2015/05/10 - 2015/05/10
878位(同エリア6772件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,376アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
カンピドーリオ広場に真っ直ぐ向かうはずだったのに、また何か見つけてしまいましたよ。3歩進むと歩みを止めてしまう私の足って一体何? 使い物にならないわ〜
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
見つけたのはこちら。Insula Romana ローマの島? と言う遺跡だそうです。ご覧の通り、左手にまだヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂が見えていて、あともう少しでカンピドーリオ広場に上がる階段と言う場所です。
-
煉瓦の壁が幾層にも積み重なっています。建物は地下にもつながっているので、かなり古そうです。
こんなきれいなフレスコ画も残っていました。
いや〜待てよ。これはどう見たってキリスト教会のフレスコ画。ローマ帝国時代の物ではありませんね。
そばにあった案内板を読んで、以下のようなのことが分かりました。 -
元々の建物は5階建てで2世紀に建造されたものです。中世の時代、ここには青空市場が毎週開かれていて、1階はマーケットになっていました。12世紀に「市場の聖ビアージョ」と言う名前の教会が建物の高層階に作られます。そして1653年には、教皇アレクサンデル7世(在位 1655年〜1667年) の命により、カルロ・フォンターナが「聖ビアージョと修道女リタ」に捧げられた教会を古い教会の跡に建造します。
それから約280年後の1930年代、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂等の建設に伴い、聖リタ教会は移転が決まり、解体の段階で過去の時代の建物の存在が明らかになったというわけです。
記念堂やその周辺の道路の建設は多くの歴史的な建物を破壊しましたが、ここだけ奇跡的に保存されたということですね。 -
フレスコに描かれているのは、キリストの埋葬。そばには聖母マリアと福音記者ジョヴァンニ(ヨハネ)がいます。このフレスコ画は、市場の聖ピアージョ教会の後陣にあったもので、12世紀の作品だそうです。教会の面影は、このフレスコと上の写真のロマネスクらしい鐘楼にのみ残っています。
-
「ローマの島」の建物は、2階以上が教会のほかに居住用に使われていました。何世帯分もある居住用部分には、低層階に金持ち用の広いスペースのある住宅が作られ、高層階には比較的貧しい人達用の狭い部屋(今でいうワンルーム?)があったこともわかっています
また賃貸だけでなく、所有権と言う権利が生まれていたことも判明しているそうです。もしかして、人類初の分譲マンション??? -
移転した教会の名前は、いつの間にか聖ビアージョがなくなっていて、現在は「カンピテッリにあるカッシャの聖リタ(彼女は1900年に列聖された)教会」と名乗っています。
全く存在すら知らなかった遺跡なので、掘り出し物を見つけたような気分でしたよ。ルンルン! -
さあ、階段が見えてきました。長〜い階段の先にはサンタ・マリア・イン・アラコエリ大聖堂。階段1348年、長く続いたペストの終焉を祝って、政治家…と言うよりも当時の民衆のリーダーで、ローマ共和国構想を生み出したコーラ・ディ・リエンツォによって作られました。かなりしんどそう・・・
こちらは後で参りましょう。 -
大聖堂へ通じる階段の横には、ライオンがやる気なさそうに水を吐きだしている噴水があって・・・
-
別の階段が上へ上へと続いています。道草しなければヴェネツィア広場からここまで5分かからないでしょうが、15分はかかったかな?
この上が古代ローマの中心地 カンピドーリオ広場です。ローマの市庁舎が一番上に見えています。幸いなことに、こちらの階段の方が隣よりずっと緩やかに見えます。 -
ライオン像は、エジプト製の玄武岩で作られています。午前中に見たモーゼの噴水と同じ石みたい。物憂い表情も似ています。
-
階段の途中に、隣の大聖堂への階段を作ったコーラ・ディ・リエンツォの銅像が立っていました。頭巾をすっぽりとかぶっていて、顔の表情が見えません。
彼の場合、生まれた時代が早すぎたようで、民衆のリーダーとしての栄光は長くは続かず、最後はコロンナ家が送った刺客によって殺され、死体は2日間コロンナ家の前に放置されたということです。おお怖〜!
熱弁をふるっている姿のリエンツォの銅像は、1887年に建てられました。 -
午前中にもクイリナーレ宮殿前でお会いした、カストルとポルックスの双子の兄弟がここでも出迎えてくれました。
馬を引いている二人の像は、フォロ・ロマーノにあるカストルとポルックス神殿から運ばれました。作られたのは200年、セプティミウス・セウェルス帝の頃と言われています。
1538年にミケランジェロが教皇パウロ3世の要請でカンビド−リオ広場建設のプロジェクトを立ち上げた時、彼はクイリナーレ宮殿前の双子の像をここに運ぶつもりでいました。ところが、教皇はすでに宮殿の建設をクイリナーレで始めていて、大切な彫像を失いたくなかったため、計画はとん挫しました。 -
そこで、1561年頃に見つかっていたこれらの像の断片を元に、巨像を復元する工事が進められました。向かって左側のカストルの頭部分だけはどうしても見つからなかったので、こちらはその時作られたものです。
-
二人の像は、1584年にようやく完成し、広場の入り口に設置されました。
ミケランジェロは1564年に亡くなっているので、復元された像を見ていないことになりますね。 -
振り向くと、カンピドーリオ広場中央に立つマルクス・アウレリアスの騎馬像のレプリカが目に留まりました。本物はカピトリーノ美術館の中にありますので後ほど。
制作されたのは176年。ローマの他の皇帝たちのブロンズ像がほとんど溶かされてしまったのにこの像だけ残っていた理由は、この像がキリスト教を認めたコンスタンティヌスだと思われていたからというのは、有名な話ですよね。ブロンズ像が乗っている台座はミケランジェロのデザイン。
オリジナルの像はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に飾られていたのを1538年にこちらに運んできました。 -
かつてローマ神の最高神であるユピテルやユノーの神殿のあった広場とその周辺の建物は、1536から1546年にかけて、ミケランジェロによって再構築・設計されました。彼は古代ローマ遺跡の復元ではなく、新しい、発展する都市の象徴としての広場の必要性を力説しました。マルクス・アウレリアス像は広場の中心に設置。市庁舎には二重の外階段を新たに建設し、鐘楼も中心位置へと移動させました。
-
鐘楼と騎馬像が一直線になっていることが見て取れますね。
-
市町村の事務所やギルドの経済活動のために13世紀に建てられた、広場右側のコンセルヴァトーリ宮殿も修復の対象となりました。ミケランジェロはファサードを作り変えたのです。市庁舎と調和のとれた外観になりましたね。
-
そして、その向かいに新しい宮殿 パラッツォ・ヌオヴォをコンセルヴァトーリ宮殿に対置する位置に建設しました。
こうして、台形の広場が誕生しました。町に向いている側の広場の前には壁と手すりを作りました。そして計画の最後は、この丘に至る真っ直ぐな階段を設置することでした。 -
ミケランジェロの計画から100年以上たってようやく広場は完成しましたが、広場の床のモザイク舗装に関しては、完成までにそれから3世紀を要したそうです。
-
面白い話を一つ聞きました。ローマにある古代彫像は、今市庁舎の階段前にあるような半分寝そべったような格好の物が多いですが、これは、ディナーの時の正式なスタイルなのだそうです。
古代ローマ時代に椅子はありましたが、ディナーに関しては彼らは椅子を使わず、ソファに寝そべるような格好で食事をとったのです。まあ、カウチポテト族だったということですね。 -
コンセルヴァトリ宮殿から楽しみにしていたカピトリーノ美術館に入ります。この建物と向かい側の新宮(パラッツォ・ヌオヴォ)は地下でつながっていて、出口は新宮側にありました。
カピトリーニ美術館は収蔵品の数が半端でないほど多く、メモも取れなかったので、深追いせず、さっさと行くことにします。作品のタイトル(人名)、作者もわからないものがありましたので、ご存知の方はどうかお教えくださいね。 -
カピトリーニ美術館は、シクストス4世(在位 1471年〜1484年)によってローマ市民に返還された古代ローマ時代の彫像等を、それから約250年後の1734年クレメンス12世(1730年〜1740年)の時代に一般市民に公開し始めた、世界初の美術館と言われています。
こちらはコンセルヴォアトリ宮殿入ってすぐの中庭です。 -
巨大なコンスタンティヌスの大理石像がありました。330年頃の作品。頭、足、手、腕の一部は1486年、マクセンティウスのバジリカから発見されました。どうやら体の部分は石ではなかったようで、結局見つかりませんでした。頭の部分だけでも、台座を除いて高さ260cmあります。全長は12mはあったと言われています。
その大きさがわかるように、人を入れて撮ってみました。その右横の人差し指を立てている手もでか〜い! -
早速階段で1階(日本の2階)に向かいます。
-
途中で見つけたウラニアの像。ギリシャ神話のゼウスの娘で天文学の女神です。
-
階段の踊り場には、マルクス・アウレリアスの凱旋門に描かれたレリーフ・パネルが3枚ありました。オリジナルには12枚パネルがあったそうですが、そのうち8枚はコンスタンティヌスの凱旋門に再利用され、残る1枚は行方不明なのだそう。
左 マルクス・アウレリアスと二人の野蛮人。
右 マルクス・アウレリアスの勝利。4頭立て戦車で凱旋です。 -
北の野蛮人(註 多分ダキア人のこと)に対する軍事作戦の前にカンビトーリオの丘にあったジュピター神殿に生贄をささげるマルクス・アウレリアス。
人々の後ろにびっくりするほど大きな牛が見えますね。これが生贄の品? -
こちらはトラステヴェレ近くのヴィッラ・シィアッラにあったレリーフで、戦争からローマに戻ったハドリアヌス帝が描かれています。
-
どなたかは存じませんが、ちょっとトッポイところが目を引きました。今でもどこにでもいそうなお顔です。
-
階段から天井を見上げると、ドームの中央にはオオカミの姿が! ロルムスとレムスもいます。今まで教会のドームばかりだったので、新鮮です。
-
こちらは、現存しない「ポルトガルのアーチ」にあったレリーフ。1664年に橋が崩壊したため、カピトリーニに運ばれました。
誰かが演説しているシーンかと思ったら、ローマの子供たちに食料を与えている最中なんですって。 -
アンテロープをまさに食わんとしているライオン。先ほどの物憂いライオンとは大違いの迫力です。
-
ここから、コンセルヴァトーリのアパートに入ります。各部屋に施された豪華な装飾のテーマは、一貫して「古代ローマ」です。
まずは「オラーツィとクリアーツィの部屋」です。16世紀から17世紀の初めにかけて、カヴァリエル・ダルビーノにより装飾がなされました。
手を振って歓声に応える? 教皇ウルバヌス8世(在位 1623年〜1644年)の像はベルニーニの1635年〜40年にかけての作品です。
また衣服のしわに見とれてしまいました。 -
ローマの歴史について描かれたフレスコ画は、まるでタペストリーのように垂れ下がっています!!
これはサビニの女たちの略奪。昨年フィレンツェのシニョリーナ広場でこれの彫像版を見たなあ・・・略奪なんていう生易しい言葉じゃなくて、英語はズバリrapeでしたよ。 -
ご覧のように、壁のフレスコ画を見ていくと、ローマの成り立ちの歴史がわかるようになっています。
-
古代ローマで信仰された女神ウェスタを称える宗教に関するフレスコ画です。ウェスタのカルトでは、祭壇の上に燃える聖なる火を絶やしてはならず、巫女が交代で火を守りました。
-
オラーティとクリアーツィの戦い。ローマのオラーティ兄弟と近隣の町アルバロンガのクリアーツィ兄弟の間の決闘は、総勢が見守る中、最後のオラーティがクリアーツィに敗れる結果に!
-
「オラーツィとクリアーツィの間」に数多く並んでいた彫像の一つ。この手に持っているもの、どこかで見たような記憶・・・でも思い出せない・・・
-
ローマの第3代の王オスティリウス対近郊の町の住民との戦い。昔から歴史は戦争ばかりでしたね。制作は 1597年〜1601年。
-
こちらは、アレッサンドロ・アルガルディによる、インノケンティウス10世像。1645年から1650年にかけての作品です。 アルガルディはボローニャ出身で古典主義の穏健派。ベルニーニとは仲が悪かったんですって。
-
インノケンティウス10世像の上に描かれたフレスコは、ローマ建国の物語、シーウルフ(ローマの雌オオカミ)の発見です。これがローマの物語の一番最初に来るはずですよね。
テレヴェ川の畔、イチジクの木の下で、ファウストゥルスはオオカミの乳を飲むロムルスとレムスの二人を発見します。 -
お次は「将軍たちの部屋」。装飾は、トーマス・ラウレティにより、1587年から1594年の間に行われました。
ここはさっさと通り過ぎて・・・ -
「ハンニバルの部屋」です。この部屋だけはオリジナルのまま。カルタゴとの戦争シーンのフレスコ画が4枚ありました。4枚とも16世紀初めのジャコポ・リパンダの作品。
カツルスとレグルスの間の和平交渉の模様。歴史を知らないと全く面白くありませんねえ。 -
同じく「ハンニバルの部屋」より、シチリアに対するローマの勝利。馬の描き方などは、「トラヤヌスの記念柱」の影響を受けていると言われています。
-
テトラルキア・・・ローマ帝国の東、西、およびその正帝、副帝、この4名支配を表した(テトラ=4)彫像の一部でしょうか? 確かヴェネツィアにあったはず・・・
-
続いて「礼拝堂」に入ります。「礼拝堂」はローマの守護聖人ピエトロとパオロに捧げられています。祭壇画は、「栄光の聖母とピエトロ、パオロ」。聖母の庇護の下、二人の聖人がローマを護っています。
-
右側のフレスコは、天使達を伴う聖母子。アンドレア・ダッシジによる15世紀の作品。
-
サン・エウスターチェ 17世紀のピエトロ・イタリアーノ作。ローマにまつわる聖人達が壁を覆っています。
-
「勝利の部屋」で、お馴染みの作品に出逢うことが出来ました。
-
トゲを抜く少年。紀元前1世紀ころのブロンズ製。これは元々サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノが所有していて、シクストゥス4世がローマ市民に寄贈したものの一つです。高さ73cm。結構小さかったです。
-
「勝利の部屋」は、マケドニア王ペルセウスに対してローマの執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスが勝利したのを記念する部屋。天井に近い壁には、延々とその戦闘シーンが続きます。天井は、 フラミニオ・ボロンゲル作で、この宮殿で唯一残されている木製格子天井です。
-
若い兵士。他に説明もありませんでした。
-
ピエトロ・ダ・コルトーナのアレッサンドロとダリオの戦い。1644年〜50年の作品。ダ・コルトーナのダは、英語のfromなので、コルトーナ出身のピエトロという意味です。「礼拝堂」のところで出てきたダッシジもアッシジ出身の意味。ヴィンチ村(ダ・ヴィンチ)のレオナルドと同じ使い方です。
-
「雌オオカミの部屋」に入りました。
-
まずは床のモザイクに見とれます。迷路のような図案です。見る角度によっては立体的に見えます。
-
ローマのシンボルの雌オオカミは、前述のシクストゥス4世により寄贈された物の一品。初めはコンセルヴォアトーリ宮殿のファサードに立っていましたが、ミケランジェロによる工事中に宮殿内へと移されました。双子はその頃、アントニオ・ポッラウィーロによって追加されたものです。雌オオカミ自体は紀元前5世紀ころの作品とされています。
-
今まで大勢のお客さんで賑わっていたのに、急に誰もいなくなってシーウルフを独占してしまいました。よせばいいのに、何枚も写します。ミーハーですね。
-
イチオシ
これが一番まともでしょうか?・・・シエナでも見ましたが、やはりローマの雌オオカミが一番です。
-
次の「ガチョウの部屋」は、16世紀半ば教皇パウルス3世治世下の装飾で溢れています。ガチョウは、ガリアの襲撃からローマを救った二羽のガチョウを意味するようです。
それにしてもガチョウはどこにあったのでしょう??どうやら見逃したようです。 -
メインはなんといってもこちら。
ベルニーニのメドゥーサです。メドゥーサがこんなにも繊細な顔をしているとは! トルコのイスタンブールの地下宮殿で見たメドゥーサは男性的なえらの張った顔つきだったように思います。 -
ちょっと情けない顔にさえ見える「彼女」の頭の上で、くねくねととぐろを巻く蛇の冷酷さ、滑らかさ! その動きに彼女自身が慄いているようにも見えます。そして何よりも、彼女自身が石になっているという皮肉! 思わず自分の頬をつねってみてしまいました。
-
こちらは、フォロ・ロマーノに立つセプティミウス・セウェルスの凱旋門のレプリカです。同じフォロ・ロマーノに立つコンスタンティヌスの凱旋門同様、三重のアーチを持つ堂々とした風格ですね。
ガラスケースに入っているため、見苦しい写真で御免なさい。 -
反対側から見た同じセプティミウス・セウェルスの凱旋門です。セプティミウス・セウェルスとその息子カラカラとゲタが、カスピ海の東南にあった国パルティアとの戦争に勝利した記念に作られたものです。
その後、カラカラは母親の前で弟ゲタを殺したことは、ローマ最初の日の旅行記で触れました。カラカラは、ゲタの全ての肖像、彫像、絵をすべて消し去りました。この凱旋門についても、勿論のことながら、ゲタが描かれていた部分は削り取られています。
過去の旅行記については、こちら
http://4travel.jp/travelogue/11030004 -
モザイク、見っけ!
-
「鷲の部屋」では、懐かしのアルテミスに再会しました。
-
エフェソスのアルテミス。オリジナルは紀元前2世紀ですが、こちらはローマ産のコピーだそうです。オリジナルはどこにあるのかな? たくさんの乳房に花に動物たちが彫られています。大理石とブロンズ製。
エフェソスのアルテミス神殿は原型をとどめていなかったけれど、博物館で、これとは異なるアルテミス像を見た記憶。ちょっと探してみましょう。 -
2010年にエフェソスで撮ったアルテミスの写真が見つかりました。こちらは大理石製ですね。雰囲気がちょっと違います。
-
エフェソスの博物館にあったもう一体のアルテミス。元々アルテミスは、ギリシャ神話のアポロンと双子の兄妹。ギリシャにあるのかしら???
深追いしないと言ったのにこの始末。結局ローマのアルテミス像のオリジナルのありかは分かりませんでした。
母性を敬う宗教は、もっとも古くからこの世にある宗教の一つ。母なる大地の温もりを感じられるアルテミスには、大変惹かれるものがあります。 -
「鷲の部屋」の鷲たちに対面。帝政時代初期の大理石製です。高さ49cm。
-
「カステッラニ・コレクションの部屋」には、ギリシャ風の黒い陶器が並んでいました。
-
ディオクレティアヌスは、キリスト教の大弾圧を行った皇帝として、人々は今もそれを「苦悩の時代」と評しているようです。手前の建物は???
彼は最後、政治に疲れたのか引退し、現クロアチアのスプリットに巨大な宮殿を建てて、そこで余生を過ごします。 -
生贄をささげる儀式の場面を描いたレリーフ。
-
こちらのレリーフにも、神殿に捧げるお供えにする魚、動物を手に取って、詣でている人々が描かれています。
-
あらぁ〜 順番が狂っているかもしれません。特別展示中だったディオクレティアヌス治世下の「苦悩の時代」へ行く順路を示していますが、ポスターではなく、ほんまもんのレリーフを使用しています。
ディオクレティアヌスの時代のレリーフはどれも勢いがあり、迫力に満ちています。 -
ブロンズの馬に・・・
-
儀式用のブロンズ製戦車(紀元前4世紀)。
-
ギリシア神話に登場するリューディアの女王 オンファール。ヨーロッパの文芸作品には、ヘラクレスの愛人としてよく登場します。
-
全く記憶なし・・・結構イケメンでした。
-
牡牛に乗るローマの神 ユピテル・ドリケヌス。この辺りの素朴さは好みです。
-
酒の神ディオニソス(バッカス)のトルソです。
-
エスクィリーノのヴィーナス。うつくし〜い!
現テルミニ駅からコロッセオにかけてに広がるローマの7つの丘の1つ、エスクイリーノの丘にあるダンテ広場で、1874年に発見されました。ヘレニズムの影響が強く、紀元前5世紀の作と言われています。
余りグラマーじゃないところに親近感を覚えます?! -
さんさんと光が降り注ぐ、1階中央のマルクス・アウレリアス・エゼドラに辿り着きましたよ。半円形をしている広場は「エゼドラ」でしたね。
明るくて気持ち良いので、ここで少し休憩をとりながら、ずらりと彫像が並んだ様を眺めていました。 -
こ、この巨大な足は一体???
-
ライオンが馬に噛みついているこちらの彫像は、マルクス・アウレリアスのエゼドラにあったものです。発見された時にはライオンには後ろ足、馬には頭も足も尻尾もない状態でした。ミケランジェロの弟子バスカペが、1594年にそれらを修復し、付け足したのだそうです。
-
カンピドーリオ広場の中央で先ほどお目にかかったマルクス・アウレリアス像のオリジナルです。前述の通り、この彫像は176年、彼のマルコマンニ族、サルマタイ人との戦いの凱旋記念として建てられました。この彫像が残っていたおかげで、自分はローマ帝国の子孫なのだという自負を持つことが出来た人が大勢いると言われています。
-
ブロンズ製のコンスタンティヌスの頭部、隣の球形のもの、左手はいずれもサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの所蔵品の一部でした。頭部像は高さ177cm。中庭にあった大理石像よりかなり小さく感じます。球形の物はどこについていたのでしょうね? 左手は150cmもあり、よく見ると、静脈まで丁寧に彫ってあります。顔に比べると大きい気もしますが、同じ彫像の一部なのでしょうか???
-
牡牛を屠るミトラ像。ミトラは赤い服を着ていることが多く、この彫像でも、右腕の辺りにかすかに赤い色が残っています。もう一つ、蛇が一緒に描かれているのも特徴の一つで、この彫像でも、下を這っている蛇が見えますね。カラッラ大理石製。3世紀の作品です。
ミトラ教はギリシャ、ローマの古代社会で多くの信者を得ていた古代宗教。太陽神ミトラはその本尊。
サン・クレメンテ・アル・ラテラノ教会の地下にあった古代ローマ時代の邸宅には、ミトラ神殿、ミトラ教を教える学校までありましたね。
http://4travel.jp/travelogue/11036968 -
気になったので、ミトラ像をいくつか写してみました。
-
左のレリーフには、太陽神(征服されない神と言う意味)が描かれています。
右の小さなレリーフに描かれているのは、「子供のミトラ」だそうです。 -
壁面に飾られていたこちらのミトラのレリーフには、はっきり服とマントの赤い色が残っています。キリスト教徒により、ミトラ教は「大弾圧」を受けましたが、それは色々な面で両者が似ていたからだという説もあります。
-
カピトリーニの丘にあったユピテル、ジュノー、ミネルヴァの神殿エリアに入りました。神殿は、タルクイニウス・プリスクス王によって、紀元前6世紀頃建てれました。日本では縄文時代から弥生時代に移る頃ですね。
それから何度も再建されていますが、特に大きな改修工事は紀元前1世紀と紀元1世紀に行われました。その後は、時代の流れにより、建材の採石場と化していきます。 -
これが、神殿創設時のカピトリーニの丘。今では想像もつきません。
-
ローマではエルコラーレと呼ばれている、ギリシャの英雄ヘラクレスは、ユピテル神殿の壁の前に立っていました。
金メッキされたブロンズ製のヘラクレスの像は、フォロ・ボアリウム(真実の口広場の辺り)で発見されました。彼が自分でオリーヴの木から作ったという伝説の棍棒を携えています。 -
美術館のこのエリアには片側に大きな窓があって、かつて神殿のあった辺りを眺めることが出来ます。この下にどれだけ埋まっているやら・・・
-
時代が前後しますが、精巧な石棺があったので、何点か写してみました。
-
これは珍しい、4匹の猟犬が四方に彫られた土台です。何に使われたのでしょう? おそらくヘレニズム時代のもののローマ版コピーと言われています。
-
レリーフは動きがなく、おとなしい感じです。
-
これが面白い。笑えちゃいます。ある一家の日常生活が描かれているみたいです。
中央に家の主人が座り、左右の椅子に座って新聞を読んでいるのは二人の息子。そして右端にはハンドバッグを持って、「出かけてくるわよ!」と奥さん。
「気をつけてな!」と主人が手を振ってお見送り・・・
全く現代と変わりません。・・・とここまで書いたら、解説を発見しました。
ブブー・・・全然違いました。
これはとある学校。中央で先生がレクチャー中。生徒たちはパピルスのテキストを読んでいる。そこに邪魔が入ります。遅れてきた3人目の生徒が送ってきた両親に手を振っている。彼は他の二人より若いので、この授業ではなく、別の授業に参加するようです。・・・と書かれていました。残念!男の子だったんだ。
このレリーフは中央の先生の葬儀用モニュメントだそうです。生徒に信頼されていた先生だったようですよ。 -
マエケナスの庭園の部屋。この部屋は、アテネの考古学博物館にいるみたいでした。ガイウス・マエケナスと言う人は、皇帝アウグスティヌスの腹心の部下だった人で、その文化的な素養の高さと古代芸術の収集への情熱は並外れたものがありました。
マエケナスの住居は古代のネクロポリス(墓地)の跡地にありました。その後、その庭の一部は皇帝ネロの時代に「黄金宮殿」の一部となりました。
ここで見つかった彫刻や装飾類は、「マエケナス」と言う名前が文化と芸術のパトロンの代名詞になったことを裏付ける素晴らしい作品ばかりです。
窓を背にしているのはヘラクレスの戦いのシーンの像。紀元前4世紀の作。 -
集められているのは、ギリシャの葬祭に使った石やカリアテッド、彫像などで、1870年代になって発見されたものが多かったです。
-
中でも私の一番のお気にいりは、こちらのカリアテッド達。
-
このアルカイック・スマイルがたまりません。
-
緑の珍しいエジプト産大理石でできた犬の像は、庭園のパビリオンの入り口を飾っていました。
-
角の形をしたカップを象った噴水。これもアウグスティヌス時代の作品です。
-
マルシュアスの像。ギリシャ神話に登場するサテュロス−半人半獣の精霊で、アポロンと音楽の腕を競い、敗れ、生きたまま皮剥ぎの刑にあったときの様子を再現しています。
1876年に発見された時は、小さなモザイクの部屋に横たわった状態だったそうです。 -
オレステスとイピゲネイアが描かれたモザイクは2〜3世紀の作品。床のモザイクの中心部を飾っていました。
オレステスはホメロスの叙事詩「イーリアス」に登場するギリシア軍の総大将アガメムノンの息子でミュケナイの王子様。イピゲネイアはオレステスの姉。ちょっと怖そうなお姉さんです。
あんた、何やってんのよ! と言う雰囲気。 -
アマゾンの頭。紀元前5世紀ころの作とされています。完璧までの美しさ。この部屋には、思いのほか時間がかかってしまいました。
-
「近代の輝きの部屋」
こちらは、素晴らしい狩りの光景のレリーフが彫られた石棺です。獲物は槍で突かれているイノシシ君。石棺の蓋の上には英雄メレアグロスと女神アルテミスの姿があります。3世紀頃のもの。 -
彫像の左にある筍? 松飾?のようなものはなんでしょうね。色々な彫像に同じものがついていました。
-
壁に描かれているのは、ローマの歴代執政官のリストだそうです。アスリートたちがその前を駆け抜けます。
-
ふぅ〜 1階の最後は、「中世の部屋」です。
ここでは、思いがけぬ出会いがありましたよ。
アンジュー家のシャルル1世のモニュメント。作ったのは、フィレンツェのドゥオモの最初の設計プランを立てた彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオ。
突然、時間が飛んでしまいましたね。1277年頃の作です。 -
カピトリーニはまだまだ続きますが、長くなったので続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その22 ローマ カピトリーニ美術館(2)で。
とびっきり美しいコズマーティでお別れです。この外側を飾るレリーフ、よく見ると結構卑猥なものが含まれてそう。少なくとも教会向きではなさそうです。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- 和ちゃんさん 2017/05/14 16:38:07
- お尋ね
- jynemayさんの旅行サイトを見てびっくりしました。写真のみならずコメントが明確なので驚きました。
そこで2、3教えてください。
?カピトリーニ美術館コンセルヴォアトーリ宮殿に入ってのマルクス・アウレリアスの凱旋に描かれた3枚のレリーフがありましたが、そのレリーフの経緯が生々しいですが、その情報はどうやって得られた教えてください。また、今、カピトリーニ美術館の訪問時のホームページを作成中で、よろしければ、jynemayさんのコメントを引用してもよろしいですか?
?マルクス・アウレリアスのレリーフがあった階段の天井(ロルムスとレムスが描かれた漆喰の天井)はどのような経緯でここにあるか知っていれば、教えてください。
?”戦争からローマに戻ったハドリアヌス帝のレリーフがトラステヴェレのヴィッラ・シィアッラにあったレリーフ ”のコメントがありましたが、あるホームページをみるとpiazza Sciaraというトラステヴェレ以外のところのようにも思えるのですが、いかがでしょうか?
- junemayさん からの返信 2017/05/16 02:07:01
- RE: お尋ね
- 和ちゃんさま
こんばんは junemayです。
メールおよびコメントをありがとうございました。旅行記を書く前に、出来る限り様々なHPや本でチェックしてから書いていますが、入手先を記録に残しているわけではなく、また誤っている可能性も多々あると思います。その場合はご指摘いただけますと助かります。
カピトリーニに関しては書いたのが1年半近く前であるため、もうすっかり忘却の彼方です。参考にさせていただいたHPの一つが見つかりましたので、ご紹介させていただきます。
http://romapedia.blogspot.jp/2014/05/capitoline-museums-palace-of.html
マルクス・アウレリアスのレリーフの経緯については、ここから引用させていただいたと思います。
漆喰の天井についてはチェックしていません。深みにはまると一向に進まなくなるので、個人的な思い入れのあるもの以外は感想にとどめています。
ハドリアヌス帝のレリーフについては、確かにpiazza Sciaraと書かれたサイトをいくつか確認しました。Villa Sciaraと似ていますが非なる場所でしょうね。自分がどこから引用したのかを覚えていませんので、全く自信がありません。貴殿の判断にお任せいたします。
つたない旅行記に興味を持っていただき、感謝しております。ありがとうございました。
JUNEMAY
> jynemayさんの旅行サイトを見てびっくりしました。写真のみならずコメントが明確なので驚きました。
> そこで2、3教えてください。
> ?カピトリーニ美術館コンセルヴォアトーリ宮殿に入ってのマルクス・アウレリアスの凱旋に描かれた3枚のレリーフがありましたが、そのレリーフの経緯が生々しいですが、その情報はどうやって得られた教えてください。また、今、カピトリーニ美術館の訪問時のホームページを作成中で、よろしければ、jynemayさんのコメントを引用してもよろしいですか?
> ?マルクス・アウレリアスのレリーフがあった階段の天井(ロルムスとレムスが描かれた漆喰の天井)はどのような経緯でここにあるか知っていれば、教えてください。
> ?”戦争からローマに戻ったハドリアヌス帝のレリーフがトラステヴェレのヴィッラ・シィアッラにあったレリーフ ”のコメントがありましたが、あるホームページをみるとpiazza Sciaraというトラステヴェレ以外のところのようにも思えるのですが、いかがでしょうか?
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
junemayさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
113