスになっていました。東西にエゼドラ(半円形の壁)のある中央の広場は100m×120mという大きなものでした。 -
手前に3段の階段がずっと続いているのが見えますね。あれは古いものなのかなあ・・・
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隣に見えてきたのは、ロードスの騎士の館Casa dei Cavalieri di Rodiです。以前はアウグストゥスのフォロだった辺りかなあ。
1924年から32年にかけて、ムッソリーニが帝国の威信を見せるためにフォーリ・インペリアリ通りを建設した際、ここにあった中世の修道院(聖バシルにサンティッシマ・アヌンツィアータ)は立ち退きを余儀なくされました。
1946年以降、館はマルタの聖ヨハネ騎士団が使用しています。現在でも、ローマ時代のアトリウム跡の礼拝堂を利用しているそうです。
限られた予約制ですが、内部の見学もOkだそうですよ。 -
トラヤヌスのフォロの堂々たる姿をもう一度どうぞ。
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続いてやってきたのはアウグストゥスのフォロ。御存じカエサルの養子にして甥である彼がローマ帝国初代皇帝の座についたのは紀元前27年のこと。フォロは紀元前20年頃から建設が始まりましたが、用地取得に手間取り、完成したのは彼の死後紀元前2年のことだそうです。
残された全体図からみて、今写っている場所がどこなのか、よくわかりませんが、トラヤヌスのフォロにあった東西のエゼドラが、ここでは南北に置かれて、その間に広場と神殿があったようです。
建物に張り付いているように見える白い大理石の列柱は弧を描いていますね。 -
ここで目立つのは、美しい大理石の床。そして、正面奥に見える白い階段。
アウグストゥスのフォロは4世紀の終わりまでは少なくとも使用された記録が残っていますが、その後は天災などにより崩壊、風化が進みます。いつしか人々の記憶からも消え去り、中世の時代には前述の修道院が2つ建てられたようです。 -
夕陽が当たって見にくい写真ですが、こちらが上の写真のもう少し先の景色です。
階段が二つありますが、どちらが、フォロの中にあった神殿への入り口の階段なのかわからずじまい。そばに簡単な説明板があったのですが、いくら読んでも最後までイメージというか全体像が掴みきれませんでした。ガックシ・・・ -
歩行者専用道のヴィア・アレッサンドリーナはもうじきフォーリ・インペリアーリ通りと合流します。
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一体これは何だろう?
グーグルアースで調べてようやく、マッズェンツィオ聖堂Basilica di Massenzio またの名をマクセンティウスのバジリカだと分かりました。
マクセンティウスが312年完成させた巨大なバジリカで、建物の大きさは100m×65 mで高さがなんと39m。9階建てのビルに相当します。
カピトリーニ美術館にあった巨大なコンスタンティヌスの頭部像覚えていらっしゃいますか? あの全身像がこの中に飾られていたそうなので、いかに大きいか想像がつくのではと思います。 -
今見えているのは後陣のほんの一部分のみ。つまり、65mの部分です。身廊のある建物の長い方は、度重なる地震で倒壊し残っていません。唯一残った8本の高さ20mもある柱の内の1本は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂前の平和記念柱に変身しています。
そう、あの 教皇パウロ5世の命により、カルロ・モデルノが1614年に作ったファサード前の柱です。
http://4travel.jp/travelogue/11031090 -
あらっ 知り合いもいないはずなのに、手を振っている方はどなたかな? と近づいていったら、皇帝ネルウァさんでした。他にも沢山あったのですが、写したのはこの地味な方だけ。
だいぶ暗くなってきました。 -
というわけで、最後はこのネルウァのフォロです。こちらはドミティアヌス帝が工事に取り掛かり、ネルウァ帝が97年に完成させたフォロで、120m×45mと細長い格好をしていました。建物は現在その一部が残っているミネルヴァ神殿のみで、列柱が立ち並ぶ細長いフォロは主に通路として使われていたようです。
ミネルヴァ神殿はけなげにもその後も残っていましたが、こちらもパウロ5世がサンタ・マリア・マッジョーレ内にある「自らの名前を付けた」パオリーナ礼拝堂を作るために、「自ら」壊したということです。
最初、ローマに来た時、「よく、これだけ残っていたなあ」と感慨にふけったのですが、今は違いますよ。
「よくも、こんなに壊してくれたわね! プンプン! 」 です。 -
ミネルヴァは、ネルウァ帝の前任ドミティアヌスが崇拝していた神だそうです。
フォロは殆どの部分、フォーリ・インペリアーリ通りの下に埋もれ、現在見ることのできるミネルヴァ神殿は、2本の白いルーニ(カラッラ)産の大理石で作った柱とその柱頭( Colonnacceと呼ばれている)、そして中央の武器を携えたミネルヴァのレリーフがある部分のみになっています。エンタブレチュアにも、細かいレリーフが沢山残っていますね。殆ど首が取れているのが哀しい・・・ -
以上で、ローマ4日目終了です。たった4日間で23冊の旅行記はいくら何でも長すぎでしょう。明日からは、もう少し断捨離の精神で書いていこうと思っています。日常生活で断捨離が出来ない人が、旅でできるかな? それはこの後のお楽しみです。
-
コロッセオからテルミニまでは、こんな坂道を上って、サンタ・マリア・マッジョレ広場経由で帰りました。思ったほど時間はかからず。ローマ市内なら、どこでも歩ける範囲なんだと、改めて実感しました。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その24 ローマ コッペデ地区で。
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