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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。<br /><br />まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。<br /><br />イタリアには過去3度行ったことがあります。<br />最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。<br />2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。<br />3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。<br /><br />今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。<br /><br />イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。<br /><br />2015/5/6	水	成田→モスクワ→ローマ<br />2015/5/7	木	ローマ<br />2015/5/8	金	ローマ→ティヴォリ→ローマ<br />2015/5/9	土	ローマ<br />2015/5/10	日	ローマ<br />2015/5/11	月	ローマ<br />2015/5/12	火	ローマ<br />2015/5/13	水	ローマ→ナポリ<br />2015/5/14	木	ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ<br />2015/5/15	金	ナポリ<br />2015/5/16	土	ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ<br />2015/5/17	日	ナポリ→バーリ<br />2015/5/18	月	バーリ→マテーラ→バーリ<br />2015/5/19	火	バーリ→レッチェ→バーリ<br />2015/5/20	水	バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ<br />2015/5/21	木	バーリ→アンコーナ→フォリーニョ<br />2015/5/22	金	フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ<br />2015/5/23	土	フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ<br />2015/5/24	日	フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ<br />2015/5/25	月	フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト<br />2015/5/26	火	オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト<br />2015/5/27	水	オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト<br />2015/5/28	木	オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ<br />2015/5/29	金	ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ<br />2015/5/30	土	ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ<br />2015/5/31	日	ボローニャ<br />2015/6/1	月	ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/2	火	ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/3	水	ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/4	木	ヴィチェンツァ<br />2015/6/5	金	ヴィチェンツァ→ミラノ<br />2015/6/6	土	ミラノ<br />2015/6/7	日	ミラノ<br />2015/6/8	月	ミラノ→モスクワ→<br />2015/6/9	火	→成田<br /><br />入場していないにもかかわらず、ディオクレティアヌス浴場を満喫した気分になって、次行きます。サン・ベルナルド・アッレ・テルメのあるサン・ベルナルド広場辺りは、必見の場所が目白押しです。いわば観光客のゴールデンルートを私も辿ります。

イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その18 ローマ サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア

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2015/05/10 - 2015/05/10

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junemay

junemayさん

2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。

まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。

イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。

今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。

イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。

2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田

入場していないにもかかわらず、ディオクレティアヌス浴場を満喫した気分になって、次行きます。サン・ベルナルド・アッレ・テルメのあるサン・ベルナルド広場辺りは、必見の場所が目白押しです。いわば観光客のゴールデンルートを私も辿ります。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • サン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会の前にあるこちらの噴水は、イタリア語でアクア・フェリーチェ(フェリーチェの噴水 直訳=幸せ水道)、日本名は「フェリックス水道の噴水」、あるいは中央に巨大なその像があることから「モーゼの噴水」と呼ばれています。<br /><br />水道は1585年から1588年にかけて、建築家ボルトラーニ・マッテオとジョヴァンニ・フォンターナ(ドメニコの兄弟)によって作られました。フェリーチェと言う名前は、当時の教皇シクストゥス5世(在位 1585年〜1590年)の本名 フェリーチェ・ペレッティから取ったそうです。<br /><br />水道の建設は、当時水不足に悩んでいたクイリナーレ、ヴィミナーレの丘周辺住民に水を供給すると言うのが表向きの理由でしたが、実は二つの丘にまたがる教皇の別荘(ヴィッラ・モンタルト)に水を送るのが主目的だったようです。<br /> <br />水道はティブルティーナ門から市内に入り、ここが終着点でした。<br />

    サン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会の前にあるこちらの噴水は、イタリア語でアクア・フェリーチェ(フェリーチェの噴水 直訳=幸せ水道)、日本名は「フェリックス水道の噴水」、あるいは中央に巨大なその像があることから「モーゼの噴水」と呼ばれています。

    水道は1585年から1588年にかけて、建築家ボルトラーニ・マッテオとジョヴァンニ・フォンターナ(ドメニコの兄弟)によって作られました。フェリーチェと言う名前は、当時の教皇シクストゥス5世(在位 1585年〜1590年)の本名 フェリーチェ・ペレッティから取ったそうです。

    水道の建設は、当時水不足に悩んでいたクイリナーレ、ヴィミナーレの丘周辺住民に水を供給すると言うのが表向きの理由でしたが、実は二つの丘にまたがる教皇の別荘(ヴィッラ・モンタルト)に水を送るのが主目的だったようです。
     
    水道はティブルティーナ門から市内に入り、ここが終着点でした。

  • 古代ローマの凱旋門を模したこちらの噴水は、建築家ドメニコ・フォンターナが制作しました。材料となる大理石、スタッコ、石灰岩は殆どお隣のディオクレティアヌス浴場から拝借? いや、かっさらってきたようです。<br /><br />ローマの伝統に則り、建物の上部には、施工主(シクストゥス5世)を称える碑文が長々と書かれています。その更に上では、2人の天使が高々と教皇の紋章を掲げていますね(上の写真参照)。<br /><br />3つのアーチの前の池には、ヒエラクリフが書かれた石に寝そべるエジプトティックなライオンが全部で4頭。ライオンの口から水が流れ出ています。

    古代ローマの凱旋門を模したこちらの噴水は、建築家ドメニコ・フォンターナが制作しました。材料となる大理石、スタッコ、石灰岩は殆どお隣のディオクレティアヌス浴場から拝借? いや、かっさらってきたようです。

    ローマの伝統に則り、建物の上部には、施工主(シクストゥス5世)を称える碑文が長々と書かれています。その更に上では、2人の天使が高々と教皇の紋章を掲げていますね(上の写真参照)。

    3つのアーチの前の池には、ヒエラクリフが書かれた石に寝そべるエジプトティックなライオンが全部で4頭。ライオンの口から水が流れ出ています。

  • そしてド迫力なのは、こちらの彫像です。中央のモーゼ像は高さ4m余。プロスペロ・アンティーキによって始められ、レオナルド・ソルマーニが完成させました。

    そしてド迫力なのは、こちらの彫像です。中央のモーゼ像は高さ4m余。プロスペロ・アンティーキによって始められ、レオナルド・ソルマーニが完成させました。

  • このずんぐりむっくりしたモーゼ像については、Mosè ridicolo(馬鹿げたモーゼ)と言うあだ名がつくほど色々と批判、はたまた嘲笑も多くあるようです。<br /><br />確かに、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリで見たモーゼとはだいぶ雰囲気が異なりますが、下から見上げるこのアングルのせいもあるのではないかなあ。<br />

    このずんぐりむっくりしたモーゼ像については、Mosè ridicolo(馬鹿げたモーゼ)と言うあだ名がつくほど色々と批判、はたまた嘲笑も多くあるようです。

    確かに、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリで見たモーゼとはだいぶ雰囲気が異なりますが、下から見上げるこのアングルのせいもあるのではないかなあ。

  • 左側のアーチには、ジャン・バッティスタ・デッラ・ポルタ作の「ヘブライの民を、砂漠の泉に導くアロン」。<br /><br />アロンはモーゼの兄で、モーゼとともにヘブライ人のエジプト脱出を導いた人です。

    左側のアーチには、ジャン・バッティスタ・デッラ・ポルタ作の「ヘブライの民を、砂漠の泉に導くアロン」。

    アロンはモーゼの兄で、モーゼとともにヘブライ人のエジプト脱出を導いた人です。

  • 右側にはピエトロ・パオロ・オルヴィエリとフラミニオ・ヴァッカ合作の「飲み方を観察して兵士を選ぶギデオン」。<br /><br />ギデオンとは、ヘブライ人の士師で、神からの召命を受け、当時のヘブライ人を近隣部族の襲撃から守るリーダーとなった人です。旧約聖書も土師記も読んでいないので。この場面が何を意味するのか分かりませんが、水に関係していることだけは確かですね。

    右側にはピエトロ・パオロ・オルヴィエリとフラミニオ・ヴァッカ合作の「飲み方を観察して兵士を選ぶギデオン」。

    ギデオンとは、ヘブライ人の士師で、神からの召命を受け、当時のヘブライ人を近隣部族の襲撃から守るリーダーとなった人です。旧約聖書も土師記も読んでいないので。この場面が何を意味するのか分かりませんが、水に関係していることだけは確かですね。

  • フェリーチェの噴水は色々と物議を醸しだしたものの、水道建設事業完成の記念碑として、様々な建築家、芸術家達の合作を生んだという意味では、ローマで初めての噴水となりました。<br /><br />ライオンたちは物憂げな表情をして、水を吐き出し続けていました。

    フェリーチェの噴水は色々と物議を醸しだしたものの、水道建設事業完成の記念碑として、様々な建築家、芸術家達の合作を生んだという意味では、ローマで初めての噴水となりました。

    ライオンたちは物憂げな表情をして、水を吐き出し続けていました。

  • 次の訪問地、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア(聖母の勝利)教会はモーゼの噴水から9月20日通りを挟んだ向かい側に建っていました。<br /><br />この辺りは16世紀初頭までは、サン・ピエトロに捧げる小さな庵があるのみで、草ぼうぼうのディオクレティアヌス浴場遺跡以外何もない荒れ地で、貴族階級が狩りに訪れるような寂しい土地だったそうです。<br /><br />現在の教会は1600年頃、跣足カルメル会(せんそく=靴を履かないの意味。裸足と言う意味ではない。跣足は改革を意味する)の修道士達によって建てられました。彼らは自給自足の生活をしていましたが、ある日敷地内で大発見をするのです。それは「眠れるヘルマプロディートス」と言う古代の像でした。枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼは、像を引き取る代わりに教会の建築資金を出そうと彼らに持ち掛け、サン・ピエトロ寺院のファサードを作ったカルロ・マデルノにより教会本体が建てられることになったのです。<br /><br />ヘルマプロディートスはギリシャの神の一人で、「ボルゲーゼのヘルマプロディートス」と名付けられたこの美少年の像は現在、ルーブル美術館にあります。<br /><br />教会のファサードはジョヴァンニ・バッティスタ・ソリアによって作られました。このファサード、すぐお隣のマデルノの作品サンタ・スサンナ教会のファサードに強い影響を受けているそうですよ。ちょっと比べてみましょうか?

    次の訪問地、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア(聖母の勝利)教会はモーゼの噴水から9月20日通りを挟んだ向かい側に建っていました。

    この辺りは16世紀初頭までは、サン・ピエトロに捧げる小さな庵があるのみで、草ぼうぼうのディオクレティアヌス浴場遺跡以外何もない荒れ地で、貴族階級が狩りに訪れるような寂しい土地だったそうです。

    現在の教会は1600年頃、跣足カルメル会(せんそく=靴を履かないの意味。裸足と言う意味ではない。跣足は改革を意味する)の修道士達によって建てられました。彼らは自給自足の生活をしていましたが、ある日敷地内で大発見をするのです。それは「眠れるヘルマプロディートス」と言う古代の像でした。枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼは、像を引き取る代わりに教会の建築資金を出そうと彼らに持ち掛け、サン・ピエトロ寺院のファサードを作ったカルロ・マデルノにより教会本体が建てられることになったのです。

    ヘルマプロディートスはギリシャの神の一人で、「ボルゲーゼのヘルマプロディートス」と名付けられたこの美少年の像は現在、ルーブル美術館にあります。

    教会のファサードはジョヴァンニ・バッティスタ・ソリアによって作られました。このファサード、すぐお隣のマデルノの作品サンタ・スサンナ教会のファサードに強い影響を受けているそうですよ。ちょっと比べてみましょうか?

  • こちらがラルゴ・サンタ・スサンナ通りを隔てたお隣のサンタ・スサンナ教会です。これじゃあ小さいか・・・

    こちらがラルゴ・サンタ・スサンナ通りを隔てたお隣のサンタ・スサンナ教会です。これじゃあ小さいか・・・

  • さあ、こちらではいかがでしょうか?<br /><br />似ているかと訊かれたら、私には似ているように見えますが・・・見比べる価値のあるファサードなのだそうですよ。

    さあ、こちらではいかがでしょうか?

    似ているかと訊かれたら、私には似ているように見えますが・・・見比べる価値のあるファサードなのだそうですよ。

  • さて、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリアに戻ります。<br /><br />入り口はかなり地面より高い位置にあります。敷地が坂道になっているからでしょうか? 扉の上にはプット(天使)のレリーフがあり、更にその上にはキリスト降誕のレリーフが飾られています。<br />左右にはニッチェがありますが、何も飾られていません。<br /><br />では入っていきましょう。

    さて、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリアに戻ります。

    入り口はかなり地面より高い位置にあります。敷地が坂道になっているからでしょうか? 扉の上にはプット(天使)のレリーフがあり、更にその上にはキリスト降誕のレリーフが飾られています。
    左右にはニッチェがありますが、何も飾られていません。

    では入っていきましょう。

  • まずこの天井が目に飛び込んできました。<br /><br />最初は、「うへぇ〜」だったのですが、次第に「ほぉ〜」に変わってきました(なんのこっちゃ)!<br /><br />思わず数えたくなるほど、たくさんの白い天使たちが周りを飛び回っています。中央のフレスコは、これまた、天使たちに囲まれた天国のマリア様です。<br /><br />待てよ・・・よく見ると、天国から落とされている人たちがいますね!<br /><br />これは、ルシファー(またの名を「悪魔」と言う)率いる悪の天使達が、天国から突き落とされている場面なのだそうです。

    まずこの天井が目に飛び込んできました。

    最初は、「うへぇ〜」だったのですが、次第に「ほぉ〜」に変わってきました(なんのこっちゃ)!

    思わず数えたくなるほど、たくさんの白い天使たちが周りを飛び回っています。中央のフレスコは、これまた、天使たちに囲まれた天国のマリア様です。

    待てよ・・・よく見ると、天国から落とされている人たちがいますね!

    これは、ルシファー(またの名を「悪魔」と言う)率いる悪の天使達が、天国から突き落とされている場面なのだそうです。

  • 反対側に回って見上げると、おお怖〜! 天国に行ったからって安心できないのですね。<br /><br />「異端に勝利した聖母マリアと反乱軍天使たちの堕落」はジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニの1675年の作品です。<br /><br />この絵が作られた背景には、ボヘミアなどを舞台に約30年(1618年〜1648年)続いたプロテスタントとカトリックの争い、通称「30年戦争」について、少し説明しなければなりません。<br /><br />戦争の間只中の1620年、チェコのプラハ近郊の「白山の戦い」で、カトリック側のオーストリア軍はチェコのプロテスタント軍を奇跡的に破りました。勝利をもたらしたのは、カトリック側のカルメル会の牧師が首にかけていたキリスト生誕のイコンであるとされ、そのイコンはプラハからローマに運ばれて、教皇インノケンティウス10世により、感謝の気持ちを込めてこの教会に捧げられたのです。それがきっかけとなり、教会は聖母の勝利教会と呼ばれるようになりました。<br /><br />天井画は、カトリック側が勝利を収めたことを寓話化したものですが、当時カトリック勢力にとって、プロテスタントはまさしく異端、天国から突き落とさねばならないような存在だったのでしょうね。

    反対側に回って見上げると、おお怖〜! 天国に行ったからって安心できないのですね。

    「異端に勝利した聖母マリアと反乱軍天使たちの堕落」はジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニの1675年の作品です。

    この絵が作られた背景には、ボヘミアなどを舞台に約30年(1618年〜1648年)続いたプロテスタントとカトリックの争い、通称「30年戦争」について、少し説明しなければなりません。

    戦争の間只中の1620年、チェコのプラハ近郊の「白山の戦い」で、カトリック側のオーストリア軍はチェコのプロテスタント軍を奇跡的に破りました。勝利をもたらしたのは、カトリック側のカルメル会の牧師が首にかけていたキリスト生誕のイコンであるとされ、そのイコンはプラハからローマに運ばれて、教皇インノケンティウス10世により、感謝の気持ちを込めてこの教会に捧げられたのです。それがきっかけとなり、教会は聖母の勝利教会と呼ばれるようになりました。

    天井画は、カトリック側が勝利を収めたことを寓話化したものですが、当時カトリック勢力にとって、プロテスタントはまさしく異端、天国から突き落とさねばならないような存在だったのでしょうね。

  • 身廊は一廊式で、左右の大きなアーチの中は礼拝堂になっています。その先はドームのある翼廊で両端に大きめの礼拝堂、そしてその奥に大きな半円ドームの後陣のある聖域が広がっています。<br /><br />柱、壁、天井、どこも装飾がくまなく施されていて、いたずら書きをするスペースも残されていません(笑)! 本当にびっしりと、隙間なく、過剰とも思える装飾の嵐です。<br /><br />勿論、これらは全て一度で行われたものではないようです。時とともにどんどん装飾に装飾を重ねていった結果だと思われます。

    身廊は一廊式で、左右の大きなアーチの中は礼拝堂になっています。その先はドームのある翼廊で両端に大きめの礼拝堂、そしてその奥に大きな半円ドームの後陣のある聖域が広がっています。

    柱、壁、天井、どこも装飾がくまなく施されていて、いたずら書きをするスペースも残されていません(笑)! 本当にびっしりと、隙間なく、過剰とも思える装飾の嵐です。

    勿論、これらは全て一度で行われたものではないようです。時とともにどんどん装飾に装飾を重ねていった結果だと思われます。

  • 振り返って、こちらは入り口の方を撮った1枚です。どこもかしこも装飾過多でしょう?<br /><br />中央の大きな窓の下にオルガンと聖歌隊席が作られていました。聖歌隊席はベルリーニと一緒に仕事をしていたマッティア・デ・ロッシによって作られました。<br /><br />あれ! 目を凝らしてみると、オルガンを支えているような格好の天使発見!

    振り返って、こちらは入り口の方を撮った1枚です。どこもかしこも装飾過多でしょう?

    中央の大きな窓の下にオルガンと聖歌隊席が作られていました。聖歌隊席はベルリーニと一緒に仕事をしていたマッティア・デ・ロッシによって作られました。

    あれ! 目を凝らしてみると、オルガンを支えているような格好の天使発見!

  • ドームの真下にやってきました。<br /><br />フレスコ画はドームの中だけには納まりきらず、どんどん外にあふれ出てくるように見えます。こちらも身廊の天井と同じチェッリーニの作品。どちらの絵も3D画法のような立体感が素晴らしいです。<br /><br />

    ドームの真下にやってきました。

    フレスコ画はドームの中だけには納まりきらず、どんどん外にあふれ出てくるように見えます。こちらも身廊の天井と同じチェッリーニの作品。どちらの絵も3D画法のような立体感が素晴らしいです。

  • ズームアップして、さらに眺めます。<br /><br />しかし、これが神や天使の住む場所なのですかねえ。あまりに人口密度が高くて、誰か誤って落ちて来なければ良いのですが・・・

    ズームアップして、さらに眺めます。

    しかし、これが神や天使の住む場所なのですかねえ。あまりに人口密度が高くて、誰か誤って落ちて来なければ良いのですが・・・

  • 主祭壇の前です。<br />わぁ〜 こんな稚拙な表現しか浮かびません。へぇ〜、ほぉ〜の次がこれですからね。<br /><br />プラハの「白山の戦い」で勝利をもたらしたイコンが今どこにあるのかと言うと、実はオリジナルは1833年の火災で焼けてしまったそうです。今祭壇にあるのは、修道士らが修道院に保管していたそのコピーだそうです。

    主祭壇の前です。
    わぁ〜 こんな稚拙な表現しか浮かびません。へぇ〜、ほぉ〜の次がこれですからね。

    プラハの「白山の戦い」で勝利をもたらしたイコンが今どこにあるのかと言うと、実はオリジナルは1833年の火災で焼けてしまったそうです。今祭壇にあるのは、修道士らが修道院に保管していたそのコピーだそうです。

  • 祭壇の中央に見えるのがイコンなのでしょうが、雲を突き破ってきた太陽光線とでもいいますか、その輝きがあまりに眩しすぎて、肝心のイコンがどんなものなのかさっぱりわかりませんでした(泣)。<br /><br />なんと形容したらよいのでしょうね。サンビームの祭壇・・・<br />こんな眩しい祭壇は初めてです。

    祭壇の中央に見えるのがイコンなのでしょうが、雲を突き破ってきた太陽光線とでもいいますか、その輝きがあまりに眩しすぎて、肝心のイコンがどんなものなのかさっぱりわかりませんでした(泣)。

    なんと形容したらよいのでしょうね。サンビームの祭壇・・・
    こんな眩しい祭壇は初めてです。

  • 後陣の半円形部分には、かつて身廊、ドーム同様、チェッリーニのフレスコ画が描かれていましたが、火事で焼失。こちらの絵は19世紀の復元。たくさんの旗を掲げた先頭集団の後ろに馬に乗って行進してくる一行がいますが、「マドンナのイコンのプラハへの入場」だそうです。<br /><br />前述の「白山の戦い」で勝利をもたらしたイコンを、恭しく掲げて運んでいる行列を描いたものなのでしょう。

    後陣の半円形部分には、かつて身廊、ドーム同様、チェッリーニのフレスコ画が描かれていましたが、火事で焼失。こちらの絵は19世紀の復元。たくさんの旗を掲げた先頭集団の後ろに馬に乗って行進してくる一行がいますが、「マドンナのイコンのプラハへの入場」だそうです。

    前述の「白山の戦い」で勝利をもたらしたイコンを、恭しく掲げて運んでいる行列を描いたものなのでしょう。

  • お待たせいたしました。<br />この教会の観光客のお目当てはこちらです!<br /><br />左翼廊の他の礼拝堂よりも少しだけ大きい礼拝堂にその傑作はありました。<br /><br />あらあら 何てこったい! また工事中ですよ・・・<br /><br />こんな不細工な棒が突き出していたら、まともな写真撮れないではないですか・・・

    お待たせいたしました。
    この教会の観光客のお目当てはこちらです!

    左翼廊の他の礼拝堂よりも少しだけ大きい礼拝堂にその傑作はありました。

    あらあら 何てこったい! また工事中ですよ・・・

    こんな不細工な棒が突き出していたら、まともな写真撮れないではないですか・・・

  • アヴィラの聖テレサ礼拝堂は、ヴェネツィアの名門コルナーロ家の礼拝堂として、枢機卿フェデリコ・コルナーロがジャン・ロレンツォ・ベルニーニに依頼し、1646年から1652年にかけて作られたものです。<br /><br />ベルニーニは翼廊の浅さを考慮して、礼拝堂を劇場風に演出しました。工事用の柵と正面右側に置いてあった絵筆や塗料類に気を取られて、私はこの後主人公の二人以外を撮っていないのですが、上の写真の右側には、この二人の様子をあたかもオペラボックスから眺めているようなコルナーロ家の人達が見えています。<br /><br />祭壇を支える4本の黒と白の角礫岩が素晴らしい!とても美しく磨き上げられて輝いています。舞台装置としてもう一つ重要なのが、またしてもサンビームです。見えない窓から差し込んでくるその光が舞台中央に集中するとき、ドラマは進行していきます。

    アヴィラの聖テレサ礼拝堂は、ヴェネツィアの名門コルナーロ家の礼拝堂として、枢機卿フェデリコ・コルナーロがジャン・ロレンツォ・ベルニーニに依頼し、1646年から1652年にかけて作られたものです。

    ベルニーニは翼廊の浅さを考慮して、礼拝堂を劇場風に演出しました。工事用の柵と正面右側に置いてあった絵筆や塗料類に気を取られて、私はこの後主人公の二人以外を撮っていないのですが、上の写真の右側には、この二人の様子をあたかもオペラボックスから眺めているようなコルナーロ家の人達が見えています。

    祭壇を支える4本の黒と白の角礫岩が素晴らしい!とても美しく磨き上げられて輝いています。舞台装置としてもう一つ重要なのが、またしてもサンビームです。見えない窓から差し込んでくるその光が舞台中央に集中するとき、ドラマは進行していきます。

  • アビラの聖テレサは、スペイン生まれで、アヴィラにあるカルメル会の修道女。スペインにおけるカルメル会女子修道院の創始者でもあります。修道院改革に取り組み、教会博士の称号を受けています。彼女の神秘思想の要点はWikipediaによると、4つの段階を経る魂の向上です。<br /><br />第一段階 瞑想<br />第二段階 静寂<br />第三段階 合一<br />第四段階 恍惚あるいは歓喜<br /><br />詳細についてお知りになりたい方は、Wikipediaをご参照ください。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5<br /><br />今目の前にいるのは、まさしく第四段階の魂の向上。それを、ベルリーニはカララ産の白い、硬い大理石を用いて、こんなにも柔らかく、彼女にとって最上の喜びの瞬間を再現したのです。<br /><br />

    アビラの聖テレサは、スペイン生まれで、アヴィラにあるカルメル会の修道女。スペインにおけるカルメル会女子修道院の創始者でもあります。修道院改革に取り組み、教会博士の称号を受けています。彼女の神秘思想の要点はWikipediaによると、4つの段階を経る魂の向上です。

    第一段階 瞑想
    第二段階 静寂
    第三段階 合一
    第四段階 恍惚あるいは歓喜

    詳細についてお知りになりたい方は、Wikipediaをご参照ください。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5

    今目の前にいるのは、まさしく第四段階の魂の向上。それを、ベルリーニはカララ産の白い、硬い大理石を用いて、こんなにも柔らかく、彼女にとって最上の喜びの瞬間を再現したのです。

  • 上と同じような写真ですが、光の当たり方で彫像の表情は微妙に変化します。<br /><br />聖テレサはこの時の瞬間について、自身の伝記の中でこう語っています。逐語訳ではありませんし、正確でもありませんのでご容赦を。<br /><br />私の左に天使が姿を現しました。彼は背が低く、大変美しく、炎の中にいて顔がとても輝いていたので、天使の中でも最高のランクの一人に見えました。彼は手に偉大な黄金の槍を持っていて、炎が噴き出ているその鉄の先を心臓めがけて数回突き刺して、私の内臓を貫いたのです。彼がそれを引き抜いたとき、神の偉大な愛が食い入るのを感じました。痛みが激しかったので、私は何度も呻き声をあげました。この激しい痛みが引き起こした快楽がとても甘美なものだったので、私はそれがやむことのないよう祈りました。それは、肉体的な痛みではなく、精神的な痛みでした・・・

    上と同じような写真ですが、光の当たり方で彫像の表情は微妙に変化します。

    聖テレサはこの時の瞬間について、自身の伝記の中でこう語っています。逐語訳ではありませんし、正確でもありませんのでご容赦を。

    私の左に天使が姿を現しました。彼は背が低く、大変美しく、炎の中にいて顔がとても輝いていたので、天使の中でも最高のランクの一人に見えました。彼は手に偉大な黄金の槍を持っていて、炎が噴き出ているその鉄の先を心臓めがけて数回突き刺して、私の内臓を貫いたのです。彼がそれを引き抜いたとき、神の偉大な愛が食い入るのを感じました。痛みが激しかったので、私は何度も呻き声をあげました。この激しい痛みが引き起こした快楽がとても甘美なものだったので、私はそれがやむことのないよう祈りました。それは、肉体的な痛みではなく、精神的な痛みでした・・・

  • 敬虔なカトリックだったベルニーニはおそらく、何度も彼女の伝記を読み返したに違いありません。<br /><br />彼の恐るべきパワーにより、舞台の主人公たちだけでなく、その場にいた観光客すべてが彼のドラマの中に取り込まれ、しかるべき役割を与えられたように感じました。<br /><br />劇場には観客が必要です。<br />それはベルニーニの思う壺だったかもしれませんが、私は喜んでその壺にはまりましたよ。

    敬虔なカトリックだったベルニーニはおそらく、何度も彼女の伝記を読み返したに違いありません。

    彼の恐るべきパワーにより、舞台の主人公たちだけでなく、その場にいた観光客すべてが彼のドラマの中に取り込まれ、しかるべき役割を与えられたように感じました。

    劇場には観客が必要です。
    それはベルニーニの思う壺だったかもしれませんが、私は喜んでその壺にはまりましたよ。

  • しつこいようですが、今一度テレサのエクスタシーの瞬間です。

    しつこいようですが、今一度テレサのエクスタシーの瞬間です。

  • 身廊の装飾、天井画、ドームの天井画、祭壇のサンビーム、そしてアビラの聖テレサ。これだけで十分満足なサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリアでしたが、折角なので、身廊にある他の礼拝堂も覗いていこうと思います。<br />どの礼拝堂にも、美術館ではなくこの教会にあるからこそ生きてくるという見応え十分な作品が並んでいましたよ。<br /><br />アビラの聖テレサの向かい側、右翼廊にあるこちらの礼拝堂は、サン・ジュゼッペ(聖ナザレのヨセフ=聖母マリアの夫)礼拝堂。対面とは悲しいほど見る人の数が違うのですが(皆、こちらにお尻を向けています)、どうしてどうして、こちらも素晴らしい作品です。<br /><br />初め見た時に、あらら? 受胎告知の男性版? と思ったのですが、果たしてその通りで、天使はわざわざ妻マリアが妊娠したことを告げに来たのです。題名はヨセフの夢。<br /><br />こちらはドメニコ・グイディの作品。天井から差し込んでいる光線など、お向かいから影響を受けたことは間違いないですが、場面に緊張感がなく、居眠りをしているジュゼッペの表情は微笑ましいものがあります。

    身廊の装飾、天井画、ドームの天井画、祭壇のサンビーム、そしてアビラの聖テレサ。これだけで十分満足なサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリアでしたが、折角なので、身廊にある他の礼拝堂も覗いていこうと思います。
    どの礼拝堂にも、美術館ではなくこの教会にあるからこそ生きてくるという見応え十分な作品が並んでいましたよ。

    アビラの聖テレサの向かい側、右翼廊にあるこちらの礼拝堂は、サン・ジュゼッペ(聖ナザレのヨセフ=聖母マリアの夫)礼拝堂。対面とは悲しいほど見る人の数が違うのですが(皆、こちらにお尻を向けています)、どうしてどうして、こちらも素晴らしい作品です。

    初め見た時に、あらら? 受胎告知の男性版? と思ったのですが、果たしてその通りで、天使はわざわざ妻マリアが妊娠したことを告げに来たのです。題名はヨセフの夢。

    こちらはドメニコ・グイディの作品。天井から差し込んでいる光線など、お向かいから影響を受けたことは間違いないですが、場面に緊張感がなく、居眠りをしているジュゼッペの表情は微笑ましいものがあります。

  • 祭壇両脇の浅レリーフは、両方ともエティエンヌ・モンノÉtienne Monnotの作品。左側は、「羊飼いの礼拝」。<br /><br />野宿していた羊飼い達が、「今日ダビデの町であなた方の救い主が生まれた」という天使のお告げを聞いて、ベツレヘムに駆けつけ、そこで、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝ている赤ん坊を探し当てたという場面です。<br />

    祭壇両脇の浅レリーフは、両方ともエティエンヌ・モンノÉtienne Monnotの作品。左側は、「羊飼いの礼拝」。

    野宿していた羊飼い達が、「今日ダビデの町であなた方の救い主が生まれた」という天使のお告げを聞いて、ベツレヘムに駆けつけ、そこで、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝ている赤ん坊を探し当てたという場面です。

  • こちらは、「エジプトへの逃避」。<br /><br />東方三博士の礼拝の後、ヘロデ王がその地域の赤ん坊を殺しまわっていると聞き、ヨセフが、マリアと幼子キリストを連れて、エジプトに逃れる場面です。

    こちらは、「エジプトへの逃避」。

    東方三博士の礼拝の後、ヘロデ王がその地域の赤ん坊を殺しまわっていると聞き、ヨセフが、マリアと幼子キリストを連れて、エジプトに逃れる場面です。

  • 身廊右側3番目のカルメル山の聖母礼拝堂。<br /><br />カルメル会と言う修道会は、12世紀にある修道者がパレスティナのカルメル山に修道院を開いたことが起源とされているそうです。<br /><br />聖母子の右側に跪いて、スカプラリオを受け取っているのは、カルメル会の聖人シモン・ストック。スカプラリオとは、キリスト者が肩からぶら下げる衣装のことです。この彫刻は、アルフォンソ・ブラツィオの最高傑作と言われています。

    身廊右側3番目のカルメル山の聖母礼拝堂。

    カルメル会と言う修道会は、12世紀にある修道者がパレスティナのカルメル山に修道院を開いたことが起源とされているそうです。

    聖母子の右側に跪いて、スカプラリオを受け取っているのは、カルメル会の聖人シモン・ストック。スカプラリオとは、キリスト者が肩からぶら下げる衣装のことです。この彫刻は、アルフォンソ・ブラツィオの最高傑作と言われています。

  • 身廊右側中央の聖フランチェスコ(アッシジのフランチェスコ)礼拝堂。<br /><br />祭壇画はバロックを代表するカラッチ派のドメニキーノの作品。聖母マリアがフランチェスコに幼子キリストを差し出している場面が描かれています。

    身廊右側中央の聖フランチェスコ(アッシジのフランチェスコ)礼拝堂。

    祭壇画はバロックを代表するカラッチ派のドメニキーノの作品。聖母マリアがフランチェスコに幼子キリストを差し出している場面が描かれています。

  • 身廊右側入り口寄りのリジューの聖テレサ(リジューのテレーズ)礼拝堂。この方はフランス出身です。アヴィラの聖テレサを大テレサ、こちらのテレサを小テレサと呼ぶこともあるそうです。<br /><br />彼女はアビラの聖テレサ同様カルメル会の修道女で、教会博士でもあります。祭壇画を描いたのは、カプチン会の修道士であるパードレ・ラファエッレ。<br /><br />祭壇画両脇に立つ、ブロンズ製の葉で巻かれたような、赤に白の斑が入った柱が素晴らしいです。<br /><br />このねじれたような模様は、バロックの時代になって急に人気となりました、元はと言えば、ソロモン王の建てた最初の神殿の柱がねじれていたという伝承によるものなのだそうです。

    身廊右側入り口寄りのリジューの聖テレサ(リジューのテレーズ)礼拝堂。この方はフランス出身です。アヴィラの聖テレサを大テレサ、こちらのテレサを小テレサと呼ぶこともあるそうです。

    彼女はアビラの聖テレサ同様カルメル会の修道女で、教会博士でもあります。祭壇画を描いたのは、カプチン会の修道士であるパードレ・ラファエッレ。

    祭壇画両脇に立つ、ブロンズ製の葉で巻かれたような、赤に白の斑が入った柱が素晴らしいです。

    このねじれたような模様は、バロックの時代になって急に人気となりました、元はと言えば、ソロモン王の建てた最初の神殿の柱がねじれていたという伝承によるものなのだそうです。

  • 身廊左側に移ります。入り口そばは、聖アンデレ(サン・アンドレア)礼拝堂。キリストの使徒の一人でX字型の十字架で殉教されたという伝説のあるアンデレに捧げられています。<br /><br />祭壇画を描いたのは、リジューの聖テレサと同じカプチン会のパードレ・ラファエッレです。

    身廊左側に移ります。入り口そばは、聖アンデレ(サン・アンドレア)礼拝堂。キリストの使徒の一人でX字型の十字架で殉教されたという伝説のあるアンデレに捧げられています。

    祭壇画を描いたのは、リジューの聖テレサと同じカプチン会のパードレ・ラファエッレです。

  • 身廊左側中央のサン・ジョヴァンニ・デッラ・クローチェ(十字架のヨハネ)礼拝堂。<br /><br />十字架のヨハネは16世紀のスペインのカトリック司祭で教会博士、跣足カルメル会の創設者でもあります。同僚だったアヴィラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、多くのキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した人物だそうです。<br /><br />祭壇画は、キリストが聖ヨハネの前に現れた場面で、ニコラス・デ・バルの作品。

    身廊左側中央のサン・ジョヴァンニ・デッラ・クローチェ(十字架のヨハネ)礼拝堂。

    十字架のヨハネは16世紀のスペインのカトリック司祭で教会博士、跣足カルメル会の創設者でもあります。同僚だったアヴィラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、多くのキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した人物だそうです。

    祭壇画は、キリストが聖ヨハネの前に現れた場面で、ニコラス・デ・バルの作品。

  • 身廊左側3番目の三位一体礼拝堂。<br /><br />祭壇画はグエルチーノの作品。この礼拝堂は、ヴォールトのフレスコ画も見事。ちょっと欠けてしまいましたが、青地に様々な石がはめ込まれた祭壇がとても印象的でした。

    身廊左側3番目の三位一体礼拝堂。

    祭壇画はグエルチーノの作品。この礼拝堂は、ヴォールトのフレスコ画も見事。ちょっと欠けてしまいましたが、青地に様々な石がはめ込まれた祭壇がとても印象的でした。

  • 礼拝堂をぐるりと回り、そして再度聖テレサの顔を拝んで、教会を後にしました。<br /><br />まさしくベルニーニの最高の作品。彼自身もそう感じていたに違いありません。

    礼拝堂をぐるりと回り、そして再度聖テレサの顔を拝んで、教会を後にしました。

    まさしくベルニーニの最高の作品。彼自身もそう感じていたに違いありません。

  • 外に出てきました。道路を渡って先ほどサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリアに入る前に気になったサンタ・スサンナに向かいます。堂々たるバロック全盛期のファサードです。<br /><br />この9月20日通りとラルゴ・サンタ・スサンナ通りの交差点は素晴らしかったです。何しろ四つ角にそれぞれ3つの教会(上の二つとサン・ベルナルド・アッレ・テルメス)とモーゼの噴水があるのですから。

    外に出てきました。道路を渡って先ほどサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリアに入る前に気になったサンタ・スサンナに向かいます。堂々たるバロック全盛期のファサードです。

    この9月20日通りとラルゴ・サンタ・スサンナ通りの交差点は素晴らしかったです。何しろ四つ角にそれぞれ3つの教会(上の二つとサン・ベルナルド・アッレ・テルメス)とモーゼの噴水があるのですから。

  • この教会は、元々はローマにたくさんあるティトルス(初期キリスト教教会)の一つでした。6世紀末に書かれた殉教者に関する書物の中に、「ディオクレティアヌス浴場そばの2軒の家に、殉教者聖スサンナがいた」と書かれていたことから小さな教会が建てられ、地域信仰の対象となってきましたが、スサンナについては伝説の域を出ないようです。<br /><br />中世となり、ローマの町が荒れ果て、周りがすべてブドウ畑となった時代にも、この教会はぽつんとクイリナーレの丘に1軒建っていました。<br /><br />1587年、教皇シクストゥス5世の命により、教会の再建が決定され、前述の通り、カルロ・マデルノがヴァチカンのサン・ピエトロ寺院のファサードに取り組む5年前の1603年に完成させました。建物はマデルノの傑作と言われています。<br /><br />ファサードにあるニッチェには、1階左側にサンタ・スサンナ、右側にサンタ・フェリチタというこれまた伝説の聖人像が飾られていますが、この2体はマデルノ自身の作という可能性があるそうです。<br /><br />正式名は、サンタ・スサンナ・アッレ・テルメ・ディ・ディオクレツィアーノ つまりディオクレティアヌス浴場そばにある聖スサンナ教会でした。

    この教会は、元々はローマにたくさんあるティトルス(初期キリスト教教会)の一つでした。6世紀末に書かれた殉教者に関する書物の中に、「ディオクレティアヌス浴場そばの2軒の家に、殉教者聖スサンナがいた」と書かれていたことから小さな教会が建てられ、地域信仰の対象となってきましたが、スサンナについては伝説の域を出ないようです。

    中世となり、ローマの町が荒れ果て、周りがすべてブドウ畑となった時代にも、この教会はぽつんとクイリナーレの丘に1軒建っていました。

    1587年、教皇シクストゥス5世の命により、教会の再建が決定され、前述の通り、カルロ・マデルノがヴァチカンのサン・ピエトロ寺院のファサードに取り組む5年前の1603年に完成させました。建物はマデルノの傑作と言われています。

    ファサードにあるニッチェには、1階左側にサンタ・スサンナ、右側にサンタ・フェリチタというこれまた伝説の聖人像が飾られていますが、この2体はマデルノ自身の作という可能性があるそうです。

    正式名は、サンタ・スサンナ・アッレ・テルメ・ディ・ディオクレツィアーノ つまりディオクレティアヌス浴場そばにある聖スサンナ教会でした。

  • かなり傷んている緑の扉には、こんな原始的な方法でビニールシートに入った紙が紐でぶら下がっていました。<br /><br />「サンタ・スサンナ教会は修復のためクローズしています。」<br />期間は書いてありませんでした。ミサはどうやら色々な教会を借りて行われているようです。<br /><br />

    かなり傷んている緑の扉には、こんな原始的な方法でビニールシートに入った紙が紐でぶら下がっていました。

    「サンタ・スサンナ教会は修復のためクローズしています。」
    期間は書いてありませんでした。ミサはどうやら色々な教会を借りて行われているようです。

  • 調べてみたら、2013年から修復に入っていました。(余談ですが、この教会1922年以来米国のナショナル・チャーチになっています。)<br /><br />残念・・・<br /><br />扉の上に可愛いプット発見!

    調べてみたら、2013年から修復に入っていました。(余談ですが、この教会1922年以来米国のナショナル・チャーチになっています。)

    残念・・・

    扉の上に可愛いプット発見!

  • クイリナーレの丘に入ってきました。<br />中世には山賊が出没する寂しいブドウ畑だった道は、今ご覧の通り、首相官邸をはじめとするイタリアの中枢官庁街になっています。<br /><br />サンタ・スサンナ教会前の道9月20日通りを上っていくと、左側に国防省の建物が見えてきました。

    クイリナーレの丘に入ってきました。
    中世には山賊が出没する寂しいブドウ畑だった道は、今ご覧の通り、首相官邸をはじめとするイタリアの中枢官庁街になっています。

    サンタ・スサンナ教会前の道9月20日通りを上っていくと、左側に国防省の建物が見えてきました。

  • 9月20日通りがクワットロ・フォンターネ通りと交差する次の交差点の四隅に、クワットロ・フォンターネ、4つの噴水がありました。<br /><br />古くからこの地はピア街道(現9月20日通り〜名前を変えてクイリナーレ通り)とフェリーチェ街道(現クワットロ・フォンターネ通り サンタ・マリア・マッジョーレからスペイン階段へと至る)が交わる交通の要衝でした。<br /><br />教皇シクストゥス5世は彼の水道事業完成の記念として、先ほど見てきたモーゼの噴水を作りましたが、次にクイリナーレ宮殿の前にも噴水を設置(現存せず。後年新たな噴水が設置された)。続いてこの交通の要衝にも相応しいものをと、噴水の建設を提案したのです。よほど「噴水好き」だったのですねえ。<br /><br />最初は道の真ん中に噴水を建てるつもりだったようですが、交通の邪魔にならないよう、四隅に一つずつの噴水を作ることになりました。水道建設で財政が枯渇していたため、この4つの噴水は四隅の建物の所有者に土地と資金の協力を得て、ようやく実現したのです。<br /><br />こちらは、2つの女性像の内の一つ、最高女神ジュノー(Juno)です。

    9月20日通りがクワットロ・フォンターネ通りと交差する次の交差点の四隅に、クワットロ・フォンターネ、4つの噴水がありました。

    古くからこの地はピア街道(現9月20日通り〜名前を変えてクイリナーレ通り)とフェリーチェ街道(現クワットロ・フォンターネ通り サンタ・マリア・マッジョーレからスペイン階段へと至る)が交わる交通の要衝でした。

    教皇シクストゥス5世は彼の水道事業完成の記念として、先ほど見てきたモーゼの噴水を作りましたが、次にクイリナーレ宮殿の前にも噴水を設置(現存せず。後年新たな噴水が設置された)。続いてこの交通の要衝にも相応しいものをと、噴水の建設を提案したのです。よほど「噴水好き」だったのですねえ。

    最初は道の真ん中に噴水を建てるつもりだったようですが、交通の邪魔にならないよう、四隅に一つずつの噴水を作ることになりました。水道建設で財政が枯渇していたため、この4つの噴水は四隅の建物の所有者に土地と資金の協力を得て、ようやく実現したのです。

    こちらは、2つの女性像の内の一つ、最高女神ジュノー(Juno)です。

  • ジュノーは力の象徴です。彼女の傍らに寝そべっているのはライオン。そのライオンの口から水が流れ出ていました。モーゼの噴水と同じですね。背後の木はヤシ。<br /><br />ジュノーとこれから紹介するテヴェレ、アルノーの3つの像は、1588年から1593年にかけての、ドメニコ・フォンターナによる作品です。

    ジュノーは力の象徴です。彼女の傍らに寝そべっているのはライオン。そのライオンの口から水が流れ出ていました。モーゼの噴水と同じですね。背後の木はヤシ。

    ジュノーとこれから紹介するテヴェレ、アルノーの3つの像は、1588年から1593年にかけての、ドメニコ・フォンターナによる作品です。

  • 二番目の像はローマのテヴェレ川を表しています。背後の木は樫の木で、沢山房のようなものがぶら下がっているのはヤシの木。<br /><br />水はテヴェレ氏の傍らに置かれた壺から流れ出ていました。壺のそばには蛇もいますね。

    二番目の像はローマのテヴェレ川を表しています。背後の木は樫の木で、沢山房のようなものがぶら下がっているのはヤシの木。

    水はテヴェレ氏の傍らに置かれた壺から流れ出ていました。壺のそばには蛇もいますね。

  • テヴェレが左手で抱えているものは、ギリシャ神話に出てくる豊饒の角と呼ばれるもので、豊かさを象徴するものだとか。<br /><br />ローマのシンボルオオカミはオリジナルではなく、後年設置されたものだそうです。

    テヴェレが左手で抱えているものは、ギリシャ神話に出てくる豊饒の角と呼ばれるもので、豊かさを象徴するものだとか。

    ローマのシンボルオオカミはオリジナルではなく、後年設置されたものだそうです。

  • 三番目の噴水はアルノ川を表しているそうですが、どうしてここに急にフィレンツェが出てくるのかなといろいろ調べてみたら、ある文献では、ティヴォリ近郊の山から流れだして、ティヴォリで滝となり、ローマの北でテヴェレ川に注ぐアニエーネ川だと書いてありました。アニエーネ川は古代から神聖とされてきた川で(ティヴォリでもアニエーネ川にまつわる話を聞きました)、ローマの水道水の供給源になってきた川なので、私は個人的にはこの説を支持したいです。古代の人々はこの川を「アニオ川」と呼んでいたそうです。<br /><br />サイトを見る限り、実際には「アルノ川」派が大多数を占めていましたけれど・・・

    三番目の噴水はアルノ川を表しているそうですが、どうしてここに急にフィレンツェが出てくるのかなといろいろ調べてみたら、ある文献では、ティヴォリ近郊の山から流れだして、ティヴォリで滝となり、ローマの北でテヴェレ川に注ぐアニエーネ川だと書いてありました。アニエーネ川は古代から神聖とされてきた川で(ティヴォリでもアニエーネ川にまつわる話を聞きました)、ローマの水道水の供給源になってきた川なので、私は個人的にはこの説を支持したいです。古代の人々はこの川を「アニオ川」と呼んでいたそうです。

    サイトを見る限り、実際には「アルノ川」派が大多数を占めていましたけれど・・・

  • アルノ氏の彫像では、背景が水草?に変わり、大変シンプルになりました。また、ライオンが旧知の友のように、アルノ氏に寄り添っています。<br /><br />以上3点が、ドメニコ・フォンターナ作と言われていますが、若干それを疑問視する説もあるようです。

    アルノ氏の彫像では、背景が水草?に変わり、大変シンプルになりました。また、ライオンが旧知の友のように、アルノ氏に寄り添っています。

    以上3点が、ドメニコ・フォンターナ作と言われていますが、若干それを疑問視する説もあるようです。

  • 四番目、最後は女神ダイアナです。この彫刻はピエトロ・ダ・コルトーナのデザインと言われています。明らかに、前の3点とは作者が異なりますね。背景も本体から外れた場所にあります。<br /><br />ダイアナは純潔の象徴です。傍らに犬がいるので、「従順」も加わるのかな?

    四番目、最後は女神ダイアナです。この彫刻はピエトロ・ダ・コルトーナのデザインと言われています。明らかに、前の3点とは作者が異なりますね。背景も本体から外れた場所にあります。

    ダイアナは純潔の象徴です。傍らに犬がいるので、「従順」も加わるのかな?

  • ダイアナが肘を立てているその前にある3つのこんもりとした塊は、シクストゥス5世の紋章の一部である「なしの枝」から取られているそうですよ。<br /><br />彼の紋章はライオンに斜めにかけられたたすき、そしてその中に梨がデザインされたもの(一番上の写真参照)なので、そういえば、他の3体にも彼の存在が見え隠れしていたということですね。<br /><br />と言うわけで、今回の旅行記は、教皇シクストゥス5世に始まり、彼に終わることになりました。この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その19 ローマ クイリナーレの丘〜サン・シルヴェストロで。

    ダイアナが肘を立てているその前にある3つのこんもりとした塊は、シクストゥス5世の紋章の一部である「なしの枝」から取られているそうですよ。

    彼の紋章はライオンに斜めにかけられたたすき、そしてその中に梨がデザインされたもの(一番上の写真参照)なので、そういえば、他の3体にも彼の存在が見え隠れしていたということですね。

    と言うわけで、今回の旅行記は、教皇シクストゥス5世に始まり、彼に終わることになりました。この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その19 ローマ クイリナーレの丘〜サン・シルヴェストロで。

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  • とし坊さん 2015/08/24 20:41:52
    いい顔してますよね
    テレサのエクスタシーの瞬間

     これが一番ですよね(^O^)

      あの時の感動が蘇ってきますね(^O^)

      もう一度会いに行きたいですね(´・_・`)

    junemay

    junemayさん からの返信 2015/08/25 16:09:49
    RE: いい顔してますよね
    とし坊さま

    いつもご訪問いただき、ありがとうございます。

    「最終日ローマ」拝見いたしました。1日で、もの凄く沢山
    歩き回っていらっしゃいますね。私の3日分です。
    私の場合は3歩歩くと立ち止まってしまうので、仕方ありませんね。

    テレサを表すには、日本語の「法悦」じゃあだめ。やはり、エクスタシーと言う言葉がぴったりです。これまで写真は何度も見ていましたが、現地に行って、あの劇場と化した教会でテレサと対面するということは全く別のことなのだと悟りました。本当に良いものを見させていただきました。

    被るところが沢山ありますが、当方ローマの初心者。よろしければ引き続きお付き合いくださいね。

    junemay



    > テレサのエクスタシーの瞬間
    >
    >  これが一番ですよね(^O^)
    >
    >   あの時の感動が蘇ってきますね(^O^)
    >
    >   もう一度会いに行きたいですね(´・_・`)

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