2014/06/13 - 2014/06/16
66位(同エリア261件中)
倫清堂さん
諸国一之宮巡礼の旅も、終盤に差し掛かりました。
全国の一之宮を全て参拝することなど自分は本当に出来るのだろうか。
初めにそう思った一番の理由は、一之宮は離島にも鎮座していることでした。
逆に考えれば、一之宮巡礼を決意しなければ離島へ渡ることもなかったのかも知れません。
そういう意味では一之宮を巡る旅が離島の歴史や文化や人々との縁をもたらしてくれたと言うべきなのでしょう。
今回の日程は塾業を休業すると決めて間もない頃、昨年の時点で既に大まかな輪郭が描かれていました。
飛行機やフェリーから路線バスまで時刻表とにらめっこをしながら、最も効率よく、かつ無理のない旅程を考える作業は、頭の体操であると同時に心の洗濯にもなりました。
電車と違ってフェリーは便数が少ないので、どの便を利用するかでそれ以外の予定も大きく違いが生じます。
一ヶ月前まで微調整を重ね、ようやく出発の日を迎えました。
梅雨の時期とあり、出発地の仙台空港では大雨や霧の影響で前日まで欠航が出ていました。
出発当日も早朝は濃い霧が立ち込めていましたが、空港に着いた頃には視界も良くなって、飛行機は難なく離陸したのでした。
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仙台空港から約2時間かけて福岡空港へ。
いつもと同じ程度には揺れましたが、空には他に変わった様子はありませんでした。
しかしなぜか着陸はやり直しとなってしまいました。
飛行機を利用することは多いですがこれは初めての経験で、着陸がどのくらい遅れるのかがとても気になりました。
結果的に定刻で着陸出来たのですが、乗らなければならない地下鉄の発車までは余裕がなく、空港内を重いキャリーバッグを引っ張りながら走って移動。
電車に乗り込むと、ほどなく発車の合図が鳴ってドアが閉まったのでした。
電車に揺られること、やはり2時間ばかり。
終点の一つ手前にある唐津駅で下車しました。 -
まずこの重い荷物を預けなければどうにもなりません。
駅にはもう来ることはないので、大手口バスセンターまではコロコロ引きながら歩くことにしました。
バスセンターは喫茶店や書店などが入ったビルで、その1階にコインロッカーがありました。
バッグを収めて身軽になったところで、唐津の散策を始めることにします。
大手口という地名は、かつてここが城下町であった頃、唐津城の大手門があったことに由来しているのでしょう。
大手門の遺構がないものかと周囲を見ながら歩くと、バスセンターのすぐ横、堀の脇に櫓らしき建物を発見。
喜んで近くへ行ってみると、なんとその建物はトイレでした。 -
現在はお城風トイレが建てられているとは言え、ここが唐津城時代のメインストリートであったことは間違いありません。
この道をまっすぐ進むと、道は実は唐津神社の大鳥居に続く表参道であることが分かります。唐津神社 寺・神社・教会
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唐津神社にも九州北部の他の神社と同じように、神功皇后の伝説が残されています。
御祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神と、神田宗次公・水波能女命。
神功皇后は三韓征伐に赴く際にこの地で住吉三神に戦勝祈願を行い、凱旋後に神徳に感謝して宝鏡を祀ったとされます。
その後、天平勝宝7年に領主の神田宗次公が海中から宝鏡を発見し、これこそ言い伝えの宝鏡であろうと畏れて孝謙天皇に奏聞し、唐津大明神の神号を賜って神社を創建したのでした。
唐津が一年のうちで最も賑やかになる唐津くんちは、ここ唐津神社の例祭です。 -
隣接する曳山展示場には、唐津くんちで巡行する全ての曳山が展示されているということで、これを見ずに帰るわけには行きません。
自動券売機で入場券を購入し、いざ館内へ。
曳山は1番から14番まで全部で14基。
宵曳山と呼ばれる11月2日、全ての曳山が飾り提灯に照らされながら唐津神社の広前に勢揃いします。
翌3日の神幸祭にて、唐津大明神が神輿によって御旅所に神幸し、14基の曳山がこれに供奉します。
最終日の4日、翌日祭は神幸はなく、曳き子と曳山だけにために行われます。曳山展示場 美術館・博物館
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曳山はそれぞれ2トンから4トンの重量があり、木組みと粘土で原型を形作り、その上に和紙や麻布などを貼って形を整え、更に何層にも漆を塗ってツヤを出し、最後に金箔などを施して装飾するという、まさに動く芸術品です。
1番曳山が制作されたのは文政2年。
刀町の氏子たちによって、赤獅子が奉納されました。
どの曳山もそれぞれ特徴があり、ミニチュアにして家に飾っておきたいほどの愛着を感じさせるものなので、全てを紹介したいと思います。
2番曳山 青獅子(中町)
3番曳山 亀と浦島太郎(材木町)
4番曳山 源義経の兜(呉服町)
5番曳山 鯛(魚屋町)
6番曳山 鳳凰丸(大石町)
7番曳山 飛龍(新町)
8番曳山 金獅子(本町)
9番曳山 武田信玄の兜(木綿町)
10番曳山 上杉謙信の兜(平野町)
11番曳山 酒呑童子と源頼光の兜(米屋町)
12番曳山 珠取獅子(京町)
13番曳山 鯱(水主町)
14番曳山 七宝丸(江川町)
この日は3番曳山がどこかの施設に出張公開中、6番曳山が近くの西ノ門館で修理中で、留守でした。
また資料によると、かつては15基の曳山がありましたが、紺屋町の黒獅子は明治時代中期に損壊してしまい今はありません。 -
次の目的地の唐津城に向かう道の途中に、移築された藩校の中門がありました。
唐津藩の藩校は、水野氏が藩主だった時代は経誼館、小笠原氏が藩主だった時代は志道館と名称を変えますが、その両方で中門として利用された建物です。 -
唐津には、旧唐津藩時代の建物はほとんど残っていないとのことで、次に見た太鼓櫓も平成に入ってからの再現です。
太鼓櫓なのに時計が掛けられているのが変でしたが、その時計がちょうど2時を示した時に太鼓の音が鳴ってからくりが現れたのには更に驚きました。
タイミングよく通りかかったのも何かの縁と思い、人形がただ太鼓を叩く様子をしばらく眺めていました。 -
そしていよいよ唐津城の下までやって来ました。
現在天守閣の姿をして置かれている建物は昭和41年に完成した文化観光施設で、天守があったことを示す資料が存在しないのにもかかわらず、あればよかったのにという過去への願望が築かせた建物です。
「天守閣」が置かれている本丸に行く方法は、エレベーターか階段の2つ。
もう若くもないので上りはエレベーターを使うことにしました。
エレベーターとは一般的に垂直に上へ向かう乗り物で、これまで乗ったエレベーターの全てがこの原則の通りでしたが、唐津城のエレベーターは斜め上に進む珍しいタイプのものでした。唐津城 名所・史跡
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イチオシ
「天守閣」の内部には、歴代藩主ゆかりの品や唐津焼の作品などが展示されています。
最上階へ上ると、虹ノ松原を一望することが出来ました。
虹ノ松原は唐津駅より手前の虹ノ松原駅で降りれば歩いて行けたのですが、時間に余裕がなかったのと、何より上からの景色を楽しみたかった理由で、今回はそちらへでは降りませんでした。
虹ノ松原の右手に見えるのは鏡山。
佐用姫伝説の舞台です。 -
虹ノ松原は唐津藩初代藩主の寺沢広高公によって植林され、およそ100万本の黒松が海からの風を防ぐことで、この地で農業が安心して営まれる礎となったのでした。
寺沢家2代の後は大久保氏2代、松平氏3代、土井氏4代と藩主は変遷し、次の水野氏の4代目に、天保の改革を行った水野忠邦公が出ます。
忠邦公は藩主としてよりも幕閣としてのし上がりたいという野望が強く、25万石の唐津藩主の地位を棄て、15万石の浜松藩への転封を自ら願い出たという変わった人物でしたが、その努力が実って後に老中の地位へと昇ることが出来たのでした。
一方で棄てられたのも同然の唐津の人々の間では、今でも忠邦公の評判はとても悪いようです。
下りはエレベーターではなく階段を利用し、今や葉っぱだらけとなった藤棚などを見ながらもとの場所へ。
次の目的地へは、別な道を通って行くことにしましょう。
早稲田佐賀高校との敷地の境は見るからに古い石垣になっています。 -
そのまま細い道を歩いて行くと、唐突に右手に豪華な邸宅が現れます。
国の重要文化財に指定される、旧高取家住宅です。
結論から言いますと、これまで旅先で様々な近代以降の邸宅を見て来ましたが、この高取家住宅に匹敵する規模の邸宅はありません。
この邸宅を建てた人物は、杵島炭鉱などの炭鉱主であった高取伊好氏。
嘉永3年に多久藩士の三男として生まれ、9歳で高取家の養子となりました。
明治4年に上京して慶應義塾に入学。
翌年には工部省鉱山寮に入寮して鉱山学を学び、明治7年に高島炭鉱に入社しました。
その頃知り合った人物に、大隈重信や岩崎弥太郎などがいます。
明治18年に独立し、数々の炭鉱を開き日本の石炭産業における第一人者になったのでした。旧高取邸 美術館・博物館
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高取邸内部は写真撮影が禁止されており、かえって案内役の職員の方の説明をじっくり聞くことが出来ました。
敷地はおよそ2300坪。
そこに居室棟と大広間棟が一体として、大邸宅は建てられています。
居室棟には洋間と書斎に暖炉が設えられていて、外からも2本の煙突が見えます。
洋間と台所以外は和室で、贅沢を好まなかった高取氏の意向から、意外にも質素に造られています。
ただし仏間だけは例外で、床は他の部屋より一段高く、寺の本堂かと思われるような荘厳な仏壇が造りつけられています。
仏壇に施された鼓や笙の彫刻は、雅楽が好きであった故人を偲んでのものだとか。
大広間棟は2階建て。
2階からは宝当神社が鎮座する高島や海が望めます。
そして高取邸の目玉とも言える能舞台。
橋がかりはないものの、謡方や囃子方が座るための小部屋が左右に、鏡松が描かれた金屏風が背後に置かれています。
邸宅内に能舞台が現存するのは、国内では唯一この高取邸のみであるとのことです。
唐津を訪れる際は、曳山展示場とあわせて必見の場所です。 -
大手口バスセンターに戻ると、1時間に1本もないフェリーターミナル行きのバスがもうすぐ来る時間です。
乗る予定の便より一本早いのですが、万が一のことを考えて早めにへりーターミナルに向かうことにしました。
乗り場の周囲には何もなく、2階に小さな売店とテレビが置かれているのみ。
1階の切符売場は時間外とあって営業すらしていません。
出航の時間まで2時間近くありますが、ワールドカップの試合を見ながらビール片手にのんびり待つことにしました。
程よく酔ったところで切符販売開始のアナウンスが流れ、その後しばらくして壱岐印通寺港行きのフェリーが入港。
およそ1時間半の船旅はあっという間に終わり、港まで出迎えてくれた車に乗ってこの日の宿へ。
ひさしぶりの共同風呂でしたが貸し切り状態で、旅の疲れをしっかり洗い流しました。 -
疲れのためかすぐに眠れたものの、なんだか身体のあちこちが痒いと思って目が覚めたら、何カ所も蚊に喰われていました。
部屋に備え付けのノーマットをセットしておけばよかったと後悔するも遅く、部屋を明るくして腕をまくり、腕を囮にして蚊を誘い出し、なんとか退治。
これで安心して眠れると思い、電気を消して布団に入ると、ほどなくまたあの不快な羽の音。
一匹ではなかったのかと再び明かりを灯すも、今度はそう簡単に姿を現してくれません。
10分ほど待ってもついに退治出来ず、布団を被って寝ることにしました。
痒さもあって、朝食の時間より早く目が覚めてしまいました。
部屋にいるよりも、少しでも壱岐にいる時間を有効にと思い、旅館の周辺を歩いてみると、唐人神と書かれた標識を発見。
民家の敷地かと思われるような場所の小高い丘にひっそりと置かれた石の祠と、それとは逆に存在感のある男根の石造がありました。
中世の頃、浜に唐人の下半身が打ち上げられたため、地元の漁師がそれを祀ったところ、腰の下の病や良縁、安産などにご利益があったので、それ以降現代まで大事にされているのだとか。 -
散歩を終えて宿に戻り、しっかり朝食を頂いていよいよ隠岐散策に出発。
レンタカーの営業所も確認しておきましたが、宿のおかみさんが連絡してくれたために配車してくれました。
最も近い目的地を目指そうと思うのですが、地図やインターネットで調べても詳しい経路が分かりません。
レンタカーを届けてくれた方に、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墓はどこかと尋ねても、全く知らないと言われます。
そこで言い方を変え、遣新羅使の墓はと尋ねたところ、それなら知っていると即答を得ました。
しかしおおよその経路は分かったものの、所在地は道路からかなり奥まった場所にあるとのことで、近くまで行ったら店の人にでも訊いてくださいと言われました。
言われたとおりに進むと標識が目に入りました。
その示すとおりに車を走らせますが、やがて車も通れないような細い道になってしまいました。
なんとか行き違えるだけの幅のある場所に車を停め、ちょうど通りかかった農家の方に尋ね、ようやくその場所へとたどり着くことが出来たのでした。
雪連宅満はここ壱岐出身の占術家で、朝廷の命によって新羅へ派遣が決まるも、道半ばにして病に斃れ、故郷の壱岐に葬られたのでした。
古代には日本と朝鮮半島を結ぶ最も往来が激しい交通路であった壱岐と対馬を歩くのが、今回の旅の一番の目的です。 -
次の目的地は壱岐市立一支国博物館。
開館の9時までまだ少し余裕があるので、原の辻遺跡に寄ることにしました。
観光バスが一台停まっており、復元された建物には集団が群れています。
原の辻遺跡は、魏志倭人伝に記載される「一支国」の王都ではないかと見られています。
国の特別史跡に指定される3つの弥生時代の遺跡の一つで、出土品の千点以上が国の重要文化財に指定されています。
最も高い場所は、祭祀など重要な行事が行われていた場所なのでしょう。
祭器の倉や食料の倉が置かれています。原の辻遺跡 名所・史跡
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ひときわ背の高い櫓も見えます。
これらは復元された建物なので、実際のものとどの程度同じなのかは分かりませんが、やはり外敵の侵入には気を付けていたのでしょう。
発掘された出土品には土器が多く、朝鮮半島から伝わったと考えられます。
しかし鍛冶関連施設があった痕跡もあり、これが事実だとすると日本における金属器鋳造の起源は一気に数百年も早まるとのことです。 -
開館時間となったので、博物館へ向かいました。
今回は明確な目的があって訪れたのですが、専門的知識のある職員は不在とのことで、目録などを見せてもらうだけに留まりました。
しかし午後には出勤するかも知れないとのことで、間に合えばもう一度来ようと考え、一度ここを離れることにしました。一支国博物館 美術館・博物館
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壱岐は神社密度が高い土地だと言えます。
130平方キロ程度の島に、1000社以上もの神社が鎮座しています。
『延喜式』に記載される神社が24社あるというのも、他の国に比べると密集度は高いと言えます。
それらのいくつかを訪ねて感じたことは、どの社も土地の人に大事にされているものの、甦りを待っているということでした。
貿易の中継点であった時代と違い、壱岐は現在、漁業と農業が産業の中心で、その担い手は高齢化しています。
若者が故郷で活躍できるような環境の整備を、政府は本気で取り組まなければなりません。
次に訪れた與神社も、壱岐国一之宮の論社であるにもかかわらず、神職が常駐していない寂しい神社でした。
「こう神社」という名前は、国府が置かれていた場所に鎮座していることを暗示しており、それだけでも一之宮であるという根拠が説得力を持ちます。
『延喜式』に記載される與神社に比定されています。
主祭神は足仲彦尊息長足姫尊、すなわち神宮皇后です。
実際に訪れてみなければ分からないことですが、この土地に鎮座しているという存在感がものすごく伝わって来るお宮です。 -
壱岐には城跡もいくつか所在し、亀丘城跡もその一つです。
裁判所や小学校などがある地区のこんもりとした丘が亀丘城跡で、現在は公園として整備されています。
天守へ登る入口には、日蓮上人の像が立っていました。
鎌倉時代末期、元軍の侵攻から島を守るために波多宗無が築城したと考えられています。
波多氏は源氏の流れで秦氏とは直接関係はなさそうですが、波多郷を領有したことで新たに波多氏を名乗ったとのことですから、秦氏はこの地にも住んでいたと考えることを間違いであると言い切ることは出来ません。
逆に神社の多さ、それぞれの神社の由緒などを考慮すると、秦氏の影響があったと捉える方が自然です。 -
次に、現在は壱岐国一之宮を名乗っている天手長男神社へ。
レンタカーのナビには登録されておらず、標識などを頼りに探しながら走ったところ、天手長比売神社跡にたどり着いてしまいました。
天手長比売神社も明神大社ですが、昭和40年に天手長男神社に合祀され、跡地では祭祀は行われていません。
御祭神は?幡千々姫命など5柱の女神。
?幡千々姫命は高皇産霊の娘神で、戸隠神社の火之御子社にも祀られています。
天手長男神社は、天手長比売神社跡からすぐの所に鎮座していました。天手長男神社 寺・神社・教会
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御祭神は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、天鈿女命、天手力男命。
與神社は平地に鎮座していましたが、こちらは標高の高い場所に鎮座しています。
神主さんの姿が見えず、ここも常駐していない寂しい神社なのかとその時は思いましたが、あとで別な神社でそのことを話すと、神主さんはたまたま一之宮会の催しに参加していて不在だったとのことでした。 -
次に訪れたのは壱岐国総鎮守の住吉神社。
やはり神功皇后の三韓征伐と関わりを持つ神社で、全国に数ある住吉神社の中でも最も古く、旧社格は国幣中社に列せられます。
境内には町の天然記念物に指定されるクスノキや、根元から二股に分かれる夫婦楠など、おそらく古代からほとんど変わらない姿で鎮守の森を形作っています。住吉神社 寺・神社・教会
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御祭神の住吉三神は、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をした時に生まれ出た神で、底筒男神・中筒男神・表筒男神はそれぞれ、水の流れの深い所・中間・浅い所で生まれたとされます。
筑紫の日向の橘の小戸の檍原の場所は今でも定かではありませんが、私は福岡市西区の小戸ではないかと考えています。
住吉三神の加護によって三韓征伐を無事に果たした神功皇后は、功績のあった臣安倍介麿に壱岐島を賜り、大宮司として末代まで異国の降伏と国家の安泰を祈願するよう神事を授けたと伝えられます。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」には、伊吉嶋造として上毛布直の名がありますが、これは後の人によって付け加えられた記事であると思われます。
それよりも筑志国造に阿倍臣の名が見え、住吉神社の大宮司との関係が疑われます。 -
次の目的地へ向かう途中、気になる場所を発見。
壱岐島内でも最大級の横穴式石室古墳で、鬼の窟と呼ばれています。
近くには国分寺跡や、磐座とも思われる「へそ石」などがあり、壱岐の中でも特に重要な場所であることが分かります。
島内には260基もの古墳が確認されており、古代壱岐国の文化度の高さに驚かされます。 -
次に訪れた月讀神社も、その由緒は驚きの内容です。
月読命を祀る神社は国内でもそう多くはなく、今も謎に包まれた神とされています。
月讀神社の御祭神は月夜見命・月読命・月弓命の三神で、おそらく月が持つ様々な性格のそれぞれを神格化したものと考えられます。
第23代顕宗天皇の御代、阿閉臣事代という人物が天皇の命によって任那へ赴き、月の神の託宣を受けます。
ここにもアベさんが登場しますが、託宣の内容は月の神を祀れという内容で、住吉三神とは関係ありません。
そのことを朝廷に報告すると、朝廷は壱岐県主の押見宿禰に命じ、月の神を京都に分霊させたのでした。
それが松尾大社の摂社、月読社であると伝えられています。 -
そろそろ腹も減って来た頃なのですが、食堂どころかコンビニの一軒も見つかりません。
今日の行動を始めて間もなくポプラを見たことは見たのですが、昼食のためにそこまで戻るのもどうかと思い、先へと進むことにしました。
次に訪れたのは勝本城跡。
豊太閤が朝鮮征伐に赴く際、名護屋城と目的地の朝鮮半島を結ぶ海路に兵站基地を築かせた、その中の一つです。
公園とは言っても、当時を偲ばせる遺構は何も見られず、ただ雑草が生い茂るだけの空しい広場となっていました。
しかしここには直接城とは関係のない、ある人物の墓があります。
それは松尾芭蕉とともにおくのほそ道を歩いた河合曽良。
この旅に先立って司馬遼太郎の『街道をゆく』13巻を読み、これまで知らなかった沢山のエピソードに感激したのですが、特に驚いたのは曽良が吉川惟足から吉川神道を学んでいたという事実でした。
神道を研究する者にとって、古代史の謎に満ちた壱岐はとても魅力的であったことは想像に難しくありません。
自分自身もその一人だからです。
曽良は幕府の巡見使随員に加えられますが、壱岐に入ったその日に病に伏せり、海産物問屋の中藤家に一人残されます。
そのまま病に打ち勝つことが出来ず、中藤の人々の介抱も空しく死去。
勝本城のふもと、中藤家の墓所に葬られることとなったのでした。河合曽良の墓 名所・史跡
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この島の人たちはどこで食事をしているのだろうかと訝るほど、外食できる店は全く見当たりません。
海の見える集落に出ました。
ここは勝本港。
釣り客などの姿の多く見られるのでようやく空腹とお別れできそうです。
食事の前に、壱岐国二之宮の聖母宮に参拝。
神社の名前ともなっている聖母とは、御祭神の神功皇后のこと。
言い伝えによれば勝本港は、本土から壱岐に上陸した神功皇后の一行が、次の対馬に向けて出港した港であるとのこと。
ここで風を待ったために風本という地名がつけられ、後に転訛して勝本になったとされます。
境内から少し歩いた所には、神功皇后の御乗馬の足跡が残る馬蹄石があります。 -
ようやく一軒の食堂を見付け、おそるおそる扉を開けると、昼食時からだいぶ時間が経っていましたが営業中とのこと。
他には客の姿もなく、少し申し訳ない気持ちで刺身定食を頼みました。
壱岐の散策も後半に入り、そろそろ船の出航時刻を考えながら行動しなければなりません。
食事を終え、気分を新たに出発。
県道沿いに鎮座するいくつかの神社と、元寇殉国者の忠魂碑に参拝しました。 -
計画の段階で、そこまで行く時間があるかどうかのボーダーライン上にあった場所があります。
山の頂に鎮座する男岳神社。
式内社のような由緒はありませんが、たくさんの猿の石像があるとのことで、その変わった雰囲気を味わいたい気になりました。
車を借りてはいるものの、山に登るというのはとても大変なことなので、余程時間に余裕がない限り参拝出来るものではないと思いましたが、実際に壱岐に上陸してみると、県道から10分も行けば頂きまで登りつめることが出来る小さな山だということが分かりました。
問題の石猿群ですが、御祭神が猿田彦命であることから、崇敬者がそれぞれ何かしら願いをこめて奉納したものが、年月を過ぎて大規模な集まりになったようです。
近くには女岳山もあり、古くから信仰の山として崇められて来たとのこと。男嶽神社と石猿群 寺・神社・教会
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男岳神社のすぐ隣に展望台があったので登ってみました。
壱岐の大自然が眼下に広がっています。 -
壱岐島内で最後の目的地、壱岐神社に着いてしまいました。
気付いてみたら予定していた時刻よりも1時間半も早く着いたのです。
これはもしや一支国博物館へもう一度行くことが可能なのではないか。
そう期待しながら、せっかく来た神社で見落としのないように、心を落ち着けて境内へと進みました。
壱岐神社も壱岐島内では新しい方の神社で、御祭神は亀山天皇、後宇多天皇、少弐資時公。
亀山天皇と後宇多天皇は、蒙古襲来の頃に御在位中だった天皇、弘安の役で没した武将です。
また、先の大戦で散華した壱岐郡出身の御英霊1954柱を合祀しています。壱岐神社 寺・神社・教会
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少弐氏は藤原北家の流れで、武藤資頼が太宰少弐に任じられたことで、後継ぎの資能から少弐を名乗りました。
太宰少弐は九州の鎮護を任された役職なので、元軍の襲来に対して日本を守る最初の壁にならなければなりません。
その時に少弐であった経資は士気を高めるため、わずか12歳の次男資時を壱岐へと遣わしたのでした。
この時の元軍は約3万。
たった数百の軍では防ぎきれるわけもなく、壱岐も対馬も元軍によって踏み荒らされてしまいますが、神風が吹いたことで元軍の船がことごとく海に沈み、ようやく守り切ることが出来たのでした。
しかし元軍は執拗に日本を狙い、弘安4年には14万という大軍勢で再び島を襲いました。
この時の戦いで資時公はわずかな手勢を率い、まるで軍神のように次々に敵を屠りますが、多勢に無勢でついに力尽きたのでした。
しかし再び神風が吹いて敵が退散したことは、日本人なら誰でも知ることです。
壱岐神社の裏手、少弐公園には、資時公の墓があります。 -
その少弐公園に資時公の像があるとのことなので、しばらく歩いて探したのですが、どうしても見つからず諦めることにしました。
それほど広い島ではないので、これから博物館を再訪して学芸員さんのお話を伺い、戻って来たとしても、船に間に合いそうです。
船の乗り場は少弐神社からすぐの芦辺港。
直前に迷ってはいけないと思い、下見だけはしておくことにしました。
駐車場はいっぱいなので道路に車を停めると、なんと目の前に資時公の像があるではありませんか。
また乗り場の受付で確認したところ、対馬へ向かうジェットフォイルは少し離れた別な乗り場から出航とのこと。
下見をして正解でした。 -
一支国博物館へ入り、受付の女性に事情を説明したところ、やはり午後になって出勤して来た学芸員さんを呼んでくれました。
まだ若い学芸員さんで、知りたかったことの他にも参考になりそうなことを一つ一つ丁寧に教えて下さいました。
結果としては、予想していた資料はまだ発掘されていなかったのですが、今後の調査によって出土する可能性もあるとのことで、今の時点で出来ることは全てやった満足感がありました。
芦辺港へ向かい、対馬行きのジェットフォイルへと乗り込みました。 -
ジェットフォイルではシートベルトは必須のようです。
船内の案内放送では、最近運航中に海中の生き物と衝突し、その衝撃で怪我をした乗客がいたとか。
速く移動出来るのはありがたいのですが、外に出て海の風に当たるようなことは不可能で、ただビールを飲みながら流れる景色を眺めていました。
ほどなく見えて来た島が対馬。
しかし島というよりも海の上の山の集まりと言った方がより正確な情景です。
砂浜はまったくなく、リアス式海岸のように入り組んだ入江が重なり、その陸の部分が尖った山のように屹立しています。
厳原港に到着しても、やはり目の前は山。
海と山の間に道路があるような、そんな港でした。
今夜の宿までは徒歩10分。
荷物を引っ張りながら繁華街を歩くと、日本語とは違って非常に硬く激しい音の言葉があちこちから聞こえて来ます。
国境の島、対馬は噂通り韓国人ばかりでした。 -
イチオシ
夕食・朝食のない素泊まりプランでしたが、幸い近所にコンビニがあったので飢えずに済みました。
朝食を終え、厳原の繁華街をフェリー乗り場の方へ向かって歩き、予約していたレンタカーをガソリンスタンドで借ります。
そして対馬での行動を開始。
対馬にはもう一泊しますが、レンタカーを返却する18時が自由に動けるリミット。
予定では遠い場所から訪れることにしていましたが、昨夜の繁華街で韓国人の群れを見て考えを変えました。
韓国人観光客が押し寄せないうちに、彼らに人気の場所に行ってしまうことにしました。
それは和多都美神社。
海に浮かぶ鳥居から社殿まで一直線につながる参道が美しい、まさに海の国の神社です。和多都美神社 寺・神社・教会
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対馬の道路を走って思うのは、やたらとトンネルが多いこと。
大きな道路は島を一周するように走る海岸沿いの道しかないのですが、起伏が激しいためにトンネルが次々に現れるのです。
そして気になったのは、地元の車の半分以上がライトを点灯させずにトンネルを通行しているということ。
たしかに点けたり消したりは面倒ですが、ドライバーは最低でもルールを守るべきです。
1時間半ほど走り、ようやく目的地に到着すると、既に真っ赤な観光バスが停まっているのが見えました。
しかし境内に集団の姿はありません。
入口に澄んだ水をたたえた池があり、その中央には三柱鳥居が立っています。
その奥には、神社が造営されるよりずっと前から祭祀が行われていた磐座があります。 -
和多都美神社の社殿では、その創始は神代に遡るとされ、もともとこの地を治めていた海の神である豊玉彦尊の宮殿が置かれた場所でした。
豊玉彦尊には一男二女の子がいて、男神は穂高見尊、二女神は豊玉姫命と玉依姫命といいました。
高天原から天降った天孫ニニギ命の子、ヒコホホデミが釣り針を探して訪れた場所がここで、その際に出会った豊玉姫命と結婚してウガヤフキアエズ命を生みます。
ウガヤフキアエズ命の子こそが初代神武天皇となるイワレビコ命なので、豊玉姫命は神武天皇の祖母ということになります。
そんな神話が頭をよぎった時、社殿の裏手から姦しく傍若無人な集団の声が聞こえて来ました。
どうやら韓国人観光客が現れたようです。 -
彼らは社殿の前でも拝礼ひとつするでもなく、ただ興味深そうに見たり触ったりするだけで、もちろん賽銭を入れる者などは一人もいません。
彼らに見えるよう、厳粛な態度で参拝をしましたが、こちらの気持ちが全く通じないのか、とにかく雑談が止まらない様子で五月蝿いことこの上ない。
たまらなくなって彼らが来た社殿の裏へと逆に向かいました。
もう一人の韓国人も残っておらず、清新な雰囲気を取り戻しています。
そこには豊玉姫之墳墓と刻まれた石が置かれていました。
豊玉姫は出産の際、本来の姿であるワニに戻っているのを夫に見られてしまい、産まれた子を残して海の国へと帰ってしまいます。
その子、ウガヤフキアエズ命は豊玉姫の妹の玉依姫に育てられ、後に二人は結ばれることになるのですが、実家へ戻った豊玉姫はここで生涯を終えたということでしょうか。
それよりも謎なのが、なぜ韓国人観光客が日本神話の神の墓を見るために押し寄せるのかです。
自分たちの歴史を都合よく捏造するために日本の神話が利用されるのだとしたら許せません。 -
海上の鳥居が見える海岸に、題も作者も記されない銅像が置かれていました。
手に玉を持っていることから豊玉姫の像のようにも思えますが、なぜか来ているのは和服。
あるいは豊玉姫とは全く関係のない人物かもしれません。 -
イチオシ
事前の下調べによると、和多都美神社の近くにある烏帽子岳は対馬で一番の眺望ポイントとのこと。
10分ほど山を登ると、展望台がありました。
壱岐の眺めもよかったですが、対馬はまた違った海と島の配置が目を楽しませてくれます。 -
更に北上を続け、対馬国一之宮の海神神社に到着しました。
厳原からかなり遠くまで来たことになります。
社務所には人の姿がありませんが、神主さんの電話番号が書かれていたので連絡してみたところ、来て下さるとのこと。
到着まで時間があるので、御朱印帳を置いて参拝するよう指示されました。
海神神社の御祭神は、豊玉姫命・鵜葺草葺不合命・神功皇后・応神天皇。
豊玉姫命と鵜葺草葺不合命、神功皇后と応神天皇という組み合わせは、それぞれ母子であるというのが面白いです。
創始については不明ですが、おそらく和多都美神社同様に神代に遡ることでしょう。
神功皇后が三韓征伐を終えてお帰りになった時、浜に八本の幡を立てたことから、八幡宮の創始の地と言われています。海神神社 寺・神社・教会
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イチオシ
社殿は原生林の伊豆山中腹に鎮座。
伊豆山のイズとは、神に仕えるという意味の「齋く」という言葉からつけられたと考えられ、広島宮島の厳島神社と同じ語源です。
対馬で最も大きな街の厳原も、同じ理由で名づけられたのかも知れません。
ちょっとした登山気分で石段を上り、汗ばんで来たちょうどその頃に社殿が目の前に現れます。
森閑とした境内には人の姿は全くなく、韓国人観光客もここまで離れた所には来ないのかと思いました。
しかし神社にとっては実に残念なことが韓国人との間に起きてしまったのです。
それは神社が所有する銅造如来立像(重要文化財)が韓国人窃盗団の手によって盗まれ、韓国政府によっていまだに返還を拒まれ続けているという事件です。
宝物殿に侵入し、特殊ガラスを割ろうとして果たせなかった犯人は、ケースの鍵をこじ開けて大切な仏像をさらって行ってしまいました。
人口減少が急加速する離島で、韓国人観光客がいなければ経済が回らないという現実が、このような残念な事件の背景にあると言えます。
要するに日本政府にも責任があるということです。
参拝を終えて社務所に向かうと、人のよさそうなご婦人が見えていました。
早速御朱印をいただき、神社の由来などをうかがい、他に見るべき場所についていくつかご教示いただきました。
尖閣諸島を購入するために東京都に寄せられた寄付金は、離島を守るための基金として利用されるのがよいような気がします。 -
海神神社の神主さんのお話では、更に北へ向かうと、晴れた日には朝鮮半島が見える展望台に行くことが出来るとのことです。
しかし敢えて朝鮮半島を見る必要は全くないので、他に勧められた野生生物保護センターへと向かうことにしました。
途中で一軒の食堂を見付けましたが、営業していませんでした。
どうやら前日と同じように空腹の状態での旅になりそうです。
対馬野生生物保護センターは、大きい道路を外れた生活道路から更に山道を登って行き、木の他に何もない道路を不安になるくらい進んだ先にありました。
入館料はありませんが、居住地や来館回数などのアンケートに協力を求められました。
それを書き終えて展示へ進もうとすると、職員の方がちょうど餌やりの時間だと教えて下さったので、その様子を見られる場所へと向かいました。
ガラス越しの野外で飼育されているツシマヤマネコが、飼育員が近くまで来ている気配を敏感に感じ取り、落ち着かない様子でいました。
ツシマヤマネコはペットとして飼われている猫とほとんど変わらない大きさですが、尻尾が丸く大きいのが特徴です。
日本では対馬にしか生息していない野生のネコですが、開発が進んだことで生息数が激減し、1994年には国内希少野生動植物種に指定されました。
やはり車による事故によって死んでしまう数が多いようですが、野生化した猟犬やペットに襲われて命を落としたり、ネコエイズなどの病気になったりする他、農家が鶏を守るために仕掛けたとらばさみによって傷つけられる数も多いそうです。
それら全ての原因は人間にあるとは、なんとも情けないことだと思います。
開発最優先・経済最優先という近代以後の歪んだ価値観は、すぐにでも改めなければなりません。対馬野生生物保護センター 動物園・水族館
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明るいうちに厳原へ戻りたいと思っているので、これ以上遠くへは行かずに厳原へ戻ることにしました。
空港の近くでようやく一軒の食堂を発見。
訪ねてみると対馬名物のろくべえを出してもらえるとのことなので、早速注文。
ソバのような麺ですが、色は真っ黒。
歯ざわりはプルンプルンで蒟蒻のようです。
一体何が原料なのか調べてみると、サツマイモで作られているとのこと。
つなぎは用いないため、一本一本はそれほど長くはなく、啜って食べるというよりは箸でつまんで食べる感じです。
スープは好みのあっさり系だったので、珍しく全て飲み干してしまいました。 -
長い移動を終えて厳原へ戻ったので、厳原八幡宮神社へ参拝に向かいます。
広い駐車場があって「有料」と書かれていましたが、支払いをしようとすると受付の方に断られました。
厳原八幡宮神社は少し登った場所に鎮座しています。
そこまで石段は3列もあり、石段と石段の間のスペースが競技場の客席のように広々と整備されています。
昔からこのような場所だったのでしょうか、謎です。厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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対馬には上・中・下の3つの八幡神社があり、下津八幡が明治維新以後に厳原八幡宮へと名称を変更しました。
ちなみに上津八幡とは海神神社のことで、中津八幡は対馬中央部に鎮座しているようですが、神社の名称は時代によって変化しているため、正確なところは不明です。
神功皇后が半島へ赴く最後の寄港地であったことから、八幡信仰が盛んであることは頷けます。
海神神社もその御祭神から、かつては八幡宮として信仰されていたと考えられています。
その海神神社に(盗まれてしまった)仏像があったのと同様に、中津八幡には火中痕のある新羅仏が、下津八幡で現在の厳原八幡宮には等身大の釈迦像が収められています。
これらは朝鮮半島由来であることに間違いありませんが、日本が力ずくで奪ったような事実はなく、朝鮮半島で仏教弾圧が行われた時代に心ある日本人が、不要なら引き取ろうという善意によって持ち込んだものです。
我が国の明治初期における仏教弾圧は恥ずべき歴史ですが、半島ではより激しい弾圧が行われたことは事実であって、日本が仏像を引き取らなければこれらは全て灰となって消えていたでしょう。 -
次に厳原八幡宮のすぐ近所、対馬歴史民俗資料館へ向かいました。
対馬に残る伝承について情報を集めることが目的です。
しかし期待した情報については断片すらなく、展示をざっと見るだけとなりました。
野生生物保護センターと同様に入館料は無料でした。長崎県立対馬歴史民俗資料館 美術館・博物館
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前日とは違う宿に宿泊する予約を取っていたので、荷物を預けて車を返すためにそこへ向かいました。
この日の宿は西山寺が経営する宿坊で、ユースホステルを名乗っています。
ユースホステルは相部屋が当たり前の木賃宿のようなイメージでしたが、通された客室はエアコンやユニットバスのある洋室で、ビジネスホテルよりも広々としていました。
車は駐車場に停めておいて構わないと言われたので、最後の目的地にはここから歩いて行くことにします。
本堂で御本尊に対し合掌し、出発しました。宿坊対馬西山寺 宿・ホテル
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西山寺から近道を通れば、先ほどの歴史民俗資料館はすぐ。
そこから山の方へと向かうと、櫓のような建物が見えました。
ここは金石城跡で、櫓は平成8年に再建されたもののようです。
金石城は戦国時代、宗氏に内乱が起きた時に建てられた城。
宗氏は平安時代に力を持っていた惟宗氏の流れで、対馬に勢力を張っていた阿比留氏を倒して実権を握ってからは一文字の宗を名乗るようになりました。
朝鮮半島との交易によって力をたくわえ、農地の少ない対馬の統治は明治維新まで続きました。 -
宗氏と朝鮮王家との交流は明治維新以後も続き、昭和6年には宗家第37代武志氏と朝鮮王朝第26代高宗の王女との間で結婚が成立しました。
しかし日本の敗戦後は独立した朝鮮では、李家が二人の離婚を強く主張し、愛情の絆で結ばれていた二人はやむなく離別することとなってしまいます。
日本と朝鮮の友好関係を傷つけるのはいつもどちらの側なのか、冷静に省みてほしいと思います。 -
更に進むと宗家の菩提寺である萬松院。
元和元年に宗家第20代義智公の菩提を弔うため、嫡子の義成公が建立しました。
義智公は対馬中津藩の初代藩主で、豊太閤の命によって朝鮮との交渉に当たりました。
太閤の目的は明の征服であって、朝鮮にはそのための先導を果たしてもらう算段でしたが、明の冊封国であった朝鮮がそれに従うはずもなく、交渉は決裂してしまいます。
朝鮮出兵は太閤の死によって中断され、その後の関ヶ原の役で義智公は西軍につきますが、勝利した家康公は朝鮮半島との交流の実績を認めて、宗氏の対馬支配を続けさせたのでした。
堂宇のほとんどは火災によって改築されましたが、山門のみは桃山時代の様式を今に伝えています。 -
イチオシ
拝観料を納め、墓所へと続く石段を登りました。
途中、右手には下御霊屋と中御霊屋があり、最頂部には上御霊屋が広がっています。
上御霊屋には19代から32代と36代当主の墓と、何名かの夫人・童子の墓が置かれています。
そして萬松院の建立より前からあったという大杉が、宗家の繁栄の歴史を見つめるようにしっかりと根を張っています。
これからますます難しい時代になることが予想されますが、日本は国として許せるところは許しつつ、譲れないところは断固として守り抜かなければ、理想の国の形を失ってしまうことにつながります。
そして国同士はそういう付き合いなのだという認識の下で、互いが一つ勝って一つ負ける関係を築いてこそ、友好というものは成り立つではないでしょうか。
負けてやることが友好であるという古い考えは通用しない、壱岐と対馬を訪れてそれを肌で感じることが出来ました。万松院 寺・神社・教会
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この旅行記へのコメント (2)
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- 横浜臨海公園さん 2014/07/05 16:20:52
- 壱岐・対馬
- 倫清堂さま、こんにちは。
唐津から、壱岐・対馬と渡島された由。
敬服いたします。
冒頭に出て来る唐津神社宮司とは小生、以前より懇意にしておりまして、双方般若湯が好きな身故に、唐津地魚や豆腐料理でご馳走になってばかりおります。
対馬は、今や韓国人どもが好き勝手する島になってしまったと、地元の方が肩を落としながら嘆き申しております。
兎に角、みやげ物店は、韓国人達が集団でやって来て平然と集団万引き。
街はゴミを平気で捨てて行く為に、掃除が追いつかないとか....
万引き犯を追いかけたご主人が、逆に悪質韓国人どもに取り囲まれ、こずかれたなど、治安も漸次低下の一途をたどっている様子が見て取れました。
夜は夜でバカ騒ぎ。
静謐な雰囲気など、遠い存在になってしまっている様です。
対馬國の神は、現状を見ながら何と思っているのか複雑です。
横浜臨海公園
- 倫清堂さん からの返信 2014/07/05 17:04:09
- RE: 壱岐・対馬
- 横浜臨海公園様
おひさしぶりです。
ついに念願かなって壱岐と対馬に上陸しました。
また、唐津も想像以上に見どころがあって楽しんで参りました。
対馬の現状は想像以上でした。
特に厳原の繁華街はハングルがあふれ、あちらの顔をした男性が必ず複数で群れています。
一方で神社には神主さんが常駐していない所が多く、もしその気になれば御神体を盗むなどやりたい放題でしょう。
すべての韓国人が悪いとは言いませんが、反日教育を受けて、いわば洗脳されて日本に来ているのですから、相手を信用して対応すべきという考えは甘すぎると言えます。
退職した自衛官などを国の予算で再雇用し、警備員として配置するような対策も必要だと思います。
とにかく離島について認識が甘く、危機感がない政府には怒りがこみ上げます。
倫清堂
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