2014/07/27 - 2014/08/24
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倫清堂さん
平成26年、夏。
出雲で暮らした一ヶ月間の記録です。
山陰地方でしか出土しない、弥生時代の木製品があります。
それは、出雲大社のある限られた祭祀だけで使われる神器と、特異な共通点を持っています。
この両者が同じ系譜にあることを証明できれば、『古事記』編纂以前の日本を覆うベールを、また一つ取り払うことになります。
埋もれた歴史の一部を掘り起こすためには、どうしてもある程度の期間を出雲で過ごさなければなりませんでした。
この目で確認したいもの、地元の人から聞きたい話、図書館などに収められている資料、これらを心ゆくまで調査するには、一ヶ月でも足りないくらいです。
計画を立て始めたのは1年ほど前のこと。
ひょんなことから件の木製品の存在を知り、古代日本の研究に本腰を入れたいという予てからの意志も相俟って、出雲に赴いて調査したい旨をお世話になっている神主さんにお話ししました。
すると神主さんは、出雲でやはり神様に奉仕している友人を紹介すると約束して下さったのでした。
出雲に知人を持たない自分にとって、このお力添えは非常に心強いものでした。
住む場所、足となる車、往復の交通手段などを準備を整えつつ、留守にする地元では自分の仕事の整理を心がけました。
ほぼ例年どおりに梅雨明けを迎え、神様に導かれるままに不思議な出会いを繰り返す旅が、いよいよ始まったのです。
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7月27日の夕方、仙台空港から神戸空港に向かうスカイマーク機に搭乗。
午前中はどうしても外せない用事があり、またレンタカーの受付などの事情もあって、神戸に一泊せざるを得ませんでした。
7月28日の朝、同じくスカイマークで神戸空港から米子空港へ。
天気は晴れ。
フライトには何の問題もなく、幸先良いスタートを切ったのでした。
米子空港から米子駅まで、都合良くバスがありました。
30分ほどの乗車で米子駅に到着し、レンタカーを借りる手続きを行います。
利用するのはニコニコレンタカー。
大手は日数掛けですが、ニコニコにはマンスリープランがあり、免責保障をつけなければ8万円以内で、一か月間借りっぱなしが可能です。
車種は少し古い軽自動車で、ナビは別料金とのことですが、スマートフォンがあるのでナビは不要と判断。
これで足は確保できたので、あとは無事故無違反を心がけて運転すればよいだけです。
そのまま出雲に向かい、レオパレス出雲店で鍵を受け取ります。
支払いは地元のレオパレスで済ませてあります。
一か月間の住まいは、出雲バイパスから脇道に入ったすぐの場所。
ロケーションは文句ありません。
ただ、2階の自室は階段から最も奥に位置し、そこに行くまでにたくさんの蜘蛛の巣が張られていて、通路は不衛生な印象でした。
気味の悪い蜘蛛の姿を上に見ながら、毎日ここを歩かねばならないと思うと、それだけで背筋が凍ります。
自分は、退治するのも怖いと感じるほど、蜘蛛が大の苦手。
自室で手持ちの荷物を整理する間に、宅急便で送っておいた荷物が到着し、セキュリティの担当者も来て設定してくれました。
これ以上の来客がないのを確認し、日用品などを調達に百貨店へ。
適当に走っていたら、ゆめタウンというデパートを見付けました。
小物類や食品を買い、出雲生活の慌ただしい1日目は暮れて行ったのでした。 -
7月29日。
実質的な出雲生活初日。
朝一番で出雲大社に参拝しました。
観光客の姿がまばらな境内、とても清々しいです。
松の参道の右手に、前に来た時には見なかったモニュメントが立っていました。
高層神殿であった古代出雲大社の心御柱を模して、地元の子供たちが山で伐った木を曳いて立てたもののようです。
若い木なので柱は太くはないですが、古代人の知恵に触れる良い機会になったのではないでしょうか。 -
大前の足元には、三本柱が出土した様子をそのままに伝える石畳が敷かれています。
いつも参拝客でごった返しているので、気付かないで通り過ぎてしまう人も多いはず。
この三本柱を「田」の字型に配置して、外側を壁で覆ったのが、古代出雲大社の高層神殿でした。
かつて「雲太・和二・京三」という言葉が流布していて、大和の東大寺大仏殿よりも、京の大極殿よりも、出雲大社は高かったことが知られていました。
その設計図『金輪御造営差図』も出雲国造家に伝わっており、本居宣長はそれを見て『玉勝間』に記事を書いたりしていますが、現代の学者たちはただの想像だとして信じませんでした。
しかし出雲大社で社務所の増築を計画した際、土を掘り返したところ、設計図どおりに3本の巨大な木材が金輪で一括りにされている柱の根元部分が発掘されたのです。
今回の調査は、『古事記』のあるエピソードが想像上の神話ではなく事実をもとに記述されたことを証明するのが目的です。
考古学はもちろん、歴史学・民俗学・宗教学など様々な分野に跨った知識が必要になるため、心ある学者でも容易に手を出すことは出来ないでしょう。
自分には知識がない分、こうして現場を訪れて知識を持つ人から話を聞き、謎解きに挑戦しようと考えたのです。出雲大社 寺・神社・教会
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参拝を終えて松の参道を引き返します。
参道入口の大鳥居の東側に、勢溜というちょっとした広場があります。
ここに、唱歌「一月一日」の作詞者として知られる千家尊福氏の像があります。
千家氏は皇室と同じかそれ以上の歴史を持つ出雲国造の血筋で、尊福氏は80代出雲国造を務めました。
明治政府と神道の教義のことで対立し、国家神道から分離して出雲大社教を設立、国造を引退して初代管長に就任しました。
巨大注連縄で知られる神楽殿は、実は出雲大社とは別組織の大社教の施設であることは、あまり知られていません。 -
7月29日午後、もう一つの出雲国造家、北島家の国造館を訪れました。
出雲国造家は南北朝時代に2統に分かれ、幕末までは双方が偶数月と奇数月を分担して出雲大社に奉仕していました。
しかし明治維新後、政府は千家方を出雲大社の宮司に任命し、北島方は吉備津神社宮司に任命するという差別的な扱いを行ったのです。
その決定が降る直前には、北島家は火災によって邸宅のほとんど全てを焼失してしまい、政府に対して異議を申し立てる余裕などありませんでした。
当時の北島国造がとった決断は、吉備津神社宮司の職を辞退し、住み慣れた出雲で大社とは別に大国主神に奉仕することでした。
千家氏の大社教とは別に出雲教を創設し、教化や祭祀に取り組んでいます。北島国造館 寺・神社・教会
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イチオシ
地元神職から紹介して頂いたK様とは、北島国造館でお会いしました。
ご迷惑になるといけないので、ここでお名前は明かせません。
本来なら、肩書も実績もないような自分がお会いできる方ではないのですが、一ヶ月間の滞在を決めた覚悟が、その方の心を動かしたようです。
分刻みでスケジュールが決まっているにもかかわらず、2時間もの時間を頂戴し、今回の調査の目的や手法、協力をお願いしたいことなどをお聞き下さいました。
また、今の段階で立てている仮説を説明すると、興味深そうに頷いておられました。
そしてその場で携帯電話を取り出し、それぞれ道の専門家や施設の責任者などに連絡をとって下さったのです。
ご厚情に涙が出る思いでした。
中途半端な調査や報告では、この方のご厚意に背くことになってしまいます。
覚悟を新たに、北島国造館を後にしました。 -
小さなお社にも謎解きのヒントが隠されていないものかと、周辺を回ってみました。
比那神社には、御由緒などを案内する看板は設置されていません。
ヒナという読み方から連想するのは、アメノヒナドリ命。
出雲国造の祖、天穂日命の御子神です。
この神様が御祭神なのでしょうか。 -
大山神社の御祭神は、伊邪那岐神と伊邪那美神の御子神、大山津見命。
国産み・神産みを行う2神はのうち、特に伊邪那美神は出雲の各所で祀られています。 -
八野神社の御祭神は、須佐能袁命の御子神、八野若日女命。
須佐之男命も出雲系の神様です。
ずっと先の話になりますが、現在取り組んでいる謎解きで一定の結論が出たら、次は須佐之男命と天照大御神の実在を証明し、邪馬台国の所在地を特定する作業に進むことになります。
八野神社は住宅地の真ん中にありますが、『延喜式』に記載された当時から鎮座地は変わっていません。
こういうところも出雲が神の国である所以なのでしょう。 -
7月30・31の両日は、隠岐の島へ調査に赴きました。http://4travel.jp/travelogue/10912703
8月1日、出雲へ帰って最初に訪れたのは日御碕神社。
ここへ来るのは2回目です。
1回目に見落としてしまった社殿の彫刻を確認するのが目的です。
楼門は工事中でした。
火沈の宮の本殿に、確かに太陽・月・星の紋様が彫られています。
神社では、太陽の神である天照大御神と、星の神である須佐之男命を祀り、すぐ近くの月読神社では月の神の月読命を祀っています。
この社殿は徳川家光公によって再建されたもので、それ以前にも同じ彫刻があったかどうかは不明とのこと。
古文書を調べれば、あるいは家光公以前の社殿の姿が分かるかも知れません。
ただ、この件に関しては一定の結論が出たので、そこまでする必要はなくなりました。日御碕神社 寺・神社・教会
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日御碕神社から海を隔てた経島は、神職以外は上陸出来ない禁足地。
ウミネコの繁殖地で、国の天然記念物に指定されています。
神職が上陸すして祭りが行われるのは、毎年8月7日。
神輿渡御もあり、地元民以外でも参加できるとのことなので、申し込みをしようかとも思いましたが、くじ引き大会があるなど人寄せのための低俗化が感じられたので、やめることにしました。 -
出雲日御碕灯台は、日本一の高さを誇ります。
遠くから眺めても、巨塔の雄姿は迫力があります。 -
しかし目的地は、灯台ではなく隠ヶ丘。
素戔嗚命の魂が眠る場所です。
素戔嗚命=須佐之男命という神は、いまひとつ属性が分かりにくい神様です。
生まれた時の記事一つにしても、海原の支配を任されたり夜の統治を任されたりしているし、出雲でヤマタノオロチを退治したかと思えば、黄泉の国の支配者になっていたしています。
まるで何種類もの名刺を持っている人のようです。
おそらくはモデルとなったのは須佐之男命という一人の人間なのではなく、何人かの人物が一人の登場人物に収斂させられたのだと考えられます。
ここ隠ヶ丘の伝承も、その中の一つなのかも知れません。
即ち、出雲の国造りを終えた素戔嗚命は柏の葉を取り、「私の魂はこの葉が止まった場所に住もう」と言って投げたところ、この場所に留まったというものです。
実際にこの場所からは、柏の葉の遺跡が出土しているのだとか。
日御碕神社の宮司の祖先、天芦根命はこの場所で素戔嗚命への祭祀を行っていましたが、いつの時代か日御碕神社の境内に遷座し、現在は神の宮として鎮まっています。隠ヶ丘 名所・史跡
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8月2・3両日は、鳥取県へ調査に赴きました。http://4travel.jp/travelogue/10913700
8月4日、米子のホテルから神魂神社に向かいます。
ホテルの居心地が最悪だったため早めに退散したところ、宮司さんと約束した時間よりもかなり早く着く見込みとなりました。
鳥取から帰る頃から雨は降っていましたが、天気はグズついたままです。
こういう天気の日こそ相応しい場所があります。
それは死者の国、黄泉へ通じる黄泉比良坂。
伊邪那岐命は黄泉の国で亡き妻の変わり果てた姿を見、ここを通って逃げ帰って来たのでした。
伊邪那美命が治めていた黄泉の国とは、出雲そのもののことだったのでしょうか。黄泉比良坂 名所・史跡
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黄泉比良坂から近い揖屋神社。
『延喜式』に伊布夜社として記載される古社で、意宇六社のひとつです。
御祭神は伊弉冉命など4柱。
また境内社に韓国伊太氐神社と三穂津姫神社が鎮座します。
三穂津姫命は美保神社の御祭神でもあり、土地の守り神とされていますが、伊弉冉命と同一神という可能性がないか、今後考えてみたいと思います。 -
ちょうどよい時間になったので神魂神社を訪ねました。
『延喜式』に記載はありませんが、おそらく出雲国造の邸内社としてその頃から祭祀が行われていたことは間違いありません。
明治維新までは、出雲国造の即位式「火継式」と、一年で最も重要な「新嘗会」は神魂神社で行われていました。
今回は特別のお計らいにより、神事で用いられる神器を直接拝見させて頂きました。
出土品や、出雲大社の神器との共通点があります。神魂神社(大庭の大宮) 寺・神社・教会
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同じく意宇六社のひとつ、六所神社を参拝。
ちょうど朝の奉仕の時間に当たっていたらしく、神職の方がいらっしゃいました。
この方は出雲の歴史や祭祀を研究している方で、ここで偶然お会いできたことは幸いでした。
六所の六は意宇六社の六かと思っていましたが、神職の方によると六は特別な数であるとのことで、出雲大社をはじめ出雲の神社では神紋に亀甲紋を用いるのだそうです。
出雲大社御本殿内にしかない特別な神紋についてや、「有」という漢字は「十」と「月」に分解できることなど、これまで知らなかったことや気付かなかったことについて多くの示唆を頂きました。 -
真名井神社も意宇六社のひとつ。
こちらは神職が常駐しておらず、社殿のみがひっそりたたずんでいました。
真名井の水は、出雲国造の即位式にて料理などをするために用いられる聖なる水です。
社殿の近くには水が確認できませんでしたが、鎮座する山のどこかに、滝のように流れる水があるとのことです。
聖域を汚してはいけないので、これ以上進むことは控えました。 -
8月4日午後、美保神社に向かいました。
隠岐へ行く直前に、宮司さんにお会いする約束を取りつけていました。
しかし、その宮司さんはもういらっしゃいません。
隠岐の島での調査中に訃報が入りました。
宮司さんは急逝されたのです。
お会いする日時を決めた際の、宮司さんの優しいご対応が忘れられません。
一度もお会いしたことがないにもかかわらず、こちらの要件をお聞きになると、とても親切に応答して下さったのでした。
美保神社はトップを失ったばかりで悲しみに包まれているとは想像されますが、なぜか宮司さんが待っておられるような気がしたため、約束の時間にこっそり参拝することにしたのです。美保神社 寺・神社・教会
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美保神社の御祭神、事代主神は、音曲を好む神様として信仰されて来ました。
そのため美保神社には、様々な時代に奉納された各種の楽器が収蔵されています。
その中に、今回の調査対象を考える上で重要な楽器「八雲琴」が含まれています。
現在、楽器を納める収蔵庫は一般公開されていませんが、宮司さんとの交渉によっては拝見することも出来たはずでした。
しかし、こうなってしまった以上、今回は縁がなかったと思うしかありません。
別なルートで調査を続けることにします。 -
美保関灯台まで行くのは今回が初めてです。
灯台の中には入れません。美保関灯台 名所・史跡
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海に向かって鳥居が立っています。
すぐ下にある島は「地之御前」、沖合に浮かぶのは「沖之御前」
どちらも美保神社の境内地で、毎年5月5日に事代主神と御后神を迎える神事が執り行われます。 -
8月5日、出雲大社宝物殿と古代出雲歴史博物館を見学。
宝物殿では、謎解きの一つの解釈を示す手がかりと思しき絵を見付けましたが、職員の方に訊いてもはっきりしたことは分かりませんでした。
博物館では、今回の調査対象の実物を見ました。島根県立古代出雲歴史博物館 美術館・博物館
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8月6日、島根県立図書館に開館と同時に入り、資料の調査を行いました。
思ったよりも多くの収穫がありました。
東京にしかないと思われた書物や、山陰の祭祀について書かれた郷土資料、また古い言い伝えが残る琴引山についての登山案内など、短時間でいろいろな資料が出て来ました。
そうこうするうちに、K様からご紹介頂いた島根県教育委員会文化財課の専門官の方と約束していた時間になりました。
この方、M先生は荒神谷遺跡で大量の銅剣が発掘された時の責任者で、島根県のみならず埋蔵文化財に非常に豊富な知識をお持ちです。
調査対象の神器以外、関連の考えられる出土物について貴重な情報を頂きました。
また、琴引山に詳しい由來八幡宮宮司と、古代歴史博物館の学芸員を紹介して頂きました。 -
8月6日午後、出雲へ帰る途中で雲州平田に寄り道。
出雲と松江の間を移動する際は、いつも宍道湖の北側のルートを通っています。
南側の国道6号線は交通量が多く、時間によって渋滞が激しいからです。
北側のルートで、大社から東に進み、次に開ける地域が平田。
平田はかつて独立した市でしたが、現在は出雲市に合併されてその一部となっています。
その平田にあった旧本陣を移築した、平田本陣記念館を見学しました。
今回の調査とは全く関係なく、単純に島根観光のつもりで訪れました。
松江藩藩主の宿泊場所として旧本陣が建設されたのは享保20年。
庭園もそのまま再現されており、その奥には茶室が設けられています。
出雲といえば古代ですが、近世の面影を残すこの施設も悪くありません。
見学だけなら無料というのも驚きでした。平田本陣記念館 美術館・博物館
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イチオシ
週間天気予報によると、台風が接近する可能性があり、数日間は天気が崩れるとのこと。
出雲滞在も日程の半分が過ぎてしまい、残った期間でまだ訪れなければならない所はたくさんあります。
鰐淵寺へ行くなら今日しかないと思い、即実行しました。
平田本陣から車で20分ほど、山の中へと車を走らせます。
最も近い駐車場からは、15分ほど歩かなければなりません。
自家用車は通行禁止とされているものの、標識を見逃して入り込んでしまう車や工事車両が通るため、歩くと危険を感じます。
しかし、いかにも秘境といった雰囲気の山道は、自分も一人の修行僧になったような気分にさせてくれます。
受付で拝観料を払い、古びた石段をを上ると、今にも僧兵か修験者が現れそうな凛とした本堂が浮かび上がって来ました。
鰐淵寺は推古天皇2年の開山。
古来から出雲大社とのかかわりも深く、平安時代末期には出雲大社の別当寺をつとめました。鰐淵寺 紅葉
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鰐淵寺には、武蔵坊弁慶が修行に訪れたという伝説が残ります。
弁慶が生まれた場所は定かではありませんが、一説では松江こそが生誕地とされます。
18歳から3年間、ここ鰐淵寺で修行し、京に出て源義経に出会い、壇ノ浦で平家を破った後、弁慶は再び鰐淵寺へ帰って来ました。
その際、鳥取県の大山寺にあった釣鐘を、たった一晩でここまで担いで移動したのだとか。 -
8月7日、台風11号が北上している影響で、天気はぐずついています。
古代歴史博物館を訪れ、文化財課の先生に紹介して頂いた学芸員の方とお会いしました。
博物館には八雲琴が展示されていると教えられ、これまで気付かなかったことを恥じながら、展示室まで案内して頂きました。
また、小泉八雲が出雲大社を参拝した際の貴重な記録のコピーを頂きました。 -
市内の道路に置かれたモニュメント、大国主神・櫛稲田姫像を見に行きました。
テーマは、大国主神が出雲を統治することになった経緯を描いた『古事記』のワンシーン。
市内には多くのモニュメントが置かれており、神話をテーマにした現代の町づくりは着実に進んでいることがうかがえます。 -
8月8日、本格的な雨。
八雲立つ風土記の丘を訪れ、過去の特別展の図録や紀要などを手に入れました。
どちらも十年以上前の発行なので、在庫がなくてもせめてコピーをと思っていましたが、実物が手に入って幸運です。
また、せっかくなので展示も見学しました。
ここで最も愛される「見返り鹿」の埴輪は、古代歴史博物館の特別展に出張中でした。
公園として整備された敷地には、古代の住居の復元などもありますが、雨と風が強く見学は断念。八雲立つ風土記の丘資料館 美術館・博物館
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更に熊野大社を参拝。
隠岐の島町町議のY先生の紹介で、宮司とお会いする手筈となっていました。
熊野大社は意宇六社のひとつ。
新嘗会で最も重要な神器、火切の道具を調達する神社です。
『出雲国風土記』で大社を名乗るのは、杵築大社(出雲大社)と熊野大社の2社だけ。
歴史的にも創始は出雲大社より古く、古代は熊野山の磐座信仰が行われていました。
歴史の流れとともに祭祀の形も変化し、紀州熊野と関連づけられたり、戦火によって焼かれたりしますが、明治時代に現在地に社殿が整備されました。熊野大社 寺・神社・教会
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神魂神社同様、宮司さんのご厚情によって神器を直接拝見。
また火継式の様態など、宮司さんが直接奉仕された時の状況などを詳しく教えて頂きました。
ただし、熊野大社が古代から現代まで重要なポジションにあることは確かなものの、明治時代に国家による神道への影響力が強まった際に祭祀の様態は大きく変化させられたので、注意が必要です。 -
雨が降って足元が悪いのにもかかわらず、境内を一巡してご案内頂きました。
拝殿へ昇らせて頂いた際には、出雲国造の舞いが行われる際の位置関係などを教えて頂きました。
日本における火の発祥の地である所以、鑚火殿は現在修築中でした。 -
8月9・10の両日は、台風の影響で調査を中断。
ここまで集めた資料の整理を試みました。
8月11日、ようやく晴れたので出雲大社彰古館を見学。 -
彰古館には新嘗会で用いられる火切具が展示されていました。
神聖な祭具であるため、おそらく模造品だと思います。
調査している内容は、新嘗会にも関連があります。 -
特に目的もなく、出雲大社周辺を散策しました。
西側へ歩くと、出雲阿国の墓を発見。
出雲阿国は「かぶき踊り」の創始者として知られている女性です。
出雲大社の巫女であった阿国は、勧進のために諸国を巡業した際、その踊りが評判となったのでした。
時は戦国時代末期。
世相は頽廃し、庶民から武士そして公家に至るまで、明日はどうなるかの見通しも持てない生活でした。
救いはあの世にしかないと思っていた当時の人々の間で流行したのは、念仏を唱えながら踊る念仏踊りでした。
阿国は念仏踊りを取り入れ、自らの踊りの様式を確立したとも言われています。
そんな戦国時代も、織田信長公の躍進によって終わりを遂げ、阿国のかぶき踊りは江戸時代に爆発的に流行した歌舞伎へと発展したのでした。出雲阿国の墓 名所・史跡
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阿国はその晩年を、故郷の出雲で過ごしました。
一説には尼となり、連歌会を開いて余生を送ったとされています。
墓所の向かい側には、阿国が結んだ連歌庵がありました。
中村町にあった実物は焼失してしまったため、現在の場所に再建されたとのこと。
さて、出雲大社の神事で奏される音楽は、他の神社にはない独特なものです。
京の神楽の影響が強いとのことですが、これを出雲に伝えたのはあるいは阿国だったのかも知れません。阿国寺 連歌庵 寺・神社・教会
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出雲大社に戻る方向に、都稲荷社が鎮座しています。
本居宣長の門人で出雲国造の実弟でもあった千家俊信が、伏見稲荷大社から分霊を祀った神社です。 -
出雲大社の東側が北島国造家の居住地であるのに対し、西側は千家国造家の居住する地域です。
北島家の裏手にある山は亀山、千家家の裏手にあるのは鶴山。
立派な門構えに太い注連縄を張っているのは千家国造館です。
北島国造館のように開放感はなく、おそらく一般人は立ち入りが制限されていることでしょう。
高円宮典子女王殿下が御結婚される千家国麿氏も、この邸宅のどこかで生活しており、いずれ国造を襲職することでしょう。 -
出雲大社教は、神道系の宗教として死後を扱った、おそらく初めての宗教です。
江戸時代に確立した寺請制度により、死者の葬儀や法事は必ず寺が関わることになっていました。
しかし明治初期、国造千家尊福が本居宣長や平田篤胤の学説を出雲大社における信仰に取り入れ、大国主神こそが死者の世界の主宰神であることを主張。
国家神道から分離された教派神道として、出雲を中心に信徒を集めたのでした。
千家国造館の近くには、大社教の信徒や祖先の御霊を鎮祭する場、祖霊社が建っています。 -
気が向いたので神門通りへ。
まだ大社前駅へ行っていないことを思い出しました。
今でこそ観光客であふれる神門通りですが、かつては観光客は神楽殿周辺の売店と飲食店を利用していたとのこと。
大駐車場の整備、電柱の地中化、道路の拡張などにより、現在の活気ある神門通りは生まれたそうです。
大社前駅は天井にあでやかなステンドグラスが用いられています。
今度は一畑電車に乗ってみたいものです。出雲大社前駅 駅
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8月12・13・14の三日間は、江津や広島などへ調査に赴きました。http://4travel.jp/travelogue/10917629
8月15日は、大雨のため資料整理。
8月16日午後、M先生からの紹介で、由來八幡宮を訪れました。
出発した時は雨模様でしたが、いくつか山を越えると空が少し明るくなったのが感じられました。
『出雲国風土記』には、琴引山に大国主神が琴を治めたという記述があり、その詳しい場所も言い伝えられているため、実際に訪れようと心に決めていました。
由來八幡宮の宮司さんは琴引山神社の宮司も兼務しており、地元の言い伝えなども精力的に収集されているとのこと。
向かった先は宮司さんの自宅です。
琴引山の山頂にあったという僧坊の話、僧坊が焼き討ちされるきっかけとなった戦いの話などをお聞きしましたが、それ以上遡った古代の話は事前に調べた以上の収穫はありませんでした。
この時点で、このまま登山を決行するかは判断し兼ねていました。
しかし宮司さんが当然これから登るという前提でお話しを進め、登山経験者で琴引山をよく知るA氏を引き合わせてくれたりもしたので、覚悟を決めました。
由來八幡宮に参拝し、いざ琴引山を目指します。 -
車で行けるのは、山頂から2キロほど手前まで。
ここからスキー場となっている緩い坂をを500メートルほど登ると、登山口へたどり着きます。
雨は降っていないものの、空には厚い雲が立ち込めています。
A氏の言葉では、もし山頂へ登っても視界はゼロとのこと。
しかもA氏が着いてきてくれるのは登山口まで。
まだ仕事の途中とのことで帰ってしまいましたが、一人で登山は心配なのでと熊よけの鈴を貸してくれました。 -
登山口から登り始めると、風景はスキー場の平原から様変わりします。
うっそうと茂る森である上に、アブが多く、顔を周りを手で払いながら進まなければなりません。
折り畳み傘は準備しているものの、雨が降り出す前に往復しようと思うと、自然に足取りが早くなります。
沢の水はドウドウと音を立てて流れています。
傾斜が急になると、登山道もぬかるみ始め、歩くのがつらくなって来ました。
十畳岩という標識を見たあたりで、とうとう登山道にまで水が流れ出し、道は沢状態になってしまいました。
この日の登頂は断念。
A氏に連絡を入れ、借りた鈴を返しました。
車でアパートに向かう帰り道は大雨となりました。 -
8月17日、やはり大雨のため資料整理。
このまま琴引山に登らずに調査日程を終えてしまうのではないかと、心配が募ります。
8月18日午前、M先生の紹介で、古代文化センターの学芸員さんにお会いしました。
大川端荒神神楽の記録映像を拝見し、必要な資料をお借りしました。
その際、高祖寺で毎年行われる伝統行事が、調査対象の神事と共通点があると教えて頂きました。
お寺と神社では歴史も仕来りも違うので、あまり期待はしませんでしたが、念のためお寺の名前と住所をメモ。
大川端荒神神楽の会場となった場所と、託宣で中心的な役割を果たした方が宮司を務める忌部神社へ行きました。
特に目ぼしい情報を得ることは出来ませんでしたが、会場の雰囲気を掴んだことで出雲の文化をまた一つ深く知ることに繋がりました。 -
その足で須我神社を参拝。
ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊が日本で初めてお宮を造った場所として、『古事記』にも「須賀宮」の名前が見られます。須我神社 寺・神社・教会
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イチオシ
須我神社の古代祭祀場は八雲山の中腹にある「夫婦岩」
熊野大社もそうでしたが、日本における祭祀文化の原点は巨石信仰です。
荒神神楽では、御神体は石碑とされています。
これもごく古い時代には、もしかすると巨石を御神体としていたのかも知れません。八雲山 自然・景勝地
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宍道湖の北へ回り、秋鹿郡にある高祖寺を訪れることにしました。
新情報の期待も薄く、事前の連絡もせずに訪れましたが、入口で伝統行事「大餅さん」についてお聞きしたいと話したところ、奥から出て来た男性がぜひ上がってとおっしゃったので、お言葉に甘えることにしました。
あとから知ったのですが、その方が住職さんでした。
まだ年齢は若く、自分とそれほど変わりないように見えましたが、その理由はお話しする内容が次々に新しい話題を呼ぶ話術の巧みさにあったのだと思います。
「大餅さん」の由来や次第などを聞くうちに、調査の行き詰まりに対する突破口であることが判明し、こちらも興奮して次々に質問してしまいました。
話題はどんどん飛躍し、秋鹿郡に祀られる『古事記』の神や陰陽二元論、道鏡と神道の関係、そして戦後日本の対応にまで及んでしまいました。秋鹿の大餅さん 祭り・イベント
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「大餅さん」が行われる大日堂にも案内して頂きました。
こちらは近年、新築したばかりのお堂です。
少子高齢化や過疎化によって、この優れた伝統行事も存続が危ういのだそうです。
しかし何としても後世に伝えたい伝統行事であるとの強い思いから、手遅れにならないうちにせめて会場となるお堂だけは数百年の使用に耐えるものにしておきたかったとのことです。
自分の研究が、大餅さんの伝統継承に少しでも寄与出来ることを望むばかりです。
あまりに長く話したため、外は暗くなってしまいました。
住職さんの行きつけのお店で、鰻料理をご馳走になりました。 -
出雲では夏祭りが行われていたらしく、帰り着いたアパートからも花火が見えました。
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8月19日。
早朝に起きて外を見ると、どうやら雨は降っていないようです。
琴引山に登るなら、この日が最後のチャンス。
雨が降れば、前回同様諦めればよいだけのこと。
A氏にメールを入れ、登山に再チャレンジする旨と、出来ることならゴム長靴を貸してほしいと伝えました。
するとすぐに返信が来て、長靴を由來八幡宮の宮司さん宅の玄関に置いておくと書かれていました。
天気が変わっては大変と、朝食をとってすぐに琴引山に向かいます。
ビジターセンターに着き、トイレなどを済ませてスキー場に向かうと、どうやら前回よりはガスは薄いようです。
A氏から借りた長靴は自分にとって大きすぎるサイズで、平地を歩くのも苦労するほどでしたが、持って来たのは革靴だけなので、ゴム長を履けるだけでも大変有難いことです。琴引山 自然・景勝地
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イチオシ
アブ対策で虫除けスプレーを使用しますが、あまり効果はありません。
登り坂がきつく思われた時は、「六根清浄」を唱えて気を引き締めました。
前回引き返した十畳岩の辺りまで来ると、やはり道が水浸しになっています。
大きなゴム長靴を履いた足を踏みしめ、更に進むと、沢を渡る場所がありました。
革靴で来ていたら、ここで再び引き返すところでした。
そしてその先、ようやく伝説の大神岩に辿りつきました。
中へ入って調査しようか迷いましたが、結果は明らかなのでやめにして、ただ外から拝しました。
大国主神が琴を収めたという伝説が真実だとしても、木製の琴が今まで残っていると考えるのはあまりに反科学的です。 -
続く登山道を進むと、巨岩に挟まれた琴弾山神社に着きました。
この辺りに多くの僧坊が建てられ、修験者たちが修行に励んでいた伝承されています。
数年前に國學院の研究チームが遺跡の発掘調査を行いましたが、それらしい痕跡は見つかりませんでした。
僧坊はただの言い伝えで史実ではなかったのでしょうか。
ここを修行の場に定めた人物と、大餅さんを始めた人物が同一人物であることが、言い伝えの真実性を物語っていると思います。
その人物とは、弘法大師空海です。 -
琴引山山頂に到着。
晴れていれば三瓶山まで見渡すことが出来るとのことですが、残念ながら見えません。
しかし、登山口のあったスキー場などはよく見えます。
ハイキングコースとして親しまれる登山道ですが、登山に慣れない自分にとっては苦しい道のりでした。
宮司さん宅に長靴を返し、アパートへ戻りました。 -
8月20日、地元仙台からのお客様を迎えに松江駅へ。
いつか出雲へ行きたいという願いがようやく叶い、夜行列車に乗ってはるばるやって来た母です。松江城 名所・史跡
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最初に松江城へ行き、車を駐車して散策開始。
他人と歩くことでいつもとは違う行動パターンとなるため、思わぬ発見をしたりすることもあります。
この時は堀尾吉晴公像を発見。
吉晴公は松江藩の初代藩主で、松江城の築城に取りかかったものの、完成を目の前にして死去してしまいました。
堀尾氏は、3代目忠晴公に嫡子がかなったため改易となり、その後に京極氏が入ることとなります。
松江城の他、城山稲荷神社、小泉八雲旧居・記念館、武家屋敷、美保神社、美保関灯台、佐田神社、そして夕闇迫る出雲大社を案内しました。 -
8月21日、仙台からのお客様の接待2日目。
出雲大社、北島国造館、古代出雲歴史博物館を案内。
出雲大社での参拝・見学の時間が思ったより長くなり、歴史博物館の特別展は諦めたとのことでした。
自分は一人息抜きに、博物館の喫茶店で「古墳ゼリー」を食べました。
ゼリーの下には人型の埋葬者がいるというこだわりの逸品。 -
イチオシ
お客様が古代出雲歴史博物館を見学している間、自分は一人で周囲を散策。
北島国造館から東へ進んだ所に、神魂伊能知奴志神社を発見。
元日に出雲国造自らが祭祀を行うという重要な神社です。
その後、日御碕神社、神門通り、吉兆館、手銭記念館、島根ワイナリー、出雲文化伝承館を案内しました。
帰りの夜行列車に乗るまで、それなりに親孝行出来たと思います。
前日までと一転して、2日間快晴の空でした。神魂伊能知奴志神社 (命主社) 寺・神社・教会
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8月22日、実質的な出雲生活最終日。
午前中はアパートの撤去作業。
前日までに荷物はほとんどまとめてあったので、宅急便で送るだけでした。
昼食は、出雲で様々なご縁を結んで下さったK様と会食。
観光客と一見さんはお断りの、知る人ぞ知る名店で出雲蕎麦を頂きました。
割子はもちろん、初めて食べる釜揚げも大変美味しく頂きました。
K様にはこれまでの調査内容の報告と、今後の見通しなどをお話ししました。
琴弾山神社や隠岐島の焼火神社などを参拝したことを伝えると、島根県人よりも島根を知っているのではないかと感心されていました。
また、急逝された美保神社の宮司さんについても、思い出話をお聞かせ下さいました。
K様をご自宅までお送りした後、出雲文化プレイスうらら館で「高円宮妃殿下 鳥の写真とボンボニエール展」を見学。 -
8月23日、立つ鳥跡を濁さずの格言を意識して、各種ゴミを清掃センターへ持ち込みました。
出雲は仙台よりゴミの分別が厳しく、4種類に分別しなければなりませんでした。
しかし仙台では資源ゴミとされるペットボトルやプラスチックが燃えるゴミに分類されるのは不思議でした。
燃えるゴミ・燃えないゴミをそれぞれ清掃センターに持ち込み、後顧の憂いなく帰路につきます。
その途中でまず初めに寄ったのは佐香神社。
一畑口駅の北に鎮座します。
佐香は酒を意味する、『出雲国風土記』にも記載のある古社です。
毎年10月13日が大祭日に当たり、どぶろくが振る舞われるのだそうです。佐香神社 寺・神社・教会
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更に北を目指し、山奥深くにある一畑薬師を訪れました。
大駐車場が整備され、参道には商店が並んでいますが、駐車スペースはガラガラで商店は1〜2軒を除いてシャッターが閉まっています。
戦後の一時期は信仰心厚い人たちでごった返したのでしょうが、時代とともに人の心も変わってしまうというのは切ないことです。一畑寺(一畑薬師) 寺・神社・教会
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それでも眼病平癒に霊験あらたかであるとして、全国から参拝客が訪れます。
この日もお堂で団体客のためのご祈祷が行われていました。
最後に「おんころころせんだりまとうぎそわか」の真言が聞こえて来ましたが、坊さんのマイクの声ばかり大きく、興ざめしてしまいました。 -
安来にまで足を伸ばし、月山富田城を訪れました。
戦国時代に山陰を支配していた尼子氏の本城です。
戦国時代末期には、勢力を伸ばした毛利氏との戦いが繰り広げられました。
永禄9年、毛利軍の猛攻を受けて尼子義久はついに降伏を申し出、尼子氏は滅亡しました。
しかし、尼子氏の再興を願って諸国に働きかけた忠臣がいました。
山中鹿之助幸盛です。
彼は尼子氏再興を誓い、三日月に向かって「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈りを捧げます。
鹿之助は京で仏門に入っていた尼子勝久を密かに還俗させ、各地の尼子遺臣とともに隠岐・出雲と移動して再興の機会をうかがい、毛利軍の守りが手薄になったのを見計らって挙兵。
月山富田城の奪回も試みますが、あと一歩のところで叶わず、毛利軍本体に再興軍は敗れたのでした。
鹿之助はこの後も尼子氏再興のために働き続けますが、ついに毛利軍に捕えられ、護送の途中で謀殺されたのでした。月山富田城跡 名所・史跡
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尼子氏が最も勢力を拡大した時には、山陽・山陰合わせて11ヶ国を支配していました。
尼子氏が本拠とした富田城は規模が大きく、麓から見上げると頑丈な石垣が聳えているのが見えます。
難攻不落とも言える富田城の縄張りにも感心しますが、それを攻め落とした毛利氏の大軍というものも想像を絶する規模だったのでしょう。 -
足立美術館を見かけたのですが、帰り際の落ち着かない気分で美術鑑賞をしても心に残らないと思い、より庶民的な安来節園芸館に立ち寄りました。
ちょうど上演の時間だったので、話のタネにと入場してみました。
ドジョウ掬いの演技が面白く、また体験のために舞台に立った観光の人たちの練習も楽しげでした。
誰かと一緒に来ることがあれば、ぜひ体験してみたいと思いました。安来節演芸館 名所・史跡
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イチオシ
米子市内に入り、米子城跡に上りました。
ニコニコレンタカーに車を返却。
一か月間、事故なく無事に返すことが出来て何よりです。
一度くらいは洗車してやればよかったかなと思いました。
ちょうどよい時間のバスがなかったので、米子駅から米子空港までは鉄道で移動。
フライトまで食堂で軽くビールを飲んで過ごし、神戸空港まで飛びました。
8月24日
神戸空港から仙台空港まで飛行機で移動。
一か月間留守にしている間に、仙台は秋らしくなっていました。米子城跡 (湊山公園) 公園・植物園
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