2014/07/30 - 2014/07/31
105位(同エリア319件中)
倫清堂さん
今年の夏はある調べものを徹底的に行うため、出雲に約一ヶ月の長期滞を実行しました。
この計画のために、7年間続けて来た学習塾を閉じることを決断した経緯があります。
調査を実りあるものにしなければ、何のために大きな犠牲を払ったか分からなくなってしまいます。
出雲調査の計画の中には、隠岐の島への渡航も含まれていました。
自分にとっては初めての土地なので、準備をせずに訪れれば最小限のことしか出来ません。
しかし恵まれたことに、自分の師匠は隠岐の島出身なのです。
隠岐の島を案内してくれる方も決まり、あとは日程を決めるだけとなりました。
あらかじめ日程を決めても、台風が来れば船を出すことができないので、出雲滞在が始まってから週間天気予報を見つつ決めようと考えていました。
しかし試しに宿泊所をネットで検索してみると、夏休み期間とあって、満室の日が多いことが分かりました。
どうにか宿を確保し、レンタカーの会社にも電話をかけまくり、一泊二日の旅程を立てることができたものの、出雲滞在が始まる同じ週からという過密スケジュールとなってしまいました。
しかし予定を組めただけでも幸運というものです。
あとは渡島の日まで、台風が来ないことを祈るのみとなりました。
-
隠岐の島に渡る当日。
乗船する七類港の様子がよく分からないため、出雲のアパートをかなり早く出発しました。
出雲から松江方面まで、宍道湖の北と南の2つのルートがありますが、初めて北の国道431号線を利用。
これから一ヶ月の出雲滞在で、何度も利用することになる道路です。
マンスリーで借りたレンタカーにはナビが付いていないため、自分のスマートフォンを見ながらの少し危険な運転をしなければなりません。
かなりスピードを出す車に煽られたりもしながら、大根島と境港を経由して一時間ばかりで七類港に到着。
臨時の駐車場があったので、車を停めるスペースには不便しませんでした。
七類港はなかなか大きな乗船場。
ちょうどひとつ前のフェリーが出航したところで、自分が目的とするフェリーに乗るための列には、前の方に並ぶことができました。
一ヶ月の調査は全て自費なので、出来るだけ節約しなければならず、座席は雑魚寝の2等船室。
9時30分に出航。
早起きしてはいましたが、それほど眠いと感じることもなく、横になってもほとんど眠れません。
時々デッキに出て日本海の風に当たったりしながら、約3時間の船旅を楽しみました。 -
フェリーはまず知夫里島の来居港、西ノ島の別府港に入りましたが、それらはやり過ごし、12時40分に海士の菱浦港で下船しました。
フェリーを降りると、外は焼けるような暑さ。
台風が来ないようにとの願いが強すぎたのか、猛暑となってしまいました。
海士のフェリー乗り場は洒落た建物で、荷物を無料で預かってくれるといううれしいサービスも行っています。
早速大きな荷物は預けてしまい、バスに乗り込みました。
海士での滞在時間は3時間もありません。
西ノ島に渡るフェリーに乗り遅れると、全ての予定が狂ってしまいます。
バスは定刻の12時55分に出発。
フェリー乗り場を見ると、その壁に「自立・挑戦・交流」の文字が掲げられています。
あとで島民の方から聞いたところ、海士町は国のバラマキに頼らず観光を中心に自律しようというしっかりした意識を持っており、町長も報酬を半分しか受け取っていないそうです。海士きんにゃもにゃセンター 乗り物
-
バスは定刻より少し遅れましたが、15分ほどで目的地の隠岐神社へたどり着きました。
バスの運転手さんと乗客のおばさんが親しく話していました。
小さな島ですから、どこに勤めている人もみな友達なのです。
それは逆に、誰がどこで何をしているかも常に把握されていることを意味するので、都会の人が引っ越して生活を始めても、うまく行かないことが多いでしょう。
太陽が照り付ける中、隠岐神社の境内へと進みました。隠岐神社 寺・神社・教会
-
隠岐神社の御祭神は後鳥羽天皇。
一般的には後鳥羽上皇と申し上げますが、御祭神名としては上記の通りです。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府成立以来、武士によってほしいままにされる政治の実権を今一度朝廷に戻し、王政復古を実現しようと、全国の守護・地頭や御家人たちに北条義時討伐の院宣を発しました。
しかし鎌倉幕府の強大な軍事力によって呆気なく封じられ、三上皇の遠島遷座と協力者たちの処断が容赦なく行われました。
後鳥羽上皇は美保神社で御休みになった後、船に乗せられて海士へとお渡りになったのでした。
そして源福寺を行宮と定められ、その短い御生涯を終えるまで和歌の道をひたすら歩まれたのでした。 -
後鳥羽天皇は隠岐に19年間お住まいになり、まるで罪人のように不自由な生活を送られました。
京都へ還幸される日を願っての過酷な日々は過ぎ、延応元年に御年60にて崩御されました。
そして御所のすぐ近くで火葬され、四十九日をもって臣下の藤原能茂の手によって、御遺骨は京都へと御還りになったのでした。
御所跡と火葬塚には隠岐の島民によって後鳥羽院神社が創建され、心ある人々によって祭祀が営まれていましたが、明治時代に御霊を水無瀬神宮に御遷しした際に後鳥羽院神社は廃されます。
しかしそれでも島民は祭祀をやめず、昭和に入って後鳥羽天皇七百年祭の年、改めて隠岐神社が創建されたのでした。
現在は源福寺の面影は全く残っていません。
御所とは名ばかりの、民家ほどしかない手狭な跡地には石碑が立ち、火葬塚は宮内庁によって管理されています。後鳥羽上皇行在所跡 名所・史跡
-
バスに乗り遅れまいと時計を気にしながら、隠岐神社の向かいにある海士町歴史民俗資料館を訪れました。
入口に普通のドアは見えず、蛇腹の仕切りがあるのだけが見えます。
展示を公開している雰囲気ではなかったのですが、念のため声をかけて開けてみると、中から涼しい空気が流れて来て、受付の方が答えてくれました。
他に見学者の姿は見えません。
猛暑の中での参拝を終えたばかりで、服には搾れるほどの汗がしみ込んでいましたが、それが一気に乾いてしまいそうな有難い冷房でした。
資料館には、隠岐神社の御神宝をはじめ、貴重な資料が豊富に展示されていました。後鳥羽院資料館 美術館・博物館
-
あまりの暑さに今か今かと待つバスは数分遅れて到着。
バスの運転手さんは、やはり乗客の方と話で盛り上がっていました。
これから西ノ島に渡らなければならないので、早く涼しい乗船場に行きたいところですが、一つ手前のバス停で気になる銅像を見付けたので、降りてみることにしました。
それとなく予想はしましたが、思った通り小泉八雲の銅像でした。
日本に帰化した八雲は明治25年8月に海士を訪れ、像が置かれている広場にあった岡崎旅館に泊まりました。
そして菱浦湾を見て美しく光り輝く様に感激し、鏡浦と名づけたのだそうです。
八雲が来島した100年後にアイルランド大使が親善のために訪れた時の記念碑も置かれています。 -
暑いとは言っても海辺には風があり、乗船場までは快適に歩くことが出来ました。
乗船場の駐車場で、しゃもじを手にした人が踊っている姿の像を発見。
海士町の伝統芸能、キンニャモニャの踊りの像です。
毎年8月の最終土曜日にはキンニャモニャパレードが行われ、海士町が一年で最も賑やかになるそうです。
海士での滞在時間は短かったですが、時間の制限があるなかで最大限に楽しむことが出来ました。 -
乗船場で荷物を受け取り、記念になる品物を購入。
15時にフェリーどうぜんは出航。
西ノ島の別府港までは、たったの15分。 -
15時15分、別府港到着。
レンタカーの担当の方が、待っていてくれました。
西ノ島ではより多くの場所を訪れたかったので、バスではなくレンタカーを利用することにしていました。
3時間で3500円という値段は良心的です。
ただしナビが旧式で不便だったので、代わりにスマートフォンを使うことになりました。
まずは必ず訪れると決めていた後醍醐天皇の御所跡、黒木御所へと向かいます。黒木御所阯 名所・史跡
-
石段を登った先に、後醍醐天皇の御聖徳を敬慕した島民によって創建された黒木神社。
そこから更に緩やかな石段を進むと、黒木御所跡の石碑と囲いが見えて来ます。
後鳥羽上皇の御所よりも一層人里から遠ざけられた場所にあって、それだけ後醍醐天皇の行動力と影響力が幕府から恐れられていたことが分かります。
しかし後醍醐天皇が隠岐で過ごしたのは1年足らず。
幕府が恐れていたとおり、後醍醐帝は伯耆国の有力者であった名和長年や水軍の協力によって、隠岐島の脱出に成功したのでした。
その勢いは足利氏をはじめとする日和見の武士に幕府への謀反を決意させ、鎌倉幕府による支配は音を立てて崩れ去ることになったのでした。
後醍醐天皇関連の資料を展示する碧風館では、万葉集がご専門の博識な学芸員さんが、後醍醐天皇の御事績を非常に分かり易く、様々なエピソードを交えながら説明して下さいます。 -
次に隠岐国一之宮の由良比女神社へ。
隠岐国には島前と道後それぞれに一之宮が鎮座しています。
地元の人々から由良比女大神と呼ばれるご祭神は、スサノオ命の娘神で大国主神の妻となった須勢利姫命のこと。
『古事記』によると、兄神たちから迫害を受けて何度も死の淵へ追いやられた大国主は、木の股から根の堅州国へと逃れることになります。
そこでスセリビメと出会い、心が通じ合った二人は結ばれることとなります。
あいさつに向かった大国主に対しスサノオは、頭の虱を取るという試練を与えます。
大国主がスサノオの髪の中を見ると、そこには恐ろしげなムカデが蠢いていました。
そこで大国主はスセリビメからもらった椋の木の実と赤土を噛んで吐き出し、ムカデを噛み潰しているようみ見せかけたのでした。
スサノオが安心して眠ってしまうと、大国主はその髪を垂木に固く結び、スサノオが所有する三種の神器、生太刀・生弓矢・天の詔琴を奪って、スセリビメを背負って根の堅州国を脱出したのでした。由良比女神社 寺・神社・教会
-
10月は別名、神無月と呼ばれています。
それは日本全国の神様が出雲の大国主のもとへ集まり、国の方針や人々の寿命などについて話し合うためだとされています。
ですから出雲国だけは10月を、神無月ではなく神有月と呼ぶのです。
由良比女神社の御祭神もこの会議に参加し、11月29日にお戻りなるとされています。
その際、神社の前の浜辺に多数のイカが打ち上げられるのだそうです。
現在は沖で行われるイカ釣り漁の影響で、滅多にイカが寄ることはなくなってしまったとのことですが、かつてはイカが寄ると、近所の人々はそれを見るために押し掛けたということです。 -
島前で予定していた行先は以上の2ヶ所。
残った時間をどう有効に使うべきか迷ったあげく、行ければよいと考えていた国賀海岸を目指すことにしました。
日没まではまだ時間に余裕がありそうだったし、思ったよりも距離が近いことが分かったからです。
下調べをしなかったため、駐車場はどこにあるのか、散策するのにどのくらい時間がかかるのかなど、詳しいことは何も分かりません。
とにかくスマートフォンの地図を頼りに行ける所まで行ってしまえと、山道を車で進みます。
するとその道の行き止まりに、目の前に見事な絶壁を抱く海が見えたのでした。国賀海岸 自然・景勝地
-
駐車場というよりは舗装された空き地のような場所に車を停めて、案内板を見ることにします。
他に車の姿はないので、この絶景は今この瞬間は自分一人のものということでしょう。
案内板によると遊歩道が整備されているらしく、ひと巡りすればたっぷり一時間はかかりそうです。
とにかく暑いので自動販売機で飲み物を調達し、それを持って海辺へと降りることにしました。
すると、歩けば歩くほど景色が変化し、更に先へと進みたい欲求が湧いてくるのです。
例えば、日没の太陽がその頂点に差し掛かるとローソクと炎のように見える観音岩を目指して歩くと、また別な岩が見えて来るのが楽しみとなるのです。
逆行となる位置関係なので、よりよい一枚を写すためにも、ますます先へと足は動いてしまいます。
この暑さで帰り道の登り坂を登り切ることが出来るのか、不安が頭をよぎります。 -
海水のある所まで降り切ってしまうと、岩をフナムシがチョロチョロ移動しているのが分かります。
駐車場から遥か遠くに見えた鳥居まで来てしまいました。
ここは国賀神社。
どのような神様が祀られているかは分かりません。
透明な海の水が、暑さを少しだけ和らげてくれます。 -
イチオシ
ここまで来てしまえば帰りに登る高さは同じなので、もう少し先へ向かうことにしました。
すると、海面にアーチ状にかかる岩のトンネルが見えて来ました。
通天橋と名付けられた岩です。
もし船で海に出ると、崖に洞窟が見えるそうです。
その洞窟が風雨によって次第に浸食され、やがて通天橋のようになり、更にアーチが崩れると観音岩のような縦長の岩になり、最後は消えてしまうのだそうです。
何万年もかけて起こる地形の変化が、ここではごく狭い地域で辿ることができ、さながら時間の旅を味わっているようです。 -
自然が生んだ地形の美しさを堪能した後は、日陰のない坂道を登って戻らなければなりません。
降りでは感じませんでしたが、登ってみるとなかなか急な傾斜で、一気に歩き通すのは無理でした。
呼吸を整えるために何度か休憩を入れながら、ようやく駐車場に到着。
車を走らせると、放牧されている牛を発見しました。
隠岐島には隠岐牛というブランド牛が飼育されていますが、これらの牛は隠岐牛なのでしょうか。 -
西ノ島で最後に訪れるのは焼日神社にすると決めました。
社殿は山の上にあるので、往復すればちょうど宿に入る時間になるという計算です。
山の上の社殿とは言っても、途中までは車で登ることが出来るので、気軽に参拝出来るものだと思っていました。
しかし車道の行き止まりの鳥居まで来てみると、その先はどこまで続いているか全く見当もつきません。
道はあるにはあるのですが、あまり人が歩いている様子ではなく、おまけに「マムシ注意」の看板まであります。
さてどうしようかと思案しましたが、このまま宿に着いても特にすることはないので、日が出ているうちは先を目指してみようと思いました。焼火神社 寺・神社・教会
-
道の両脇には木が生い茂っているため、国賀海岸の登り坂のように直射日光を浴びるようなことはありませんでしたが、傾斜はこちらの方が急なようです。
整備されている段々も、所どころ崩れてしまっており、気を付けて登らなければ足を踏み外してしまいそうです。
寄って来る蚊を手で払いながら15分ほど登ると、立派な石垣のある建物が見えて来ました。
まだ社殿ではなく、社務所のようです。
神主さんはいないものかと様子を探ると、中から突然物音がしました。
その正体は野良猫でした。
どうやら神主さんは不在のようなので、社殿へと向かいます。
焼火神社は「たくひ神社」と呼び、伝説によると海に現れた三つの炎が岩に飛び込んだのが始まりとのこと。
岩と一体となった社殿の装飾はほとんど剥げかかっており、自然の一部と化している様子でした。 -
降りの段々を軽やかな足取りで進んでいたところ、着地点にトグロを巻いたマムシを見てしまいました。
相手も驚いたらしく、慌てて逃げて行きました。 -
レンタカーは、先に約束していた通りに宿の駐車場に乗り捨て。
チェックインを済ませ、まずは風呂を使いました。
それから夕食となり、遠くから来たからと特別に用意してくれた岩牡蠣を出されたのですが、残念ながら牡蠣は一度中ってから食べられない体になってしまったのです。
隠岐の地酒を飲んで気分が良くなったところで、隣のテーブルの方と雑談を始めると、なんと師匠のご子息の上司だと分かりました。
打ち解けて話が盛り上がったため、お酒を次々に注文してかなり遅くまで飲んでしまいました。
部屋に戻ってからは東京の友人と長電話をしてしまい、結局眠ることができたのは午前2時過ぎでした。旅館 みつけ島荘 宿・ホテル
-
どんなに遅く寝ても、朝が来るのもフェリーが出るのも待ってはくれません。
翌朝、7時40分に別府港を発つのレインボージェットに乗って、島後に向かいました。
50分間の船旅ですが、高速艇のため甲板に出ることは出来ず、座席から窓越しに眺めを楽しみます。 -
島後の西郷港では、隠岐の島町議会議員のY先生が出迎えてくれました。
この度の調査活動に大きな力となって下さる方で、Y先生本人も神職をされています。
本当は午前中いっぱい案内をして下さる予定でしたが、急に神葬祭の依頼が入ってしまったため、最後まで案内できないとおっしゃって残念そうでした。
かえって当方こそ恐縮です。
レンタカーの手続きを済ませ、Y先生の車の後を追いかけて向かった先は、隠岐国のもう一つの一之宮、水若酢神社です。水若酢神社 寺・神社・教会
-
まず社頭で参拝し、社務所で呼び鈴を押すと、宮司さんが奥から出て来られました。
そして社殿周囲を歩きながら、神社の御由緒や歴史などを説明して下さいました。
平成の大合併によって島後は隠岐の島町一町に統合されましたが、それ以前は4つの自治体に分かれていました。
大合併以前、水若酢神社は五箇村に所在していましたが、五箇村は竹島も含む行政区だったのでした。
なぜ水若酢神社が一之宮に列することになったのかは今となっては定かではありませんが、宮司さんの解釈では、やはり国境を守る神様として尊ばれたのではないかということです。
御祭神の水若酢命という神様は、記紀神話には登場しません。
水若酢命とは造化三神や国常立命を奉じる隠岐の豪族の長であろうという説がありますが、本当のところはどうだったのでしょうか。
水若酢神社は水害などによって何度か遷座した経緯があり、現在地に鎮まった際に植樹された杉は社殿を取り囲むように茂っています。 -
現在の社殿は寛政7年に再建されたもの。
その様式は隠岐島にだけ見られる隠岐造で、屋根は大社造に似る一方、平面形は神明造に似ています。
茅葺の屋根は神宮の御遷宮と同じ20年に一度葺き替えられることになっており、宮司さんのお話では、茅葺そのものの耐久年限は20年が限度なのだそうです。
その後、社務所で、お茶を頂きながら歓談させて頂きました。 -
宮司さんに別れを告げ社務所を出ました。
次の予定が迫っているY先生ともここでお別れとなり、この後は単独での行動に戻ります。
水若酢神社の境内に隣接する、隠岐郷土館を訪ねました。
郷土館の建物は明治18年に建てられた旧郡役所庁舎で、もとは西郷町にあったものですが、明治100年記念事業として現在地に移されました。
内部には隠岐の島民の生活に深くかかわってきた漁撈や農耕などの道具の他、竹島が韓国に不法占拠される以前、日本人が上陸した際の写真などが展示されています。隠岐郷土館 美術館・博物館
-
イチオシ
島後には、島の南東に位置する西郷港から北西方向へ伸び、右へカーブして島の北から東側へと回り込む国道485号線が走っています。
水若酢神社も485号線沿いに鎮座していますが、更に北に進み、白島を見に行くことにしました。
その名の由来は、単に白い色をした島だからだと思いこんでいましたが、白島から布施まで小島を数えたところ99の島が確認され、「百」に「一」足りないことから「白」と名付けられたという説もあるのだそうです。
平安時代、小野篁が隠岐島に流された際に詠んだ
わたの原八十島かけてこぎいでぬと
人にはつげよあまの釣舟
は、ここ白島を見て詠まれた和歌だと考えられています。白島展望台 名所・史跡
-
イチオシ
同じ道を戻ってはおもしろくないので、国道485号線とX字に交わる県道316号線を通ることにしました。
その途中で見かけたのは杉の化け物。
かぶら杉という名前のこの杉は、樹齢650年と推定されていますが、みるべきはその異様な姿。
なんと根元から6本に幹が分かれて、それぞれが天に向かって勢いよく伸びているのです。
二又の夫婦杉や、三又の親子杉は見たことがありますが、さすがに六又は他にないのではないでしょうか。
かぶら杉の名の由来は、かつて武士が用いていた鏑矢の先にその姿が似ているからとのことです。 -
次に、国道と県道が交差する場所からほど近い隠岐国分寺を訪れました。
聖武天皇の勅願によって全国に建立された国分寺のうち、現在まで続く数少ない国分寺の一つです。
平成19年に火災によって本堂が焼失し、新しい本堂の建設工事が進められています。
火災の原因は不明となっており、放火の疑いもあるとのことです。
平安時代から続く隠岐国分寺蓮華会舞の面9面が失われてしまったことは非常に残念です。
文化財テロは決して許してはならず、また結果としてそれを容易にするような地方の衰退に歯止めをかけなければなりません。後醍醐天皇行在所跡 名所・史跡
-
隠岐国分寺は、後醍醐天皇の御所跡と考えられるもう一ヶ所の史跡です。
黒木御所碧風館の学芸員さんは、黒木御所こそが御所跡なのだといくつもの根拠を挙げて説明されていましたが、国分寺である根拠は『増鏡』や「頼源文書」などに示されており、国分寺は昭和9年(建武中興600年)、黒木御所は昭和33年に、国の史跡に指定されています。
至尊の方が生活された場所ですから、どちらかが全く無関係であるという可能性は、ゼロではなくてもかなり低いと考えられます。
よってどちらか一方は、御所へ動座される途中でお立ち寄りになった場所だと考えることが出来ると思いますが、警備がしやすいのは内陸に位置する国分寺の方のように個人的には思えます。 -
国分寺の受難は平成の火災だけではなく、明治の廃仏毀釈の際にも本堂や三重塔などが焼け落ちています。
建設中の本堂の裏には後醍醐天皇の御尊像が祀られておりますが、その手前右側には廃仏毀釈の際に破壊され捨てられた石仏が、物寂しく積まれています。 -
次に、水若酢神社と名前が似ている玉若酢命神社へ。
隠岐出身の師匠でさえ時々混同してしまうほどややこしい名前ですが、本土では聞き慣れないワカスという言葉には、隠岐の古代を知るための重要なカギがあるのかもしれません。
玉若酢命神社の御祭神は玉若酢命。
隠岐開拓のために景行天皇に遣わされた皇子、大酢別命の子が玉若酢命ではないかと考えられています。
玉若酢命の子孫は億岐氏を名乗り、隠岐国造として代々この地を治めて来ました。
国造を政治から遠ざける政策が実施されてからも、祭祀を行う家として存続したのは、出雲国造家と同じです。
現在の宮司は億岐氏の子孫で、Y先生が面会を申し込んで下さったのですが、都合が悪く実現しませんでした。玉若酢命神社 寺・神社・教会
-
随神門の脇には樹齢1000年あるいは2000年の八百杉が、枝を広げています。
八百杉の名前は、人魚の肉を食べて800年生きたという八百比丘尼の名から来ています。
若狭国から来た八百比丘尼が参拝した際に植えたという伝説が残り、現在は国の天然記念物に指定されています。
とにかくその迫力は言葉に言い表せません。
かぶら杉にも圧倒されましたが、八百杉はその上を行く姿で、恐ろしさすら感じます。
島後には他に乳房杉という、公孫樹のように枝が垂れ下がる杉があるとのこと。
同じ杉でもここまで姿が異なると、自然の力の不思議さに驚くほかありません。 -
玉若酢命神社の社殿も隠岐造。
何の根拠もないただの感覚ですが、社殿裏手の森はどことなく古墳のような雰囲気を漂わせています。
出雲の祭祀を調べる中で、古代の出雲国造の葬り方があまりに特殊なものであることに驚きを覚え、参考として隠岐国造はどうであったかを調べる予定でもありましたが、隠岐の古墳はほぼ全てが盗掘されてしまっているとのことでした。 -
億岐家には、律令時代に官吏が旅の身分証として携行した駅鈴が2口所蔵されています。
道に置かれた駅で官吏が駅鈴を鳴らすと駅子・駅馬・駅舟を調達できるという制度が日本全国に敷かれたというのですから、驚きです。
現存する駅鈴は、ここ億岐家に伝わる2口のみです。
それ以外の駅鈴は、制度が廃止された際に回収されて鋳つぶされたと考えられますが、隠岐は離島であったために回収の手が及ばなかったようです。
駅鈴は往復はがき(20円)の絵柄にも採用されていました。
ただし往信と復信では、色だけではなく駅鈴の向きが違っているということを、ここで初めて知らされました。
また、2口の駅鈴はその音色にも若干の違いがあり、それは録音で聞かせて頂きました。
手作りであったため、原料の量に差が生じることから、音色も異なるのだと思われます。
以前師匠から頂いた駅鈴のレプリカが、ここで販売されていました。 -
島後で予定していた目的地は全て回り、遅い昼食を取ろうと思って西郷港へ向かいます。
島で一番の繁華街なので、美味しいものを食べさせる店がたくさんあるだろうと期待して行ってみると、たしかに寿司や海鮮料理の店が並んでいるのですが、どこものれんを外しています。
午後2時過ぎは、隠岐島では昼食を出す時間ではないようです。
名物の海鮮丼を食べたかったのですが、営業しているのは小さな喫茶店しかなく、そこでありきたりの冷やし中華を食べることになりました。
レンタカーを指定の駐車場に乗り捨て、七類行のフェリーに乗り込むと、平日にもかかわらず二等席は横になるのがやっとの混み具合。
しかし寝不足だったため、騒音や人の気配など気にもせず熟睡してしまいました。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
37