2015/05/09 - 2015/05/09
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
今日最後の訪問は、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂です。最期に残した理由は、単に大聖堂が開いている時間が長いからというだけ。地球の〇き方に書かれている入場可能時間だけをあまりあてにしてはいけませんが、計画を立てる際には、大きな教会や美術館を長い昼休み時間中やお終いに近い時間に持ってくると、案外すいていたりして、うまくいったケースが多かったような気がします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂は世界でも有数の権威ある教会と言えます。キリスト教を初めて公認した皇帝コンスタンティヌス1世が314年に建設し、時の教皇シルウェステル1世に捧げた教会で、教皇自らが司教役を務める、つまり自らミサを執り行うという、「全ての教会の母」に当たる存在です。
正面ファサードの1階と2階の間には細かい字で、
Dogmate papali datur ac simul imperiali, quod sim cunctarum mater caput ecclesiarum・・・と書かれていますが、「すべての教会の母であり、長であることを、教皇並びに勅令により授かった」というような意味だそうです。
サン・ピエトロ寺院との違いは? と思われるでしょう。私も疑問に思って調べてみました。
サン・ピエトロは、全ての教会に対して、教皇の普遍的権威を行使するための場で、サン・ジョヴァンニは、教皇の権威の源である場 と書かれていましたが、この違い理解できますか???
私? 全然だめです(泣)・・・ -
通常、教会の正面が西、祭壇が東というのが一般的ですが、そういった伝統以前に建てられたサン・ジョヴァンニでは正面が東向です。現在の正面ファサードは、フィレンツェ出身の建築家アレッサンドロ・ガリレイにより、1735年に建てられました。
大きな5つのアーチが特徴的なファサードには10本の壁柱があり、そのメインの台座2つには、ヤシの葉とリボンがついたオリーヴのリースが装飾されていますね。屋上にいる聖人たちの数は全部で11人。小さく見えますが、中央のキリスト像は高さ7mもあるそうです。 -
こちらは、入り口の50m×10mの広〜いポルティコです。六角形の窪み模様がついたかまぼこ型ヴォールトの中央には、このファサード建設を命じた教皇クレメンス12世(在位 1730年〜1740年)の紋章が飾られていました。この教皇はトレビの泉を作ったことでも有名です。
一番左の奥には、皇帝コンスタンティヌス1世のガッツポーズ?の彫像があります。こちらは、クリナーレの丘にあったコンスタンティヌスの浴場で見つかったもので、4世紀の作品だそうですよ。「コンスタンティヌスの浴場」と言う名は初耳です。 -
ポルティコには全部で5つの扉がありますが、こちらが中央の扉。ブロンズ製で、教皇アレキサンドル7世(在位 1655年〜1667年)の命により、ベルニーニの好敵手ボッロミニがフォロロマーノにあった古い扉を加工したものです。元々の扉はこの建物には小さすぎたため、ボッロミニは周りにアレキサンドル7世の出身キージ家の紋章から★を加えたのです。このボッロミニという建築家も、今回の私のたびのターゲットの一人です。
尚、アレキサンドル7世は、芸術を愛し、ベルニーニのパトロンとしても知られています。 -
大聖堂中に入りました。
こちらは、上の扉を教会中から撮った写真です。 -
扉の下を見ると・・・ウッフン。やはり床から参りましょうか?
色が少々くすんでいるのが気になりますが、こちらは、入ってすぐの中央扉付近の床です。 -
色鮮やかな赤は何の石でしょう? オリーヴの葉をくわえたハトが描かれたパネルがそこここに見られました。これらは、教皇インノケンティウス10世(在位 1644年〜1655年)の出身パンフィリ家の紋章だそうです。前述のアレクサンドル7世の前任者で、彼もパトロンとしてベルニーニ、ボッロミニなどの建築家を支援しました。
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床は14世紀の後期コズマーティ様式です。それなりに美しいのですが、全体的に色が単調で、全体的にグレーがかって見えます。これには理由があり、この時期になると、古代遺跡からの古い石のリサイクルの供給がなくなり、材料が枯渇したためなのだそうです。明るい黄色、深緑、深紅などの色はここでは殆ど見られません。
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大聖堂の床は名門コロンナ家の資金により、1425年教皇マルティヌス5世(コロンナ家出身 在位 1417年〜 1431年)の時に完成しました。
こちらは、中央の円形部分がそっくり金属の透かし彫りに置き換えられていますね。下にクリプトがあるのかな? -
後の17世紀になって、ボッロミニが床にも手を加えています。左上にかすかに見える長方形の鮮やかなパネルの列はボッロミニによるものです。
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こちらは、スポンサーの教皇マルティヌス5世の紋章。彼の墓は、主祭壇の下にあります。後ほど紹介します。
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マルティヌス5世の紋章は、コズマーティが一番豪華な聖域前の床にも残っていました。白い塔を引き立てる深紅の石が美しいです。
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中央祭壇を望む大聖堂の身廊です。
身廊は、様々な様式のオンパレード! 床は前述のように中世のコズマーティ様式。天井はルネッサンス様式。そして両サイドの壁と彫像はバロック様式です。 -
こちらは、同じ身廊を祭壇側から撮ったもの。建築家フランチェスコ・ボッロミニは、1650年の聖なる年の完成を目指し、聖堂内の大改修を行いましたが、その際過去の聖堂内の古い列柱や壁を取り除いたり剥がしたりしたことで、多くの批評家からいまだに否定的なコメントを頂戴しているそうです(泣)。
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彼は列柱を取り除いた跡に12使徒の彫像を配置するため、2本の柱の間に内側にカーブを描く大理石の祭壇を左右に5つずつ、入り口の壁に2つ設置しました。それぞれの祭壇の上にはスタッコのレリーフパネルがあり、使徒達のエピソードが彫られています。更にその上には、ボッロミニらしい楕円形の花輪(トンド)の中にフレスコ画が描かれています。
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こちらは後ほど紹介するピエトロ像の上方の壁をズームアップしたものです。
見えづらいですが、上のトンドの中には、預言者イザヤのフレスコ画。四角いレリーフは、楽園からのアダムとイブの追放がテーマ。 -
そしてこちらはパオロ像の上方です。
トンドの絵は預言者エレミヤ。レリーフはキリストの磔です。 -
全体のバランスと言い、聖人達が向き合う角度といい、ボッロミニのなした業は絶妙だと思うのですが、いかがでしょうか・・・
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さて、天井は教皇ピウス4世(在位 1559年〜1565年)の時代の制作、設計はピロ・リゴーリョによるものです。
中央には教皇ピウスの紋章のオンパレード。中央がピウス4世。祭壇側がピウス5世、入り口側がピウス6世のものです。中でも中央のメディチ家出身(あのメディチ家とは血縁関係にないそうですが、何故か紋章は同じ?)のピウス4世のものは、大変ゴージャス!! -
彫像の使徒達の何人かを紹介します。
こちらは、別名タダイと呼ばれるユダ(下のパネルにはThaddeusと書かれています)です。キリストを裏切ったイスカリオテのユダとは全くの別人ですよ。ロレンツォ・オットーニの作品(1712年) -
こちらは、シモン。日本では熱心党のシモンと呼ばれているそうです。全くの初耳! フランチェスコ・マラッティ作(1712年)。
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お馴染みのローマの聖人ピエトロです。この方は鍵を持っているのですぐにわかります。 Pierre-Étienne Monnotの作品(1706年)。
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そして、ピエトロとは常に対になっているパオロです。彼は剣と本を携えていることが多いです。
そういえば、祭壇のペディメントにも、教皇インノケンティウス10世のハトの紋章が見られますね。紋章というのは、自己アピールの有力なツールだったようです。こちらもPierre-Étienne Monnotの作品(1706年)。 -
お次は勝利の門(凱旋門)。こちらもボッロミニの制作です。
門を支えているのは、左右に見えるピンクの花崗岩の柱。アーチの部分に描かれているのは、左に福音記者ジョヴァンニ(ヨハネ)、右に洗礼者ジョヴァンニ(こちらもヨハネ)。
そうそう、この教会の名前にも登場するサン・ジョヴァンニとはこの二人の聖人を意味します。大聖堂の正式な名前は、「ラテラノにあるキリスト、洗礼者ジョヴァンニ、福音記者ジョヴァンニ大聖堂」 なんですって。 -
主祭壇は、勝利の門の奥にあり、白い大理石の祭壇が置かれています。コズマーティの影響が少し感じられる祭壇です。この祭壇で教皇がミサを行うのですね。
その手前にぽっかりと穴を開けているのがコンフェッシオ(クリプト)です。中央コリント式柱頭の上に立つのが洗礼者ジョヴァンニの像。その奥には教皇マルティヌス5世の墓があります。先ほどの床のスポンサーです。 -
地下へは2本の階段が通じていますが、入場は出来ませんでした。多色大理石を用いた(特に赤みがかった石に白が荒っぽく混ざる)壁の断面がとても美しかったです。
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精巧なゴシック様式の聖体用祭壇は、ジョヴァンニ・ディ・ステファノにより作られ、ウルバヌス5世(在位 1362年〜1370年)が1370年に祭壇に奉献しました。ウルバヌス5世は、いわゆるアヴィニョン捕囚の時期の教皇で、1367年再び法王庁をローマに戻した教皇でもあります。
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天蓋は4段構造になっていて、1段目は金の柱頭のついた4本の柱。よく見ると、左右で色が違いますね。柱頭の上の水平部分に施された装飾はゴシック調。
2段目には、各面3枚ずつのフレスコ画が飾られ、四隅には聖人の彫像が2人ずつ置かれています。 -
3段目の部分は、金格子でしっかりと保護されている聖遺物箱(箱と言うより部屋)ということです。こんな構造の聖遺物箱見たことありませんね。中にいるのはピエトロとパオロ。二人の聖遺物(頭蓋骨の一部)は1370年以来ここに祀られているのだそうです。
実は面白い話があって、この聖遺物箱オリジナルではないそうです。オリジナルは、1797年にナポレオンへの賠償金を支払うために教皇ピウス6世の命令で溶かしてしまったのだとか。あまりに恥ずかしい話なので、ガイドブックには「フランスによる略奪」とごまかしているのだそう。ですから、今見ているのは1804年に作られた代替品です。
4段目はいわゆるキャノピー(天蓋)。金の装飾で縁取られた尖塔の周りを4本の尖塔が取り巻いています。 -
ここで側廊に移ります。ボッロミニは、彼の大改修工事で古代の列柱も撤去させたため、側廊もご覧のような通路に生まれ変わりました。
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右側廊の内側にひっそりとあったのは、こちらのモニュメント。なんとジョットの作品です。
これには、今はもうなくなってしまった古いロッジアで、1300年の聖年を祝う教皇ボニファティウス8世(在位 1294年〜1303年)の姿が描かれています。上部には、教皇の出身カエターニ家の紋章が花々の中に置かれています。
フレスコ画は1952年に修復されましたが、状態はあまり良くないと言えます。彼自身の筆によるものか、それとも彼の弟子によるものかは微妙なところらしいです。 -
お次は、教皇シルウェステル2世(在位 999年〜1003年)の記念碑です。上の部分には聖母子、下の部分には教皇が聖ステファノ(ハンガリーでは聖イシュトヴァーン)に王位を付与しているレリーフになっています。こういう記念碑はその背景を知らないとただ通り過ぎるだけですが、調べてみると、面白い話が沢山出てくるものですね。ここには大勢の観光客が集まっていました。
シルウェステル2世は頭脳明晰な人だったようで、Wikipediaにも、「数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である」と記されています。彼はミサを執り行っている最中に突然死したため、彼の研究内容を絡めて、実は黒魔術師だっただの、悪魔の崇拝者だのという噂が長いこと飛び交いました。 -
中世の時代、人々は「紀元千年の魔術師教皇」と呼んで彼を畏れました。現行の教皇が亡くなるときには、シルウェステルの墓がカタカタ鳴り、墓前の碑文がぐっしょりと濡れると本気で信じられてきたようです。
1684年、ボッロミニの改修工事の際に、シルウェステルの石棺の蓋が偶然壊れ、中に完璧な遺体が納まっていることが公にされて、ようやくこの噂は終止符を打ちました。ボッロミは新たに慰霊碑を提供しましたが、これも現在の記念碑がハンガリー人Gzila Nalderにより1907年に作られた際に撤去されました。 -
こちらは、キージ家出身の教皇アレキサンデル7世(在位 1655年〜1667年)の命による教皇アレクサンデル3世(在位 1159年〜1181年)の記念碑。アレクサンデル3世はパリのノートルダム寺院の礎石を築いた人として知られています。
ドメニコ・グイディの設計で、シエナ生まれの教皇に相応しく、黄味がかったシエナ産の大理石がふんだんに使われていて、中央の碑文は物凄く目立つ黒の大理石の円筒形です。上には白い大理石のメダリオンが乗っています。
こちらもとっても珍しい形状で面白い! -
同じアレキサンドル7世の命による、教皇セルギウス4世(在位 1009年〜 1012年)への記念碑です。ボッロミニが大聖堂の中央扉で使っていたキージ家の紋章の★がここでも中央のリースとして使われています。
両脇に並ぶ天使のカリアテッドと言うのもお初です。 -
右側廊内側通路最後は、グリエルモ・デッラ・ポルタによる枢機卿ラヌッチオ・ファルネーゼの記念碑です。名門ファルネーゼ家出身のラヌッチオは教皇パウロ3世の甥でした。
上部の彫像は、寓意的な女性像で、「信仰」と「思慮分別」を表すのだそうです。今まで見たものからすると、まったく面白味に欠けます。って一体何を求めているのか、君は! -
右側廊2番目の礼拝堂 Cappella Torlonia の祭壇画は、大理石のレリーフによる「十字架降架」。1844年のピエトロ・テネラーニによる作品です。
こちらの祭壇の両側にも寓意的な像が向かい合っていて、こちらは 堅忍不抜と節制の2人ですって。説明がないと全く分かりませんね。 -
上記の様な寓意像があちこちに見られました。入口付近には、別の寓意的像がありましたよ。寓意っていわゆる流行りものなのですかね。これは正義だったかな? それとも思慮分別だったかなあ・・・
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こちらは、マッシモ礼拝堂の入り口。大きな礼拝堂で一般のミサにも使用しているようです。かの有名なジャコモ・デッラ・ポルタの設計で、1564年に作られました。
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祭壇画は磔図。ジローラモ・シチオランテの作品です。こちらの礼拝堂は、上部が半円のカーブを描いた長方形が多用されていて、デザインに統一感がありました。
大聖堂とは思えぬほど静かなスペースだったので、暫し休憩させていただきました。 -
マッシモ礼拝堂の外側にあったのは、1675年に亡くなった大聖堂の歴史に詳しかった枢機卿チェーザレ・ラスポーニの記念碑。こちらはフィリッポ・カルカーニと言う人の作品ですが、中央の男性と空を飛んでいる天使がメダリオンを掴んでいる彫像は、ベルニーニを思い起こさせます。
中央の男性は誰なのでしょう?? -
ボッロミニは、写真のような楕円形の窓を大聖堂のあちこちに配置しました。一目見て、ボッロミニだとわかる素晴らしいデザインなのですが、記念碑とのベストマッチングともいえるのがこちら。コズマーティとバロックのコラボでもあります。
1287年に亡くなったミラノの枢機卿コンテ・カサーティの記念碑。その外側の優美な曲線と楕円形の窓がぴったりマッチしていますね。
フルーツバスケットを頭に載せた男性のカリアテッドは大変ユニーク。中央のレリーフで、跪いた枢機卿がキリストに捧げているものは教会でしょうか?
初めて見るデザインで感動モノでした。 -
続いて訪れたのは、福音記者ジョヴァンニに捧げた礼拝堂です。殆どこの絵だけしかない小さな礼拝堂です。
黙示録を書いているジョヴァンニが聖母からヴィジョンを得る場面だそうです。 -
辿り着いたのは、こちらの翼廊です。
わお〜 すご〜い!!!
この翼廊を右にずっと行くと、ドメニコ・フォンターナが設計した祝福のファサードに突き当たるはずです。
翼廊は、1600年の聖年に間に合うよう、1592年に教皇クレメンス8世(在位 1592年〜1605年)の命により、ジャコモ・デッラ・ポルタが修復の全体の設計を担当しました。フレスコ画の装飾は、カヴァリエール・ダルピーノCavalier d'Arpinoが、優秀なマネリスムの画家たちを率いて行われました。
ここから見える大きな二段目のフレスコ画は、左から「大聖堂の献堂式」、「大聖堂の建設」 です。 -
翼廊の右側には、L'organo Biagiと呼ばれる大聖堂のメイン・オルガンが見えました。1598年にペルージャの職人ルカ・ブラシによって作られました。全体の設計はジャコモ・デッラ・ボルタで、青と金を使ったバロック装飾は、ジョバンニ・バッティスタ・モンターノが担当しました。
オルガンを支える2本の柱がまた凄い! 希少な大理石で、古代ローマで大変珍重された「古代黄」と呼ばれるものです。
柱は、コンスタンティヌスが彼の宮殿のものを寄進した という「伝説」がここでも登場しますが、実際のところは、トラヤヌスのフォーラムから掘り起こされたという意見が一般的です。 -
この先には柵があって、これ以上前に進むことができないのが非常に残念! 双眼鏡が必要でした。
後陣から白い服を着た一団が近づいてきましたよ。 -
これからミサが始まるのかしら?
追い出される前に、早く見てしまわないと・・・ -
身廊と翼廊が交差する中央部分で、これから儀式が始まるようです。
後陣に向かって左側にも素晴らしいオルガンが見えました。こちらはOrgano in cornu Epistolæと言う名前で1886年に設置されたものだそうです。 -
主祭壇の前の部分にも立ち入ることが出来ないので、なかなか後陣の全容を見ることができません。少し移動しましょう。
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遠くですが、ようやく後陣のドームを捉えることが出来ました。
中央に教皇専用の白い椅子が置いてあります。この椅子は思いっきりコズマーティ様式のデザインです。背景の壁のコズマーティがまた素晴らしい。中央の大きな赤い石が目立っています。教皇の椅子よりも私の目はそちらにくぎづけになりました。 -
こちらが、思いっきり望遠で撮った後陣です。
教皇の椅子の後ろ、壁一段目は複雑なモザイク装飾が施された白地に様々な色の大理石をはめ込んだパネルが並んでいます。こちらも美しい彩色が施されたコズマーティ様式。
二段目はグロテスク様式で、暗赤色の背景に花を組み合わせた、よく見られるぶどうの蔓の連続模様です。
三段目は深い青地に金文字で書かれた、1884年のレオ13世の時代のモザイクの復元についての碑文が綴られています。 -
後陣のモザイクのオリジナルは13世紀の終わりにフランシスコ会の二人の修道士 ジャコポ・ダ・カメリーノとジャコポ・トッリティが、教皇ニコラウス4世(在位 1288年〜 1292年)の命を受け作成したものです。教皇自身もフランシスコ会の総長を務めていた元修道士なので、その意味では、今まで見たモザイクとは異なり、フランシスコ会の色濃いものとなっています。
現在のモザイクは1878年に完成しましたが、オリジナルの完全復元とはいかなかったようです。
上の方から見ていきましょう。
天井近くに9人の熾天使に囲まれたキリストがいます。熾天使(天使の中でも最高の地位にある天使の中の天使!)もフランシスコ会がよく手掛けるテーマだそうです。
その下には宝石で飾られた十字架があり、その上を聖霊の象徴ハトが飛んでいます。十字架の根元からは4つの河川が流れだし、2匹の鹿、6匹の羊が草を食んでいます。
十字架の左側には、聖母マリア、彼女の足元に跪いているのはモザイクの注文主教皇ニコラウス4世。彼はモザイクのの変更、修復に責任があったことを示しています。アッシジのフランチェスコ、そしてピエトロとパオロ。右側には、洗礼者ジョヴァンニ、パドヴァのアントニオ、福音記者ジョヴァンニ、使徒アンデレと続きます。
教皇と二人のフランシスコ会の僧(フランチェスコとアントニオ)は小さめに描かれています。
聖人達が立っている場所は、花が咲き乱れる草原です。 -
メインモザイクの下に描かれているのは、残り9人の使徒達。
よーく目を凝らすと、両側の使徒達の下に跪いている前述の2人のモザイク製作者がいるのが確認できます。今まで製作者がモザイクに登場したことはなかったので、これは新鮮な驚きでした。教えてもらわなければ気が付きもしないところでしたよ。
また、フランシスコ会が13世紀に絶大な権力を持っていたことがわかり、興味を覚えました。
ただ、モザイク好きにとって、それほど魅力ある作品ではありませんでした。モザイクの全盛時代を過ぎた13世紀のオリジナルというのが、どこまで過去の要素を取り入れていたのか、今となっては知る由もありませんね。 -
左側の翼廊にやってまいりました。
右の翼廊と同じスタイルですが、目立つものが三つあります。
一つ目は、レオ13世(在位 1878年〜1903年)の墓と彫像です。1907年グィリオ・タドリーニの傑作と言われています。人々の歓声に応えるようなポーズで立つ教皇の姿はとても迫力があります。 -
教皇の足元には、これも寓意的な彫像だそうですが、左側には労働者の像(教皇自身、労働者階級と労働者の権利を擁護したことで知られています)、そして右側には信仰の像がありました。右側の像は、この位置からだと全体を見ることが出来ません。
レオ13世は、サン・ピエトロ寺院以外の場所に埋葬された最後の教皇だそうです。 -
二つ目は、こちらのローマ神殿を思わせる建物。御聖体祭壇と呼ばれるもので、左翼廊の端に位置しています。 1598年にピエトロ・パオロ・オリヴィエーリが、教皇クレメンス8世(在位 1592年〜1605年)の命を受け、作成したもので、クレメンス8世の紋章が装飾にふんだんに使われています。
神殿の形をした建物では、4本のブロンズ製の黄金色に光り輝く柱とその上のペディメントが目立ちますね。大聖堂には、少なくとも教皇ニコラウス4世(在位 1288年〜1292年)の時代にはあったと文書に残っていますが、それ以前のことはわかっていません。カピトリーノにあったジュピター神殿から持ち出したとか、皇帝アウグストゥスがアクティウムの戦いで拿捕したクレオパトラの船のブロンズの舳先から作られたとか、噂は山ほどあって面白い!
内側にも小さな神殿?が作られていて、その中にある御聖体のための幕屋は同じくブロンズ製で、八角ドーム型の寺院の形。宝石や色石がふんだんに使われていて、眩いばかりに金色に輝いています。まさにラテラーノ版金色堂ですね。
小神殿の上には、これまた金色のフレームを2人の天使が支えているのが見えます。こちらは、クルツィオ・ヴァンニによる「最後の晩餐」のレリーフのコピーです。オリジナルはどうやら、ナポレオンへの支払いのために前述の聖遺物箱と一緒に溶かされたというもっぱらの噂です。
これ以上近づけないので、残念ながら詳細が見えません。
そして三つ目ですが、これまた見にくい場所にあります。御聖体祭壇の後ろの壁のフレスコ画「キリストの昇天」。全景を写すのは無理みたいです。このフレスコ画も、1600年の聖年に合わせて行われた改修の一環で、カヴァリエール・ダルピーノ指揮下のジュゼッペ・チェザーリが作成しました。 -
ここから見える2枚の大きなフレスコ画は、左から「コンスタンティヌスの祭服の寄進」、「聖顔の大聖堂への奇跡的な出現」です。
特に右の絵は有名だそうで、突如後陣に出現したキリストの顔を見て、驚き慄いている人々が描かれています。 -
翼廊の天井は、身廊とよく似ていますが、別個の彫刻が施されています。ここから見えるのはその中央部分。真ん中のキリストの胸像は羽のついたプット(キューピーさんみたいな天使の子供です)に囲まれています。その左右にはピエトロとパオロの胸像。そして両ジョヴァンニの、こちらは全身像が続きます。
天井の修復も1592年からのジャコモ・デッラ・ポルタ総指揮の下、全面的な改修が行われ、タッデオ・ランディーニがその監督を務めました。
何もかにもが大きくて立派過ぎて、私には合わないなと思いつつ、首が痛くなるまで見上げていました。 -
これで、歩いていないところは、左側廊のみとなりました。ぶらぶら歩きながら、帰路につきましょう。見どころは大体押さえたかな・・・
今発見したんですが、この位置からレオ13世の彫像と、奇跡の聖顔のフレスコ画が良く見えますねえ。 -
枢機卿ルシオ・サッシの記念碑 1604年。楕円形のの枠の中のフレスコはかなり損傷が進んでいます。
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お次は、枢機卿ジローラモ・カサナーテの記念碑 1700年。この記念碑は間違いなく、ボッロミニの楕円形の窓に合わせて制作したんでしょうね。作者ピエール・ル・グロがベルニーニに傾倒しているのは見てすぐにわかります。
枢機卿は死の床にいるにも関わらず、その顔は歓喜に満ちているように見えます。 -
ポワティエのサン・イラリオ礼拝堂は小さな礼拝堂です。日本語ではヒラリウスと呼ばれるこの聖人については全く存じませんでしたが、帝政ローマ末期のポワティエの司教だった人で、ラテン教父の一人です。
祭壇画のフレスコは、ヒラリウスが三位一体のヴィジョンを得る場面。キリスト教徒ではないので、どうもこのヴィジョンを得る、持つといったあたりの解釈が苦手です。啓示を受けるのとは違うのかなあ・・・どなたかご存じなら教えてくださいね。 -
サン・イラリオ礼拝堂の脇には、ローマで一、二と言われるキオストロ(回廊)への出入り口がありました。時刻は午後5時57分。終了3分前でした。
この回廊に関しては、ここからもチラリと見えますが、色々な形態の柱と床が楽しめると聞いています。さすがに3分じゃあ無理でしょう。後回しがどんどん増えます。先に行っておけばよかったと後悔しました。 -
こちらは、アッシジのフランチェスコに捧げられたランチェロッティ家礼拝堂です。
礼拝堂の設計はサン・ピエトロ寺院のファサードを作ったカルロ・マデルノでしたが、実際の仕事はフランチエスコ・カプリアーニによって行われました。いかにもローマらしい、バロック様式の明るい礼拝堂です。
さあ、この中に天使が何人いるでしょう?
と質問したくなるほど、飛び回っていますよ。
変わった形の祭壇です。楕円形に見えますが、実は立体、ゆで卵を縦にスパっと切ったような長細い半球をしています。
祭壇画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・プッチェッティによるサン・フランチェスコが聖痕を受ける場面。
聖痕については、旅の最初の方でも紹介しましたが、再度ここで書かせていただきますね。
ベルナ山で祈るフランチェスコの前に、十字架にかかった熾天使(セラフィム)の姿でキリストが現れ、その両手両足からそして脇腹から光が発し、フランチェスコにキリストと同じ傷が印されました。 -
これぞバロック・ロココ調のスタッコ(漆喰)装飾と言った雰囲気のドームですね。花と天使がちょっとくどいなあ・・・
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こちらは小さくて目立たない、そして古い(1293年)、ベルナルディーノ・カラッチオロの記念碑ですが、ボッロミニが自ら手を加えたことでコラボが完成しました。
彼は修復時に半分壊れかけていたカラッチオロの寝姿の彫像を救いだし、自らデザインしたご覧のような、内側にカーブしている石組の中に収めたのです。
今は棺の下にいる2頭のライオンは元々はどこにいたんでしょうかねえ・・・ -
カトリックのことはホンの少ししかわからないのですが、これだけ見てくると、「永眠」聖母マリアの死と「昇天」聖母マリアが天に召されることは異なる出来事だという位は分かります。聖母は亡くなって、そのあと、彼女の肉体は墓から天に召されたのです。
こちらは、アントネッリ家の礼拝堂の祭壇です。フレスコ画はジョヴァンニ・オダッツィと言う画家が描き始めた「聖母の昇天」ですが、途中で彼が亡くなったため、後を継いだイグナツィオ・スターンが完成させました。
この絵の特徴は、絵の下部に小さなガラス張りのニッチェがあることです。そして面白いことに、そこには14世紀にジョット派の描いた「聖母の永眠」の一部が収められているのです。ちょっと見えにくくてごめんなさい。
通常、祭壇画には二つの出来事を同時に捧げることはないので、明らかにミスです。この絵について調べていたら、偶然、カトリックの信者とはいえ、この二つの出来事を区別できていない人がいるという証なのだ と書いてある資料を発見してしまいました。
そんないわくつきの絵が、大聖堂に飾られているというのも、なかなか面白いと思いませんか? 人間のやることは本当に興味深いです。 -
ようやく左側廊最後の礼拝堂です。コルシーニ家礼拝堂は、現正面ファサードを作ったアレッサンドロ・ガリレイの設計で、教皇クレメンス12世(在位 1730年〜1740年)のために1736年作られました(彼の本名はロレンツォ・コルシーニ)。
彼は礼拝堂の地下のクリプトに埋葬されていて、1733年にアントニオ・モンタウティが制作した大理石製のピエタ像に見守られています。
こちらにあるスタッコ像はそのコピーです。サン・ピエトロ寺院のものほどではありませんが、やはりマリア様が若いなあ・・・ -
礼拝堂内部は、後期バロックでまとめられた、思いっきりお金のかかった空間です。今この床を見ると、もっと詳細に見たかったと思うのですが、疲れがピークに達していたのか、撮った写真はこれ1枚です。
祭壇画はグイド・レーニによるサン・アンドレ・コルシーニの祈りを元にしたモザイクです。祭壇の上には、ここにもいましたよ。寓話の女性像たち純潔と懺悔のお二人が!
彼女たちの上のアーチが一部崩れているように見えるのですが、これはどういう意味なのでしょうね。明り取りというはずはないし、本当に壊れているのかなあ・・・ -
ボッロミニの窓とお墓のコラボをもう二つ紹介して、終わりにしたいと思います。こちらは、ジェラロド・ビアンキ別名パルマのビアンキと呼ばれた11世紀の教皇の外交官の墓です。
古い墓は壊れてしまったらしく、こちらは石棺ごと新しいものに作り変えられ、ボッロミニにより新しい寝場所を提供されたようです。 -
こちらは、右翼廊そばにあった、枢機卿アントニオ・マルティネス・デ・チャベスの記念碑です。ボッロミニは、彼には、背面の壁が緑と赤い列柱が美しいコントラストを見せる大変豪華な安置場所を提供しました。
古いものを大切に扱いながらも、随所に彼独自の工夫を凝らしたボッロミニのデザイン・センスに脱帽です。 -
大満足のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂を後にします。最期にやっぱり振り返ってしまいました。
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ファサードでももう一度上を見上げます。キオストロと洗礼堂を見逃したので、また必ず参りますからね。
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来た時とは逆の方からアウレリアヌス城壁のサン・ジョヴァンニ門を眺めます。門の上に上れるのかなあ・・・散歩道がつづいているようだけれど・・・
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こちらが門の内側。木々の影が長〜く伸びていますね。この門をくぐうと、地下鉄サン・ジョヴァンニ駅はすぐです。
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通りの向かい側から、アッシジのサン・フランチェスコの祝福を受けました。聖人の死後700年を記念して、1927年に建てられた記念碑です。
制作したのは、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の記念碑でも活躍した彫刻家ジュゼッペ・トンニーニ。これは、インノケンティウス3世に会うためにローマにやってきた時の、サン・フランチェスコと彼の同行者5名の姿を再現したものだそうです。
記念碑の前には碑文、側面には、ダンテ・アリギエーリが聖人を読んだ「神曲」楽園の第11編の詩が刻まれています。 -
長い3日目が終わりました。お疲れ様! 思った通り、いや思った以上に興奮と感動を与えてくれるローマを満喫していますよ。明日も歩きまっせ。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その17 ローマ サンタ・マリア・デッリ・アンジェリで!
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この旅行記へのコメント (3)
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- とし坊さん 2016/01/01 21:01:00
- 巨大な石像ですよね
- 大きな教会と大きな石像に圧倒されますよね
でも細かな描写と説明には驚きです(^O^)
今後ともヨロシクです(´・_・`)
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- hakodadiさん 2015/08/18 11:21:38
- 相変わらずの濃い解説、凄すぎです
- junemayさん こんにちは
今回もまた濃い〜〜解説。とりあえずざっと読ませていただきましたが、また必ずもどってきて熟読させていただきます。私も教会は随分見ましたが、こうして聖画や彫像など個々の要素をじっくり観察し読み解くということは思いもよりませんでした。「基礎知識が不足しているからどうせわからないだろう」的な思い込みでしたが、これから少し勉強してみようという気になっています。次の記事も楽しみです。
- junemayさん からの返信 2015/08/18 18:54:23
- RE: 相変わらずの濃い解説、凄すぎです
- hakodadiさま
こんばんは。
訪問いただきましてありがとうございます。
なんとなく物見遊山というたびから脱却したいなと思って、自分の行ったところ、見たものについて、もう少し勉強して味わいたい と考えたのがきっかけなのですが、奥はとても深いので、きりがないんですよね。
とはいうものの、ただ「綺麗!」「素敵!」の連発もいやだなあと思い、
気に向くままに調べては新たなことを発見し、結構それなりに楽しんでいます。
枝葉に入ってしまって、一向に進まないのが玉に瑕。
ボケる一歩手前なので、旅行の内容を忘れないうちに書かなければならず、時間との戦いでもあります。
懲りずにまたおいでくださいね。
junemay
> junemayさん こんにちは
>
> 今回もまた濃い〜〜解説。とりあえずざっと読ませていただきましたが、また必ずもどってきて熟読させていただきます。私も教会は随分見ましたが、こうして聖画や彫像など個々の要素をじっくり観察し読み解くということは思いもよりませんでした。「基礎知識が不足しているからどうせわからないだろう」的な思い込みでしたが、これから少し勉強してみようという気になっています。次の記事も楽しみです。
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