2012/05/15 - 2012/05/29
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jijidarumaさん
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Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅
5月27日(日);曇り時々晴れ間、25℃、139km ・Pfingstsonntag聖霊降臨祭
ネッカーゲミュントからハイデルベルクは14km、あっという間に着く。
いつも古城街道を東から西に走っているため、ツィ、100kmの短い距離にある帰国便の空港のあるフランクフルトに急ぐ行程にしてしまう事が多い。
今回はハイデルベルクにしばしの時間を割いた。
写真はハイデルベルクの伝説のワインの大樽
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
<Heidelbergハイデルベルク観光>: 10:15~14:50
Heidelbergハイデルベルクの町はバーデン・ヴュルテンベルク州の北西部にあり、ネッカー川沿いに発展した町である。人口は意外に14万7千人と多いが、ドイツでも知られた大学都市、つまり学生の町でもある。
写真はMap_Heidelbergハイデルベルクの案内図 -
この町はプファルツ選帝侯領の首都でもあった。
ハイデルベルク城址、『アルト・ハイデルベルク』のロマンスで名高い古都・・・ドイツ旅行で最も魅力的な町と云われる 。
写真はハイデルベルク城の絵_Merian_1645年 -
かのゲーテは“ここから(ネッカー川にかかるアルト・ブリュッケ=古橋)望む眺めには世界のいずれの橋も及ぶまい”と、ネッカー川に架かる橋、古城、背景の緑の丘、赤レンガ色の屋根が連なる町並み、この一体化した景観を褒め称えたと云う。
写真はハイデルベルクの景観(城址から) -
写真はハイデルベルクのネッカー川の遊覧船・・・アルト・ブリュッケ=古橋から見る。
-
ゲーテやハイネ、ショパン、フリードリヒ・ヘルダーリンなど、多くの芸術家がこの町を訪れ、称えたと云う町である。
写真はPhilosophenweg哲学者の道から見た対岸のハイデルベルクの景観
ハイデルベルクでは最初に“哲学者の道”に行ってみた。実はここは初めてなのだ。
ハイデルベルク城の対岸側の道を走り、ハイデルベルク入りしたので、下流のテオドール・ボイス橋近くの裏道に車を停め、まず、哲学者の道を登った。 -
<Philosophenweg哲学者の道> :10:15~10:55
初めは急坂が続き、立派なお屋敷やハイデルベルク大学の理論物理学研究所の施設(番地12)、1963年にノーベル物理学賞を得たHans Jensenハンス・イェンゼンの家(番地21)もある。ジョギングしている若い人もいたが、私共は息も切れ、結構きついものだった。
登り切ると、比較的平坦な散策路が続く。小さな庭園を過ぎると、視界が一段と開ける。
対岸のハイデルベルク城、旧市街、アルテ橋とカールの門などが一体となった景観を欲しい侭にできる。
少し曇り空が恨めしい。観光客もそこそこ歩いていて、中には2人の子供連れの若い日本人夫婦もいた。かつてはアンナ風にして、私共も娘たちと旅をしたもの・・・。
写真は哲学者の道から見た対岸のハイデルベルクの景色 -
<Schloss Heidelbergハイデルベルク城>
この旅48番目の城(城址)
11:15~12:25 入場料Euro10。
プファルツ選帝侯が13世紀から1720年までの500年間にわたって、Schloss Heidelbergハイデルベルク城にライン宮中伯の宮廷をおいた。
10世紀から11世紀頃に築城された城は200mの小高い丘の斜面にネッカー川を見下ろすように立っている。
最初はヴォルムスの大司教の城館であったが、1225年にプファルツ伯ルートヴィヒ1世が城を買い取り、14世紀から17世紀前半の長い年月の間繰り返し改修されたと云う。この為、ゴシック、ルネッサンス、初期バロックなど様々な建築様式となっている。
17世紀にはいると三十年戦争、プファルツ継承戦争の2度にわたって大規模に破壊された為、プファルツ選帝侯カール・フィリップはこの城を捨て、マンハイムに宮廷を移した。
その後、廃墟と化したハイデルベルク城は19世紀の詩人や画家などによるロマン主義の回復運動まで、眠ったように長い時を過ごしていった。
写真はハイデルベルク城址の現在図ハイデルベルク城 城・宮殿
-
『アルト・ハイデルベルク』のロマンスで名高い古都のハイデルベルク城址は今観光客であふれている。
城門から中庭に出て、正面にフリードリヒ館がある。
左下に大樽がある地下蔵があった。
写真はハイデルベルク城址のフリードリヒ館 -
目指すのはやはりここ②Fassbau大樽棟だろうか!
大樽棟(地下蔵)を入ると右手に大樽が一つある。
写真は比較的小さめなワインの大樽・・それでも数mの高さだ。 -
更に奥に行くと、一段と大きい黒光りした大樽が鎮座していた。
その4代目の大樽は世界最大の木製ワイン樽で130本の樫の幹を使って造られ、長さ9m、幅8m、容量は221,726Lが入ると云われている。
樽をぐるりと見て回れる階段が付き、右手の階段を上がると大樽の上は平場になっていて、催しができる広さがある。(①の伝説を参照)
左手の階段を下りると、この大樽の前で18世紀半ばから現在まで、大きなワインの樽を見張っている小人がいる。彼の名は*Perkeoペルケオと言う。
プファルツ選帝侯Karl III. Philipp カール3世フィリップ(在位:1716~1742年)の宮廷における道化師で、たいへんな大酒飲みだった。選帝侯がワイン樽の監視を命じたのはワイン好きのペルケオだったのが面白い。
(②の伝説を参照)
写真はHeidelberger Fassハイデルベルクの大樽 -
イチオシ
≪伝説:①ハイデルベルクのワインの大樽から聞こえる幽霊音楽≫
ハイデルベルク城の大樽の背後には、樽上に木製のテラスが接続されている。そこは美しい手すりに周囲を囲まれ、樽の両側には階段が付いていて、テラスに登る事が出来る。
以前はここで多くのお祝いの行事が行われたそうです。心地良くなった人々がワインのカップを掲げ、回し飲みして、楽団が愉快な曲を奏し、踊り手が踊りながら回ると、建物内は大きくコダマしたと云う。
さてこの話は次のようなものだ。
Kurfuerst Karl I. Ludwig選帝侯カール1世・ルートヴィヒ(1617~1680年、選帝侯在位:1648~1680年)が、1671年に娘のElisabeth Charlotte von der Pfalzエリザベート・シャルロッテ・フォン・デア・プファルツ(Liselotteリーゼロッテとも呼ばれた)をフランスの太陽王Louis XIVルイ14世の弟・Philippe d'Orleansオルレアン公フィリップ殿下に嫁がせた。・・・・・この話は別項で述べる。
その差し迫った結婚式の前、フランスの高官が結婚式の打ち合わせに、ハイデルベルク城を訪れたのでした。
そこで仏使節の為に、選帝侯は大樽の上で祝宴の晩餐会を催したそうです。
その日、あらかじめ、空になっている大樽の中に、選帝侯はトランペットとティンパニの楽団を隠しておきました。
そして祝宴が始まりました。ワインのグラスを掲げ、フランス王と選帝侯の健康を祝し、杯を空けました。
晩餐会中、何度もお互いを寿ぎ、祝杯を飲みほしたのでした。
頃合いもよく、もう一度、仏使節がワインの杯を上げた時、突然、樽の下から、耳をつんざくような音が響き、床は激しく振動し、蝋燭の灯が消えてしまい、驚いたはずみで手に持っていたグラスも床に落ちてしまいました。
仏使節は驚愕しながら、ハイデルベルク宮廷中の悪魔の化身が解き放され、暗闇の中で、階段を転げ落ちたと思ったのでした。
選帝侯は“してやったり”と大笑いした後、樽の中から楽団員たちを呼び出したのです。
仏使節は幽霊の正体を知って、漸く安堵したのでした。
XXX
写真はハイデルベルクのワインの大樽と大樽の上から家内が手を振って -
≪伝説:②ハイデルベルクのワイン樽の監視人を務めた道化師・小人ペルケオ≫
小人ペルケオはハイデルベルク城の観光客のほぼすべてが知っている。
彼は城内ガイドのお気に入りの人物なのです。彼の彫像はワインの大樽の前にある台座の上に立っている。その姿はワイン樽を監視しているようである。
ペルケオは南チロルのSalurnザルーン(現イタリアのサロルノ)出身で、Karl III. Philippカール3世フィリップが選帝侯に就任する前、皇帝のチロル代官として赴任していたインスブルックからハイデルベルクの宮廷に、道化師として連れてきた人物であった。
ペルケオはカール3世フィリップの宮廷では、道化師とワイン樽の監視人だったと云う。
写真はワインの大樽の監視人、道化師・小人ペルケオ -
さて伝説では、
彼は大酒飲みのワイン好きでしたが、ワインの代わりにコップ一杯の水を飲んで、急死したと云われています。
ペルケオはワインを唯一の飲み物として、子供の頃からこれを飲み続けてきて、1日15本のワインを飲んでいたと云いますから、半端ではありません。
彼が年老いて初めて病気になった時、医師はワインをやめて水を飲むように指導したとか。
疑いながらもペルケオはこの助言に従ったのだが、水を飲んだ翌日に亡くなってしまった。
Perkeoペルケオの名前は、人に“ワインを飲みますか?”と尋ねられた際、常にイタリア語の“Perche no?”(ドイツ語のWarum nicht?なぜ、いけないの?・・・私が飲まないはずがないだろう!)と答えたことで、ペルケオと呼ばれるようになったそうです。
XXX
写真はワインの大樽の監視人、道化師・小人ペルケオ -
イチオシ
尚、ペルケオ像の横に古い木箱があり、そこから輪が出ているので、皆が何かなと、これを引っ張る。すると中から狐のしっぽが飛び出してくるので、皆驚くのだが、このビックリ箱を作ったのが小人ペルケオだそうだ。
・・・・・
大樽はドイツの各地で見ましたが、多くは要塞などで籠城戦に備えたもので、このように木製のテラス・階段まで備えているのは此処ぐらいかと思います。
選帝侯が“どうだ!これだけのものを作れるかな!”とばかりに、自慢げに大樽を作った様子も見て取れるのも面白く、あまりの大きさにこんな伝説が残るのでしょう。
ここの大樽や、強いて言えば、バイエルンのノイシュヴァンシュタイン城も、作った人の意図から大きく離れて、いまや観光の目玉であり、これからも語り継がれる存在でしょう。
いつも思うのですが、伝説話は其々の人物が時代と共にあって、様々な経緯で”なにがしかの行為をした”ということを表現し、歴史に埋没せずに語り伝えられていますね。
ワインの大樽の大きさや、ワイン樽の監視人・・・それもとびきりの伝説になり得る人物・・・がいた事も、後世から見ると、不思議で、面白いものです。
写真はワインの大樽の監視人、道化師・小人ペルケオ
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