出雲市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「旅の記録」(30)山陰山陽周遊の旅・足立美術館・出雲大社・津和野・殿町散策<br /><br />山陰山陽周遊の旅二日目は日本史探索の旅になりました。<br /><br />★8:50 足立美術館 (4年連続日本一に輝いた日本庭園)<br /> 10:05-△宍道湖を車窓に見て<br />★11:30 出雲大社 正式参拝(神楽殿に昇殿して正式参拝)<br /> 13:30--浜田<br /><br />★17:00-17:55 津和野・殿町散策   <br />  津和野は 大阪夏の陣で戦火の中を千姫救出に活躍した坂崎直盛ゆかりの地です。<br /><br />二日目は 萩温泉郷 萩グランドホテル 天空に泊ります。 <br /><br />注)ブログ記事中 「足立美術館」と「出雲大社」及び「津和野」に関する記述はフリー百科ウィキペディアなどから抜粋し一部加筆したものです。

山陰山陽周遊(2)足立美術館庭園鑑賞・出雲大社神楽殿に正式参拝・津和野殿町散策

38いいね!

2007/02/21 - 2007/02/22

265位(同エリア2170件中)

0

49

Donky

Donkyさん

「旅の記録」(30)山陰山陽周遊の旅・足立美術館・出雲大社・津和野・殿町散策

山陰山陽周遊の旅二日目は日本史探索の旅になりました。

★8:50 足立美術館 (4年連続日本一に輝いた日本庭園)
 10:05-△宍道湖を車窓に見て
★11:30 出雲大社 正式参拝(神楽殿に昇殿して正式参拝)
 13:30--浜田

★17:00-17:55 津和野・殿町散策   
  津和野は 大阪夏の陣で戦火の中を千姫救出に活躍した坂崎直盛ゆかりの地です。

二日目は 萩温泉郷 萩グランドホテル 天空に泊ります。 

注)ブログ記事中 「足立美術館」と「出雲大社」及び「津和野」に関する記述はフリー百科ウィキペディアなどから抜粋し一部加筆したものです。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

PR

  • 足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館です。

    足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館です。

  • 運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。

    運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。

  • 地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものだそうです。

    地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899年 - 1990年)が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したものだそうです。

  • 質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっています。

    イチオシ

    質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっています。

  • 大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵しています。

    大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵しています。

  • 足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園です。

    足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園です。

  • 庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積5万坪に及びます。 地元出身の実業家・足立全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたといいます。

    庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積5万坪に及びます。 地元出身の実業家・足立全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたといいます。

  •  専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高いのです。

    専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高いのです。

  • 日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸です。

    日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸です。

  • 米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2012年まで、10年連続で庭園日本一に選出されています。

    米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、初回の2003年から2012年まで、10年連続で庭園日本一に選出されています。

  • 2012年のランキングは日本国内約900箇所の名所・旧跡を対象にしたもので、「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されています。

    2012年のランキングは日本国内約900箇所の名所・旧跡を対象にしたもので、「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などが総合的に判断されたもので、とくに細部まで行き届いた維持管理が評価されています。

  • また、フランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』や『Guide Bleu Japon』にて、それぞれ三つ星(最高評価)を獲得しています。

    また、フランスの旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』や『Guide Bleu Japon』にて、それぞれ三つ星(最高評価)を獲得しています。

  • 1970年(昭和45年)開館	<br />所在地	〒692-0064 島根県安来市古川町320<br /><br />

    1970年(昭和45年)開館
    所在地 〒692-0064 島根県安来市古川町320

  • アクセス	JR山陰本線・安来駅から無料シャトルバス<br />ウェブサイト	adachi-museum.or.jp

    アクセス JR山陰本線・安来駅から無料シャトルバス
    ウェブサイト adachi-museum.or.jp

  • 食事どころの看板代わりに ここ島根県・安来節の踊りでおなじみの巨大なお面が・・・。

    食事どころの看板代わりに ここ島根県・安来節の踊りでおなじみの巨大なお面が・・・。

  • 出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。

    出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。

  • 祭神:大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。<br />1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記されています。<br /><br />

    イチオシ

    祭神:大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。
    1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記されています。

  •  神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲に集る関係で他国は神無月となるも、ここ出雲では神在月というのです。<br /><br /> 

     神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲に集る関係で他国は神無月となるも、ここ出雲では神在月というのです。

     

  • 出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではないのだそうです。ご安心を。<br /><br />そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになりました。

    出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではないのだそうです。ご安心を。

    そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになりました。

  • 発掘された 古代の御本殿の柱解説 図の右上が古代御本殿の想像図です。<br /><br />正式名称は「いずもおおやしろ」ですが、一般には主に「いずもたいしゃ」と読むそうです。二拝四拍手一拝の作法で拝礼します。<br /><br />2007年2月 一度だけ正式に参拝しました。

    発掘された 古代の御本殿の柱解説 図の右上が古代御本殿の想像図です。

    正式名称は「いずもおおやしろ」ですが、一般には主に「いずもたいしゃ」と読むそうです。二拝四拍手一拝の作法で拝礼します。

    2007年2月 一度だけ正式に参拝しました。

  • 明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたからです。

    明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたからです。

  • 出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。<br />以下はその主なものです。<br />出雲大社の創建 その1.  大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

    出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。
    以下はその主なものです。
    出雲大社の創建 その1. 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

  • 出雲大社の創建その2.<br /><br />高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

    出雲大社の創建その2.

    高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

  • 出雲大社の創建その3.<br /><br />崇神天皇60年7月には、天皇が「天穂日命の子で武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)<br /><br />他にも 有名な歴史書にいくつか その理由の記述が 見られます。<br />要するに 日本書紀やら古事記にもその存在理由の記述が残っているくらい長い歴史の中を存在し続けているということですかね。

    出雲大社の創建その3.

    崇神天皇60年7月には、天皇が「天穂日命の子で武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

    他にも 有名な歴史書にいくつか その理由の記述が 見られます。
    要するに 日本書紀やら古事記にもその存在理由の記述が残っているくらい長い歴史の中を存在し続けているということですかね。

  • 出雲大社の前にある道路標識。<br /><br />出雲から次の目的地 津和野へ移動します。<br />

    出雲大社の前にある道路標識。

    出雲から次の目的地 津和野へ移動します。

  • 津和野美術館<br /><br />津和野町(つわのちょう)は、島根県の南西に位置する町。<br />面積	307.09 平方km<br />総人口	7,910人(推計人口、2013年9月1日)<br />人口密度25.8人/平方km

    津和野美術館

    津和野町(つわのちょう)は、島根県の南西に位置する町。
    面積 307.09 平方km
    総人口 7,910人(推計人口、2013年9月1日)
    人口密度25.8人/平方km

  • 明治維新前には津和野藩亀井氏の城下町であり、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として知られているほか、津和野駅はSLやまぐち号の終着駅でもあり、山口市・萩とセットで訪れる観光客が多いのだとか。<br /><br />老舗和菓子屋の若旦那が 町を案内してくれました。

    明治維新前には津和野藩亀井氏の城下町であり、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として知られているほか、津和野駅はSLやまぐち号の終着駅でもあり、山口市・萩とセットで訪れる観光客が多いのだとか。

    老舗和菓子屋の若旦那が 町を案内してくれました。

  • また、在日米軍基地のある岩国市からも車で訪れることが出来るため、基地職員や米軍兵士などといった外国人観光客も比較的多く見られます。

    また、在日米軍基地のある岩国市からも車で訪れることが出来るため、基地職員や米軍兵士などといった外国人観光客も比較的多く見られます。

  • 幕末期以降の廃仏毀釈と、長崎から配流されてきたキリシタンへ、改宗の強要が実施された歴史(浦上四番崩れを参照)があるほか、文豪森鴎外の出生地としても知られています。

    幕末期以降の廃仏毀釈と、長崎から配流されてきたキリシタンへ、改宗の強要が実施された歴史(浦上四番崩れを参照)があるほか、文豪森鴎外の出生地としても知られています。

  • 2005年9月25日、隣接していた日原町と合併(新設合併)し、新たに津和野町となりました。町役場は合併前の日原町役場に置かれることとなりました。

    2005年9月25日、隣接していた日原町と合併(新設合併)し、新たに津和野町となりました。町役場は合併前の日原町役場に置かれることとなりました。

  • 毎年7月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

    イチオシ

    毎年7月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

  • 津和野藩(つわのはん)は、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれていました。

    津和野藩(つわのはん)は、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれていました。

  • 戦国時代、津和野は大内氏、毛利氏に仕えていた豪族の吉見氏が支配していました。そのため、関ヶ原の戦いまでは毛利領でした。<br /><br />この後は 長い長い歴史の記述が続きます。 大阪夏の陣や 森鴎外に興味のない方は これ以降は見ないでパスしてくださいね。

    戦国時代、津和野は大内氏、毛利氏に仕えていた豪族の吉見氏が支配していました。そのため、関ヶ原の戦いまでは毛利領でした。

    この後は 長い長い歴史の記述が続きます。 大阪夏の陣や 森鴎外に興味のない方は これ以降は見ないでパスしてくださいね。

  • ▼坂崎直盛が津和野の始祖<br /><br />慶長5年(1600年)10月15日の関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の従兄弟坂崎直盛(宇喜多詮家)が秀家と不仲であったことから東軍につき、戦功により3万石にて立藩する。<br /><br />直盛は城下町建設、検地、城郭の大改修を行なって藩政の基礎を固めた名君であった。

    ▼坂崎直盛が津和野の始祖

    慶長5年(1600年)10月15日の関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の従兄弟坂崎直盛(宇喜多詮家)が秀家と不仲であったことから東軍につき、戦功により3万石にて立藩する。

    直盛は城下町建設、検地、城郭の大改修を行なって藩政の基礎を固めた名君であった。

  •  慶長20年(1615)直盛は大阪夏の陣で千姫救出に活躍、元和3年(1617年)7月20日に1万3468石の加増を受けた。<br /> <br /> しかし9月11日、千姫事件の余波により、直盛は家臣により殺害され(自害したとも言われる)たため、坂崎氏は断絶した(末裔に中村家などがある)。<br /><br />

     慶長20年(1615)直盛は大阪夏の陣で千姫救出に活躍、元和3年(1617年)7月20日に1万3468石の加増を受けた。
     
     しかし9月11日、千姫事件の余波により、直盛は家臣により殺害され(自害したとも言われる)たため、坂崎氏は断絶した(末裔に中村家などがある)。

  • 代わって元和3年(1618年)7月20日、因幡鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入封する。以来、亀井氏が明治時代まで藩主をつとめた。<br /><br />初代藩主政矩は幕府の信任が厚く、一時は姫路藩移封の話もあったが、元和5年(1619年)に急死したため幻に終わった。<br /><br />第2代藩主茲政は幼少で後を継いだため、御家騒動が起こったが、重臣の多胡真清による主導のもとで内紛を治め、藩政の確立に尽力した。<br /><br />家老 多胡家表門は島根県の文化財として残されています。<br /><br />

    代わって元和3年(1618年)7月20日、因幡鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入封する。以来、亀井氏が明治時代まで藩主をつとめた。

    初代藩主政矩は幕府の信任が厚く、一時は姫路藩移封の話もあったが、元和5年(1619年)に急死したため幻に終わった。

    第2代藩主茲政は幼少で後を継いだため、御家騒動が起こったが、重臣の多胡真清による主導のもとで内紛を治め、藩政の確立に尽力した。

    家老 多胡家表門は島根県の文化財として残されています。

  • 江戸中期には紙を専売とし、家老・多胡氏を中心に新田開発を行うなど、藩の財政は潤った。しかし、後期になると災害と凶作が続き、財政は悪化した。そのような中、第8代藩主矩賢は藩校・養老館を創立した。なお、養老館は現存している。

    江戸中期には紙を専売とし、家老・多胡氏を中心に新田開発を行うなど、藩の財政は潤った。しかし、後期になると災害と凶作が続き、財政は悪化した。そのような中、第8代藩主矩賢は藩校・養老館を創立した。なお、養老館は現存している。

  • 養老館(ようろうかん)は、津和野藩の藩校。菁々舎とも。<br /><br />1786年(天明6年)、津和野藩8代藩主亀井矩賢が森村ノ内字下中島に設置。<br /><br />

    養老館(ようろうかん)は、津和野藩の藩校。菁々舎とも。

    1786年(天明6年)、津和野藩8代藩主亀井矩賢が森村ノ内字下中島に設置。

  •  当時は儒学(教授:市川弁五郎、山口賢藏、塙野禮藏。助教授:板村基一、山口重三郎、林一見等)が中心。

    当時は儒学(教授:市川弁五郎、山口賢藏、塙野禮藏。助教授:板村基一、山口重三郎、林一見等)が中心。

  • 兵法、弓術(伴派弓術・竹林派弓術)馬術(大坪流馬術・多田流一騎働)、剣術(一刀流剣術・挽田流剣術)、槍術(刃心流槍術・夢相流槍術)、砲術(浅木流砲術)等はそれぞれ別の教場があったという

    兵法、弓術(伴派弓術・竹林派弓術)馬術(大坪流馬術・多田流一騎働)、剣術(一刀流剣術・挽田流剣術)、槍術(刃心流槍術・夢相流槍術)、砲術(浅木流砲術)等はそれぞれ別の教場があったという

  • 建物は武術教場と書庫が現在も残されており島根県の指定史跡となっている。そのうちの武術教場は津和野町の民俗資料館として利用されている。

    建物は武術教場と書庫が現在も残されており島根県の指定史跡となっている。そのうちの武術教場は津和野町の民俗資料館として利用されている。

  • <br />安政年間(大火の後?)、田村の内殿町へ各練武場とあわせて新築。<br /><br />津和野藩の藩校 菁々舎から養老館への改名時期はこの頃と思われます。


    安政年間(大火の後?)、田村の内殿町へ各練武場とあわせて新築。

    津和野藩の藩校 菁々舎から養老館への改名時期はこの頃と思われます。

  • 津和野藩の藩校 養老館門下生には<br /><br />幕末維新期の西洋法学者・思想家 西周 <br />明治時代の文豪・軍医 森鴎外など明治の偉人が名を連ねますが 多すぎて後述。

    津和野藩の藩校 養老館門下生には

    幕末維新期の西洋法学者・思想家 西周 
    明治時代の文豪・軍医 森鴎外など明治の偉人が名を連ねますが 多すぎて後述。

  • 最後の第11代藩主茲監は藩政改革を実行し、有能な人材を登用した。また神道を信奉し、国学の発展に力を注いだ。幕末には長州藩の隣藩であったが、中立を維持した。だが、その距離の近さから藩士の中には長州藩と行動を共にするものもあり、結果的には新政府内に人材を送り込むことになった。<br />

    最後の第11代藩主茲監は藩政改革を実行し、有能な人材を登用した。また神道を信奉し、国学の発展に力を注いだ。幕末には長州藩の隣藩であったが、中立を維持した。だが、その距離の近さから藩士の中には長州藩と行動を共にするものもあり、結果的には新政府内に人材を送り込むことになった。

  • 明治になる直前の1867年(慶応3年)の新政府によるキリシタン弾圧令により、長崎浦上のキリスト教信者158名は各地に流罪となったが、その流刑先の一つが津和野であった。<br />

    明治になる直前の1867年(慶応3年)の新政府によるキリシタン弾圧令により、長崎浦上のキリスト教信者158名は各地に流罪となったが、その流刑先の一つが津和野であった。

  • 明治4年(1871年)7月に詔勅された廃藩置県に先立って、茲監は廃藩建議書を提出し、同時に藩知事を辞職した。その後、浜田県を経て島根県に編入された。

    明治4年(1871年)7月に詔勅された廃藩置県に先立って、茲監は廃藩建議書を提出し、同時に藩知事を辞職した。その後、浜田県を経て島根県に編入された。

  • 津和野藩出身の主な人物<br />・亀井茲常 - 亀井久興の祖父、神祇行政・東宮侍従。伯爵。<br />・亀井茲建 - 東北開発総裁、亀井久興の父。伯爵。<br />・岡熊臣 - 幕末維新期の国学者<br />・大国隆正 - 幕末維新期の国学者<br />・福羽美静 - 幕末維新期の国学者。子爵。<br />

    津和野藩出身の主な人物
    ・亀井茲常 - 亀井久興の祖父、神祇行政・東宮侍従。伯爵。
    ・亀井茲建 - 東北開発総裁、亀井久興の父。伯爵。
    ・岡熊臣 - 幕末維新期の国学者
    ・大国隆正 - 幕末維新期の国学者
    ・福羽美静 - 幕末維新期の国学者。子爵。

  • 津和野藩出身の主な人物<br />・西周 - 幕末維新期の西洋法学者・思想家。男爵。<br />・森鴎外 - 明治時代の文豪・軍医。<br />・高岡直吉 - 明治期の県知事・政治家。<br />・高岡熊雄 - 北海道帝国大学総長。<br />・山辺丈夫(文夫) - 明治時代の実業家(紡績業)。<br />・小藤文次郎 - 地質学の父。

    津和野藩出身の主な人物
    ・西周 - 幕末維新期の西洋法学者・思想家。男爵。
    ・森鴎外 - 明治時代の文豪・軍医。
    ・高岡直吉 - 明治期の県知事・政治家。
    ・高岡熊雄 - 北海道帝国大学総長。
    ・山辺丈夫(文夫) - 明治時代の実業家(紡績業)。
    ・小藤文次郎 - 地質学の父。

  • これでは 観光ではなく 純粋に津和野の歴史ですね。<br /><br />千姫救出に活躍した坂崎出羽守直盛<br />幕末維新期の西洋法学者 西周  男爵<br />明治時代の文豪・軍医 森鴎外 <br /><br />こんな歴史に名を残した偉人たちの町ということで この項おしまいです。

    これでは 観光ではなく 純粋に津和野の歴史ですね。

    千姫救出に活躍した坂崎出羽守直盛
    幕末維新期の西洋法学者 西周 男爵
    明治時代の文豪・軍医 森鴎外

    こんな歴史に名を残した偉人たちの町ということで この項おしまいです。

この旅行記のタグ

38いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP