2015/05/07 - 2015/05/07
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
現在時刻は11時40分。まだ行けそうだとまたまた急いで小走りに歩きます。初日からそんなに飛ばすなよ! と家人の声が聞こえてきそう! トラステヴェレの東側で、もう一か所寄りたい場所がありました。3つ目の奇跡が私を待っています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
サンタ・チェチリア教会を出て、目の前の通りサン・ミケーレを南に進み、最初の角を右に曲がると、目の前にサンタ・マリア デッロルト教会Santa Maria dell'Ortoが見えてきました。
この教会も時間があれば寄りたいところだけれど、ぐっと我慢して、
教会の前を左に曲がってしばらく行くと、 -
約5分ほどで、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会に到着です。ごく平凡な石灰岩に少し色あせたオレンジ色の壁のファサード。ローマならどこにでもありそうな佇まいです。ここで見たいものはただ一つ。
-
それは左側廊の4番目の礼拝堂 聖母マリアの母アンナに捧げられた礼拝堂にありました。
巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ晩年期の傑作「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」です。 -
もう少し近くに寄ってみます。思わず息をのむような情景が展開されていました。胸を押さえて、横たわっている目の前の女性は、苦しんではいません。両目、口を半分開けて、今まで見たこともないような表情を浮かべています。、今まさに天国に旅立とうとしている女性が神に受け入れられる、祝福される喜びを最後の力を振り絞って体全体で表現しているように思いました。
人はこれを歓喜、至福、はたまたエクスタシー、官能的、と色々な言葉で表現していますが、ベルニーニの彫刻の出来が、技術が、あまりに卓越していることに起因するものでしょう。彼女の体の線の滑らかさ、身にまとう衣服のひだや寝具のしわ、とても硬い大理石でできているとは思えません。息遣いまで聞こえてきそうです。今、彼女は人生で最高の瞬間を味わっているのです。 -
ルドヴィカ・アルベルトーニは1473年、ローマの裕福な家庭に生まれ、生涯を貧しい人たちや孤児の救済に捧げた実在の人物です。この彫刻は、彼女の功績が認められ、死後140年近くたってから福者として列せられたことを記念して、1671年にベルニーニが73歳の時に制作されました。まるで、実際に彼女の死の床に立ち会ったような感覚を覚えますが、ルドヴィカが亡くなったのは59歳の時。この彫刻の女性は、どう見ても、それよりかなり若い女性に見えますね。
祭壇の絵は、ジョヴァン・バッティスタ・ガウッリによる聖アンナ、聖母マリアと幼きキリスト、彫刻の左のフレスコ画は、サンタ・キアラ、右は祝福を受けるルドヴィカです。 -
アンナの礼拝堂では、ドーム天井からも、無邪気な天使たちがルドヴィカを見守っていました。
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この教会については、どのガイドブックを見てもルドヴィカのこと以外は取り上げられていないけれど、もう少し内部を見学しましょう。
こちらは、右翼廊奥にあるアルカンターラのサン・ピエトロ礼拝堂(又の名をRospigliosi-Pallavicini礼拝堂)です。バロックは嫌いではないのですが、ここは飛び回る天使とごてごてした金メッキがあまりにも多用され過ぎで、少々落ち着かない気分にさせられますねえ。アルカンターラのサン・ピエトロは、スペインのフランチェスコ会の創始者です。 -
とか何とか言いながら、もう少し近づいていくと、わぁ〜 見て下さい! 様々な色の大理石を使った見事な祭壇が三方の壁いっぱいに広がっていました。
祭壇画はアルカンターラのサン・ピエトロと、サン・パスクアーレ・バイロンの聖体礼拝。 -
双方の壁にあるのは、なんて発音するのかわからない、Rospigliosi-Pallavicini家の墓でした。遠くから見るより、近づいた方が数倍も素晴らしいと思いました。丸いトンドの中の彫像も大変凝っています。中でも、赤いシチリア碧玉と緑の大理石の台座の上に置かれた黒い棺は、バロックの優美さを最大限に発揮していました。
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こちらは、右側の壁。よーく見ると、双方のトンドの彫像は、金色の羽根を持つブロンズ製の骸骨に守られています!
こちらの祭壇、全体のデザインはニコラ・ミケッティ。彫刻はジュゼッペ・マッツォーリ。骸骨はミケーレ・ガロフォリーノによるもの。1713年から1714年頃の制作です。 -
しかしながら、この天井を見て、げんなり・・・
流石に、やりすぎだと思いませんか? もうちょっとスッキリしたら、全体の調和が取れるのにと思うのは、私だけ? 日本人だからでしょうかねえ。 -
サン・フランチェスコ・ア・リーパと俗に呼ばれているこの教会、正式名はもっと長く、サン・フランチェスコ・ダッシジ・ア・リーパ・グランデ・トラステヴェレ。 アッシジの聖フランチェスコのトラステヴェレにある大きな水辺教会とでも訳すのでしょうか? 聖フランチェスコが生きていた時代(1182年〜1226年)にローマに存在したただ一つのフランチェスコ会の施設で、当時は修道院しかなく、聖フランチェスコはローマの宿として使っていました。
こちらは主祭壇。ちょっと変わった聖フランチェスコの彫像が見られました。題して、「天使に支えられたエクスタシー状態の聖フランチェスコ」。フランチェスコは首を曲げ、目を閉じて、左手の甲にはキリストと同じ聖痕。殆ど一人では立っていられないような状態。それを傍らの天使が支えています。 -
アッシジで購入した聖フランチェスコに関する本の中に、このような一節があります。
ベルナ山で祈るフランチェスコの前に、十字架にかかった熾天使(セラフィム)の姿でキリストが現れ、その両手両足からそして脇腹から光が発し、フランチェスコにキリストと同じ傷が印されました。
熾天使。又登場しましたね。熾天使については、こちらを参照してね。
http://4travel.jp/travelogue/11027144
法衣の一部が破れていることからしても、この像は上記の場面を再現したものだと思われます。この木製の像は1550年頃、バロック様式の多色大理石で作られた祭壇は、それより200年ほど後の1746年の制作です。 -
こちらの礼拝堂は、「大天使ミカエルの礼拝堂」。またの名を「ピエタ」と呼んでいます。というのも、その昔、祭壇には、アンニーバレ・カラッチ作の「ピエタ」があったからなのですが、1797年ナポレオンによって持ち去られ、現在はパリのルーブル美術館にあります。こういう話、前にもありましたね。
現在祭壇に飾られている絵は、グイド・レーニの「大天使ミカエル」。但しこれはコピーです。本物は、同じローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(通称骸骨寺)にあります。実は私、後日その本物も拝見しましたよ。 -
オンラインでフリーの画像がありましたので、お借りしました。こちらが、アンニーバレ・カラッチの「ピエタ(聖フランチェスコとマグダラのマリア)」です。ルーブル美術館所蔵。
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左右の壁には、オラツィオ・マッティ枢機卿のモニュメントや1600年代の胸像等が飾られていますが、全体的に控えめな印象のあるこの礼拝堂。心穏やかに、名画「大天使ミカエル」を鑑賞することができました。
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左側廊一番入口よりの礼拝堂内には、フランスの代表的なバロック画家シモン・ブーエの絵がありました。タイトルは「聖母の誕生」1614年作と書かれていました。
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最期に教会にあったプレゼーピオを紹介しましょう。プレゼーピオは、簡単に言えばキリストの生誕をジオラマにしたもので、クリスマスが近づくと、家や教会で飾られるものです。私はナポリが本場と聞いていたので、ローマで、しかも5月に見られるとは思っていませんでした。
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キリスト一家だけでなく、東方三博士、天使、村の人々、羊さんもいますね。
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大人も子供も一緒に楽しめる、このジオラマの豊かな情景にしばらくの間、じっと見入ってしまいました。
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福者ルドヴィカ・アルベルトーニをもう一度拝見してからお暇しましょう。
プレゼーピオを見られて、幸せ!
ルンルン気分で次の目的地サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂に向かいました。 -
再び、急ぎ足でやってきましたサンタ・マリア・イントラステヴェレ聖堂。時計は12時9分を指しています。こちらは12:30までOKなのでセーフ!
ローマでも最古の教会の一つで、起源はコンスタンティヌス帝以前の時代でおそらく220年頃、初期キリスト教の礼拝所ティトルスだったようです。正式な設立は教皇ユリウス1世(在位337年〜352年)の時代。313年の「ミラノ勅令」でキリスト教が公的に認められた後では最初の公認教会と言われています。
教会は1140年にインノチェンツォ2世によって再建され、1617年には身廊に屋根が付きました。ということは、それまで聖堂は雨ざらしだったということですね。 -
聖堂の前は、大きな広場になっていて、カルロ・フォンタナが1692年に修復したという古い噴水があります。この噴水も、ローマで最古の噴水の一つなんですって。
ファサードのポルティコも、1702年に同じカルロ・フォンタナが再建していますが、1140年に建てられた当時の雰囲気を壊してはいないそうです。バルコニーの上のバロック様式の4聖人像はこの修復時に作られました。 -
ぐぐぐぅ〜とファサードに近寄っていきます。残念ながら、三角破風に描かれたフレスコ画は殆ど消えかかっていますが、かすかに中央の7つの燭台の間にキリスト、左右に天使たちの羽根を見ることができます。一段おいてその下には4本のなつめやし。こちらのフレスコ画も状態がよろしくないです。
真ん中の素晴らしいモザイク。こちらは12世紀のもので、13世紀にピエトロ・カヴァリーニが修復したと言われています。授乳中の聖母子を中心として、左右に5人ずつ計10人の女性が描かれています。王冠をかぶり、ランプを掲げたこれらの女性は聖女かなと思ったのですが、よく見ると、マリア様の右隣の2人には、王冠がありません! 掲げているランプの火も消えています!
これはいったいどういうわけなのでしょう。2人の女性は庶民という意味なのでしょうか? -
ポルティコに入ってきました。
ここには、石棺、キリスト教以前の石板や碑文、中世のフレスコ画などが、所狭しと並べられています。キリスト教以前の「異教」の碑文はその殆どが、アッピア街道の墓から持ち込まれたものだそうです。ライオンのレリーフが刻まれた石棺は12世紀。左の石棺は4世紀のもの。 -
中央のフレスコ画は、15世紀の受胎告知。「受胎告知」は私の好きなテーマなので、見つけるや否や写しています。
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聖堂の正面の壁にも、別の「受胎告知」がありました。マリア様の後ろに立っている男性は、どうやら、この絵の寄進者のようです。
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正面右側の壁にあった「キリスト降誕」は、19世紀の修復の際に、塗り直されたフレスコ画だそうですよ。
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注目すべきはこちら! 二羽の孔雀が花瓶から水を飲んでいるシーンのレリーフは、9世紀のもので、元はペルシャから伝来したモチーフです。
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ボケてしまいましたが、ポルティコ右側の壁にあった幾何学模様や植物、動物などのデザインの大理石の石板も見応えがありました。
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これらは、いつの時代のものなのか、最初の聖堂で使われていたものなのか、一切不明のようです。
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聖堂内に入りました。ずらっと並んでいる柱の数を数えたら21本! え〜と思い、よく見たら、右側の最初の部分には鐘楼があり、そこだけ1本少ないんでした。
様々な色、形、大きさの異なるこれらの柱は、カラカラ浴場から運んできたものがメインだそうですが、中にはエジプトの砂漠やアスワンから運ばれた柱も混ざっているそうです。 -
身廊の列柱の上には、16名の聖人のフレスコ画が並んでいます。こちらは、主祭壇に向かって左側の窓のある側。
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こちらは、向かって右側の壁です。ご覧の通り窓が少ないので、堂内はかなり暗く感じます。これらのフレスコ画は、1865年から66年に、教皇ピウス9世の命により複数の画家に依頼されました。13人の画家の名前が記録されているので、一人で2枚描いた画家もいるようです。
そして柱の付け根にも注目! 寄せ集めてきた柱なので、長さがバラバラで、高さを調節する石の大きさも不揃いなことがわかりますね。 -
柱の付け根にズームアップ! 2000年立ち続けてきた歴史の重みを感じさせますね。
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身廊中程から入り口の方を撮った1枚です。
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19世紀に作られたステンドグラスには、左から教皇ユリウス1世(在位337年〜 352年)、教皇カリストゥス1世(在位:217年〜222年)と教皇コルネリウス(在位251年〜253年)の姿がありました。3人とも、カトリックの聖人です。中央のカリストゥス1世は、222年殉教し、ローマ市外のカタコンベに葬られていましたが、9世紀にこの聖堂に移されています。
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普段であれば、まず右側廊から礼拝堂をじっくり見て、それからおもむろに主祭壇に出向くというのが私流の参拝の仕方なのですが、だめです。気になって。
後陣のモザイクから目が離せません!最後に取っておきたかったけれど、もう無理です! 限界!
というわけで、どうぞ一緒にご覧ください。 -
燦然と輝く半円形の壁とその周りの壁もすべてモザイクで覆いつくされています。
左側の壁には、預言者イザヤが「見よ!処女が妊娠し、息子を出産する」という巻紙を、右側の壁には、預言者エレミヤが「キリストは我々の罪で捕えられる」という巻紙をそれぞれ持っています。
アーチの上には、始まりと終わりを表すα(アルファ)とω(オメガ)の文字があり、その両側に7つの燭台が見えます! そして、キリストの頭上のリースから「神の手」が出ています。 -
キリストと聖母。どう見てもキリストの妹にしか見えない若さのマリア様ですが、これは、「聖母戴冠」。天国で聖母マリアが冠を授かる場面です。眩いばかりの衣装を身にまとったゴールデンステージ!
キリストが持つ書物には、「来たれ、わが選ばれし御方よ。われ汝をわが玉座につかせん」と書かれているそうです。 -
キリストの右隣には聖ピエトロ(カトリックでは、キリストから天国の鍵を受け取ったピエトロ=ペトロを初代ローマ教皇としています)。そして教皇コルネリウス、教皇ユリウス1世に聖カレポディオ(=カレポディウス 4世紀のナポリの司教)が。聖母の左隣には教皇カリストゥス1世、聖ロレンツォ(=ローマのラウレンティウス)、そして、教皇インノチェンツォ2世。1140年にこの教会を再建した方です。
教皇コルネリウス、教皇ユリウス1世に教皇カリストゥス1世は、背後のステンドグラスに登場した3人です。 -
ドーム部分の一番下には、神の羊を中心に、12匹の羊たち(十二使徒)が描かれ、両端には(見えにくいですが)、エルサレムとベツレヘムの町が見えます。
羊さん達の下にも、素晴らしいモザイクが見えるので、もう少し近づいてみましょう。こちらは、ピエトロ・カヴァリーニによる「聖母マリアの生涯」。1290年から91年にかけて制作されました。 -
残念ながら、小さな写真しか見つけられませんでした。後陣の左横の壁中段にある「マリアの誕生」から物語は始まります。
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そして、羊さんたちの下の後陣部分では、左から「受胎告知」、「キリスト降誕」、「東方三博士の礼拝」、「神殿奉納」と続いています。
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「東方三博士の礼拝」については、大きな写真がありましたので、ご覧下さい。
これらのモザイクは、13世紀末のものですが、色遣いなどにまだビザンチン様式の影響が残っています。 -
4枚目の「神殿奉納」。モーセの律法に定められている通り、マリアとヨーゼフは清めの期間の生後40日が過ぎたキリストをエルサレムの神殿に連れていきます。今でいうお宮参りですね。山鳩一つがいを生贄として奉げるのが習わしだそうですが、後ろでヨーゼフが携えています。
神殿にいたシメオンという大司祭は聖霊から、「汝は救世主に会うまでは決して死なない」と告げられていました。
シメオンは幼子のキリストを一目見て、「主よ、今こそ貴方は、お言葉どおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。」と言ったそうです。 -
マリアの物語の最後は、またまた小さくて見にくいのですが、後陣右横の壁中段にあるマリアの「眠り」。キリスト、天使、聖人ら多くの人々に見守られて聖母が亡くなった時の場面が再現されています。
どのモザイク画も、背景が金色で統一されており、ピンク、緑、青と言った色も鮮やかで、まだ遠近法は取り入れられる前の時代ですが、幾分奥行きを感じさせる場面設定になっています。 -
後陣下段中央にある黄金色のモザイクも、カヴァリーニの作品で、中央に聖母子、右にサン・ピエトロ、左にサン・パオロ。跪いているのは、このモザイクの寄進者ベルトルド・ステファネスキ枢機卿です。トラステヴェレの裕福な家の出身だそうです。中央下には、ステファネスキ家の紋章も添えられています。
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左右のフレスコ画は、16世紀後半アゴスティーニ・チャンペッリの作品。フィレンツェ生まれで、教皇クレメンテ8世下のローマでも活躍した画家です。
沢山の天使たちが、手に聖母のシンボルである花や教会、捧げものを掲げているシーンでしょうか。 -
モザイクに圧倒されるあまり、他のものは殆ど目に入らなかったようです。いつもは、ほぼ撮った順番に旅行記にアップしていくのですが、ここでは、3枚に1枚の割合でモザイクの写真が! 後陣との間を行ったり来たりしたんでしょうね。まあ、憧れのローマ1日目ですから、ご容赦ください。
床のコズマーティ模様は、サンタ・マリア・トラステヴェレでは健在でした。 -
同じように見えますが、結構色々なパターンがあります。
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特にこちら、主祭壇の前辺りは、手が込んでいて、見飽きることがありません。大理石をはじめとする様々な石、タイル、有色や無色のガラス、時には、貝殻や木片まで使われることがあるそうです。
この床、古いものにしては状態が良すぎると思ったら、19世紀に修復されていました。ただし、デザインは変わっていないそうです。そうこなくっちゃね! -
次は天井に注目です。身廊の天井は、金メッキされた木製の格子天井で、中央に八角形の枠があり、そこに、ドメニキーノ・ザンピエリの「聖母の被昇天」が飾られています。1617年の作品。
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こちらがその拡大版です。
ドメニキーノはボローニャ出身の盛期バロック時代の画家で、アンニバーレ・カラッチの優秀な弟子の一人でした。彼の作品はファルネーゼ宮や、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会などでみることができます。 -
お次は、翼廊です。翼廊は身廊の天井とは別の格子天井を持っています。身廊の天井のベースになる色が深い青であるのに対し、こちらは赤。中央部は青で、被昇天する聖母の木像が飾られています。
主祭壇は、12世紀の大理石の石板製で、19世紀の修復の際に4本のコリント式柱で支える天蓋が加えられました。祭壇で輝いている「聖顔」は、ビザンチンでは古くからmandylionと呼ばれている伝統的な技法を用いたイコンの現代版です。 -
こちらは、身廊の列柱が支える壁の下部に見られる帯のようなモザイクとその上の手すりを支える石でしょうか? 様々な形、色、デザインがあって、こちらも結構楽しめます。モザイクは新しいもののようです。
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こちらは、左側廊の端にあったアルテンプス(Altemps)礼拝堂の天井のフレスコ画です。枢機卿マルコ・アルテンプスの依頼で、1587年、マルティーノ・ロンギによって完成しました。
目を見張るような素晴らしいフレスコ画が広がっていました。当時、プロテスタントが急速に勢力を伸ばしつつあった時代で、アルテンプスは叔父の教皇ピウス4世とともに、この礼拝堂をカトリックの反プロテスタント運動の拠点として利用したと言われています。 -
アルテンプス礼拝堂の祭壇画は、3枚の檜の板を張り合わせた等身大のイコン 「慈悲の聖母」Madonna della Clemenzaで、聖母子像と二人の天使が描かれています。聖母は、紫色の服をまとったビザンチン皇后として描かれており、よく見ると彼女の足元に跪いている嘆願者がいます。
イコンは大層古いもので、制作時期は7世紀と推定されています。最近修復を行ったようですが、状態はあまりよくありません。残念ながらこの写真は暗すぎてよく見えませんね。 -
続いての2枚は、アルテンプス礼拝堂にあった2枚の絵です。
こちらは、反プロテスタント運動を展開する礎となった、当時のカトリック評議会Council of Torentoの会議の様子でしょうか? -
こちらの絵の中の教皇は、その紋章からピウス4世とわかります。
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記憶が曖昧なのですが、聖ピエトロが逆さ十字にかけられているこちらの絵も、アルテンプス礼拝堂内にあったように思います。
聖ピエトロは、言うまでもなく、ローマの守護聖人ですが、皇帝ネロに迫害され、十字架による磔刑に処せられた際、自分はキリストと同じ状態で処刑されるに値しないと、自ら逆さ十字を望んだとされています。
彼が殉教したジャニコロの丘は、トラステヴェレから歩いてもそう遠くない場所にあります。 -
珍しいオベリスク型の双子の墓を見つけました。緑黒の大理石のオベリスクを2頭のライオンが背中で支えています。
違いは、一方の碑文が黒で、もう一方が白、そして肖像が一方がブロンズ製で、他方が大理石であることだけです。二人の名字と年代は異なっていましたが、面白いですね。 -
墓と言えば、やはり、こちらのスタイルが一般的ですよね。色大理石をふんだんに使った豪華な墓が教会の床には沢山ありました。踏んづけられる回数が多いほど神に近づけるのだと聞いたことがありますが、私は正直なところ、踏みたくはありません。
-
最期に、もう一度後陣のモザイクを振り返って、お別れです。
12世紀の中世の時代から、このモザイクが人々に与え続けてきた鮮烈な衝撃を考えずにいられません。一目見ただけで天国を思い描くと同時に、神への畏敬の念を強くしたことでしょう。古い教会には、そうした名もない人々の思いがぎっしりと凝縮されているような気がします。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その4 ローマ トラステヴェレ〜真実の口広場 で
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この旅行記へのコメント (2)
-
- とし坊さん 2015/12/12 20:46:03
- 素晴らしいですね
- こんばんは、勝手にコメントさせていただきます。すみません
イタリア ローマ教会建築 教会のモザイク画の素晴らしさには
驚きと感動が有りますよね
junemayさんの旅行記を拝見させていただくと
もう一度ゆっくり訪れてみたいですね(^O^)
今後ともヨロシクです(´・_・`)
- junemayさん からの返信 2015/12/12 22:44:21
- RE: 素晴らしいですね
- とし坊さま
こんばんは。
いつも見ていただいてありがとうございます。大変感謝しております。
遅々として進まない旅行記に、自分でもイライラすることがありますが、コメントを頂くと、単純なものであっという間に爽快な気分になります。はっきり言って嬉しゅうございます。
先週、大聖堂の全くないハワイ島で友人夫婦と雄大な景色を楽しんできました。私にハワイは似つかわしくないなどと考えておりましたが、どこに行っても楽しめるのだということを実感いたしました。旅行記が書けるのは、全て忘却の彼方に去った頃でしょうか?
モザイクはまだまだ先のラヴェンナで沢山披露させていただきますので、いつになるかわかりませんが、これからもお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
junemay
> こんばんは、勝手にコメントさせていただきます。すみません
>
> イタリア ローマ教会建築 教会のモザイク画の素晴らしさには
>
> 驚きと感動が有りますよね
>
> junemayさんの旅行記を拝見させていただくと
>
> もう一度ゆっくり訪れてみたいですね(^O^)
>
> 今後ともヨロシクです(´・_・`)
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